滞在も、いよいよ明日で終わり、という夜だった。
「ちょっと、圭ちゃん。こんな時間に、どこ行くんですか」
俺に連れ出された詩音が、不満げに口を尖らせる。それでも、ちゃんとついてくるあたり、律儀なやつだ。
「まあ、いいから。ちょっと来いって」
「もう。寒いんですから、暖かくして寝たかったのに」
ぶつくさ言いながら、あいつは、俺の後ろを、とことこ登ってくる。屋敷の裏手の山道だ。宗石さんが、少し登ったところに見晴らしのいい高台がある、と教えてくれた。昼間、一人で下見もした。今夜、あいつと話すなら、あそこがいい。そう思ったんだ。
「……ちょっと。まだですか。結構登りますねぇ、これ」
「もうすぐだ。ほら、着いたぞ」
木立を抜けると、ふいに、視界がひらけた。
小さな祠が一つ、ぽつんと立っているきりの、高台だった。眼下に、園崎の屋敷の灯りが、ぽつぽつと散っている。その向こうには、興宮の街明かりが、遠く霞んで、広がっていた。
「……っ」
隣で、詩音が、小さく息を呑んでいた。
見上げれば、冬の澄んだ夜空に、星が、ぶちまけたみたいに散らばっている。街の明かりが遠いぶん、その一つ一つが、驚くほど、くっきりと冴えていた。白い息がのぼっては、闇に溶けていく。
「……こんな場所、あったんですね」
さっきまでの、ぶうたれた声はどこへやら。詩音は、見惚れるように夜空を見上げていた。その横顔が、星明かりにほのかに照らされている。
「宗石さんに聞いたんだよ。連れてきた甲斐、あっただろ」
「まあ、これは……認めてあげてもいいですけどね。ふふ」
二人、しばらく、黙って夜景を眺めた。風はあるが、不思議と、寒さは気にならなかった。
「にしても、圭ちゃん」
と、詩音が、いたずらっぽく、こちらを見上げてくる。
「こーんな、星の綺麗な夜に。わざわざ、女の子を、人気のない高台に連れ出して。……いったい、何のつもりです?」
「あ?何って」
「さては、あれですか。告白でも、するつもりですか?『詩音、好きだ』とかなんとか。この、ロマンチックな夜景を、バックにして」
にやにやと、俺の脇を肘でつついてくる。まったく、こいつは。いつでも、この調子だ。
「からかうなよ」
「あらあら、照れちゃって。いいんですよ?別に。私、心が広いので、聞くだけなら聞いてあげます」
「しかもフラれるの前提じゃねぇか」
けらけらと、詩音が笑う。静かな夜に、よく響いた。
……こういう時間が、俺は、嫌いじゃない。
この数日、色んなことがあった。跡目争いの剣呑な連中。組のあたたかい人たち。詩音の抱えてきたもの。そして──。頭の中は、ずっとぐちゃぐちゃだ。それでも、今こうして。彼女と二人、馬鹿を言い合って笑っていると。それだけで、心が軽くなる心持ちがする。
だからこそ、なのかもしれない。
俺は、このくだらなくて、あたたかい時間を。ちゃんと、守りたいと。そう思ったんだ。
「……なあ、詩音」
「はい?」
俺は、笑いの余韻を残すあいつの横顔に、静かに、切り出した。
「ちょっと、真面目な話、していいか」
その一言で。あいつの、笑みが。ほんの少し、固まったのが、分かった。
「……真面目な、話?」
詩音の声から、さっきまでの、じゃれるような響きが、すっと引いた。
「ああ。……ゆうべの、あれだ。契約の、もう一つの話」
その一言で、詩音の纏っていた空気が、明らかに、変わった。
「……その話ですか」
