ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜   作:村人A

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なでなで

 

 

 

「はい次。ここは古文の助動詞の活用を思い出せばいい、分かるよな?」

「っ、ま、待ってください、今やります、やりますからっ」

 

 本番が、刻一刻と近づいていた。

 

 近づくにつれて、圭ちゃんの特訓は、輪をかけて苛烈になっていく。最初の頃が準備運動だったとすら思える。今や問題集の山は天を衝かんばかりで、休憩は「水を飲む」程度に圧縮され、私の脳みそは毎日、夕方には湯気を立てて茹で上がっていた。

 

 あかりさんも、書記の仕事の合間に勉強会へ付き合ってくれているのだが──その彼女ですら、最近は圭ちゃんの鬼ぶりに、困ったように眉を下げることが増えていた。

 

「圭ちゃん……もう、今日はここまで……」

「あと一単元。古文が終わったら漢文な」

「ひ、ひぃ……」

 

 地獄の沙汰も、コイツの前では定時で終わらない。

 

 その日も、私が机に突っ伏して虫の息になっていると──ふわり、と。横から、柔らかい声がした。

 

「岡崎くん」

 

 あかりさんだった。いつもの、おっとりとした微笑みを浮かべている。

 

「ねえ、岡崎くんって、前回は学年二位だったんだよね」

「ん?ああ、まあ」

「じゃあ、今度は一位を目指さなきゃ。次のテスト、岡崎くんもかかってるんでしょう? なのに詩音ちゃんにつきっきりじゃ、自分の勉強の時間、なくなっちゃうよ」

「……いや、俺は別に順位とかはどうでもいいっつーか」

 

 圭ちゃんが、頬をかく。

 な、なんと!私には二十位以内を強要しておきながら、自分はどうでもいい……だと?

 

「でも、自分の時間も大事にしなきゃだよ」 

「……まぁ、そりゃな」

 

 おお。あかりさん、ナイス。確かに、私の鬼軍曹ばかりやってないで、自分の勉強も大事にしろという、ぐうの音も出ない正論だ。

 

「だから、今日は詩音ちゃん、私が見てあげる。ね?女の子同士のほうが、聞きやすいこともあるだろうし」

 

 あかりさんが、ぽん、と私の肩に手を置いた。なんて優しいんだろう。後光が差して見える。圭ちゃんの後ろにはいつも般若しか見えていなかった。

 

「ん……まぁそうだな。じゃあ、今日は任せるよ」

「うん!任せてよ」

 

 圭ちゃんは素直に頷くと、自分の参考書を手に、隣のテーブルへ移っていった。

 

 助かった。本当に、助かった。

 私は、あかりさんに向かって、それはもう拝まんばかりに手を合わせた。

 

「あかりさぁん……ありがとうございます……あなたは女神です……」

「ふふ、大げさだなぁ」

 

 

 あかりさんとの勉強は、天国だった。

 

 いや、ちゃんと勉強はする。するのだが、圭ちゃんのような鬼の矢継ぎ早がない。分からないところを聞けば、あかりさんは「ここはね」と、ゆっくり、穏やかに教えてくれる。そう、これだ。私が思い描いていた勉強会というのは、こういう──

 

「……で、聞いてくださいよあかりさん。アイツ、本当にひどいんですから」

 

 気づけば私は、堰を切ったように愚痴をこぼしていた。

 

「休憩なんて十秒ですよ、十秒。しかも『さっき水飲んだろ』って。人間の集中力には限界があるって、知らないんですかね。問題集なんて万里の長城みたいに積み上げて、解いても解いても減らないし。鬼ですよ、鬼。きっと前世は閻魔大王か何かだったに違いありません」

「あはは。岡崎くん、厳しいんだね」

「厳しいなんてもんじゃないです。血も涙もないんですから。私のか弱い乙女心なんて、これっぽっちも——」

 

 そこまで言って、私はふと気づいた。

 

