ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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第七章
引き分け


 

 

 

 冬休みが明けた。

 

 本家のだだっ広い座敷から、興宮のマンションへ。見慣れた天井を見上げているうちに、ようやく帰ってきたって実感が湧いてくる。畳の匂いも、組員たちの活気のある声もない……いや、それはそれで、少しだけ寂しくも感じるな。

 やっぱり、ああいう雰囲気も嫌いじゃなかったようだ。

 

 と、台所のほうから、まな板を叩く軽い音がしている。味噌汁の匂い。今更すぎるとは言え、俺の部屋に詩音がいるのがもう当たり前になっちまったのは、やはり不思議なもんだ。まぁ部屋隣だから何の問題もない……んだよな?

 

 顔を洗ってリビングに戻ると、ちょうど詩音が盆を運んでくるところだった。

 

「おはようございます、圭ちゃん。よく眠れました?」

「ああ。久々に自分の布団だからな。本家の客間はどうも落ち着かなくて──」

 

 言いかけて口をつぐんだ。詩音の顔が、やけに近い気がする。盆を置くのに屈んだだけと言やぁそれまでだが、それにしたって近い。翡翠色の髪から甘い匂いがして、思わず半歩引いた。

 

「なんだよ、近いって」

「あらぁ。付き人のくせに、ご主人様から逃げるんですかぁ?」

 

 くすくす笑いながら、詩音は俺の茶碗に味噌汁をよそう。逃げるも何も。言い返そうとしてやめた。朝っぱらから突っかかって、こいつに勝てた試しがない。席につくと、詩音は当然みたいに俺の隣へ腰を下ろした。向かいはがら空きだってのに。

 

「向かい、空いてるぞ」

「どこに座ろうが私の自由ですー」

「いやまぁ」

 

 ここ俺の部屋なんだけど、と言いかけてやめる。俺の部屋である以前に、園崎家所有のマンションだ。発言権など最初から俺にはないわけで。

 箸を取ると、詩音がこっちをじいっと見ている。顔に何かついてるか。頬をこすってみた。

 

「ふふ。寝癖、すごいですよ」

 

 言うが早いか手が伸びてきて、跳ねた髪をくしゃっと撫でつけられる。指先が額をかすめた。近い。近いっての。腹の底が落ち着かない。

 

「動かないでください。……はい、直った」

 

 満足げに引っ込め──ようとしたその手が、途中でぴたりと止まる。俺と目が合ったからだ。一拍おいて、詩音の頬にさっと朱が差した。ように見えた。

 

「……っ、な、なんですかその顔は。何か文句でも?」

「いや、何も」

「にやにやして気持ち悪いですよ。みっともない身だしなみを整えてあげたのに……顔までは矯正できませんよ私」

「一言も二言も余計なお前」

 

 ぺしぺしと暴言を受けて、礼を言う暇もなかったんだが。まあいい。箸を割って、朝飯に手をつける。味噌汁をすすると、腹の底から温まる。大根がよく煮えてて、出汁も効いてる。

 

「やっぱ、うまいな」

「でしょう?」

 

 素直に言ったら、詩音がふふんと胸を張った。ところがすぐに、何を思ったか、こっちの顔をのぞき込んでくる。

 

「ねえ圭ちゃん。私の作ったごはんとお店のごはん、どっちが好きです?」

「藪から棒になんだよ」

「いいから。どっちですか」

 

 やけに食い下がる。妙な質問だが、まあ考えるまでもない。

 

「そりゃお前のだろ。店で食っても、金取られる上に食い足りねぇしな」

「……っ」

 

 さらっと答えたら、詩音が箸を止めた。何か気に障ったか。眉を寄せてこっちを見て──いや、怒ってはいない。頬のあたりがほんのり赤い。

 

「なんだよ」

「べつに。……あんまり、そういうこと真顔で言わないでください。調子狂うので」

「そっちが聞いたんだろうが」

「うるさいですね。ごはん粒、ついてますよ」

 

 言うなり、詩音の指が俺の口の端をぬぐった。ひょいと、当たり前みたいに。それをそのまま自分の口へ運んで、ぱくりとやる。

 

「……おい」

「なんです?」

「いや……」

 

