ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜 作:村人A
死神。
俺はしばらく、その顔を見つめていた。
幻覚じゃない本物の詩音が、面会謝絶の病室に、今ここに立っているのか。
どちらでもよかった。本物だろうと幻覚だろうと、俺にはもう関係なかった。ただ——死神、という言葉だけが、静かに耳の奥に残った。
「……詩音」
声を出したのは、いつぶりだろうと思った。掠れていた。自分の声じゃないみたいだった。
「おや、喋りましたね」
詩音は少し目を丸くしてから、すぐにいつもの顔に戻った。ベッドの脇の丸椅子を引き寄せて、何の遠慮もなく腰を下ろす。距離が近い。消毒液に混じって、かすかに知らない香りがした。
「幻覚じゃ……ないのか」
「本物の詩音ちゃんですよぅ。なんなら触ってみますか?」
あっさりとそう言う彼女。
確かに本物だ、と思った。幻覚がここまでリアルなはずがない。この声も、この距離感も、この遠慮のなさも——全部、本物の詩音だ。
「……生きてたのか」
「はい、あいにくと」
「雛見沢に……いたんじゃないのか」
「綿流しの日はいませんでした。色々あって、前日に興宮に戻ってたんです」
淡々と説明している。その瞳には特段なんの感慨も窺い知れない。
「……何しに来た?」
「言ったじゃないですか。罰を与えにきたって」
「罰……」
「ええ」
詩音はにこりと笑った。
「——圭ちゃん、少し話を聞いてもらえますか。私の話を」
「……話?」
「簡単にいうと、お願いです」
俺は天井に視線を戻した。
詩音が口を開きかけた、その瞬間。
「……その前に、俺の話を聞いてくれないか」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。詩音が少し目を細めた。
「……どうぞ」
彼女は俺と同じ雛見沢の生き残り、という事になる。ならばまず伝えておかないといけない。
天井を見たまま、言葉を探した。いや、言葉は最初からそこにあった。ずっと、ここに詰まったままだった、誰にも言えなかったものが。
「村を殺したのは、俺だ」
一度、息を吸った。
「俺は……大量殺人鬼だ」
沈黙。
「……はぁ?」
詩音の声に、露骨な呆れが滲んだ。
「何ですか、それ。圭ちゃんがノートにでもしたためてる設定ですか?」
俺は構わなかった。何と言われようと、これだけは伝えないといけない事だから。
「大石を呪った。あの刑事が邪魔で、死ねばいいと何度も思った。鷹野も、富竹も——消えればいいと思った。そしたらどうなったか分かるか」
「……」
「全員、死んだ」
詩音は黙っていた。
「それだけじゃない。梨花ちゃんが死んだ。古手神社の境内で——カラスに啄まれて、もう原形も分からないくらいに」
声が、少し掠れた。
「俺はそれを見た。血まみれの鉈を持ったまま、見てた。何もできなかった。そこへ沙都子が来て——俺の様子を見て、梨花ちゃんを殺したのは俺だと思った。人殺し、にーにーを返せって、そう言いながら」
拘束された手が、わずかに動いた。
「吊り橋から突き落とされた。落ちながら、俺は——願った」
やけに声ははっきりしていて、思考は異様にクリアだった。感情にまかせて支離滅裂な言動が出てきているのに、とても落ち着いている自分がいる。俺の最低最悪な告白を、俯瞰して見ている自分がいる。
「雛見沢の死を、願った」
「……」
「落ちて、川に叩きつけられて、気を失って。目が覚めたら分校のグラウンドだった。頭陀袋が並んでた。自衛隊の奴らが泣きながら作業してた。ラジオから流れてきた——千二百人死亡、雛見沢大災害、って」
もう笑うしかない。
「千二百人だ。レナも、魅音も、梨花ちゃんも、沙都子も、大石も、監督も、村の全員が死んだ。俺が願ったから、村は死んだ。俺には人を呪い——いや、祟り殺す力がある」
「……」
「だからこいつらは俺をここに閉じ込めてるんだ。また誰かを祟り殺す前に、外に出さないように。な、合点がいくだろ」
そう言って、声を上げて笑った。涙が出るくらい、笑った。拘束具の金具が鳴った。
「……くっくっく。これが俺の正体だ。どうだ、天下の大量殺人鬼様だぞ」
おどける余裕すらある。さっきまでの苦痛はなんだったんだろう。こんなに清々しい気持ちは久しぶりだ。