 手元のノート。さっき、あかりさんに教わる前に解いていた数学の問題。少し前の私なら、間違いなく手も足も出なかったであろう、応用問題。それが——解けている。すらすらと、とまではいかないけれど、ちゃんと、自分の力で。

 

「……あれ」

「どうしたの?」

「いえ……この問題、解けるようになってる、なって」

 

 ほんの少し前まで、まったく歯が立たなかったのに。圭ちゃんに根っこから叩き込まれた、あの考え方で。気づけば、ちゃんと、手が動くようになっていた。

 

 ……ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、嬉しい。

 

 悔しいけど。あいつの地獄の特訓は、ちゃんと、身になっている。

 

「ふふ」

 

 ふと顔を上げると、あかりさんが、いつになく悪戯っぽい顔で、私を見ていた。

 

「詩音ちゃん。さっきから、ずーっと岡崎くんの文句言ってるけど」

「そりゃそうですよ!文句だけで二日は使えちゃうくらいです」

「でもなんだか、すっごく楽しそうだよ?」

 

 言葉に、詰まった。楽しい?まさか!

 

「べ、べべ、別に、楽しくなんてっ。地獄ですよ地獄、毎日が。何を言ってるんですかあかりさんは」

「そうかなぁ」

「そうですよ!」

「ふふ、そういうことにしておくね」

 

 あかりさんは、おっとりと笑って、それ以上は何も言わなかった。

 

 ……なんなの、もう。あかりさんまで、圭ちゃんみたいな見透かし方をして。

 

 私は、誤魔化すように、ノートに視線を落とした。さっき解けた問題が、目に入る。圭ちゃんに教わった、あの考え方で解いた問題が。

 

 ……ち、違うんだから。これは、達成感。そう、ただの達成感だ。勉強ができるようになって、嬉しいだけ。それ以上でも、それ以下でもないんだから。

 

 

 考査前日。

 その日の特訓は、これまでの総決算とでも言うべきものだった。

 

「ここまでやったことの総ざらいだ。一周する。詰まったとこは印つけて、後で見返せ」

「は、はい……」

 

 もはや、口答えする気力も残っていない。私は黙々と、これまで叩き込まれてきた全範囲を、ひたすらに駆け抜けた。数学、英語、国語、理科、社会。あれだけ分厚かった問題集の山も、いつの間にか、最後の一冊になっている。

 

 不思議なものだ。

 

 最初は、一ページめくるのも億劫だった。意味の分からない記号の羅列に、何度も心が折れかけた。それが今は——するすると、とまではいかないけれど。手が、勝手に動く。考え方が、体に馴染んでいる。

 

「……よし。今日はここまでだ」

 

 圭ちゃんが、ぱたん、と問題集を閉じた。

 

「あとは、やるだけだ。やれることは全部やった。だから、心配すんな」

 

 その声が、いつもの鬼の口調じゃなくて。なんだか、少しだけ優しくて。

 

 ……べ、別に。ドキっとなんて、してませんから。疲れて、気が変になってるだけだ。うん。

 

 

 

 そして、迎えた本番。

 考査というのは、独特の空気がある。教室中が、しんと静まり返って。聞こえるのは、シャープペンの走る音と、時折の咳払いだけ。私はその静けさの中で、配られた問題用紙を、ぎゅっと握りしめていた。

 

 ……大丈夫。やれることは、全部やった、はずだ。

 

 初日の手応えは、悪くなかった。いや、悪くないどころかかなり良かった。恐らく今までで一番くらいの手応えがあるくらいだ。圭ちゃんに鍛えられた問題が、ぽつぽつと顔を出す。「あ、これ見たことある」「この解き方、教わった」──そのたびに、心の中で小さくガッツポーズをした。

 

 そして、三日目の最終日。問題の数学ⅠAだ。

 最後の大問に差し掛かったところで、私の手が、ぴたりと止まった。

 

 ……み、見たことない。

 

