ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜 作:村人A
相談の紙に書かれていた名前は、一年の宮地さんという生徒だった。
翌日の放課後、その子を生徒会室に呼んでみることにした。とはいえ呼び出しなんてものは、される側にとっちゃ穏やかじゃない。何か悪いことでもしたかと身構えるのが普通だ。だから詩音がわざわざ「悪い話じゃないからね」と一筆添えて、教室まで伝えにいったらしい。
そうして現れたのは、小柄で大人しそうな女の子だった。
「し、失礼します……」
ドアの隙間からおずおずと顔を覗かせる。俺たちの顔を見るなり、緊張で肩がびくりと跳ねた。
「そんな固くならないでください。さぁ、座って座って」
詩音が努めて柔らかい声で椅子をすすめる。宮地さんはぺこりと頭を下げて、椅子の端っこにちょこんと腰かけた。「どうぞ」と真田さんがお茶を出してくれた。宮地さんはぺこりと頭を下げつつ、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
「あの……私、何か、いけないこと……」
「ううん、まったく逆。むしろお礼を言いたいくらいなんです」
詩音が例の一枚をそっと机に置いた。宮地さんの字で書かれた、あの相談の紙だ。それを見た彼女の顔がぱっと赤くなる。
「あっ……それ……」
「目安箱、入れてくれたでしょう。中庭の木のこと。生徒会でちゃんと検討させてもらいました」
「ほ、本当ですか……!」
宮地さんが勢いよく顔を上げた。さっきまでの怯えが嘘みたいに吹き飛んでいる。
「あの、それじゃ、あの木……!」
「落ち着け。まだ何も決まっちゃいねぇって」
俺が釘を刺すと、しゅんと肩を落とした。あ、いや。少し言い方がきつかったかもしれない。詩音もジッと視線を寄越してきたので、軽く咳払いして続ける。
「ただ、力にはなりたいと思ってる。そのために、もう少し詳しく聞かせてほしいんだ。あの紙には肝心なことが書いてなかったからな」
俺は紙の一文を指でなぞった。
「『ある人にとって大事な木』──これ、どういうことなんだ?あの木を残したいのは、お前自身のためじゃないのか」
宮地さんはこくりと頷いた。そして、ぽつぽつと話し始めた。
「私……今年、転校してきたんです。六月から」
知らない土地。知らない学校。できあがった輪の中に後から入っていくのは、想像以上に難しかったらしい。馴染めずに、休み時間も昼休みも、いつも一人で過ごしていた。
「当初はお昼も、教室にいるのがなんだか気まずくて。いつも食堂の隅っこで、一人で食べてたんです。そしたら……」
そこで彼女の表情がふっと和らいだ。
「食堂のおばあちゃんが、声をかけてくれて」
毎日一人で来る転校生を、食堂のおばあちゃんが気にかけてくれた。「今日は寒いねぇ」「ちゃんと食べてるかい」と、他愛のない言葉をかけてくれる。それだけのことが、独りぼっちだった彼女にはたまらなく嬉しかったんだろう。
「おばあちゃんに元気づけられて。それで私も勇気を出して、お友達も少しずつ出来て。だから、とっても感謝してて……それである日……」
その日、おばあちゃんは食堂の窓から、中庭の方をぼんやり眺めていたという。
視線の先にあったのが、あの木だった。
「おばあちゃん、あの木をすごく大事そうに見てて。『あの木はね』って何か言いかけて……でも、その時はお客さんが来ちゃって、それきりで」
後日、宮地さんは知ったという。中庭の改修で、あの木が近く切られること。そして、その話を耳にしたおばあちゃんが──いつもの笑顔のまま、けれどどこか寂しそうに、こう呟いたことを。
「『仕方ないねぇ』って。『学校が決めたことだもの』って。……笑ってたんです。でも」
膝の上で手を握りしめた。