 なんでもない、と言いかけて飲み込んだ。こいつ、こういうことを平然とやる奴だっけか。前はもうちょっと、距離ってもんがあった気がするんだがな……本家から帰ってきて、どうも箍が外れてる。据わりが悪くて、俺は朝ごはんに逃げた。

 

「圭ちゃん。おかわりは?」

「まだ一杯目だっつーの」

「遠慮しないで。たくさん食べて、しっかり働いてもらわないと。付き人なんですから」

 

 にっと笑うその顔は、いつもの詩音だ。だがこうも距離が近いと、どうにも調子が狂う。

 そうこうしているうちに、玄関のほうで音がした。合鍵の回る音。ほどなく、葛西さんがいつもの黒いスーツで顔を出す。

 

「おはようございます。お迎えに上がりました」

「あ、葛西さん。おはようございます」

「おはよう、葛西。ちょっと待っててください。今、この子に朝ごはんを食べさせてる最中なので」

「親かお前はっ」

 

 葛西さんはそのやり取りを見て、眼鏡の奥の目を柔らかく細めた。何か言いたげな、生温かい視線。この人はいつもこうだ。詩音がじろりと睨んでも、葛西はどこ吹く風で玄関に控えている。

 

「さ、圭ちゃん。ぐずぐずしてると遅刻しますよ。三学期の初日から遅れたら、生徒会長の沽券に関わります」

「へいへい。担いでる神輿が偉そうなこって」

「なんか言いました?」

「なんも」

 

 残りの味噌汁を流し込んで、俺は席を立った。三学期が、始まる。

 

 

 

 通学路は、まだあちこちに雪の名残があった。

 

 三学期の朝ってのは、二学期の終わりとはまた違う。冬休みの気の抜けた感じを引きずったまま、それでも新しい年が始まったっていう、妙にしゃんとした空気が混じっている。白い息を吐きながら、俺と詩音は見慣れた坂道を上っていく。

 

「あーあ。せっかくの休みが終わっちゃいましたねー」

 

 詩音が、伸びをしながらぼやいた。さっきまでの上機嫌はどこへやら、いかにも学校がだるいって顔だ。

 

「さっき生徒会長の沽券がどーのとか言ってなかったか?」

「うるさいですねぇ、人の何倍も雑務が待ってるんですからいいんですよーだ」

「自分で決めたこったろ」

「ええ、引き受けたのは私の徳の高さゆえです。圭ちゃんには分からない苦労があるんですー」

 

 まぁ確かにそりゃそうだわな。こうしてくだらねぇ軽口を叩き合ってると、休み明けの気だるさも紛れるってもんだ。

 

 校門をくぐると、久しぶりの喧騒が押し寄せてきた。あけましておめでとう、なんて挨拶があちこちで飛び交っている。冬休みの土産話に花を咲かせる連中。年が明けただけだってのに、みんなどこか浮ついて見えた。

 昇降口で靴を履き替えていると、聞き慣れた声が近づいてくる。

 

「あ、詩音ちゃん。岡崎くんも、あけましておめでとう」

 

 真田さんだった。おっとりと笑いながら、小走りに寄ってくる。

 

「あけましておめでとうございます、あかりさん」

「おめでとう。今年もよろしく」

「うん、こちらこそ。二人とも、お休みはどうだった?」

 

 何気なく聞かれたその一言で、詩音の眉がわずかに動いた気がした。ほんの一瞬のことだ。すぐにいつもの笑顔に戻る。

 

「私は実家に帰ってましたよ。まあ、親戚づきあいってやつです」

「岡崎くんも一緒に?」

「まあ、付き人ですからね。荷物持ちに連れてってやりました」

「荷物持ちって……こき使われただけの気もするけどな」

 

 俺が口を挟むと、真田さんは「ふふ」と口元をほころばせた。それから、何かに気づいたみたいに、俺と詩音を交互に見比べる。

 

「なんだか二人、前より仲良くなった?」

「「え」」

 

 声が重なる。

 俺は思わず詩音のほうを見る。詩音も俺を見ていた。目が合って、なぜだか気まずくなって、二人してぱっと視線をそらす。

 