 問題集にあった、どの問題とも違う。一瞬、頭が真っ白になりかけた。こんなの、習ってない。解き方なんて、覚えてない——。

 

 いや。待て、私。クールになれ、園崎詩音。

 解き方を、丸暗記してたわけじゃないでしょう。圭ちゃんは、そういう教え方を、しなかった。

 

 ——なんでその公式が、そうなるのか。根っこから、入れ直すぞ。

 

 考えるんだ。この問題が、何を訊いているのか。どの考え方を、使えばいいのか。丸暗記した解法をなぞるんじゃなくて──根っこから、組み立てる。

 

(……あ、そっか)

 

 ふっと、霧が晴れるみたいに、道筋が見えた。

 

 これは、あの考え方を、こっちに応用すればいいんだ。見た目が違うだけで、訊かれている本質は、ちゃんと教わったものだ。

 

 シャープペンが、走り出す。一行、また一行。さっきまで真っ白だった解答欄が、私の手で、埋まっていく。

 

 ——解けた。うん。

 

 先程までとは違う達成感のようなものに思わず拳を握りしめる。

 初めて見る問題が、解けた。覚えていたからじゃない。考え方が、身についていたから。圭ちゃんが、あれだけしつこく、根っこから叩き込んでくれた——考え方が。

 

 

 あの鬼の特訓は、伊達じゃなかった。悔しいけど。本当に、悔しいけど。

 余った時間で、ケアレスミスなどがないかを入念にチェックして、試験終了のチャイムが鳴る。私は、シャープペンを置いて、ふう、と長い息を吐いた。

 

 手応えは、ある。確かに。だけど、やはり不安な方が大きい。

 解いていた時は間違いないと思っていた回答が、何回見直しても大丈夫だと思っていた回答が……試験が終わった後に、やっぱり違うアプローチがあったんじゃないかと、浮かんでは消えていく。

 

 今更言っても仕方ないのに、そんな不安は浮き沈みが激しくて。けれど、もうこれで全部が終わったのだ。やっぱり、考えたって仕方がない。できることは──全部やった、はずだ。

 

 

 

 そんなこんなで。激動の一週間は終わり、定期考査も無事に幕を閉じ──たと言いたかったが、肝心の結果発表がまだ残っている。

 あの地獄の特訓から、ようやく解放されたのだ。本来なら、両手を上げて万歳三唱、羽でも生えたみたいに身軽になって然るべきところ。

 

 ……なのに。

 

「あー、もう。気になって仕方ないんですけど」

 

 翌日。生徒会室で、私は机に突っ伏していた。

 

 解放感に浸るどころじゃない。結果が──順位が、気になって気になって、落ち着かないのだ。頑張ったんだし、順位なんてもうどうでもいいや、と何度も頭の中で考えるものの……やはりそわそわと落ち着かない。せっかく自由になった頭の中が、今度は別のことで埋め尽くされている。なんてことだ。

 

「まあまあ、詩音ちゃん。まずはお疲れ様ってことで

「んな風に切り替えられないんですよぅ、私は」

 

 元来気が長い性格でもない。そこまでせっかちと言うわけでもないけれど。

 

「あ、だったらお互いの答え合わせでもしてみようよ」

「答え合わせ……」

 

 あかりさんが、おっとりと模範解答のプリントを広げた。そうだ、自己採点。点数が分かれば、少しは見当もつくかもしれない。涼しい顔をしてやがる今回の元凶──もとい圭ちゃんも半ば無理やり巻き込んで、三人で、答え合わせを始める事に。

 

 一教科目。二教科目。丸が、つく。つく。思ったより、つく。

 

 そして——数学。

 

「……え」

 

 自分の答案を見比べて、私は思わず声を上げた。

 合っている。ほとんど、合っている。あの、最後の応用問題まで。ぱらぱらと配点を足していくと──九十点?