「あの木、おばあちゃんにとって、ただの木じゃないと思うんです。詳しいことは私も聞けてないんですけど。でも、あんなに大事そうにしてたのに。それを仕方ないって諦めてて。私、それが……見てられなくて」
声に僅かに力がこもる。
「私、おばあちゃんによくしてもらって。でも、何も返せてなくて。だから、せめてこれくらい。私にできることがあるなら、って」
だから勇気を出して、あの紙を書いた。何度も書き直して。本当はこんなこと、出すべきじゃないと思いながら。それでも諦めきれずに、目安箱に入れた──と。
話を聞き終えて、俺は思わず詩音と顔を見合わせた。自分のためじゃない。世話になったおばあちゃんのために、この子は木の由来も分からないまま、ただその寂しそうな顔をなんとかしたい一心で動いたわけだ。
「……事情はよく分かりました」
詩音の声が、いつになく優しかった。
「あとは私たちに任せて。──まずは、その食堂のおばあちゃんに会いに行ってみます」
「い、いいんですか……?こんな、わがままなお願い……」
「わがままなもんか」
俺はつい口を挟んでいた。
「人のためにここまで本気になれるやつのこと、わがままとは言わねぇよ。少なくとも、
詩音や真田さんに目を向けると、二人とも頷き返してくれた。
宮地さんがきょとんとした顔で俺たちを見て、それから、ほっと安堵の息をついた。
食堂を訪ねたのは、放課後も少し過ぎた頃だった。
昼の喧騒はとっくに引いて、広い食堂には、片付けの済んだテーブルだけが並んでいる。厨房の奥で、小柄なおばあさんが一人、鍋を磨いていた。あれが、宮地さんの言っていた人だろう。
「すみません。少し、お話いいですか」
詩音が声をかけると、おばあさんは顔を上げて、人の好さそうな笑みを浮かべた。
「あらあら。生徒会の子らじゃないかい。どうしたの、こんな時間に。お腹でも空かせたかい」
「いえ……今日は、ちょっとお伺いしたいことがあって」
俺たちは、近くの椅子をすすめられて、腰を下ろした。おばあさんは、温かいお茶まで出してくれた。何から何まで世話焼きな人だ。宮地さんが懐くのも分かる気がした。
「実は、中庭の木のことなんです」
詩音が切り出した。その瞬間、おばあさんの手がほんの少しだけ止まった。
「……ああ。あの木かい」
「ご存知でしたか」
「知ってるも何も。あたしにとっちゃ、特別な木だからねぇ」
おばあさんは、湯呑みを両手で包むようにして、窓の外へ目をやった。ここからはちょうど中庭が見える。あの木が、夕日を浴びて静かに立っていた。
「あの木はね。うちの息子が、植えたんだよ」
ぽつり、と。おばあさんが、語り始めた。
息子さんは、その昔、この学校の生徒だったという。卒業の年に、仲のいい友達と何人かで、記念にと中庭に苗木を植えたのだそうだ。
「あの子はねぇ。あんまり、丈夫な子じゃなくてね」
おばあさんの声は、穏やかなままだった。
「学校を出て、何年かして——先に、逝っちまったのさ」
その一言を、おばあさんは、ことさら重くも、悲しげにも言わなかった。ただ、長い時間をかけてとうに受け入れた事実を、淡々と口にするように。
「それからはねぇ。あたしは、この食堂で働かせてもらってるんだけど。仕事の合間に、ふっと窓の外を見ると、あの木があるだろう。あの子が植えた木がさ」
おばあさんの目が、細く、優しくなる。
「あの木だけは、毎年、ちゃあんと大きくなっていくんだよ。あの子が、生きてたら、こんなだったかねぇ。あんなだったかねぇ。なんてね。木を見ながら、考えるのが──あたしの、ささやかな楽しみでねぇ」
……そうか。
おばあさんにとって。やはりあの木は、ただの木じゃなかった。先に逝った息子の、生きられなかった歳月そのものを、あの木は、代わりに生きてくれている。枝を伸ばし、葉を茂らせ、年々大きくなって。母親はその姿に、息子の面影を重ねてきたんだ。