詩音は、その間ずっと黙っていた。口を挟まなかった。遮らなかった。ただ静かに、俺の顔を見ていたが、やがて深く、長い息。呆れ果てたような、底から絞り出すようなため息だった。
「……こりゃ重症ですね」
*
「いいですか圭ちゃん。私、これからごく当たり前のことを言いますよ?」
当たり前。その言葉が、どこか遠くに響いた。当たり前という概念が、俺の中ではとっくに溶けて消えている。
「あれは事故です。村は祟りなんかじゃなくて、事故で全滅したんです」
「……くっく、どうだかな」
「アンタは殺人鬼なんかじゃあない。単なる妄想に取り憑かれたヤバい奴ですよ」
妄想。その言葉を俺は口の中で転がした。妄想。そうか、妄想か。この手に刻みつけられてきた感触も、あの夜の空気も、全部妄想か。笑わせる。
「……そう思いたければそれでいい」
天井に視線を戻す。シミが、相変わらずそこにある。右から三番目。少し形が変わった。それだけが、この幾ばくかで変わったことだ。
「あー、面倒くさいなもう……ッ」
次の瞬間。
視界が、ぐらりと動く。彼女に胸ぐらを掴まれて体が引き起こされたらしい。ギッと拘束具の金具が鳴って、気づけば顔と顔の距離が、息がかかるくらいに縮まっていた。
さっきまでのそれとは、別物だ。飄々とした余裕も、柔らかい笑みも、全部消えている。剥き出しの怒りだった。隠しようのない、本気の、怒りの目。不思議だ。こいつがこんな顔をするのは初めてのはずなのに、どうも俺は初めて見た気がしなかった。
「悲劇の主人公気取ってんのは結構ですけどね……んな事で何が変わります?ありもしない妄想の世界に逃げ込んで、何か好転するんですか?え?」
「……」
答えが出ない。
でも、胸の奥で何かが揺れて、ざわついて。彼女の目の奥に、軽口の下にずっと押し込めてきた何かが、今だけ顔を出しているのが見えた。こいつも——こいつも、何かを抱えてここに来ている。
「私も身内やられてるんですよ。あんまり良い加減な事宣ってるなら、承知しませんよ」
「……なら」
気づけば、口が動いていた。自分の声なのか、分からないくらい静かな声が。
「その復讐を今すればいい。俺としても、殺してくれるなら願ったり叶ったりだ」
「今ここでアンタ殺して、皆さんが戻ってくるなら喜んでそうしましょう」
本当に、そうしそうな声だな……やはりどこか他人事のように思う。
「けど違う」
胸ぐらから手が離れた。体がベッドに沈む。それでも詩音の視線は外れなかった。
「何故なら、アンタには何の力もないから。皆を生き返らせる力も、逆に呪い殺す力も——何もない。何一つ」
「……」
「はっきり言ってあげます」
一度、小さく息を整えてから。詩音は続けた。
「圭ちゃん、貴方は目の前で起きた悲劇を自分のせいだと思い込んでる……思い込みたいだけです。大きな事件や事故で生き残ってしまった人には、よくある現象です。それは仕方のないことかもしれません……でも、いつまでもそうしてる訳にもいかないんです」
沈黙が落ちた。機械が鳴っている。廊下で誰かの足音がして、遠ざかる。
どれくらいそうしていたか、分からない。天井を見ていたのか、詩音を見ていたのか、それも分からなかった。ただ──
「……俺は、殺人鬼だよ」
「はぁ……まだ言いますか?」
だって、俺の手に残っているものは変わらない。
「実際にこの手で殺したからな」
詩音の目が、わずかに動いた。
「北条鉄平を殺した。バットで撲殺した。確かに、殺した。この手が覚えてる。バットの重さも、振り下ろした瞬間の感触も、全部」
拘束された両手を見た。動かない手を。白い布が巻かれた、何もできない手を。それでもあの夜、確かにバットを握っていた手を。
俺がこいつを殺した。それだけは、何があっても変わらない。
詩音はしばらく黙っていた。何を考えているのか、呆れているのか、あるいは全く別のことを思っているのか。
「……で、死体は?なかったんですよね?」
「ない。けど……確かに俺は殺した。それだけは間違いない」
「証拠がないなら罪は成立しませんね」
それは──だけど。
「証言のみじゃ、仮に逮捕されたところで起訴されないでしょう。嫌疑なし、ヤバいやつの戯言って事で逮捕すらないと思いますがね」
ちょっと待て?何故詩音が“それ”を知っている?死体がなかったことを、何故知っている?
