ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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熱うつつ

 

 朝の空気が、やけに静かだった。

 

 目が覚めて、天井を見上げて、それでもまだ布団の中でぐずぐずしている。時計を見れば七時過ぎ。いつもならとっくにノックが鳴っている時間だ。返事を待たずに扉が開いて、「圭ちゃん、朝ですよー」なんて間延びした声が飛んでくる。人の部屋なんだから多少は遠慮しろ、と何度言っても直らない。

 

 その音が、今朝はない。……昨日の意趣返しか。

 

 昨夜のことを思い出して、俺は頭をかいた。あれから炬燵で寝落ちて、気づけば朝だ。引き分けだの勘弁しといてやるだの、意味の分からん捨て台詞を残して出ていったきり、あいつは戻ってこなかった。よほど腹に据えかねたらしい。

 

 顔を洗って着替えて、廊下に出る。隣の部屋の前で、俺は足を止めた。

 

 しん、としている。

 

 ……起こしてやるか。付き人たる者、主人を寝坊させるなんてあってはならない。それでなくても、こいつを遅刻させたら生徒会の沽券とやらに関わるしな。俺は扉を三度叩いた。

 

「おーい詩音。起きてるか」

 

 返事はない。もう一度叩こうとして、手が止まる。中で、何か動く気配。それから、たっぷり数拍おいて。

 

「──はぁい。起きてますよ」

 

 からりと扉が開いた。

 制服はもう着ている。髪も整っている。にっこりと、実に機嫌の良さそうな顔で、詩音がそこに立っていた。

 

「おはようございます、圭ちゃん。おやおや、わざわざお迎えとは。付き人の鑑ですねぇ」

「起こしに来たんだよ。ノックがねぇから寝坊かと」

「まっさかー。この私が寝坊なんて。今日は早起きしすぎて逆に持て余してたくらいです」

 

 言うが早いか、詩音は俺の脇をすり抜けて、俺の部屋へ。そのまま台所へ向かう。ぱたぱたと軽い足取りで、鍋を出し、火をつけ、包丁を握る。

 

「昨日の残りのお味噌汁でいいですか?あ、卵も焼きましょうか。圭ちゃん、目玉焼きは半熟派でしたよね。それとも今日はスクランブルにします?あ、でもフライパン洗うの面倒だから目玉焼きで。文句は受け付けませんよぅ」

 

 ……いつにも増して、よく喋る。

 

 俺は座卓の前に腰を下ろして、その背中をぼんやり眺めた。とにかく喋る。返事をする間もなく、話題が三つも四つも飛んでいく。今日の時間割の話から、あかりさんが編んでいるマフラーの話、それから生徒会に届いた業者の見積もりが高すぎるという愚痴。

 

「──で、あの業者ときたら、資材が高騰してるとかなんとか言うわけですよ。ふざけた話でしょう?こっちは学生ですよ?足元見るにも程があると思いません?そこで私は言ってやったんです、そちらの言い値で払うのはやぶさかではありませんが、ただし後日わが社の顧問が改めてご挨拶に伺いますが構いませんか、と」

「おい。生徒会を私物化すんなって言ったろ。つーかどこだよ我が社って」

 

 その手が、包丁を持ったまま、一瞬だけ止まった。

 ほんの一瞬だ。まばたきの間くらいの。すぐにまた、とんとんと軽やかな音が戻ってくる。

 

「──ともかく!値引きはもぎ取りました。私の交渉術に感謝してくださいね」

「脅しって言うんじゃねぇかそれ」

 

 俺は生返事をしながら、その背中を見つめた。……何か、引っかかる。

 

 詩音は隠したいことがあるときほどよく笑う。腹の底が重いときほど、口が軽くなる。年の瀬の朝もそうだった。ゆうべの電話のあともそうだった。俺がそれに気づけたのなんて、正直ほんの数えるほどしかない。それでも一つだけ、覚えた癖がある。

 

 こいつのいつも通りが過剰なとき、大概何かある。

 

「詩音」

「はい?」

「お前、なんかあったのか」

 

 包丁の音が、止まった。

 振り返った詩音は、心底きょとんとした顔をしていた。それから、ぷっと噴き出す。

 

「なんですか、やぶから棒に。ゆうべの件、まだ根に持ってるとでも?」

「そうじゃなくて」

「大丈夫ですよ。あれはもう水に流してあげました。心の広い女なので、私」

「そうじゃなくてだな」

「はい、卵焼けましたー。冷めないうちにどうぞ」

 

 目の前に皿が置かれる。見事な半熟の目玉焼きだ。黄身がとろりと光っている。文句のつけようがない。

 ……文句のつけようがない、が。

 