「あの……木が、切られるって」
詩音が、おそるおそる切り出す。
「ああ、聞いたよ。中庭を綺麗にするんだってねぇ」
おばあさんは、ふぅ、と小さく息を吐いて、それから、にっこりと笑った。
「仕方ないさ。学校が決めたことだもの。あたしみたいな婆さんの、思い出に付き合ってちゃ、後輩の子らが可哀想だ。それに──木にだって、寿命はあるしねぇ」
諦めたというには、あまりに穏やかな笑顔だった。
恨むでも、嘆くでもなく。ただ静かに受け入れている。自分の寂しさより、これから学校を使う子供たちのことを先に考えている──そういう、人なんだろう。だからこそこの人は、自分から「残してくれ」とは決して言わない。
代わりに動いたのが、宮地さんだったわけだ。
「……っ」
ふと、隣を見ると。
詩音が、黙って窓の外の木を見つめていた。
いつもの、飄々とした顔じゃない。からかうような、得意げな顔でもない。何か、ずっと遠くのものを見るような。それでいてどこか、痛みを堪えるような。そんな横顔だった。
……そうだよな。
こいつも、いるんだ。もう会えない人が。先に、逝っちまった──大切な人が。
「……おばあちゃん」
しばらくして、詩音が口を開いた。少しだけ、声に力を込めて。
「お話聞かせてくださって、ありがとうございます」
「いいんだよぅ。こんな年寄りの昔話に、付き合わせて悪かったねぇ」
「いえ──とても、大事なお話でした」
詩音は、深く頭を下げた。俺もそれに倣う。
厨房を後にして、廊下に出る。西日が、窓から長く差し込んでいた。
翌日、俺たちはまず職員室に向かった。
いきなり、教頭だの校長だのに掛け合っても門前払いを食らうのが関の山だ。まずは身近なところから、と詩音が言うので、最初に頼ったのは俺たちのクラスの担任だった。
「中庭の木の伐採を見直してほしい、ねぇ」
事情を話すと担任は腕を組んで唸った。
「どういう事情か知らないが……あれはもう正式に決まった話だぞ。中庭の改修は何年も前から要望が出てた件でな。やっと予算がついて動き出したところだ」
「承知しています。改修そのものに反対するつもりはありません」
詩音がまっすぐに答えた。いつもの軽口も人を食った調子もない。会長として誠実に言葉を選んでいる。
「ただ、あの木には事情があるんです」
俺たちは順を追って話し始めた。あの木が食堂で働くおばあさんの、亡くなった息子さんが植えたものであること。おばあさん自身は「学校の決めたことだから」と諦めていること。それを見ていられなかった一人の生徒が、勇気を出して目安箱に相談を入れてきたこと。
「……なるほどな」
話を聞き終えた担任の表情が少し変わっていた。それからふっとおかしそうに口元を緩める。
「しかし園崎。お前も変わったなぁ」
「え?」
「クラス委員長のくせに、授業はちょくちょく抜け出すわ屋上で昼寝はするわで。要領だけで世の中渡ってるようなやつだったろうが。それが今や、人のために職員室まで頭を下げに来るんだからな」
詩音がぐっと言葉に詰まった。耳がほんのり赤い。
「それは……昔の話じゃないですか。委員長の仕事はちゃんとこなしてたでしょう」
「要領の良さと人のために動けるかどうかは別の話だぞ。今のお前は後者ができるようになった。そこが大きいと言ってるんだよ」
担任はからからと笑った。
「立場は人を変えるという言葉があるが、まさにだな。まぁ、側にいいお目付け役がいるおかげかもしれんが」
そう言って担任の視線がひょいと俺に向いた。
「岡崎がしっかり手綱を握ってくれてるんだろう。成績優秀なお前が隣についてるんだ。そりゃ悪い影響は受けんわな。お前がいてくれて安心だよ、岡崎」
「は……まあ、どうも」
なんだか妙な持ち上げられ方をした。手綱だのお目付け役だの。まるで俺が詩音の保護者みたいな言い草だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
