ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜   作:通行人A'

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混浴のすゝめ

 

 

 

 

 宴会の喧騒を背に、俺はそっと座敷を抜け出した。

 

 酒の匂いと、絡み合う話し声。組員に親戚に幹部連中、大勢が入り乱れての宴だ。誰かが陽気に手拍子を打ち、誰かが低い声で何かを囁き合っている。賑やかなんだか、腹の探り合いなんだか。あの空気の中に長くいると、どうにも息が詰まる。

 

 廊下を渡って、人気のない縁側に出た。

 しん、と冷えた空気が頬を刺す。座敷のざわめきが、急に遠くなった。障子越しに漏れる灯りだけが、ぼんやりと足元を照らしている。

 

 目の前には、夜の中庭が広がっていた。

 

 手入れの行き届いた庭。とはいえ、よく見れば、ところどころ枝が伸び放題になっている。冬枯れの木々が、月明かりを浴びて黒い影を落としていた。池には薄く氷が張っているのか、水面がやけに静かだ。しんとした夜の底に、この屋敷だけが取り残されているような、そんな心地がした。

 

 俺は縁側に腰を下ろして、白い息を吐く。

 

 ……なんつーか、いろいろあった一日だった。

 

 組員たちの、妙に好意的な歓迎。茜さんのからかい。顔合わせの席の、あの粘つく空気。担ぎたい爺さんらの派閥と、詩音を疎ましがる鵜飼たちの派閥。笑顔の裏で刃を研ぐ連中の中に、あいつは一人で座っていた。にこにこ笑いながら、背筋を、ずっと張り詰めさせて。

 

 園崎家、か。

 

 傾いたとはいえ、腐っても御三家の筆頭。血だの家訓だのが、いまだに人の生き死にを左右する場所。詩音は、こんなところの真ん中に立たされて、跡目だなんだと引っ張り回されている。当主の椅子を巡って、周りが好き勝手にあいつを担いだり、退けたりしようとしている。

 

 そのど真ん中に、あいつは、たった一人でいるわけだ。

 

 俺に、何ができるってわけでもない。組の理屈も、家の事情も、正直、半分も分かっちゃいない。付き人なんて名乗ってはいるが、こういう場所じゃ、俺は本当に何の役にも立たないただの高校生だ。

 

 ……それでも。できることだけでもしたい。例えば隣にいるだけでもいい。

 

 恩を返したい。

 この気持ちは、それだけなんだろうか

 

 最初は、契約だった。悟史を探す手伝いをする、その見返りに、生きる場所をもらった。いや、最初は死に場所を与えてくれたと思ってたけど……今ははっきりと言える、生きる場所を彼女はくれたんだ。

 俺にとって詩音は、雇い主で、恩人だ――言ってみりゃ、そういう関係のはずだった。

 

 あいつが気を張り詰めているのを見ると、放っておけなくなる。あの張り詰めた背中を、少しでも軽くしてやりたくなる。膝の一つも貸してやりたくなるし、こんな夜には、隣で馬鹿話でもして笑わせてやりたくなる。

 

 これは付き人だから、か?恩人だから?

 うまく言葉にならない。ならないが、この「放っておけない」の中身は、たぶん、俺が思っているより、もう少し厄介な何かで。

 

「なーに、辛気くさい顔してるんです?」

「うおっ」

 

 いきなり背後から声がして、俺は危うく縁側から転げ落ちかけた。振り返れば、詩音が呆れ顔で立っている。手には、湯呑みを二つ。

 

 ……噂をすれば、ってやつか。

 

 俺は、慌てて今しがたの考えごとに蓋をした。危ない危ない。危うく、口に出しかねないところだった。

 

「別に。ちょっと涼んでただけだよ」

「この寒いのに?変わった趣味ですねぇ」

 

 言いながら、詩音は俺の隣に、ちゃっかり腰を下ろした。湯呑みを一つ、押しつけてくる。中身は、温かいお茶だった。

 白い湯気が、夜の冷気に溶けていく。

 