「な、なに言ってるんですか、あかりさん。前と何も変わりませんよ」

「そう?なんだか、こう……さらに距離が縮まったっていうか」

「気のせいです、気のせい」

「ふうん」

 

 真田さんは追及こそしなかったが、その口元にはずっと微笑みが残っていた。何かを見透かしたような、それでいて微笑ましいものでも眺めるような。この人はときどき、おっとりした顔で妙に鋭いことを言う。

 

 ……距離、ねぇ。

 

 言われてみりゃ、今朝も寝癖を直されたり口の端をぬぐわれたり、以前より距離感は近くなってる気がする。付き人が世話を焼かれてどうすんだって話だが。本家でしばらく気を張ってた反動だろうか。

 

 教室に入ると、詩音はさっそくクラスメートに取り囲まれた。

 

「園崎さーん、クラスの新年会っていつ?」

「園崎、クラスでの初詣イベントは?」

「園崎氏、拙者にお年玉を!」

「はいはい、順番に。まったく、休み明けから騒がしいですね……てか最後のどさくさになーに言ってんです?」

 

 言葉ほど嫌そうでもなく、詩音は手際よくさばいていく。ああやって人の輪の真ん中にすっと立てるのは、こいつの持って生まれた才ってやつだ。俺は自分の席に鞄を下ろして、その様子をなんとなく眺めていた。

 

「岡崎くん」

 

 いつのまにか、隣に真田さんが来ていた。自分の席が近いのをいいことに、こそっと声をひそめている。

 

「冬休みの間に、何かあった?」

「何か、って」

「詩音ちゃん、なんだか雰囲気が変わったなって。こう……岡崎くんを見る目が、前と違う気がするの」

 

 真田さんの視線が、輪の中の詩音へ向く。つられて俺も目をやった。ちょうど詩音がこっちを見ていて、また目が合う。詩音は一瞬固まってから、ふいっと顔を背けた。

 

「……ほらね」

「そうか?いつも通りじゃねぇかな」

「うーん、そんなことないと思うけど」

 

 真田さんはくすくす笑って、口元に手を当てる。

 

「そうだなぁ……例えば詩音ちゃんの実家で膝枕したり一緒にお風呂入っちゃったり、初詣という名のデートして、最終日は星の見える丘で抱き合ったりしちゃって、距離が縮まったとさ」

「真田さん?君はエスパーなのか?」

「ふふ。想像だよ、想像」

「その域軽く超えたんだけど」

 

 怖いんだが。まさかこの人が物語の黒幕で、組織に身体が小さくなる薬を飲まされて俺らを監視してた的な?

 ……いや、何を言ってんだ俺は。組織って何だよ。

 

 と、輪を抜け出してきた詩音が、つかつかとこっちへ戻ってきた。

 

「もう、あかりさん。圭ちゃんに変なこと吹き込まないでくださいね?」

「ふふ、変なことなんて言ってないよ?ねえ、岡崎くん」

「別に、何も」

 

 変なことしか言われてないが、ややこしくなりそうなので。

 

「……なんか怪しいですね」

 

 詩音がじとっとした目で、俺と真田さんを見比べる。真田さんは素知らぬ顔で「さあ?」ととぼけてみせた。二人の間で、俺だけが置いてけぼりを食らってる気がする。女同士のこういう間合いってのは、どうも苦手だ。

 

「まあいいです。さ、二人とも。そろそろ始業式ですよ。校長の話が長いんですから、今のうちに気合い入れときましょ」

「はーい」

「へいへい」

 

 始業のチャイムが鳴った。

 席に着きながら、俺はもう一度、詩音の背中を盗み見る。緑がかった髪が小さく揺れた。あいつの小指には、今日もあの指輪が光っているんだろうか。

 

 ……いや。なんで俺は、そんなことを気にしてるんだ。

 

 柄でもない考えを頭から追い払って、俺は前を向いた。三学期。とりあえずは、いつも通りの日常が戻ってきたらしかった。

 

 

 放課後の教室は、いつにも増して落ち着かない。

 久しぶりの授業で頭が疲れている連中が、口々に文句を言いながら帰り支度をしている。窓の外はもう薄暗い。三学期ってのは日が短くて、四時を回ればすぐ夕暮れだ。

 