案の定、詩音がめくじらを立てる。
「お目付け役って、なんですか。逆です、逆!どっちかと言えば、私がこの人の面倒を見てやってるんですよ!」
「はいはい。仲がよろしいことで」
「人の話を聞いてください!」
担任はひらひらと手を振るばかりでまるで取り合わない。
……まあ、俺としても保護者扱いは心外なんだが。ここで一緒になって否定するのも大人げない気がして、黙っておいた。
「と、とにかく」
いくら否定しても無駄だと諦めたのか、詩音が無理やり話を戻す。
「あの木について、お力を貸していただけませんか」
「ああ、うん、そうだな」
担任はひとしきり笑って、それから真顔に戻った。
「……学校もあの人にはずっとお世話になっているからな。正直、木の一本くらいと思っていたが。そういう事情があったとなると……話は少し変わってくる。気持ちは分かった。私からも口添えしよう」
「本当ですか!」
「ただし、私の一存じゃどうにもできん。改修の件を仕切ってるのは教頭先生だ。最終的に判断するのはあの人になる。話を通すなら、そこまで上げないと意味がない」
教頭か、会った事はなかったな。
「教頭先生、ですか」
「ああ。気難しいところもある人だが、話の分からん人じゃない。私から面談の場を設けるよう頼んでみよう」
「……はい。ありがとうございます」
詩音が深々と頭を下げた。俺もそれに続く。
職員室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。
「担任の先生が味方になってくれたのは大きいですけど……」
「ま、門前払いされるよりはいいだろ」
誠意を尽くして動けば、ちゃんと分かってくれる人がいる。木の由来を知る先生が力を貸してくれた。
「教頭先生さえ説得できれば。あの木は残せる。おばあちゃんにも宮地さんにも、いい報告ができます」
とはいえ、改修ってのは大きく予算が動く話だ。学校だけの問題ではない、外部の業者など複数の関係者を巻き込む話になる、一度組んだ予算と日程を覆すとなれば――そう簡単な話じゃないだろう。が、俺はわざわざ水を差すのも野暮な気がして、その懸念はひとまず胸の内にしまっておく。
さらに数日後、担任の口添えで教頭との面談がかなった。
応接室で俺たちを迎えたのは、白髪まじりのいかにも厳格そうな男だった。改修計画を取り仕切っている張本人。ここを通せなければ話は前に進まない。
「生徒会が中庭の木の件で、と聞いたが」
「はい。お時間をいただきありがとうございます」
詩音が深く頭を下げて、また一から事情を語り始めた。担任に話したのと同じこと。木の由来。おばあさんの想い。それを見ていられなかった生徒のこと。教頭は腕を組んで黙って聞いていた。
話を聞き終えると教頭はふうと息を吐いた。
「……そういう経緯があったとは知らなかったな。気の毒な話だ。それは本当にそう思う」
その口ぶりに嘘はなさそうだった。ちゃんと一人の人間として話を受け止めてくれている。詩音の顔がわずかに明るくなった。
「では」
「しかしだね、残すことはできんのだ」
きっぱりと、教頭の声が応接室に落ちた。
「……どうして、ですか」
「君たちは、あの木が、中庭のどこに立っているか分かっているかね」
教頭が机の上に一枚の図面を広げた。中庭の改修計画図だ。新しい設備の配置が線で描き込まれている。そのちょうど中央。
「ここ。あの木は新しく作る施設のまさに真ん中に立っている。あの木があの場所にある限り、設計が根本から成り立たんのだよ」
俺は図面を覗き込んだ。確かに。あの木は中庭の片隅にひっそり、というわけじゃない。改修で生まれ変わるその中心にどっしりと根を張っている。よけて設計し直すなんて簡単にできる位置じゃない、か。