「お前こそ、宴会にいなくていいのかよ。主役みたいなもんだろ、今日は」

「いーんですよ。みんなもう酔っ払って、わけ分かんなくなってきましたし。今ごろ誰が誰やら状態です」

 

 けらけら笑って、詩音は湯呑みに口をつけた。

 

「それに私、さっきからジジイどもにお酌ばーっかりさせられてて。いい加減つまんなくなって、こうして抜け出してきたわけです」

 

 ぺろっと舌を出して、悪びれもせずに笑う。

 

「……未来の当主になるかもしれねぇ人間に、お酌させるとはな。ずいぶん贅沢なジジイどもだ」

「ホントですよねー。まったく、人を酌婦か何かだと思ってるんでしょうか」

 

 他人事みたいに、あいつは肩をすくめる。自分のことだろうに。まるで遠くの誰かの話でもしているような、そんな軽さで。

 と、詩音がふと、悪戯っぽく目を細めた。

 

「いっそ、鵜飼らのお猪口に、こっそり毒でも盛ってやりましょうか。ちょっとした事件でも起きたほうが、退屈しのぎになって楽しいでしょう?」

「勘弁しろよ。犬神家の一族みたいなことになんぞ」

 

 設定的にも、ピッタリだ。

 

「あら。だったら私たちも張り切って推理しないといけませんねぇ、ワトソン君?」

「探偵違いだからなそれ」

 

 犯人はどう考えてもお前だろうが……いや、それは結構意外性があっていいかもな。

 助手として探偵・詩音の推理を手伝う俺。そして解けていく謎、揃っていく証拠の先には、なぜか描いていた犯人像とはかけ離れた存在を指し示すようになる。そう、その先には──にっこり笑う園崎詩音がいるのだ。うん、結構良いミステリーになりそうだな。って、いやいや。何考えてんだ俺は。

 

「くくっ。冗談ですよ、冗談。そんな顔しないでください」

「お前の冗談は、たまに本気か見分けつかねぇんだよ……」

 

 ぼやきながら、俺は残りのお茶を飲み干した。冷えた体に、じんわりと温もりが染みる。

 

「さ、冷えてきましたし、そろそろ戻りましょうか。風邪ひいたら、看病するのはこの私なんですからね」

「へいへい。……って、逆じゃねぇのかそれ」

 

 立ち上がった詩音に続いて、俺も腰を上げる。夜の中庭に背を向けて、二人して、灯りのともる屋敷の中へと戻っていった。

 

 

 

 あてがわれた和室に、俺は一人、腰を落ち着ける。

 

 部屋割りは、宴会が始まる前に決まっていた。茜さんが「同じ部屋にして同棲の練習でも」なんて言い出したのを、詩音が顔を真っ赤にして断固拒否したのだ。「別々じゃなきゃ絶対に嫌ですっ」と、それはもう必死の形相で食い下がっていた。おかげで、こうして別々の部屋にはなったわけだが。

 

 ……まあ、当然といえば当然の反応だ。年頃の男女が同じ部屋なんて、ありえないのは当然。

 なのだが、あそこまで全力で拒まれると、それはそれで少しばかり複雑な気分になるというか。

 ともあれ、詩音の部屋は襖一枚挟んだ隣だ。別々とはいえ、ずいぶん近い。これも茜さんの差し金だろう。

 

 その隣の部屋が、さっきから、やけに静かだった。

 

 物音ひとつしない。あいつのことだから、部屋でごろごろしているかと思いきや。まだ宴会に残っているのか、それとも、どこかをうろついているのか……はて。

 

 思わず、襖のほうへ耳を寄せかけて──いや、待て。

 

 何をやってるんだ、俺は。人の部屋の気配を窺うなんて、それこそ変態のやることだろうが。聞き耳なんて、立てていいわけがない。俺は慌てて姿勢を正し、荷物のほうへ向き直った。

 

「圭一くん、ちょいといいかい」

 

 と、今度は廊下のほうから、茜さんの声がした。

 