 俺が鞄に教科書を詰め込んでいると、詩音がやってきて、俺の机にどさりと紙の束を置いた。

 

「圭ちゃん。ちょっと手伝ってください」

「なんだこれ」

「三年生を送る会の準備です。まだ先だと思ってたら、もう動き出さないと間に合わないんですよ。私一人だと日が暮れます」

「もう暮れてるけどな」

「ほーら。口より手を動かす!副会長でしょ」

 

 無論、断る理由もない。俺は鞄を置き直して、束を半分引き受けた。

 

 生徒会室は三階の隅にある。二人で運び込んで、机に広げて、クラスごとに仕分けていく。実行委員の割り当て表だとか、出し物の希望調査だとか。ストーブの効きが悪くて、部屋は薄ら寒い。詩音は制服の上にカーディガンを羽織って、白い指で紙をめくっている。

 

「二年A組は四十二人でしたっけ」

「四十一だろ。転校してったやつがいる」

「あら。よく覚えてますね」

「隣のクラスだしな」

 

 しばらく、紙をめくる音だけが続いた。

 

 窓の外で、部活の連中の掛け声が遠く聞こえる。まだグラウンドには雪が残っているから、二学期のときほど活気がある声が多いわけじゃないが。

 

「圭ちゃん」

「ん」

「手、止まってますよ」

「あぁ、悪ぃ」

 

 慌てて手を動かす。詩音がくすっと笑うのが、視界の端に映った。

 仕分けが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。俺が束を揃えていると、詩音が背伸びをして、上の棚からファイルを取ろうとしている。爪先立ちになって、指先が届かずに空を掻いていた。

 

「取ってやるよ」

「……いいです。自分でできます」

 

 意地を張るようなことじゃあないだろ。そう独り言ちながら、俺は詩音の後ろに立って、頭越しに手を伸ばした。難なくファイルが取れる。

 と、下ろした腕が、詩音の肩に触れた。

 

 詩音がびくっと肩を跳ねさせて、振り返る。振り返った拍子に、距離が一気に縮まった。気が付けば、息がかかるくらいの近さで。彼女の甘い香りが鼻腔をかすめる。

 

「……っ、ちか、近いんですよ!」

「な、し、仕方ねぇだろ」

 

 俺はファイルを押しつけて、一歩下がった。詩音はそれを引ったくって、ぷいと背を向ける。背中越しでも、耳の先が赤いのが分かった。……まあ、ちょっと近すぎたか。それは認める。

 

「……圭ちゃん」

「あ?」

 

 振り返った詩音の顔は、もういつもの調子に戻っていた。にやり、と口の端が上がる。ああ、この顔は。碌なことにならない顔だ。

 

「ひょっとして、今、ドキッとしました?」

「してねぇよ。何言ってんだお前」

「あらぁ。ほんとですかぁ?」

 

 詩音がつかつかと歩み寄ってくる。逃げ場を探したが、背中はもう壁だ。俺の顔をのぞき込むみたいに、下から見上げてくる。

 

「圭ちゃん、耳が赤いですよ」

「ストーブのせいだろ」

「ふふ、そういう事にしといてあげます」

 

 ぐぬぬ、知ったように微笑まれるとなんだかこう、悔しいというか。

 俺が言葉に詰まっていると、詩音は満足そうに一歩引いて、勝ち誇ったように腕を組んだ。

 

「可愛いところあるじゃないですか、圭ちゃんも」

「あのなぁ」

「照れない照れない」

「やかましい」

 

 言い返しながら、顔が熱いのは自覚していた。だが認めたら負けだ。何の勝負かは知らんが、とにかく負けだ。

 鍵を閉めて、二人で廊下へ出る。並んで階段を下りながら、詩音がふと口を開いた。

 

「今日、夕飯なに食べたいですか」

「んー。なんでもいいけど」

「前にも言いましたよね。それなんでもいい、が一番困るんです。世の女はみんなそう言ってますよ」

 

 それもそうだな。詩音の作るものなら本当に何でも美味しいというのが本音だが……まぁ、やっぱり肉がいいか。

 

「じゃあ、生姜焼き」

「はい、決まり」

 