「改修はもう正式に決まった計画だ。予算も下りているし業者との契約も工事の日程もすべて組み終わっている。今さらあの木を残す前提で一から設計をやり直す――そんな余裕はどこにもないのだ」
教頭の言葉は一つ一つ現実の重みを持っていた。
「私はこの学校全体を預かる立場だ。中庭の改修はここにいるすべての生徒のための事業なんだ。たった一本の木のためにみんなのための計画を止めることは……できんのだよ」
……正論だ。俺が仮に教頭の立場でも、そう説明するだろう。
教頭は意地悪で言っているんじゃない。むしろ心苦しそうですらある。だが立場上、情に流されるわけにはいかない。木一本のために全校生徒の利益を後回しにはできない。それが責任ある人間の答えだった。
「……お時間をありがとうございました」
詩音が頭を下げた。俺もそれに続いて応接室を後にした。
廊下に出てしばらく歩いたところで。
「……うーん。参りましたねぇ」
詩音がぐーっと伸びをして肩をすくめた。
深刻ぶった様子はまるでない。あっけらかんとしたものだ。教頭の前では神妙にしていたくせに、廊下に出た途端これだ。まあこいつらしいと言えばらしい。
「だな。あの言い分はどうしようもねぇ」
「仕方ありません。こうなったら最終手段といきましょう」
「最終手段?」
詩音がにやりと口の端を吊り上げた。嫌な予感がする。
「夜陰に乗じて工事業者を一人ずつ闇討ちにして、物理的に工事を進行不能に――」
「やめろ。物騒すぎんだろ」
「あるいは園崎の名前で、業者にちょいちょいと圧をかけて」
「だからそのヤクザ極まりない思考をどうにかしろ。あと、生徒会を私物化すんな」
本当にやりかねないから早めに釘を刺しておかないと。
「もう、冗談ですよぅ。半分くらいは」
「お前な……」
出てくる発想がいちいち物騒なのは変わらずだ。生徒会長という立場でも、そういう所は変わらないのか……だがまぁ、しょげ返るよりはよっぽどいいか。
「とはいえ、ですよ」
ひとしきりふざけて、それから詩音はふっと息を吐いた。
「正攻法じゃどうにもならないってのは本当のところでして。おばあちゃんにも宮地さんにも、いい報告ができると思ったんですけどねぇ」
その声にはさすがに少しだけ悔しさが滲んでいた。
教頭の言う通り、あの木があの場所にある限り工事を進めることはできない──だから、切るしかない。
……それはもう仕方ない。けど、おばあさんの思いに報いる方法は何か——あるんじゃないのか。
「圭ちゃん? どうかしました?」
「……いや。なんでも」
念のため、確かめた方がいいだろうな。
「どうしたもんですかねー」
二日後の生徒会室。詩音は机にぐてーっと突っ伏して、すっかりふにゃけていた。
会長の威厳もへったくれもない。だらりと両腕を投げ出して、頬を机にくっつけたまま気の抜けた声を漏らしている。真田さんが苦笑いしながらお茶を出してやっていた。
「私もね、考えたんですよ。これでも一応」
詩音が突っ伏したまま、もごもごと言う。
「例えば移植。切るのがダメならよそに植え替えればいいじゃないかって。我ながら名案だと思って当たってみたんですけど」
「ダメだったのか」
「ダーメーでーすー。あんな大きな木を掘り起こして運んで植え直すなんて、これまた立派にお金がかかるそうで。おまけに植え替える先も、そう都合よくは見つからないと……切るのもダメ、残すのもダメ、動かすのもダメ。もう八方塞がりですよ」
ぐでーん、と彼女が再び机に伸びきった。
「あーあ。せっかくおばあちゃんと宮地さんに、いい報告ができると思ったのになぁ」
切る、残す、動かす。その三つで詰まったなら、もう一つ別の道を探すしかない。
「なあ、詩音」
俺は机に突っ伏した詩音に声をかけた。
「だったら発想を変えるってのは、どうだ」
「……はい?」
詩音が片目だけ開けてこっちを見る。