ふう、と、わざとらしく肩をすくめて。詩音は、くるりと俺に背を向けた。祠のほうへ、ゆっくりと歩いていく。
「もう。せっかく、こんな綺麗な夜なのに。無粋ですねぇ、圭ちゃんは」
「詩音」
「その話は、今日は忘れてください。ね?いい夜が、台無しですよ」
背を向けたまま、ひらひらと、手を振る。逃げようとしている。俺には、そう見えた。この話から、するりと、身をかわそうと。
だが、逃がすかよ。この件に関しては、ちゃんと、俺の気持ちを伝えないといけないんだ。
「忘れねぇよ。俺が言いたいことってのは」
俺が、そう食い下がると。彼女の足が止まった。
しばらく、こいつは、背中を向けたまま動かなかった。冷たい夜風が、二人のあいだを、吹き抜けていく。眼下の街明かりが、瞬いていた。
「……しつこいですねぇ、圭ちゃんも」
やがて、振り返った詩音の顔には、いつもの笑みが、貼りついていた。けれど、その目の奥は、こちらを、そっと拒んでいるようで。
「いいでしょう。そんなに言うなら。……ひとつ、提案が、あります」
「提案?」
「ええ。私たちの契約。……見直しても、いいかなって、思ってるんです」
え、と、俺は、聞き返しかけた。
「見直すって、どういう意味だよ」
「そのままの意味ですよ。果たすべき目的は一つにするんです。そしてそれ──悟史君の行方。それは果たしてくれたんで……もう、それで十分です」
何を言っている?もう十分って……何を。
詩音は、一歩、こちらへ近づいた。そして、俺の顔を、覗き込むようにして微笑む。それは、ひどく優しい笑みだった。
「だから──もう、私の元を離れてもいいんですよ。圭ちゃんは」
その一言だけが。妙に、乾いて聞こえた。
離れてもいい。こいつは今、そう言ったのか。ついこの前まで。来年もよろしくと。付き人でいてくれるかと。言っていたくせに。
「……何、言ってんだよ。お前」
「本気です」
俺の戸惑いを、ぴしゃりと、遮って。詩音は続けた。
「これから……私がしようとしていることは。……あなたが思ってるよりも、ずっと大変なことなんです。多分、たくさんの人を敵に回す。恨まれるし、憎まれる。……下手をすれば、命が危ういことだって、あるかもしれない」
「それは……」
「何より貴方の……貴方が大切にしていたモノを、傷付けることにもなるかもしれない」
何を言ってる……コイツは、一体何の話をしている?
そんな俺の動揺などつゆとも解さず、指を、折るみたいに。詩音は、淡々と続ける。
「そんなことに──私のわがままに、貴方を巻き込みたくないんです」
言葉は、理路整然としていた。けど、めちゃくちゃだ。
なんだ、それ。今さら、何を言ってるんだ、こいつは。
「あなたは、ただの付き人でしょう?私に、雇われただけの。……そこまで、背負う義理なんて、どこにもないんです」
「……おかしいだろ、それ」
気づけば、俺は、口を開いていた。
「今さら、巻き込みたくないって、なんだよ。お前これまで、散々自分の都合に付き合わせてきたじゃねぇか……それを、ここにきて、義理がないから離れろって?」
言えば言うほど、腹の底が、ざわついてくる。
だいたい、悟史を探す。その約束だって、まだ解決してない話じゃねぇか。もしかしたら生きてるかもしれない。詩音だって探し続けるって言ったはずだ……なのに今になって危険だから、巻き込みたくないから、離れていいだと?