 これまでの私といえば、数学なんて、平均点の前後をふらふらと彷徨うのが常だった。自分の目が信じられなくて、私は三回くらい計算し直した。何度やっても、結果は変わらない。

 

「うん!すごいよ詩音ちゃん!」

「……私の、点数」

「ふふ、岡崎くんの特訓のおかげだね」

「ぐ……ぐぬぬ」

 

 思わず歯を噛み締める。隣をちらっと見ると、圭ちゃんと目が合った。それみたことかと、ドヤ顔で口元を緩めているその表情が何ともいえずムカついて、ぷいっと顔を背ける。

 

「……」

 

 悔しいが、否定できない。これは間違いなく、あの鬼の特訓の成果だ。

 

「で、でも、点が良くても、順位はまだ分からないじゃないですか。みんなも頑張ってるかもしれないし。ぬか喜びは、禁物です」

 

 そう。問題はそこだ。いくら自己採点の手応えが良くても、順位というのは相対的なもの。他のみんなだって、当然勉強している。蓋を開けてみるまで、二十位以内に入れたかどうかなんて、分からない。

 

「絶対大丈夫だよ、詩音ちゃん。この点数なら」

「あかりさんは、そう言いますけどぉ」

「やることはやったろ。じたばたしても順位が変わるわけじゃねぇ。どっしり構えとけよ」

 

 圭ちゃんまで、そんな呑気なことを言う。

 

 ……出た。これだ、これ。

 

「……いいですよねぇ、アンタたちは」

 

 私は、じとっとした目で二人を見た。

 

「あかりさんは毎回上位の常連だし、圭ちゃんに至っては万年トップクラス。そういう、いっつも余裕のある人たちは、簡単に『大丈夫』とか『どっしり構えろ』とか言えるんですよ。こっちはね、初めて崖っぷちから二十位を狙ってるんです。気が気じゃないんですから」

「あはは、ごめんごめん」

 

 あかりさんはちっとも悪びれた様子もなくくすくすと笑う。

 

「つーか、お前そこまで点数気にしてるなんてな。もう終わっちまったし、ケロッとしてるもんだと思ってたよ」

「誰のせいだっ、誰の!」

 

 圭ちゃんに噛み付くが、やはりちっとも悪いと思ってなさそうな顔で笑う。むぅ。持てる者の余裕、というやつか。なんとも憎たらしい。

 

 

 

 そうして──結果が出るまでの、一週間。これが思う様長かった。

 

 授業中も、ふと気づくと、順位のことを考えていたり。生徒会の仕事をしていても、書類の数字を見るたびに、自分の順位を想像してしまったり。手応えがあったぶん、よけいに期待してしまって──でも、期待した直後に「いや、ぬか喜びかも」と不安が押し寄せて。期待と不安が、シーソーみたいに行ったり来たり。

 

 嗚呼……我ながら、面倒くさい。

 あんなに「勉強なんて嫌だ」「二十位なんて無理」と喚いていたくせに。いざ終わってみれば、結果が気になって仕方ないだなんて。

 

 まあ、それだけ──本気で、やったってことなんだろう。あの地獄の日々を、私なりに、必死で駆け抜けた。だからこそ、その結果が、どうしようもなく気になる。

 

「……早く、出ないかなぁ」

 

 誰にともなく、そう呟いた。浮き足立った一週間は、そうして、じれったいくらいゆっくりと過ぎていって。

 そして、結果発表の日。

 

 昼休みと同時に、順位表がは、廊下に張り出された。皆さんはゾロゾロと廊下に向かっていて、私もその人だかりの方へ──いや、すぐに足が向かなかった。ちょっとだけ怖い。これだけ頑張って、もし二十一位とかだったら……

 

「あれ?詩音ちゃん、行かないの?」

「い……行きますよ。行きますとも。ええ」

 

 それでも、あかりさんに背中を押されて、おそるおそる、掲示板の前へ。

 

 貼り出された、模造紙。ずらりと並んだ、名前と順位。私は、上の方から——一位、二位、と目で追っていく。

 一位は、知らない名前。そして二位に、しれっと「岡崎圭一」。……出た、私にばかり時間を使ってたと思いきや、しれっと自分の勉強もしていたのか。化け物め!