「あの木を生きたまま残すのは、どうやっても無理だ。それはもうはっきりした。なら、切るのは受け入れるしかねぇよ」
「……圭ちゃん、それじゃ」
「最後まで聞け」
彼女の言葉を遮って続ける。
「切るのは受け入れる。けどな、切った後の木をどうするかは、まだ決まってねぇだろ。普通なら処分するけど……なら、あの木を別の形にして、食堂に置くってのはどうだ」
詩音がゆっくりと身を起こした。
「食堂、に?」
「ああ。幹を生かした飾りにするとか、でかい一枚板にして使うとか。やり方はいろいろあると思うんだ。生きた木のままじゃ無理でも、あの木そのものをおばあさんのそばに残してやることはできる」
毎日おばあさんが働くあの食堂に。息子さんの植えた木が形を変えてずっとそこにある。窓の外じゃなくなる代わりに、今度はすぐ手の届くところで。
詩音がぽかんと口を開けていた。それからはっと我に返って、勢いよく身を乗り出してくる。
「い、いいじゃないですか、それ!でも待ってください。そんなの誰が作るんです?木を加工するなんて素人にできることじゃ……費用だって場所だって安全だって」
「ああ、それな」
鞄から何枚かの紙を取り出して机に置いた。
「実は、もう調べてある」
「……へ?」
「木を加工できる職人を心当たりに片っ端から当たってみた。そしたら卒業生で、昔あの食堂のおばあさんに世話になったって人が一人見つかってな。話したら『それならぜひ無償でやらせてくれ』って向こうから言ってくれた」
「むしょ……っ、いつの間にそんな」
彼女の問いには答えず、続けて資料をめくる。
「あと、食堂のどこに置けるか。動線の邪魔にならないか。倒れてくる危険性や建物の決まりに引っかからないか。その辺もひと通り調べてまとめといた。でかすぎるオブジェは無理だが、これくらいの大きさなら隅に置いても十分いける……と思う」
俺はまとめた紙を詩音の方へ滑らせた。設置場所の見取り図と、卒業生の連絡先と、安全面の確認事項。教頭に出されてもすぐ答えられるように揃えてある。
詩音がその紙の束と俺の顔を交互に見た。何度も何度も。
「いつから動いてたんですか」
「一週間くらい前から、ぼちぼちな。まあ正攻法でダメだった時の保険みたいなもんだ」
あの食堂でおばあさんの話を聞いた、あの日から。詩音が職員室や教頭のところを駆け回ってる、その裏で。俺は俺でこっそり別の道を探してた。万が一、正面から押してダメだった時のために。
「……もう!そういうのは最初から言ってくださいよ!」
ばしん、と机を叩いて詩音が立ち上がった。怒っているような、でも安堵してるような。よく分からない顔で俺をびしっと指さす。
「人がさんざん困っていた時に!持ってるならさっさと出しなさい、そういうのは!」
「いや、生きたまま何とか出来るならそれが最善だろ。これは飽くまで保険だって言ったろ」
「だとしても!その前提だってことで、最初っから私に話してくれればいいじゃないですか!!鬼!悪魔!圭ちゃん!」
「おい人の名前を悪口にすんな」
詩音はぷう、と頬を膨らませている。
「だ、大体!このタイミングで後出しするなんて、そんな安っぽい格好付けて女子が簡単に落ちると思ったら大間違いですからね!あざといってんですよ!」
なんだろう……色々とコイツだけには言われたくねぇんだが。
まぁその後もあーだこーだとお説教(と言う名の八つ当たりな気がするが)をされたが、最終的には。
「……でも。ありがとうございます」
手元の紙をぎゅっと両手で握って礼を言ってきた。目にいつもの光が戻っている。
「よし。この案を持って、もう一度教頭先生に当たりましょう。今度は負けませんよ」
「許可が降りりゃいいけどな」
「いけます。だって」
詩音が、にっと笑った。
「圭ちゃんがここまでお膳立てしてくれたんですから。あとは私の仕事でしょう」