めちゃくちゃだ。こいつの言ってること。まるで筋が通ってない。
「なあ。何なんだよ急に。なんで今さら、そんな……」
俺には、詩音が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
こいつは、頭のいいやつだ。その詩音が、こんな穴だらけの理屈を、必死に並べ立てている。危ないから、義理がないから、離れろと。まるでなりふり構わず、俺を遠ざけようとしているみたいに。
分からない。分からないが──一つだけ、確かなことが、あった。
目の前で、笑顔の仮面をかぶったこいつが。その裏で、泣きそうな顔を、必死に隠しているってことだけは。俺にも、はっきりと分かった。
「……とにかく」
俺の視線から逃げるように、詩音は、ふいと顔を背けた。
「そういうわけですから。悟史君の件が片付いた以上、あなたを縛るものは、もう何もありません。晴れて、自由の身ってことです。……よかったですねぇ、圭ちゃん」
明るい声だった。わざとらしいくらいに。
「これからは、好きなところへ行って、好きに生きればいいんです。私みたいな、面倒な女に付き合う必要は、もうないんですから」
そう言って、こいつは、へらりと笑ってみせる。
……ふざけるなよ。
腹の底で、何かが、ぐらぐらと、煮え始めていた。
俺は、そんなに薄情な男だと思われてたのか。都合が済んだら、はいさようなら。そんな風に、ぽいっと放り出せる程度の付き合いだったと。こいつの中で、俺はその程度の存在だったのか。
……いや
こいつは、俺を遠ざけようとしてる。必死に。穴だらけの、めちゃくちゃな理屈を、かき集めてまで。それはつまり、裏を返せば。本当は、そんなこと、これっぽっちも、思っちゃいないってことだ。
違うならなんで、そんな悲しそうな顔をしてるんだ。
ふつふつと、湧いてくるこれは、怒りだ。俺は今、無性に、腹が立っていた。
詩音に、じゃない。いや、詩音にも少しは。だが、それ以上に──こいつに、こんな顔をさせている、何かに。そして何より、こいつの隣に堂々と立っていられない。ただの付き人なんて言葉で、簡単に切り離されちまう。そんな、自分の不甲斐なさに。
俺にとっちゃ、こいつのそばにいることは。もう、義理だの契約だの、そんな次元の話じゃないんだ。それをこいつは、契約が済んだからなんて、そんな紙切れみたいな理由で、なかったことにしようとしている。
俺の、いちばん大事なものを。勝手に、否定するみたいに。
だったら……上等だ。
逃げる気か。穴だらけの理屈で、煙に巻いて、俺を振り切る気か。そうはさせるかよ。逃げるってんなら、追いかけて捕まえるまでだ。何度逃げられたって。どこまで逃げたって。
俺は、去ろうとするその背中を、まっすぐに、見据えた。
「……だから、なんだ?」
声が、自分でも驚くくらい、低く出た。
「だから、なんだって?」
もう一度、俺が低く言うと。詩音の眉が、ぴくりと、跳ね上がった。
「……なんですか、その言い方は。人が、せっかく、穏便に済まそうとしてるのに」
「穏便も何も、俺は納得してねぇって言ってんだよ。離れろだの、自由だの。勝手に話を進めんな」
「勝手って。あなたのために、言ってるんですよ?」
「俺のためを思うなら、そういうのやめろ。よけいなお世話だ」
「なっ……」
詩音の顔が、みるみる赤くなっていく。怒りか、それとも。ともかく、いつもの飄々とした余裕は、もう、どこにもなかった。
「いいでしょう。そこまで言うなら。……もう、正直に、言ってあげます」
ずい、と一歩、踏み出してくる。
「圭ちゃんが、いたんじゃ。……邪魔なんですっ!」
「……は?」
「邪魔だって言ったんです!はっきり言って、足手まといなんですよ、あなたはっ!いるだけで、私の、邪魔!」
……なんだと。
「おい、待て。話が違うだろ。さっきまで、危ないから離れろって言ってたじゃねぇか。今度は、邪魔で足手まとい?どっちなんだよ」
「どっちもですっ!」
「どっちもって、お前な……」
むちゃくちゃだ。理屈も、何も、あったもんじゃない。
「だいたい、なんで俺が足手まといなんだよ。これでも、けっこう、役に立ってきたつもりだぜ?」
「役になんて、立ってませんよーだ!むしろ、迷惑してるくらいですっ」
「めっ……迷惑!?」
