朝、目を覚ましても、どこか体の芯が重かった。
障子越しに、白い光が差している。もう、それなりの時刻だろう。だが、起き上がる気になれない。夕べは、あまり眠れなかった。瞼を閉じるたび、あいつの声が、耳の奥でよみがえる。
『園崎家を、消し去る』
確かに、あいつはそう言った。
夕暮れの小道で見せたあの表情。凍てついたような冷たいあの目が、これが冗談ではないことをはっきり語っていた。
あのあと。
俺は、間抜けみたいに立ち尽くしてから、やっとのことで問いかけた。
「……何でだよ。何で、そんなこと」
声が、みっともなく震えていた。だって、その場所はは詩音の家であり、居場所のはずだ。それを、こいつは、なぜ。
詩音は、こちらを見なかった。ただ、包丁招き猫を抱え直して、静かに前を向いえいた。
「……今はまだ、話せません」
それだけ。いつもの、からかうような響きは、どこにもなかった。俺は、それ以上、何も訊けなくて。結局、二人とも黙ったまま、屋敷まで、暗い道を歩いた。
……で、もう朝だ。
問いは宙に浮いたまま。何ひとつ片付いちゃいない。俺は、のろのろと身を起こして、頭をかいた。考えたところで今答えなんか出ない。出ないが、考えずにもいられない。
顔を洗って、広間のほうへ向かう。すると。
「あ、圭ちゃん。おっそい起床ですねぇ」
詩音が、いた。
炬燵に潜り込んで、みかんを片手に、けろりとした顔でこちらを見ている。ゆうべの、あの張り詰めた気配は影も形もない。
「もう寝正月モードですか?連休だからって、だらけすぎですよぅ」
「……お前な」
こっちは一睡もできずに、あれこれ思い悩んでいたってのに。当の本人は、みかんを頬張って、いつも通りへらへらしている。
……どっちが、本当のこいつなんだ。
ゆうべの、あの氷みたいな目をした詩音と。今、目の前で、のんきにみかんの皮を剥いている詩音と。同じ人間とは、思えない。いや、どっちも同じあいつなんだろう。分かってはいる。分かってはいるが、その落差に、頭がついていかない。
「なあ、詩音。昨日の話なんだけど」
「あ、これ美味しいですよ。ほら、圭ちゃんも食べます?」
みかんを、ひょいと放ってくる。反射的に受け取った。見事に話を逸らされる。
「……いや、そうじゃなくてさ」
「なんです?朝から辛気くさい顔して。せっかく顔だけは良いんですから、しゃんとしないと台無しですよ」
「だけは余計だ」
ペースに乗せられて、つい突っ込んでしまう。いや、そうじゃない。そうじゃないのに……詩音はといえば、にこにこと笑って、また一房口に運ぶ。まるで取りつく島がない。ゆうべの続きを切り出そうにも、この調子じゃ、糸口すら掴めやしなさそうだ。
わざと、なんだろうか。このいつも通りは。俺に、あれ以上は詮索させないための。……じゃあ何故、あんな事を伝えたんだ?分からない。こいつが何を考えているのか、俺にはさっぱり読めない。
結局俺は、手の中のみかんを、意味もなく見つめる。オレンジ色の皮が、朝の光にやけに鮮やかだった。
広間では、正月らしく、組員たちが賑やかに過ごしていた。
「お、坊主。雑煮、食うか?お嬢の分と一緒に、餅、多めに入れといたぞ」
「あ、どうも……いただきます」
宗石さんが、湯気の立つ椀を差し出してくる。受け取ると、出汁のいい匂いがした。餅は、律儀に三つも入っている。この人たちは、どこまでも気安くて、あたたかい。
だが、その温かさが、今日はどうにも素直に飲み込めない。
俺は、椀を手にしたまま、ぼんやりと広間を眺めた。碁を打つ人、酒を酌み交わす人、寝転がって笑い合う人。のどかな正月の風景。ここは間違いなく彼女の居場所なのだ。それは、この数日で嫌というほど分かった。
……でも。
この同じ家が。園崎の家が。彼女に何をしてきたのか。
あいつは。もともと、「詩音」じゃなかった。
姉の、魅音。それが、あいつの、本当の名前だったんだ。幼い頃、ほんの気まぐれな入れ替わりっこが、運悪く、あの鬼の刺青を入れる日と重なった。ただそれだけのことで。姉と妹の人生が、まるごとすげ替えられた。
しかも――あいつが、いくら「入れ替わっている」と訴えても。誰も、信じちゃくれなかった。
魅音が悪かったわけじゃない。詩音が悪かったわけじゃない。悪いものがあるのだとしたら……それは、言うまでもなく。