 詩音は上機嫌に、二段飛ばしで階段を下りていく。そんな姿がどこか、危なっかしいったらなくて、つい視線で追ってしまう。今日は朝からずっとこの調子だ。休み明けで浮かれてやがるのか、こいつは。

 

 靴を履き替えて、外へ出る。吐く息が白い。冷たい空気を吸い込むと、頭の芯までしゃんとする心地がした。

 

 

 

 じゅう、と油の跳ねる音がする。

 

 台所から流れてくる甘辛い匂いに、腹の虫が正直に鳴った。生姜と醤油が焦げる匂いってのは、どうしてこう腹に直接くるんだろうな。俺は箸を並べながら、我ながら情けねぇ顔をしていた自覚がある。

 

「はーい、お待たせしました」

 

 皿がことりと置かれる。厚めの豚肉に、たっぷりの玉ねぎ。脇には千切りキャベツが山になっている。湯気の立つ白飯と、豆腐の味噌汁。文句のつけようがない。

 

「おお、うまそうだ」

「当然です。この私が丹精込めて作ったんですから」

「へいへい。いただきます」

 

 一口目で、思わず唸った。生姜がきいてるのに角がない。肉も硬くならず、玉ねぎに甘みが移っている。飯が進むなんてもんじゃない。気づけば茶碗が半分減っていた。

 

「うまい。マジでうまい!」

「ふふん」

 

 得意げに笑って、詩音が向かいに──いや、また隣に座る。だから向かいが空いてるっての。言いかけて、まあいいかと飲み込んだ。今朝から言い続けて一度も通ってねぇし。

 

「ねえ圭ちゃん。お店の生姜焼きより美味しいですか」

「またその手の質問かよ」

「いいから。どうなんです」

「うまいって言ってんだろ。他に何を言えってんだ」

 

 箸を止めずにそう返すと、詩音が妙な間を空けた。横目でうかがえば、こいつは自分の茶碗を見つめたまま、口の端を必死に引き結んでいる。ゆるみそうになるのを堪えているような顔だ。

 

「やっぱり……ちょろいですね、圭ちゃんは」

「なんだそりゃ」

「なんでもありませーん」

 

 言うが早いか、詩音が自分の皿の肉を一切れつまんで、俺の茶碗の上へぽとりと落とした。

 

「おい」

「特別サービスです。ありがたく」

「いや、お前の分が減るだろ」

「私、そんなに食べませんし」

 

 じゃあ最初から少なく盛れ。そう思ったが、落とされたもんは仕方ない。ありがたくいただく。詩音はそれを、頬杖をついて眺めていた。

 

 ……なんだ。飯を食う姿を眺めて、何が楽しいんだか。

 

 と、廊下のほうで電話が鳴った。

 

「はいはーい、私が出ますよ」

 

 詩音が立ち上がる。俺は箸を動かしながら、なんとなくその背中を見送った。

 

「──はい、園崎です」

 

 受話器を取った瞬間、声色が変わった。

 朝の飯時のあの甘ったるさが、すとんと落ちる。用件だけを刻む、平坦で硬い声。前にも一度、こいつのこの声を聞いた。年の瀬の、あの朝だ。

 

「……ええ。それで、どこの筋の話です」

 

 俺は箸を置いた。聞き耳を立てる趣味はねぇんだが、この部屋は狭い。逃げ場がない以上、耳に入るもんは入る。

 

「……ええ、そうでしょうね。それは、あの人が黙ってるわけがない」

 

 沈黙。受話器の向こうで誰かが長く喋っているらしい。詩音は相槌も打たずに聞いている。

 

「──手を出したのは、鵜飼ですか」

 

 その名に、俺の背筋がわずかに強張った。この前の顔合わせの時に、とりわけ忌々しそうな視線をこちらに向けてきた幹部の男。仕立てのいいスーツ。笑わない爬虫類のような目。

 

「……そちらの地区は、うちの古参が長いこと面倒を見てきた場所です。でも妙ですね……そんな数字が上がる訳ないような場所なのに。まぁ、顔を潰すなら最適なトコなんでしょうけど」

 

 声が、いっそう低くなる。

 

「……はい。ええ、承知しています。分かってますよ、近く顔を出しますので。母にもそう伝えておいてください」

 