「そうです、迷惑です!だってあなた、無神経だし!デリカシーってものが、これっぽっちもないし!」
「な」
「人の気持ちも、ろくに考えないで!いつも、ずけずけ、土足で、上がり込んでくるんですからっ!」
「そ、そりゃもう、ただの悪口だろっ!話の筋、どこ行った!」
「悪口で結構ですっ!事実ですもん!」
こいつ、言うに事欠いて。
「上等だ、言ってくれるじゃねぇか。じゃあ聞くけどな、そう言うお前だって、人のこと散々振り回してきただろうが!あっち行けこっち行け、あれ買えこれ持て!」
「付き人なんですから、当然でしょう!」
「さっき自由の身にするって言ったの、どこのどいつだ!」
「うっ……そ、それとこれとは、話が別ですっ」
「別じゃねぇ!一緒だ!」
「別ですーっ!」
もう、収拾がつかなかった。星の綺麗な、静かな高台で。いい年こいた男女二人が額を突き合わせて、子供みたいに、きゃんきゃんわめき合っている。
傍から見りゃ、さぞかし、みっともない光景だろう。だがこっちも、引くに引けない。こいつがあんまりに、めちゃくちゃを言うもんだから。
「大体な、詩音!お前のそういう、なんでも一人で抱えて、勝手に決めて、突っぱねるとこ!前から、どうかと思ってたんだよ!」
「……っ、なっ、何よそれ。関係、ないでしょう」
「関係あるね!お前が、俺を邪魔だ足手まといだって言うなら、俺だって、言わせてもらう!」
「な……なんですか、いい度胸じゃないですかっ。言ってごらんなさいよ!」
「お前は!強がりで!意地っ張りで!一人で無理ばっかりして!そのくせ、本音は、ぜんぜん言わねぇ!そういうとこが――」
「そ、そういうところが、なんなんですかっ」
「……危なっかしくて、見てられねぇんだよ!」
俺が、そう叫ぶと。
詩音が、びくっと、肩を震わせた。何か言い返そうと、口を開きかけて――けれど、その唇が、わなわなと、震えるばかりで。言葉が、出てこない。
「……っ、そ、そういうのが。そういうところが、いちばん……!」
「いちばん、なんだよ」
「いちばん……こまるって、言ってるんですっ!あなたが、そうやって……そうやって、土足で、踏み込んでくるから、私は……っ」
こいつの声が、不意に、湿った。
言いかけて。詩音は、はっと、我に返ったみたいに、口をつぐんだ。しまった、とでも言いたげに。今、口から、こぼれかけた何かを。慌てて、飲み込むみたいに。
なんだろうか、今のは。何を言いかけたんだ、こいつは。
「……もう、いいですっ」
ぷい、と。詩音が、勢いよく、顔を背けた。
「……勝手にすれば、いいでしょう!もう圭ちゃんの好きにすればいいっ」
吐き捨てるように言って。こいつは、俺に背を向け、肩を怒らせて、歩き出そうとした。
逃げる気だ。また。都合が悪くなって、話を、放り出して。
……ああ、そうかよ。
勝手にすればいい。そう言ったな、詩音。
「――なら」
俺は。歩き去ろうとする、その手首を、掴んだ。
「勝手に、させてもらうぞ」
言うが早いか。俺は、掴んだその手を、ぐいと引き寄せて――詩音の体を、後ろから抱きしめていた。
「……っ、え」
腕の中で、こいつが、息を呑むのが分かった。細い体が、びくりと、強張る。
「な、なな……っ、圭ちゃん!?な、何を……っ」
「うるせぇ。少し、黙ってろ」
暴れかけるその肩を、俺は、ぐっと、抱えこんだ。逃がすもんか。もう、一言たりとも、逃げ口上なんて、言わせてやらない。
腕の中の詩音は、驚くほど、小さくて。震えていた。いつも、あんなにでかい態度で、俺を振り回してくるくせに。こうして抱きしめてみりゃ、頼りないくらい華奢な体だ。こんなものを一つで、こいつは、園崎家だなんだと、山ほどのものを、抱え込もうとしている。
……一人で抱えられるわけ、ねぇだろうが。
「い、いいから、離してください!こんな……こんなの、どうかしてます!」
「どうかしてるのは、お前だ」
俺は、腕の力を、緩めなかった。
「なあ、詩音。よく聞け。俺は最初に言ったよな。この先、俺の人生は、お前のもんだって」
腕の中で、詩音の動きが止まった。
あの日のことを、思い出す。何もかもを失くして、抜け殻になっていた俺に。彼女は、手を差し伸べてくれた。死に場所じゃない。生きる場所をくれた。今の俺がいるのは全部、彼女のお陰だから。
「あれは、その場しのぎの綺麗事なんかじゃない。俺の本心だ。それは今も、これっぽっちも、変わっちゃいねぇ。だからな──」