「風呂にでも入っといでよ。あの気詰まりな宴会で、疲れも溜まってるだろう」

「いいんですか。じゃあ、お言葉に甘えて」

「うちはねぇ、男湯女湯とは別に、露天がひとつあるのさ。貸切で使うやつでね。今なら空いてるはずだから、ゆっくり浸かっといで」

 

 露天風呂。この寒い時期に、なんとも贅沢な響きだ。

 

「貸切にしたけりゃ、入り口に立札があるからね。それを立てときな」

「ありがとうございます」

 

 礼を言うと、茜さんは「ごゆっくり」と、なぜだか妙に上機嫌で去っていった。

 ……まあ、深く考えることもないか。俺は手ぬぐいと着替え用の浴衣を教わった道順で露天風呂へと向かうことにした。なんだろう、ちょっとした旅行気分だな。

 

 渡り廊下を抜けた先、庭の一角に、その露天風呂はあった。入り口を見ると、なるほど「貸切中」と書かれた木の立札がある。だが今は、脇に伏せて置かれたままだ。誰も使っていない、ということだろう。

 

 立札を立てて、脱衣所へ。服を脱いで扉を開けると、そこには一面の湯煙がたち登る岩で組まれた立派な湯船がお目見えだ。本当に旅館の露天風呂みたいだな、かなり広いし。流石園崎家だ。

 感心もそこそこに、そっとかけ湯をして、そろりと湯に身を沈める。

 

「……っはぁ〜」

 

 情けない声が、勝手に漏れた。

 

 熱い湯が、旅と緊張で凝り固まった体に染み渡っていく。まるで山奥の秘湯のように白く濁ったお湯にはどんな効能があるのかも分からないが、確実に言えることは疲れという疲れが抜けて、身体の芯から温まる心地がすることだ。

 見上げれば、雲ひとつない夜空に、星が一面ぶちまけたみたいに散らばっていた。冬の澄んだ空気の中、ぴんと張り詰めた冷たい風が、火照った頬をすうっと撫でていく。

 

 ……最高だ。なんて至福なひと時だろう。

 

 風呂ってのは、どうしてこう、人を駄目にするんだろうな。極楽極楽。このまま骨まで溶けてしまいそうだ。俺は思わず、感涙しそうになりながら、湯船の縁に頭を預けた。

 

 と。

 

 ふと、湯煙の向こうに、人影が揺れた気がした。

 

 ……ん?

 

 目を凝らす。もうもうと立ちのぼる湯気の奥。誰か、いる。

 

 しまった。先客がいたのか。立札は伏せてあったから、てっきり空いてるもんだと。……いや、待て。落ち着け。立札を立て忘れたのは、向こうさんのほうだ。俺が咎められる筋合いはない。ここは冷静に、穏便に一言詫びて、やり過ごせばいい。組の人だったとしても、話せば分かるはずだ。

 

「あー……すいません。先に入ってらしたんですね。俺、立札が伏せてあったんで、てっきり空いてるもんだと」

 

 湯煙の奥の人影が、びくっと動いた。

 

 そして、ゆっくりと。もうもうとした湯気が、風にさらわれて晴れていく。その向こうから現れたのは。

 

「……け、圭ちゃん!?」

「は、え?」

 

 湯気の奥にいたのは、詩音だった。……はい?詩音?え?

 

 長い髪を、濡れないように結い上げて。体には申し訳程度にタオルを一枚。いや、湯舟は濁った白濁なので水中は、下は見えない、見えないはずなんだが──しかし、だからといって、かろうじて、というかなんというか。ともかく、目のやり場に困る有様ではあるわけで。

 

「……」

 

 暫く時が、止まって。

 

「──なっ、なななな、なんで圭ちゃんがここにッ!?」

「そ、それはこっちのセリフだ!なんで詩音がっ!?」

 

 二人して、弾かれたように背中を向ける。心臓が、爆発しそうなくらい暴れていた。彼女の入浴姿を俺は必死に頭の外に追い出そうと、頭の中を真っ白にしようと試みる。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。お母さんが、貸切だからって……!」