 

 そのまま、視線を下げていく。十位。あ、十四位に「真田あかり」。あかりさんもさすがだ。

 

 ……で。私は。私の名前は、ない。十五位も、十六位も……

 

「……っ」

 

 心臓が、嫌な感じに跳ねる。だめだったか。やっぱり、二十位以内なんて、最初から——。

 

 十七位、園崎詩音。

 

「……え?」

 

 ん?あれ?これ、私の名前で……十七位?見間違いじゃあない、何回見てもその順位には紛うことなき私の名前が。

 

 

 あった——!

 目標の、二十位以内十七位。あの、平均点の前後をふらふらしていた私が。数学なんて赤点ギリギリだった私が。学年二百五十人の、上から十七番目。

 

 じわ、と。思わず視界が、滲んだ。

 

「わぁ、詩音ちゃん、すごい!やったね!」

「あかりさぁん……うぅ、よかったぁ……」

 

 隣のあかりさんがほんわかした笑顔を私に向けてくれて、もう、感極まってしまう。もう今にも本気で泣きそうだった。だってあの特訓が。あの地獄の日々が。寝ても覚めても問題に追い回された、あの時間が──ぜんぶ、報われた。

 

 肩の荷が、どさっと音を立てて下りていく。解放感。達成感。安堵。ありとあらゆる「ほっとする」が、一気に押し寄せてきて、私はもう、その場でへなへなと崩れ落ちそうだった。

 

 あー、よかった。本当に、よかった。これでもう、あの問題集の山を見なくて済む。鬼の特訓ともおさらばだ。実家にも、胸を張れる。万歳。万々歳。

 父さん、母さん、お姉、葛西……私、ついにやりきりましたよ。憎き定期考査を叩きのめしてやりました!園崎詩音はやりました!

 

 ——と。

 

「よくやったな」

 

 ふいに、頭の上から、声が降ってきた。

 圭ちゃんだ。いつの間にか、すぐ隣に立っている。

 

「正直、途中でばっくれるんじゃねーかって思ってたぞ。ここまで堪えるとは思ってなくてよ」

「な……っ、ひ、ひどいですねっ。これだけやったのに、最後まで信じてなかったんですか」

「ああ。半分くらいはな」

 

 ははは、と冗談っぽく笑いながら頬をかく圭ちゃん。

 しれっと言いやがる。むぅ、と頬を膨らませた、その時だった。

 

「けど——」

 

 圭ちゃんの手が、ぽん、と私の頭に乗った。

 

「……ぅえ?」

「本当に、よく頑張ったな。さすが詩音だ」

 

 わしゃ、わしゃ、と。

 

 

 ──世界が、止まった。

 

 

 世界中のありとあらゆる音が、すうっと遠のいて、聞こえなくなって。代わりに、頭のてっぺんだけが、私の世界の中心になった。

 

 大きな手のひらが、私の髪を、無造作にかき撫でる。ちっとも優しくない。丁寧さの欠片もない。犬ころでも撫でるみたいな、がさつで、ぶっきらぼうな手つき。

 

 ──なのに。

 

 その手から伝わってくる体温の、なんて、温かいこと。

 

 ぽかぽかして。大きくて。少しごつごつしていて。その手のひらの下で、私の頭は、心は……まるでとろん、と溶かされていくみたいだった。あれだけ強張っていた肩から、ふにゃ、と力が抜けていくように。

 

 目の奥が、じんと熱い。さっき結果を見て泣きそうになったのとは──まるで違う、別の熱。もっと、ずっと、奥の方からこみ上げてくる、甘くて、くすぐったくて、どうしようもない何か。

 