双子を間引く、なんてしきたりのある家だ。忌み子の側に落とされたあいつは、まともに本家で暮らすことも許されず、遠くの寮のある学校に、閉じ込められた。自分の本当の名すら、名乗れずに。姉のふりをして、別人として、生きるしかない時期もあった。
そして──好いた相手をかばっただけで。爪を剥がされた。ケジメだと言われて。そして結局、悟史も消えてしまった。
だが、多分一番堪えたのは。
あいつが、露天風呂でぽつりと漏らした、あの一言。
──お母さんは、たぶん、気づいてた。娘の見分けもつかない親なんて、いない。あの人は、入れ替わりに、気づいていたはずだ。なのに、知らんぷりを、決め込んだ。
実の母親が。我が子が取り違えられていたのを分かっていながら。家のために見て見ぬふりをした。娘一人の人生より、園崎の家の都合のほうを、取ったんだ。
椀の中の餅が、少しずつ、汁を吸って崩れていく。
ゆうべの告白を思い出す。消し去ると、あいつは言った。それが厳密にどういう意味なのかは、分からない。文字通りの意味なのか、それとも──最初に聞いたときは、正直戸惑った。いや、今も戸惑っている。この人たちの、この家を。なんで、と。
だが──こうして、あいつが背負ってきたものを、ひとつひとつ思い返してみると。彼女の言葉はむしろ、当たり前のようにも聞こえる。
名前も、人生も。まともな居場所も、実の親の情さえも。何もかも、この家の都合で、奪われて。それでもあいつは、その家の跡目に担がれようとしている。
忌み子だと切り捨てたくせに、都合が変われば、今さら当主になってくれと乞う。……そんな一族を壊してやりたいと願うのは。あいつにしてみりゃ、あまりにも当然の話だ。
目の前の、宗石さんたちの笑い声と。あいつが背負ってきた、あの理不尽と。そのどちらもが、同じ「園崎」という家の別々の顔なんだろう。俺には、どちらも嘘には見えない。だからこそ、簡単に割り切れない。
「圭一くん」
声をかけられて、顔を上げた。いつのまにか、茜さんが、すぐそばに立っていた。今の俺は、どんな顔をすればいいのか、分からなくなっている。
「浮かない顔だねぇ。せっかくの雑煮が、冷めちまうよ」
「……あ。すいません」
茜さんは、俺の隣に腰を下ろすと、湯呑みの茶をずずっとすすった。何を考えているのか、その横顔からはうかがい知れない。
「あの子のことで、何か、思うところでもあるのかい」
どき、とした。見透かされている。俺が、詩音のことで悩んでいるのを。
「いえ。……ただ、なんつーか。詩音は、いろいろ大変だなって」
「そうかい」
茜さんは、それ以上は聞いてこなかった。ただ、湯呑みに視線を落として、ゆっくりと目を細める。
その表情に、俺は何か予感めいたものを覚えた。
自嘲でも後悔でもない。もっと奥のほうにある、何か。長い間抱えてきた、名前のつけようもないものを、静かに噛みしめているような。この人は、あいつに何をしてきたのか。そして、あいつがこの先、何をしようとしているのか。そのどちらも、承知しているみたいな。そんな、底の見えない眼差しだった。
……いや。俺なんかに何が、分かるってわけでもないけれど。
「……あの子は、昔から。しょいこまなくていいものまで、一人でしょいこむ子でね」
ぽつり、と。茜さんがそう漏らした。豪快ないつもの調子とは、まるで違う、静かな声だった。
「圭一くん。あんたが、あの子のそばにいてやってくれるなら。……あたしは、それでいいと思ってるよ」
言い残して、茜さんは、よっこらせ、と腰を上げた。そのまま、広間の奥へと去っていく。
……なんだったんだ、今の。
残された俺は、茜さんの言葉を、うまく飲み込めずにいた。そばにいてやってくれるなら、それでいい。まるで、この先に待つ何もかもを託すみたいな。あるいは──かつて、自分が守ってやれなかったものを預けるような。
考えすぎだ、と、自分に言い聞かせる。だが、胸の奥に残った、あの眼差しが、どうにも消えてくれない。
手の中の雑煮は、もう、すっかり冷めていた。餅は、崩れて、形を失っている。
昼を過ぎた頃、俺は縁側で、ぼんやりと庭を眺めていた。
正月の日差しが、枯れた庭木をあたたかく照らしている。広間の賑わいから抜け出して、一人になりたかった。頭の中は、相変わらず、ゆうべの告白でいっぱいだ。考えても答えは出ない。それでも考えるのをやめられない。今日はずっとこんな感じだ。
「こちらでしたか、前原さん」