教頭への直談判の席には、なんと校長までいた。話が話だけに同席することになったらしい。
詩音は伐採自体には反対しないことを丁寧に伝えつつ、「一つだけ、お願いがあります」と切り出した。
「切ったあとのあの木を、処分せずに食堂のオブジェとして生かしたいんです」
切った木をなるべく元の形を残して加工し、食堂に据えること。それによって改修は一切妨げないこと。加工はおばあさんに世話になった卒業生が無償で引き受けてくれること。設置場所は調べてあって動線も安全も問題ないこと。建物の決まりにも触れないこと。学校に新しい費用も手間も一切かけないこと。
詩音はよどみなく説明をしていった。資料を示しながら、教頭が引っかかりそうなところを先回りして一つ一つ潰していった。
一通り質疑応答までが終わる頃には教頭は低く唸り、隣の校長はといえば「いやあ、大したものだ」と、ぽんと膝を打っていたく感動していた。
「私はね、長いことこの仕事をしているが。生徒が、それも自分のためじゃなく赤の他人のために、ここまで本気で走り回る姿は、そうそう見られるもんじゃない。目安箱に入れた子も、それを拾った君たちも。立派だよ。実に立派だ」
そう言って校長は教頭の方を向いた。
「なあ教頭先生。私は彼らの情熱を汲み取ってあげたい。学校運営や予算も勿論大切だが、何より生徒たちの自主性を重んじるのがこの学校の理念だったはずだ。彼らはきっと、勉学以上の学びを得た。これ以上嬉しいことはないのだと思うのだが」
「……そうですね」
教頭もまた、厳しかった表情をわずかにだが綻ばせて、最後は許可の判子を押してくれたのだった。
校長室を出て廊下に出るなり。
「やりましたね、圭ちゃん!」
詩音がぱあっと笑顔で振り返る。さっきまで会長然としていたのが、すっかりいつもの調子に戻っている。
「最後はちゃんと首を縦に振らせてやりましたよ!」
「あぁお前の説明、見事だったよ。あれなら向こうも文句のつけようがねぇ」
「ふふん。まあこれくらいはね。口先の魔術師のお株を奪っちゃうのも時間の問題かもですねー」
得意げに胸を張る詩音に、俺はつい笑った。まあ実際、大したもんだった。
「……なんて」
ふと詩音が声のトーンを落とした。
「ホントはぜんぶ圭ちゃんのおかげです。あの資料がなかったら、私、また何も言えずに帰されてました」
「俺は調べもんをしただけだ。通したのはお前だよ」
そう返すと詩音は少しの間こっちをじっと見て、かと思えばため息をつく。
「……ま、そういうことにしといてあげます」
とにかく、と彼女は右手を上げる。意図を理解して、俺も右手を上げるやいなや、バシンっと雑に叩かれるようなハイタッチを交わす。
「よし!」
「いってぇ」
……もう少し優しくしてもらいたいもんだが。
よく分からんが機嫌はいいらしい詩音は、足取りも軽く、すたすたと先を歩いていく。
「さ、急ぎましょう。おばあちゃんと宮地さんに、早く報告しなきゃ!」
伐採の日は、よく晴れていた。
中庭に業者の人が入って、手際よく準備を進めていく。俺たち生徒会の三人と、宮地さん。それから、知らせを聞いて出てきたおばあさんも、少し離れたところで、その様子を見守っていた。
チェーンソーの音が響いて、あの大きな木がゆっくりと傾いていく。長いことこの中庭に立っていた木が、地面に横たわる。――やっぱり、寂しくないと言えば、嘘になるだろうな。
「……いいんだよ」
おばあさんが、ぽつりと言った。
「あの子も、こんな立派になって。じゅうぶん、がんばったさ」
それは、長い役目を終えた木を、ねぎらうような響きで。
切り出された木は、卒業生の職人さんが丁寧に引き取っていった。形をできるだけ残して加工する、と約束して。あとは、待つだけだ。
それから、しばらく後。
食堂の一角に、それは、据えられた。