「は?俺も茜さんに、今なら空いてるからって勧められて──」

 

 言いかけて、俺と詩音の声が、ぴたりと止まった。

 ……あの人、まさか。

 

「──あんのっ、母親はぁぁぁッ!!」

 

 背を向けたまま、詩音が湯船の縁を、わなわなと震える拳で殴りつけた。どうやら、俺と同じ結論に至ったらしい。そりゃそうだ。こんなもん、どう考えても仕組まれている。悪戯にしたって、手が込みすぎだ。

 

 まったく。悪戯好きも似たもの親子、ってか。

 

 俺は湯の中で、深々とため息をついた。心臓は、まだうるさいくらいに鳴っている。

 

 背中合わせのまま、俺はそっと、詩音のほうへ目をやった。

 

 長い髪を、ハーフアップに結い上げている。湯気に上気した、絹のように白い肌。そのうなじが、やけに色っぽくて。俺は思わず、ごくりと息を呑んだ。

 

 ……変態だって?HAHAHA、仕方ないだろう。だって男の子だもん☆目の前に、じゃない、すぐ後ろにそんなものがあれば、意識するなというほうが無理な話で――

 

「け・い・ちゃ・ん?」

 

 背を向けたまま、詩音が、恐ろしく冷たい声を出した。

 

「万が一、億が一ないとは思いますけれども。もし振り返るようなことをしてたら……眼球をスタンガンで焼いたあと、指先から順番にバラバラに解体しますよ?」

「ひっ」

 

 悲鳴をあげそうになって、慌てて視線を引き剥がす。

 さっきの鵜飼に向けていた殺気も相当だったが、これは、それどころじゃない。逆らったら本当に殺される。冗談でも比喩でもなく、物理的に。本能が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。

 

「も、もももも勿論、そんなことしねぇよ!ていうか、俺、先に上がるから。詩音はゆっくり浸かってろ?な?」

 

 生き残りたい!まだ生きてたくなる!というわけでこの状況から逃れようと、俺は立ち上がりかけたのだが。

 

「せ、せっかく入ったんですから。もったいないでしょう。……背中さえ向けてれば、構いませんよ」

 

 ツンとした声で、詩音が引き留めてくる。妙に、しどろもどろに。

 追い出されるならまだしも、引き留められるとは。……というわけで。俺と詩音は、背中を向けあいながら湯船に浸かることになった。

 これが、混浴というのか、なんなのか。ともかく、落ち着かないったらない。

 

 だってそうだろう。妙齢の男女が、ほとんど一糸まとわぬ姿で、同じ湯に浸かっているのだ。タオルこそあれ、こんな状況ではあってないようなもんだ。意識するなというほうが無理だ。背後で湯が揺れるたび、心臓が跳ね回る。

 

 だが待て。ここで意識に負けたら、詩音に殺される。いや、殺されるのは困るが、かといって、ここで何も感じないふりをするのは、男としてどうなんだ。目の前の――いや、真後ろの好機を、みすみす。これこそ、据え膳食わぬは男の恥、というやつでは。

 

 ……いや、違う違う!落ち着け前原圭一!クールになれ前原圭一!!

 

 そもそも詩音は、俺のことなんざ、都合のいい駒としか思っちゃいない。そんな相手に邪な気を起こすなんざ、失礼にもほどがある。恩を仇で返す所業だ。ならばここは、男としてじゃない、ここは人間としての誇りをかけることだろう――人と動物の違いは何か!?理性だろう?

 

 ならば、理性を勝利に導くのが正義!

 人間としての“矜持”を胸に!!