俺は、息を、吸い込んだ。冷たい夜の空気が、胸の奥まで、満ちていく。
「たとえこの先。世界中の何もかもが全部。お前の敵に回ったとしても」
腕の中の詩音が、微かに顔を上げる気配がした。
「俺だけは、お前の側にいる。お前の目的が果たされるまで。いや、その先も気が済むまでずっとだ。地獄の底までだろうが、煉獄の果てまでだろうが。どこまでだって、俺はお前について行くよ」
言い切って。俺は、腕の力を、ほんの少し、緩めた。詩音の顔を、見るために。
星明かりの下。こいつは、呆けたような顔で、俺を、見上げていた。その大きな瞳が、揺れて、潤んで。今にも、こぼれ落ちそうに、光っている。
「……なん、で」
掠れた声が、震える唇から、こぼれた。
「なんで……そこまで、するんですか。私、あんなにひどいことばっかり、言ったのに。散々あなたを、突き放したのに……どうして」
「知るかよ、そんなもん」
俺は、迷わず続ける。
「お前の事情なんて、俺には関係ねぇ。危ないから離れろ?巻き込みたくない?邪魔で足手まとい?……そんなの、ぜんぶ、お前が勝手に並べた、逃げ口上だろうが」
まっすぐに、詩音の目を見つめた。逃がさないように。この気持ちが、ちゃんと伝わるように。
「俺の気持ちは、俺が決める。お前が、どう言おうと、関係ねぇ。……俺が、お前のそばに、いたいんだよ。それだけだ。悪いか」
次の瞬間。
詩音の、大きく見開かれた目から。とうとう、堪えきれなくなった涙が、ひとしずく。ぽろりと、頬を、伝い落ちた。
それは次第に、ぽろぽろと大粒の涙に変わって。それなのに――彼女は笑っていた。くしゃくしゃに、顔を歪めて。泣いているのか、笑っているのか、分からない。嬉しさが、涙になって、あふれ出しているみたいに。俺は、そんな顔を、初めて、見た。
「……ずるい、ですよ。圭ちゃんは」
しゃくり上げながら、涙を拭って。
「地獄でも煉獄でも、どこまでも、ついてくるだなんて。……それ、ほとんど、生き霊じゃないですか。私に、取り憑いて呪う気ですか?」
「はっ、違いねぇな」
俺も、つられて笑った。
「けどよ、そもそもお前が、俺に手ぇ差し伸べちまったんだ。今さら、成仏なんざしてやらねぇよ。……諦めて、腹くくってくれ」
「……ふふっ。なにそれ。最悪の口説き文句」
涙で濡れた目を、こいつは、いたずらっぽく細めた。ひとしきり、泣いて、笑って。やがて、詩音は、袖でぐいと涙を拭うと、小さく息をつく。
そして、そっと俺の腕から離れると、こちらをのぞき込むようにして向き直った。
潤んだ瞳が。そっと、俺を見上げてくる。濡れた睫毛。上気した頬。星明かりにきらきらと光る、その目。……なんだ。妙にどきりとした。いつもの、からかうような顔とは、まるで違う。無防備で、まっすぐで。
「……ねえ、圭ちゃん」
「お、おう」
「ひとつだけ……聞いても、いいですか」
その声が、いつになく細くて。俺はなぜだか、生唾を飲んだ。
「圭ちゃんにとって。……私って、何なんでしょうね」
上目遣いに、そう問われた瞬間。俺は、危うく変なことを、口走りそうになった。
心臓が、やけにうるさい。彼女の、こんな顔を、こんな距離で。頭の奥が、ぼうっとして。喉元まで、うまく言葉にならないものが、せり上がってくる。それを、そのまま、口に出しちまいそうに、なって――。
……いや。待て。落ち着け、前原圭一。
「それは……」
「それは?」
雰囲気なんかに流されるなんて、失礼極まりない。詩音がぶつけてくれたまっすぐな気持ちには、俺も誠心誠意返さないといけない。そのくらいのことは、鈍い鈍いと言われる俺でも分かる。
だから、まっすぐに、彼女の目を見返して。
「お前は……俺にとって、かけがえのない──」
詩音の、喉がこくりと、鳴った。潤んだ瞳が揺れる。
「──恩人だ」
これ以上なく、誠実に。丁寧に。満足感に、ふっと笑みさえこぼれる。
──が。
時が。止まったような感覚。詩音の瞳からはすう、と光が抜け落ちていく。
……あれ。なんだ。空気がおかしい。そして。
「…………はぁ?」
地の底で響くような冷たい声。
いつのまにか、こいつの背後に、闇より昏い何かが。ゆらり、と、立ちのぼっている気がした。え。あれ。詩音さん?なぜそんな冷たい瞳をされているの?