しかし、俺の疑問が口から出る前に、彼女は「まぁ正直」と前置きしながら、意外な言葉を投げてきた。
「この際、圭ちゃんが殺人鬼だろうがなかろうが——どうでもいいです」
「……え?」
「私の目的はアンタの罪の裁定でも無けりゃ、復讐してやることでもない」
意味が、すぐには分からなかった。こいつは今、何を言っている。罪の裁定でも復讐でもない?何のためにこいつはここに来た。面会謝絶の病室に、どうやってか知らないが押しかけてきて——
「私の目的のために、アンタを利用しに来たんですよ。言ったでしょう、罰を与えに来たって」
「利用」
その言葉の意味を、頭の中で転がした。駒として使いたい。目的のために。
意味が分からない。本当に、何を言い出しているのか。だけど──
「……目的ってのは、何だ」
「私の目的は大きく二つあります」
詩音はもったいをつけるように人差し指と中指の二本を立てる。
「そのうちの一つは今日話します。もう一つは——まだ時期じゃないので、また改めて」
何を言わずに続きを促す。
「一つ目は、悟史くん──北条悟史の捜索です。安否確認」
悟史。その名前が、錆びついた歯車を回すように、頭の中で何かを動かした。
「悟史……沙都子の、兄か。けど確か行方が」
「ええ。ずっと行方不明のままです。大災害の死亡リストにも、名前がなかった」
そんなものがあるのか、とぼんやり思った。あの村の、千二百人分の名前が並んだリストが──俺の罪のリストとも言えるのかもしれない。
「……生きてるのか?」
「分かりません」
詩音の声が、ほんの少しだけ変わる。
「だから確認したい。生きてるのか、それとも——どちらなのか、はっきりさせたい」
俺は天井を見た。目的とやらは比較的明快らしいが、疑問は尽きない。
「……何で俺に?」
「その理由も二つあります」
またも二本指を立てる。
「一つは、アンタが雛見沢で唯一生き残った人間だから。私の知らない手がかりを、無意識にでも持ってる可能性がある」
「……」
「もう一つは、まぁこれもおいおい説明しますけど、私の今の立ち位置的に、信頼できる人間が限られてるんですよ。だから私としても人手が欲しい。関係性がある人手が、ね」
信頼?