 

 悩みに悩んだ応酬の末。俺の中で、かろうじて、人間としての理性が勝利を収めた。獣に堕さなかった。誇りを守り抜いたのだ。脳内では今、その勝利を讃える、盛大な凱旋パレードが執り行われている。よくやった、前原圭一。お前は男である前に、一個の人間だった――

 

「……圭ちゃん。何か、変なこと考えてません?」

「何を言ってんだ、詩音」

 

 俺は、努めて厳かに答えた。

 

「俺はな、今しがた勝利したんだ。すべての男が囚われるはずの、あの悪魔の誘惑に打ち勝った。獣とは違う。人間としての矜持ってやつを、見せつけてやったんだよ」

「……何言ってるのか、さっぱりですけど。圭ちゃんが、アホで変態だってことだけは分かりました」

 

 詩音が、心底呆れた声で、ぴしゃりと言い放った。

 

 全くひどい話である。

 あんまりな言い草だ。俺のこの葛藤が、いかに崇高で、誉れ高いものだったか。二時間くらいかけて、じっくり高説を垂れてやりたい。この気高き魂の勝利を、微に入り細に入り説いて聞かせて――

 

 ……いや。なにアホなことを考えてるんだ、俺は。

 

 つまるところ、それくらい、俺はテンパっていた。頭のネジが、二、三本、どこかへ飛んでいたらしい。

 背中合わせのまま、しばらく、どちらも黙り込んだ。ぱきん、と庭のどこかで、氷の張る音がした。のぼる湯気。頭上には、相変わらずの星空。

 

 

「……あのですね、圭ちゃん」

 

 ふいに。さっきまでの刺々しさが嘘みたいに、詩音の声が、ずいぶん静かになった。

 

「あんな母親で……その、すみませんでした」

 

 俺は、星を数える手を止めた。唐突な言葉に、少し面食らう。てっきり、さっきの同棲だの結納だのの悪ふざけを詫びてるのかと思ったが。詩音の声は、そういう軽いものじゃなかった。もっと奥のほうから、ぽつりとこぼれ落ちたような、平坦な声で。

 

「別に。おもしろい人じゃねぇか、茜さんは」

 

 当たり障りのない言葉で返す。背中合わせだから、あいつがどんな顔をしているのかは分からない。だが、分からないからこそ、話せることもあるのかもしれない。

 

 少しの沈黙のあと、詩音が口を開いた。

 

「前にも言いましたけど。あの人とは……正直、別に大した仲じゃありません。親子ってのは名ばかりで」

 

 その声は、やけに淡々としていた。怒りもなければ、悲しみもない。顔は見えないけど、強いて言えば、無表情のような。

 

「私と魅音が入れ替わってたこと、あの人、途中で気づいてたはずなんです。娘の見分けもつかない親なんて、いませんからねぇ。なのに、知らんぷり。まあ、あの家じゃ珍しくもない話です」

 

 湯の揺れる音がいやに大きく聞こえる気さえする。

 

「爪を剥がされたときも、そう」

 

 爪……以前聞いた話だ。北条の家を、悟史をかばって啖呵を切った詩音が、ケジメだと言われて負わされた傷。園崎の家訓に従って、無理やりに。

 

「あのとき、私……情けないことに、泣いちゃったんですよ」

 

 詩音が、ふっと笑った。ひどく、乾いた笑い方。

 

「自分から、威勢よく啖呵を切ったくせに。いざとなったら痛くて痛くて、みっともなく泣きじゃくって。あろうことか……お母さん、お母さんって。あの人に、助けてって、すがったんです」

「……」

「今思い出しても、情けなくて死にたくなりますよ。自分の意志で決めたことでしょうに。それを、痛いくらいで手のひら返して、母親にすがるだなんて……本当に」

 

 悔いているのは、母のことじゃない。すがってしまった、自分自身のことだ。あいつが噛みしめているのは、そういう後悔だった。

 

「で、あの人はどうしたと思います?」

「……」

「なぁんにも。ただ黙って、見てただけ。ああ、やっぱりな、って感じでしたよ。あの人がそういう人だってこと、私、とっくに知ってましたから。期待した私が、馬鹿だったんです」

 

 どうせそんなもんだ。あいつの声は、そう言い切っていた。母親に何かを期待すること自体、とうの昔に諦めている。

 俺は、なんと言えばいいのか、分からなかった。

 