「この期に及んで……出てきた答えが、それ?」
え。ちょっと待って。手にいつの間にか、握ってらっしゃる、それは。
ス、スタンガン……?
「ひっ」
俺の喉から、我ながら、情けない悲鳴が漏れた。
な、なんで?どこから出した?
さっきまで、素手だっただろ。手品か。それとも、俺の見間違いか。いや、そんなことより。バチバチと、青白い火花を散らす、その物騒な代物を。こいつは今、にっこり笑って、こちらへ、向けていて――。
だ、駄目だ。逃げ場が、ない。ここは、高台の上。背後は、崖だ。完全に詰んでいる。
「ねぇ、圭ちゃん」
鈴を転がすような、可愛らしい声。なのに、そこに乗っている圧が、尋常じゃない。この世の終わりみたいな笑顔で、詩音が囁く。
「動かないでくださいね。……すぐ、済みますから」
「な、な、何がだよ!?何がすぐ済むんだよ!!詩音、詩音さん!?目が!目が笑ってらっしゃらない!!」
鵜飼を睨んだ、あの殺気。今にして思えばあんなもの、そよ風だ。組の連中に見せた凄み。あんなもの児戯だ。今、目の前にいるこいつは。今まで見てきた、どんな詩音より――いや、この世の、どんな生き物より、恐ろしかった。可憐で、華奢で、さっきまで泣いていた女の子は。もう、どこにも、いない。
「た、たた、頼む詩音!話せば分かる!な!?俺、何をやらかしたのか、まったく見当がつかねぇんだ!ヒントを!せめてヒントをくれ!!」
「さぁて。……ご自分の、そのご立派なおつむで。あの世に着くまでに、ゆーっくり、考えてみては?」
「あの世行き前提かよ!?」
ここまで、なのか。せっかく詩音と正面からぶつかって、気持ちを伝えらえたってのに。ここで、俺は終わっちまうってのか?運命はなんて残酷なんだろうか、と俺は半ば、覚悟を決めかけた。
──が。
やがて。ふ、と。憑き物が落ちたみたいに、その手を、下ろした。そして、天を仰いで。それはもう、深々と。長い長い、ため息をついた。
「……はぁ。もう、いいです」
「へ」
「まあ、圭ちゃんですもんね。……恐竜並みに鈍感って思ってましたけど、恐竜以上にひどい有様ですね。極めて救いようのない」
がっくりと、肩を落として。こいつは、ぶつぶつと、ぼやいた。
「けど、まぁ……期待した、私がバカでしたってことで。不問にしてあげます」
何が、バカなのか。俺には、さっぱりだ。だが、どうやら。あの、絶体絶命の、命の危機は。去ったらしい。
「い、一体なんなんだよ。わけの分からん奴だな」
「そっくりそのまま、お返ししますよーだ」
ぷい、と、そっぽを向く。だが、その口元は。もう、ほんの少し、緩んでいた。
結局、何が、こいつを、あそこまで怒らせたのか。最後の最後まで、俺には、分からずじまいだった。
見上げれば、頭上には、満天の星。眼下には、園崎の屋敷のあたたかな灯り。離れるだの、契約の見直しだの。そんな話は、いつの間にか、どこかへ、吹き飛んでいた。
こいつの隣に、俺はいる。
その一点だけは、もう、揺るがない。……それでいい。心から、そう思えた。
「さ、帰りましょう、圭ちゃん。……こんなとこで冷えて、風邪でもひいたら。看病するの、この私、なんですからね」
「へいへい。……って、それ、前にも聞いたぞ」
誕生日おめでとうございます!7月10日は魅音と詩音、園崎姉妹の生誕祭ですね!本作には魅音は(設定的に)出せないので、申し訳ない気持ちでいっぱいですが……
ともあれ、なんとかこの日までに六章を終えたいと思っていたので、ギリギリ間に合いました。
帰省編、これにて終了です。次回は詩音視点でこの帰省を振り返る幕間を挟みつつ、お家騒動の方へと進んでいければと思います。全10章くらいを予定しているので、完結までまだ少しありますが、お付き合いいただければ幸いです。
(完結したら、本来本編として考えてたストーリーを別ルートみたいな感じで書いていきたいと思います。多分こっちのが長いかも、、、)