あの木の幹を生かした、飾り棚だった。太い幹の、自然な曲がりや木目を、そのまま活かしてある。大きすぎず、けれど確かな存在感で、食堂の隅に、どっしりと落ち着いていた。職人さんの腕がいいんだろう。元の木の面影が、ちゃんと残っている。
「まあ……まあ、まあ」
おばあさんは、それを見て、何度も、同じ言葉を繰り返した。木肌に、そっと手を触れる。
「あの子の木が。こんな形で、戻ってきてくれるなんてねぇ」
しわだらけの手で、ゆっくりと木を撫でながら。おばあさんは、目を細めて、笑っていた。その目尻が、少しだけ光っていたけれど。それは、悲しい涙じゃ、なかったと思う。
「これなら、毎日、そばで見ていられる。窓の外より、ずっと近くで。……ありがとうねぇ。本当に」
「お礼なら、この子に」
詩音が、宮地さんの背をそっと押した。
「最初に動いたのは、宮地さんですから。この子が、勇気を出して、目安箱に入れてくれなかったら。私たちは、何も知らないままでした」
「まぁ……貴女が」
おばあさんが、目を丸くする。宮地さんは顔を真っ赤にして。もじもじと俯いた。
「……あの。私、おばあちゃんに、よくしてもらったから。何か返したくて。それだけ、なんです」
「まあまあ」
おばあさんが、宮地さんの手を、両手で、ぎゅっと握った。
「ありがとう。ありがとうねぇ。あんたは、ほんとに優しい子だ」
宮地さんの目から、とうとう、ぽろっと、涙がこぼれた。おばあさんも、もらい泣きして。二人で、笑いながら、泣いていた。
……ま、こういう結末も。たまには、悪くない。さんざん、駆け回った甲斐が、あったってもんだ。
「あれ?」
その時。ふと、真田さんが、窓の外を見て声を上げた。
「ねえ、見て。あれ」
つられて外を見る。中庭の、木の切り株。その脇に、ちょこんと。
小さな、白い花が、一輪。咲いていた。
「……花?」
今は、花の季節じゃない。それに、あの木は、花の咲く木じゃ、なかったはずだ。なのに、切り株の根元から、ぽつんと、一輪だけ。まるで、見送るみたいに。
「あの木が、最後にお礼を言ってるのかもしれないね」
真田さんが、おっとりと笑う。
ま、こういうのは。理屈をこねるより、そういうことにしておく方が、粋ってもんだろう。
「あ、そうだ」
食堂からの帰り道。真田さんが、思い出したように、口を開いた。
「今回はほんとに、岡崎くんが大活躍だったねぇ。一週間も、こっそり一人で準備して。詩音ちゃんのために、そこまでするなんて」
「いや、別に、詩音のためってわけじゃ」
「ふふ。隅に置けないなぁ」
悪戯っぽく笑われて、なんだかばつが悪くて視線を逸らす。
「ね、目安箱にも質問があったし、二人とも、もう付き合ってることにしちゃってもいいんじゃないかな?」
「「は?」」
俺と詩音の声が、見事に重なる。
確かにそんな投函があったがなんでまた……待てよ、もしかしてあの投函って。
「……あかりさん」
詩音も何かに気づいたように目を細める。
「まさか、あの目安箱の投函。『副会長は会長と付き合っているんですか?』って、あれ……」
「ふふ、なんのことかな」
真田さんが、口元に手を当ててくすくすと笑う。いたずらが成功した子供みたいな顔で、もう答えは丸わかりだった。
「あれ、あかりさんの仕業ですね!?」
「ふふ、さあ、どうかしらね」
「どうかしら、じゃないですよッ。あれでどれだけ、気まずい思いを――っ、って、待ちなさーい!」
ぱたぱたと駆け出していく真田さんを、詩音が、顔を真っ赤にして追いかける。
おっとりした顔で。とんだ、食わせ者だ。彼女は、最初にあった時と随分イメージが変わった気がする。
そんなどうでも良いことをぼんやり、考えながら。
二人の賑やかな背中を見つめる。秋の空が、どこまでも、高く澄んでいた。
ほぼ単なる学園ラブコメ(第5章)でした。次回は幕間を挟んで、6章へと進めていきたいと思います。