 ひどい話だ。それは間違いない。実の娘が泣いてすがってるのに、指一本動かさないなんて。詩音が母親を突き放すのも、無理はない。

 

 ……だけど。

 

 それでも、俺は、ふと思ってしまったんだ。

 こんなにも冷め切った物言いをするこいつが、いざ本当に追い詰められたその瞬間には。やっぱり他の誰でもなく、真っ先に「お母さん」なんだ。

 

 それは、決して情けないことなんかじゃない。どれだけ諦めていても、どれだけ突き放していても。心と体が限界を迎えたとき、人が最後に手を伸ばすのが母親なんだとしたら。それはきっと、何も間違っちゃいない。

 

 親子ってのは、多分そういうものなんじゃないかって。

 

「……なあ、詩音」

「なんです?」

「お前がすがったのは、情けないからじゃねぇと思うぞ。俺は」

 

 背中越しに、あいつが鼻で笑ったのが分かった。けど、俺は続けることにする。

 

「だって、そうだろ。とっくに諦めてる相手に、普通、そんな叫びは出ねぇよ。心のどっかで、まだ期待してたからこそ……いや、まだ期待してるからこそ、出た言葉なんじゃねぇのか」

 

 詩音は、答えなかった。

 その沈黙が、なんだか、やけに雄弁だと感じる。ふと、思い出す。初めてこの家に挨拶に来たとき、あいつが両親の前で、あんなにも激しく感情をぶちまけたことを。あれもきっと──ただの怒りなんかじゃなかったんだろう。

 

 どんなにこじれていても。どんなに冷え切っていても。家族ってやつは、やっぱり特別なんだ。憎みたくても憎みきれない、突き放しても手を伸ばしてしまう。そういう、ある意味厄介で、どうしようもない何か。

 

 湿っぽくなりかけた空気を、俺は努めて明るく振り払った。

 

「ま、俺はそう思える家族が、もう消えちまったからな。偉そうなことは言えねぇけどさ」

 

 軽く言ったつもりだった。それでも、背後の気配が、すっと変わったのが分かる。詩音が、はっと息を吸い込む音。

 

「……ごめんなさい」

 

 さっきまでの冷たさとは打って変わって、しおらしい声だった。

 

「私、無神経でしたね……」

「い、いや、待て。そういうつもりで言ったんじゃねぇって」

 

 慌てて俺は言い募った。違う、あいつに気を遣わせたいわけじゃなかったのに。どう取り繕ったものかと焦っていると──背後から、ぐすっ、と。小さく、鼻を啜るような音が聞こえてきて。

 

 うわ、まずいまずい。

 

「お、おい、詩音っ。悪かった、な?俺が変なこと言ったせいで──」

「──なーんて」

 

 くすくす、と。悪戯っぽい笑い声が、湯気の向こうから返ってきた。

 

「ほーんと、圭ちゃんって単純ですねぇ。ちょーっと啜り泣いてみせただけで、この慌てよう」

「……っ、おまっ……俺は本気で心配して」

 

 言いかけて、俺は深々と、ため息をひとつ吐き出した。そうだ。忘れていた。こいつはこういう女だった。人の気も知らないで、平気でからかってくる。

 

「……そういう奴だったな、詩音は」

「なんですかー、その言い方は」

 

 口を尖らせたような声。まったく、調子が狂う。せっかく殊勝な気分になりかけていたのが、馬鹿らしくなってきた。

 

 ふっ、と。あいつが、小さく笑った気配がして。

 次の瞬間、背中に、とん、と。あたたかい何かが触れた。

 

「……なっ」

 

 詩音の背中だ。今まで、互いに背を向けているだけで、触れちゃいなかった。それが今、ぴたりと。俺の背に、あいつの背が、預けられている。

 

「なっ、ちょっ、お、お、お前、何をっ」

「なーに、きょどってるんです?背中を合わせるくらいで」

「きょどるわっ!!状況を考えろ、状況をっ!!」

 