 ずっと、頑張ってきた。鬼みたいな特訓に、必死で食らいついて。文句を言いながら、泣き言を言いながら、それでも。──ぜんぶ、この人が、見ていてくれた。ちゃんと、見ていてくれた。

 

 その、たった一言。たった一回の、雑な撫で方。

 たったそれだけのことで、私の胸は、こんなにも──いっぱいに、なってしまう。

 

 もっと。

 ……もっと、撫でていてほしい。この手が、離れていかないでほしい。あと少しだけ。ほんの、あと少しだけでいいから──

 

「……ふぁ」

 

 甘ったるい、自分でも聞いたことのないような、甘ったるい声が、こぼれてしまって。

 かああっ、と。顔が、火を噴くみたいに熱くなる。耳まで、首筋まで、ぜんぶ。

 

「……ん? どうした」

「な──なんでも、ないですっ……!」

 

 ぱっと、その手から逃げる。逃げた、のに。

 

 逃げた手のひらの、その名残みたいなぬくもりが、まだ頭のてっぺんに残っていて。それが、惜しい、なんて。離れてしまったのが、惜しい、だなんて──そんなこと、思って。

 

 

 

 ……いやいやいや。ち、違う。違うってば。

 

 これは、あれだ。気の、緩み。そう、気の緩み。この地獄から解放されて、緊張の糸が切れて、それで──情緒がおかしくなってるだけ。疲れてるんだ、私は。きっとそう。ときめいた、なんて。そんなわけ、断じて、ない。

 

 ないったら、ない。

 

 

「おい、聞いてんのか。顔赤いぞ、大丈夫か」

「だ、大丈夫ですっ。近──近いっ、近いんですよアンタはっ!」

 

 心底わけが分からない、という顔をする圭ちゃん。

 その、きょとんとした、何にも気づいていない顔を見ていたら──なんだか、ますます、胸の奥がきゅうっとなって。困る。本当に、困る。

 

 ……認めない。私は、絶対に、認めない。

 

 頭のてっぺんに残った、あのぬくもりのことも。とくとく、とまだ早鐘を打っている、この心臓のことも。ぜんぶ、ぜんぶ、気のせい。気の緩み。テスト明けの、一時の気の迷い。

 

 ──なのに。

 

 どうして、こんなにも。あの、ぶっきらぼうで、無神経で、ちっとも優しくない手のことを。

 

 ……もう一度、撫でてほしい、なんて。

 

「……ばか」

「あ?今なんか言ったか?」

「なんでもありませんっ!!」

 

 ああ、もう。

 今すぐにこの場から逃げ出したい気持ちで振り向くと、あかりさんが抜き足差し足といった具合に静かに私たちから離れていて?

 

「あ、あかりさん!どこに行く気ですか!」

「いやー、もうお腹いっぱいと言いますかなんといいますか」

 

 心なしか赤い顔で、しかし悪戯っぼくも微笑みながら「お幸せに、ね?」と続ける始末。

 

「へ、変な勘繰りしないでください!あかりさんが思ってるようなことはなーんにもありませんからっ!一ミクロンだって!これっぽっちも!」

「えぇ……そこまで強く否定しなくても」

「何の話してんだお前ら?」

「アンタは黙っててくださいッ‼︎」

 

 小首を傾げる圭ちゃんを一喝しつつ、あかりさんの肩をがっちりと掴んで確保する。

 

「とにかく!これにて全て終わったんですから、今日は皆でパーっと打ち上げにいきましょう!」

「え。それなら、詩音ちゃんと岡崎くんと二人きりとかの方が」

「ダメです!あかりさんがいないと始まりません、むしろあかりさん主役まである会ですよぅ!」

「なんで!?」

 

 自分でも何を言ってるのか分からないけど、とにかくもう今は地獄から解放されたこの開放感を目一杯楽しもう。それでいい、今はとにかくそれだけでいいのだ。

 

 

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