 ため息ともつかない吐息が、ひとつ。

 受話器が戻される音。かちゃり、と、やけに乾いて響いた。

 

 詩音はしばらく、その場から動かなかった。

 

 背中を向けたままだ。何を考えているのかも、どんな顔をしているのかも分からない。ただ、その肩のあたりが、朝からずっと見てきたあいつのそれとは、まるで別物になっていた。

 

「……詩音」

 

 声をかけると、こいつはゆっくり振り返った。笑っている。にこりと、いつも通りに。

 

「ああ、すみません。冷めちゃいますね、生姜焼き」

「あ、あぁ……えっと、よ」

「なんですか?」

「その顔は、やめろ」

 

 貼り付けた笑みが、ぴくりと固まった。俺は箸を置いたまま、まっすぐそっちを見る。

 

「顔って。失礼な人ですね。私はいつも通り──」

「いつも通りに見せようとしてる顔だ」

 

 言い切ると、詩音の口元から笑みがすうっと剥がれ落ちた。かわりに残ったのは、疲れたような、途方に暮れたような、そういう表情だ。座卓の前に戻ってきて、こいつはぺたんと腰を下ろす。

 

「話せる話か?」

「ええ、まあ。葛西からの電話です。ま、お察しの通り、家の中のごたごたです」

 

 まぁ、それ以外ないよな。

 詩音は湯呑みを両手で包んだ。中身なんてとっくに冷めてるだろうに。

 

「簡単に言うと、鵜飼が、よその面倒を見てる地区に、勝手に手を突っ込んだんですよ。断りも入れずに。しかも、そこでちゃっかり実績を上げてきた」

「それって……まずいのか?」

「まずいなんてもんじゃありません」

 

 湯呑みの縁を、指がなぞる。

 

「うちみたいな稼業でね、誰の面倒をどこまで見るかってのは、金より重い話なんです。それを踏み越えられるってことは、その人の顔を土足で踏まれるのと同じ。古参のジジイたちは今ごろ、腸が煮えくり返ってますよ」

「……なるほど」

 

 他所に迷惑をかけたとかではないし、実績を上げたなら別にいいのではと思ったが、話はそう簡単ではないようだ。デカい家ってのは面子をこの上なく気にするんだなやっぱ。

 

「やり方が汚いだけならまだしも、結果を出した。数字を持ってきちゃった。そうなると、こうなるんです。──筋を通さないけど結果は出すやつ、筋は通すが結果を出せないやつ。どっちが家のためになる、と」

「そりゃ……」

「ええ。明らかに前者でしょう」

 

 詩音が、うっすら笑う。ひどく乾いた笑い方だ。面子を絶対にするとはいえ、やはり結果は重要だ。特に、今の園崎家は大災害の影響をモロに受けて、影響力も凋落の一途を辿っている。そんな状況で、どこまで筋だの面子だのを気にしている余裕があるのか。

 答えは明らかな気がした。

 

「で、古参の皆さんは暗に私たちに泣きついてくるわけです。連中を押さえて欲しいって。特に、担ぎたい神輿には、そのくらいの働きはしてもらわないと困る、って事でしょうね」

 

 ……神輿ってのは、乗ってるだけじゃ済まねぇらしい。

 

「けど、組の話だろこれ?なら、お前の親父さん……組長に頼むのが筋じゃねぇのか」

「いえ、これはヤクザ稼業だけの話じゃないんです。園崎家に関わる事業の話です。詳しく話し出すと朝になっちゃうんで、割愛しますけど。単にヤクザのナワバリ争いって話でもないんですよ」

「……なるほどな」

「まあ、いいんですけどね」

 

 詩音は、湯呑みを置いて、それきり口をつぐんだ。ただその横顔が、湯気の消えた味噌汁を見つめたまま、どこか遠くを見ている。俺には家の理屈も組の筋目も分からない。分からないが、こいつが今、俺の知らねぇ盤面をひとりで睨んでいるってことだけは分かった。

 

 だから俺は、箸を持ち直した。今コイツにかけてやる言葉は──

 

「まあ、なんとかなるだろ」

「……はい?」

 

 詩音がぽかんとした顔でこっちを見る。

 