 くすくす、という笑い声が振動になって、じかに伝わってくる。心臓が、爆発しそうだ。というか、しかけている。俺は歯を食いしばって、暴れ回る理性を必死に押さえつけた。

 

「いいか詩音、いくら上司と部下っつってもだな。か、かかか仮にも、妙齢の男女が、こんな空間で、こんな格好で、だ!俺じゃなかったら、取り返しのつかねぇことになってるぞっ!?」

「ふふ。圭ちゃんなら、私を襲う心配はないと?」

「……んなことしたら、組の連中に東京湾へ沈められるだろうが。この状況で、指の一本だって触れられるかよ」

「んー。距離的に、東京湾というより、名古屋湾な気がしますけどねぇ」

「世界一意味のねぇ補足を、どうもありがとよ!」

 

 このドキドキは、断じて、そういうんじゃない。死の恐怖だ。そうに違いない。うん。吊り橋効果なんて、生易しいもんじゃないぞ、これは。下に、ピラニアだのサメだの鯱だのが、うようよ泳いでるプールの飛び込み台。そこに素っ裸で立たされてる。そういう状況だ。命の危機だ。だからドキドキしてるだけ。そうだそうだ。

 

 ――と、必死に自分に言い聞かせていた、そのとき。

 

 今度はこつん、と。俺の肩に。あいつの頭が、そっと預けられた。

 

 何も言わずに。ただ、こてん、と。

 あいつの体温が、じかに伝わってくる。髪の、湯上がりの匂いまで。もう、いろいろと限界だった。俺は静かに目を閉じて、ひたすら無心を目指すことにした。無だ。俺は無。何も感じない、悟りの境地。

 

 ……ああ。はるか昔、ブッダも、こうして悟りを開いたのかもしれねぇな。煩悩を断ち、雑念を払い、ただ静寂の中へ。今、俺もまた、その境地へと足を踏み入れようとしている。

 

 

 拝啓、親父。お袋。天から、俺を見ていますか?

 アンタたちの息子は、齢十五にして、悟りを開こうとしてるぜ。ははは……。

 

 冬の夜空に、湯気がゆらゆらとのぼっていく。星が、やけに遠くに見えた。

 

 

 ──で。

 

 風呂から上がった俺は、縁側で一人、遠い目をしていた。

 

 火照った体を、冷たい夜気が心地よく冷ましていく。頭を冷やす、とはまさにこのことだ。いろいろありすぎて、正直魂が半分くらい抜けている気分だった。

 

 と、屋敷の奥のほうから、素っ頓狂な声が響いてきた。

 

「あんだって!?あ、アンタ、あんなにお膳立てしてやって、指一本触れなかったって……やる気あんのかいッこの馬鹿娘!!」

 

 茜さんだ。

 

「ちがーうッ!!やる気も何もあるわけないでしょう!頭沸いてんですかこの馬鹿親っ!!」

 

 続いて、詩音の絶叫。どうやら、母娘で盛大にやり合っているらしい。

 

「はぁ……こりゃ、酷い有様だ。魅音よりもヘタレじゃないか……先が思いやられるよ」

「うるさいうるさいうるさーいッ!!!」

 

 ……なんの話をしてるんだ、あの親子は。いや、なんとなく察しはつくが。察したくもない。俺は聞かなかったことにして、遠い夜空を見上げた。

 

 

 すっと。俺の隣に、瓶を差し出される。

 コーヒー牛乳だ。見上げれば、強面の組員が一人、無言でそれを俺に握らせてくる。かと思えば、別の一人が俺の肩を、ぽん、と叩いた。その目には、なんとも言えない憐憫の色が浮かんでいて。

 

「坊主。オメーも、大変だな……」

「ま、頑張れよ」

「……あざっす」

 

 ありがたく、コーヒー牛乳を受け取る。ひんやりと甘いそれが、火照った体に染み渡っていった。

 

 

 





ラブコメばかり書いてないで話を先に進めろという声が聞こえてきそうで申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、こういうのばかり書いてたいんです……(ゆっくりですがちゃんと進めますのでご容赦ください)
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