静かな声に振り返ると、葛西さんが、盆を手に立っていた。湯呑みが二つ。
「お茶を、お持ちしました。冷えるでしょう」
「あ……どうも。すいません」
葛西さんは、俺の隣に腰を下ろすと、湯呑みを一つ差し出してくれた。あたたかい。両手で包むと、じんわりと手のひらが温まっていく。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。庭のほうで、鳥が一羽、枝から飛び立った。
「……葛西さんは」
気づけば、俺は、口を開いていた。
「詩音のそばに、ずっといるんですよね」
「そうですね。詩音さんが、まだ小さい頃から」
「だから……あいつのこと、よく、知ってるんですよね」
「さて。知っているつもりでも、あの方は時折、思いも寄らぬことをなさいますから」
葛西さんは、穏やかに、そう言って茶をすすった。その横顔は、いつも通り、静かで、読めない。
俺は、迷った。ゆうべの告白のことを、この人に話していいものか。だが、詩音の目的を、勝手に他人に漏らすわけにはいかない……でも、葛西さんは詩音の懐刀だ。もしかしたら……彼女の目的をとっくに知って。いや、この人は園崎家の幹部でもあるんだ。そう簡単に……あぁ、もう分からない。
俺は、当たり障りのない言い方を探した。
「その……もし、あいつが。何か、とんでもないことを、しようとしてたら。葛西さんは、どうします?」
「とんでもないこと?」
「あー、だから。その……もう何かを根底からひっくり返すような、こととか」
我ながら間の抜けた訊き方だ。抽象的で全く要領を得ていない。けれど、葛西さんは、それを笑うでもなく、少しのあいだ、庭を見つめて。それから、静かに答えた。
「止めない、でしょうね」
「止めない……それって」
何をしても……放っておく、と言うことなのだろうか。そんな問いが喉元まで出かかったが、先に葛西さんが口を開く。
「ですが、昔と今では……少し意味が違うかもしれませんね。昔の詩音さんでしたら。私は多分、お止めしたくとも──お止めすることが、できなかったでしょう」
「できなかった……?」
「あの頃のお嬢は、時に、ご自身でも止められぬほどの、激しいものを、内に抱えておられました。一度その炎に呑まれれば、もう、誰の声も届かない。私はただ、見ていることしか、できなかったと思います」
葛西さんの、その横顔に。何か深い悔いのようなものが、よぎった気がした。まるで実際に、“そういう”あいつを、“そうなってしまった”彼女を見たことがあるかのように。
だが、それも一瞬のことだった。次に顔を上げたとき、葛西さんの目には、穏やかな光が戻っていた。
「ですが──今の詩音さんは、違います」
「今の……」
「あの大災害で、多くを失われて。それでも、乗り越えてこられた。守りたいものにも、きっと気づかれた。……今の詩音さんが、深くお考えになった末に選ぶ道であれば。それは、もう、危うい暴走などではございません」
葛西さんは、まっすぐに、庭の先を見つめていた。
「だから、私は、お止めしません。今度は──背中を、お押しするために」
俺は、ただじっと。葛西さんの横顔を見つめた。
「前原さん」
葛西さんが、今度はこちらを見た。穏やかな、けれど、まっすぐな目で。
「詩音さんは、お強い方です。ですが、お一人で、あまりにも多くを、背負っておられる。……そういう方には、理屈で正しさを説く人より、ただ、そばにいてくれる人のほうが、よほど得難い。そう思います」
葛西さんは、それだけ言うと、また、静かに茶をすすった。
俺は、手の中の湯呑みに、目を落とした。そばにいてやること。茜さんも、同じことを言っていた。
……この人たちは。俺の知らない、何かを知っているんだろうか。
俺に、何ができるのか。あいつが背負ってるものを、代わりに背負ってやることはできない。この家のことを、どうにかしてやることも、勿論できない。
でも──だけど、そばにいることなら。それくらいなら、俺にもできるんじゃないか。
庭に、また、風が吹いた。枯れ枝が、かさかさと鳴る。
俺は、あたたかい茶を一口すすった。俺にも「できる?」いや、そうじゃない。それではダメだ。大事なのは……重要なのは。
俺が「どうしたいのか」。
ぼんやりと、輪郭を持ち始めたものが、あった。そしてその気持ちだけは、この数日ではっきりと、俺の中に根を張り始めていた。
タイトル少しだけ変えました。