「圭ちゃん……今の話、聞いてました?」 

「おう、要は本音と建前をどーするかって話だろ。まぁでも、何とかなるだろ」

「何とかって……何を根拠に」

 

 詩音の問いかけに、俺はニッと口元を緩めてみせる。

 

「根拠はねぇな」

「ないんかい」

「けど、なんとかなる」

 

 俺は生姜焼きを一切れ口に放り込んだ。うまい。冷めてもうまいってのは大したもんだ。

 

「負けず嫌いで強かで、やるときは一切躊躇のないお前が、あの慇懃無礼野郎ごときにそう簡単に転ばされるとは思えねぇ」

「……あのですね」

「それに仲間だっている。葛西さんに、宗石さんに……神輿とかそんなの関係なくお前を信じてる人たちもいる。茜さんだって……お前の味方になってくれるはずだ。ま、その家を消そうとしてるってのは今は置いといてよ」

「いや……なにを」

 

 茜さんが、詩音のことをどう思っているのか。屋敷では少ししか話せなかったが……俺は何となく確信していた。あの人は、詩音に確かに負い目があって、それを何とかしようと思ってるんじゃないかって。

 

「で、まあ、俺もいる」

 

 詩音の手が止まった。

 

「俺は組とか家の理屈なんざ知らねぇし、正直、どんな役に立つかも分からねぇけど。頭数にすら入らねぇかもな。……けど、お前の側にはいる」

 

 そう言って、箸を茶碗のそばに置いた。

 

「だから、なんとかなる。心配すんな」

 

 しばらく、返事がなかった。

 顔を上げると、詩音が呆けたようにこっちを見ている。目を丸くして、口を半分開けたまま。やがてその顔が、ゆっくりと崩れた。

 

「──ふ、ふふっ」

 

 肩を震わせて、こいつは笑い出した。

 

「なんですか、それ。根拠がひとつもないじゃないですか。全部お気持ち表明ですよ」

「うるせぇな。俺に何を期待してんだ」

「いえ、何も。何ひとつ期待していませんでしたけど」

「ひでぇ言い草だな」

 

 ひとしきり笑って、詩音は深々とため息をついた。呆れきった、それはもう大きなため息を。

 

「はぁ……。ほんと、馬鹿ですねぇ、圭ちゃんは。こんな中身のない励まされ方、初めてです」

「そりゃ光栄だな」

 

 言いながら、けれど詩音の肩からは、さっきまでの強張りが綺麗に抜け落ちていた。俺はそのことに気づかないふりをして、味噌汁をすする。豆腐が崩れて、椀の底に沈んでいた。

 

「……ま、腹が減っては戦はできぬって言うしな。食え。うまいぞ、これ」

「作ったの私ですけど」

 

 それでも詩音は、素直に箸を取った。

 

 

 食い終わって、片づけも済んだ頃。

 俺が炬燵に潜り込んで文庫本に視線を落としていると、詩音がのそりと隣にやってきた。何をするでもなく、じっとこっちを見ている。

 

「……なんだよ」

「圭ちゃん」

「あ?」

「膝、貸してください」

 

 膝って……また、それか。

 

「本家じゃねぇんだぞ。というか、あれは疲れてたお前への特別措置であって」

「ええ、ですから今日も疲れているんです。心労で。誰のせいだと思ってるんですか」

「鵜飼だろ」

「圭ちゃんです。だから、責任取ってください」

 

 理不尽な。抗議する間もなく、詩音はころんと横になって、勝手に俺の膝へ頭を乗せてきた。本がずり落ちる。

 

「んー、やっぱり悪くない枕ですねぇ」

「枕扱いすんなっての」

 

 言いながらも、俺は結局、退けなかった。あいつの髪が、膝の上でさらりと広がる。石鹸の匂いがして、心臓が余計な仕事を始める。落ち着け。落ち着け前原圭一。これは業務だ。付き人の務めだ……いや、務めかこれ?