笑いそうになった。俺が詩音に信頼される要素が、どこにある。その疑問が表情に出ていたのだろうか、
「ふっふっふ」
詩音が、邪悪に微笑む。嫌な予感がした。
「自殺未遂二回、そしてさっきも殺してほしいって言ってましたね。アンタ、今死に場所を求めてるんじゃありませんか?」
「……」
「けどこの場所に閉じ込められてたら、それも叶わない」
否定する言葉が、出てこない。
「なら、私が手を貸してやりますよ。ここから出してあげます」
「……本気か?」
「本気も本気です」
迷いも躊躇もない声だ。
「私のために動いてくれれば、目的を果たした暁にはアンタに自由をくれてやります。好きな場所で野垂れ死んでくれれば良い。それまでは衣食住全て面倒見ますんで、不便はさせません」
病室に、静寂が落ちた。
機械の音。窓の外の、どこか遠い車の音。それだけが聞こえる。
嘘をついている顔でも、冗談を言っている顔でもない。本気で、計算した上で、この取引を持ちかけている……そんな気がする。
「ここに閉じ込められてるよりはよっぽど良いでしょ?どのみち、自殺未遂を二回もしてる人間を簡単に退院させる訳もない。私に協力した方が、早く楽になれると思いますよ?」
一理ある、純粋にそう思った。
この白い部屋で、天井のシミを眺めながら、ただ時間が流れるのを受け取り続ける。終わりが見えない。終わらせることも、許されない。詩音はそれを最初から分かった上で、ここに来ている。
……なるほど、確かにそいつは死神だ。
「……くっく」
笑いが込み上げてきた。腹の底から、涙が出るくらい笑いが溢れてくる。久しぶりだ、純粋に笑ったのは……遥か遠くに置いてきた感情が芽生えたようなそんな感覚。
「お前、相変わらずめちゃくちゃだな」
「目的の為なら手段は選ばないタイプですから、私」
頬に何か温かいものが伝っているのに気づく。笑い泣き、というやつか。悲しいわけじゃない。嬉しいわけでもない。ただ、どこかで詰まっていた何かが、少しだけ動いた気がした。
「……分かったよ。協力する。お前の駒になるよ」
「ふふ、よろしい」
満足そうな、でも嫌みのない笑みだった。
「では、圭ちゃんは私の目的に協力するということで良いですね」
「……あぁ」
「私、これは罰だと言いましたよね」
「そうだな」
死に場所をくれるなら、死神どころか天使なんだけどな……今の俺にとっては。
「私の目的が達成しないままで、決して自殺とかはしない事。そして私の元からも逃げ出さない事。これが罰です、すぐに楽なんかにはさせませんよぅ」
「……なるほど」
「では、誓ってください」
俺はしばらく、詩音の顔を見た。さっきの邪悪な笑みも、計算高い光も、今この瞬間は消えている。ただ真っ直ぐな、詩音の目だった。
「……分かったよ。誓う」
「声に出して」
「ん」
詩音の瞳を見つめたまま、言った。
「俺の残りの人生、お前にくれてやる。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
間があった。
「……って、それじゃプロポーズみたいじゃないですかっ」
詩音が珍しく狼狽えた気がした。
「そうか?」
「そうですよっ、紛らわしい言い方はしなくて結構!」
目的達成までとはいえ、事実人生を差し出すようなものだ。
俺は特に訂正する気にもなれなかった。詩音はしばらく唇を尖らせていたが、やがてふっと息をついて、独り言のように呟いた。
「……ったく、こういうのにあの子たちはやられたわけですか」
俺には意味が分からなかった。あの子たち、とは誰のことだろう。聞き返そうとしたが、詩音はもう立ち上がっていた。
「じゃ、また迎えに来ますんで」と。スカートを軽く払って、ライムグリーンの髪をさらりと揺らして、詩音は病室のドアに向かって歩き出した。
その背中を、ぼんやりと見ていた。
そもそもなんでこいつは、こんなところに来たんだろう。悟史を探したいなら、もっと他に頼れる人間がいるはずだ。園崎家の力を使えば、俺なんかよりずっと有能な人間を集められる。
でも——まあ、いいか。
どうせ行くあてもない。生きる理由も、まだどこにもない。ならせめて、こいつの目的が終わるまでは生きてやろう。今はそれだけでいい。それだけで、十分だ。
「詩音」
ドアに手をかけたところで、詩音が振り返る。
「なんですか」
「……お前、どうやってここに入ってきた?」
そもそもどうやって、この場所を特定したんだろう。医師曰く、世間からは隔離されてる云々と聞かされていたような気がする。
詩音は少し間を置いてから、不敵に笑った。
「園崎の名前って便利なんですよ」
それだけ言って、ドアを開けて出ていった。病室に、また静寂が戻る。
天井を見上げる。いつものようにシミを──
「あれ……?」
いつも見ていたそれが見当たらない。いつもそこにあったのに。
代わりに、いつも無機質だった天井が、少しだけ暖かく見えた。