 

「圭ちゃん」

「なんだよ」

「ひょっとして、変な事考えてます?」

「──っ、考えてるわけあるかっ!」

 

 くつくつと、膝の上で震動が伝わってくる。こいつ、完全に面白がってやがる。

 五分くらいか。暫く詩音は横になっていたが、やがて詩音はむくりと起き上がった。かと思えば、今度は俺の背中側へ回り込む。

 

 その背中の重みが、ふっと消えた。安堵したのも束の間、今度は。

 背後から、腕が回ってきた。

 

 俺の胸のあたりで、細い腕が交差する。首筋のすぐ後ろに、あいつの息がかかる。柔らかいものが、背中に押しつけられていて──いや、待て。待て待て待て!!

 

「──なっ、なななな」

「ふふ。どうしました?」

 

 耳元で、囁くように。声が甘い。甘すぎる。

 

「これ、あの夜の続きです。……圭ちゃん、つよーく抱きしめてくれたじゃないですか。今度は、私の番ってことで」

「話が繋がってねぇだろうが!」

「繋がってますよぅ。ねえ──」

 

 腕に、ほんの少しだけ力がこもった。

 

「今、どんな気持ちです?」

 

 どんな気持ちも何も。心臓が肋骨をぶち破りそうだ。頭は真っ白で、背中は熱くて、指の一本すら動かせない。こんなもん、どうしろっていうんだ!

 

 だが、待て。落ち着け前原圭一、クールになれ。

 

 よく考えろ。こいつは今、何をしている?俺をからかって遊んでいる。いつものやつだ。俺が慌てて、真っ赤になって、みっともなく取り乱すのを待ってやがる。

 

 ……なら、乗ってやる義理はねぇよな。

 

 俺は、深く息を吸った。そして、努めて平静に。

 

「──あー、うん。あったけぇな」

「……は?」

「暖房の効きが悪ぃからな。正直、助かる。お前、意外と体温高ぇんだな」

 

 背後で、時間が止まった気配がした。

 

「……あの。圭ちゃん?」

「悪ぃな、いつも。俺が頼りねぇ付き人だから。こういうふうにお前に気ぃ遣わせちまってる」

「え?」

「本家からこっち、やたらべたべたしてくるだろ。腹に抱えてるもんが重いから、人肌が恋しくなるってのは分かる。俺で良けりゃ、いくらでも使ってくれ。湯たんぽ代わりでもなんでも──」

 

 腕が、ばっと離れた。

 

「──ちっっっがいますッ!!」

 

 振り返ると、詩音が真っ赤な顔で仁王立ちしていた。目が完全に据わっている。肩がわなわなと震えていて、握った拳が今にも飛んできそうな有様だ。やばい、怒らせたか?でも先にからかいを仕掛けてきたのは向こうだし、俺は悪くない……気がする。したい。

 

「ばっかなんじゃないですかっ!人がせっかく!!」

「え、いや、違うのか」

「違います!断じて!一ミクロンたりとも違いますーッ!」

「じゃあなんだよ」

 

 言葉に詰まって、詩音がぐっと唇を噛んだ。何か言いかけて、飲み込んで、また言いかけて、飲み込む。顔はもう茹だりきっている。耳の先まで真っ赤だ。

 

「……ああもう、いいです!もういいですっ」

 

 髪をわしゃわしゃとかき乱して、詩音がそっぽを向いた。

 

「今日のところは引き分けということで、勘弁しといてあげます!感謝してくださいね!?」

「はぁ?」

 

 言い捨てて、詩音は炬燵から立ち上がった。廊下へ向かう足取りが、やけに乱暴だ。そのまま玄関のドアが閉まる音だけが響いてきた。

 

 残された俺は、炬燵の中で、しばらく天井を見上げていた。背中に残った熱が、なかなか引いてくれない。心臓もまだうるさい。

 

 ……分からん。何が引き分けで、何が勘弁なのか。

 

 ずり落ちた文庫本を拾い上げて、俺はページを開いた。文字がまるで頭に入ってこない。仕方がないので、俺は諦めて炬燵に潜り、目を閉じた。

 

 家のこと、付き人としての俺の役割、これから先に待ち受けてるだろうこと。考えなきゃならんことは、山ほどある。ある、はずなんだが。

 

 今はどうしても、さっきの背中の熱のほうが、しつこく居座っていた。

 

 

 





少し間を空けて、といったそばから更新すみません。細部の設定が必要な部分がもう少し先なので、出来てる話だけ先に投入してしまおうと思います。
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