 俺は箸を取りながら、もう一度あいつの顔を見た。詩音はもう向かいに座って、味噌汁の椀に口をつけている。いつもの顔。いつもの姿勢。いつもの、隙のない笑み。

 

 まあ、俺の考えすぎかもな。ゆうべの一報で、家のごたごたが頭を離れねぇんだろう。それくらいのことは、あって当たり前だ。

 無理やり納得して、俺は目玉焼きに箸を入れた。

 

 

 

 通学路。

 白い息を吐きながら、いつもの坂道を上る。詩音は相変わらずよく喋っていた。歩きながら、隣で、切れ目なく。

 

「──それで葛西ったら、大掃除のとき私に隠れてかなり上等な日本酒を確保してたんですよ。全く油断も隙もありゃしない、私にも寄越せって話です」

「未成年だろお前は」

 

 けらけらと笑う。その声が、坂道の冷たい空気に響く。

 と、その笑い声が、途中でわずかに乱れた。

 

 息が、上がっている。

 

 ……いつもの坂道で?

 俺は歩調を落とした。ほんの少し。詩音の足が、半歩、遅れてついてくる。いつもは俺より先に行きたがるくせに。二段飛ばしで階段を駆け下りるくせに。

 

「詩音」

「なんです?」

「歩くの、遅くねぇか」

「あら。圭ちゃんが速すぎるんですよ。もう少し女性を気遣ったらどうです?」

 

 軽口が返ってくる。返ってくるが、その頬が。

 やけに、赤い。

 

 寒さのせいだと言われれば、そうかもしれない。冬の朝だ。誰だって頬くらい赤くなる。だが、こいつの目のふちまで、うっすらと。俺は足を止めた。

 

「おい」

「なんですか、もう。置いていきますよ」

「止まれ」

 

 言うが早いか、俺は詩音の前に回り込んだ。あいつが、え、と声を上げる暇もなく。

 額に、手のひらを押しつける。

 

「──ッ!?」

 

 熱い。

 考えるまでもなかった。俺の手のひらの下で、こいつの額が、はっきりと熱を持っている。ついでに言えば、その熱がみるみるうちに増していく気がしたが、それは俺の気のせいってことにしておく。

 

「な、な、な、なにするんですかいきなり!」

「お前……熱があったのか」

「あ、ありません!」

「どう考えてもあるだろ……ったく、何で言わねぇんだよ」

「ないったらないですっ。手をどけなさい!」

 

 詩音が俺の手を引き剥がして、二歩ばかり後ずさった。真っ赤な顔で、肩を怒らせて、こっちを睨んでいる。だがその肩が、さっきから小刻みに上下している。呼吸が浅い。

 

「風邪ひいたんだろ。いつからだ」

「ひいてません」

「詩音」

「ひ・い・て・ま・せ・ん」

 

 こいつは胸を張って、堂々と言い切った。

 

「園崎の女は、風邪なんてひかないんです」

「どんな理屈だよ」

「代々そう決まってるんです」

「初耳だな。葛西さんに確認してもいいか」

「ぐ……っ」

 

 言葉に詰まって、詩音がぷいと顔を背けた。それから何事もなかったみたいに歩き出そうとして、二歩目でよろける。

 

「おい」

 

 とっさに腕を掴んだ。詩音の体が、思ったよりずっと簡単にこっちへ傾く。支えた腕が、熱い。制服越しでも分かるくらいに。

 

「……離してください」

 

 振り払おうとする手に、力が入っていない。

 

 俺はため息をついた。

 

「昨日からだな」

「……」

 

 昨日の妙な態度は、そういうことだったのかもしれない……こいつはあのとき、もう体調がおかしかったんじゃねぇのか。なんで気付いてやれなかったのか。

 

「学校は休みだ。帰るぞ」

「い、いやですっ。今日は三年生を送る会の実行委員が決まるんですよ。私がいないと──」

「真田さんたちがいる」

「あかりさんに全部押しつけるなんて、そんな薄情な真似が」

「押し付けるわけじゃない。仲間だろ、困った時は協力し合うんだよ」

 

 詩音がぐっと唇を噛んだ。まだ言い返してくるか。強がって、屁理屈をこねて、園崎の女がどうのと言い出すに決まっている。俺はそう身構えた。

 

 ところが。

 

「……わかりました」

 

 やけに素直な返事が、返ってきた。

 俺は思わず、詩音の顔をまじまじと見た。詩音は俯いたまま、俺の袖口を、ほんの少しだけ、指先でつまんでいる。

 

 こいつが素直に言うことを聞くときは、もう限界のときだ。

 

「……歩けるか」

「歩けますよ、そのくらい」

 

 俺は、掴んでいた腕を離さずに、坂道を引き返し始めた。詩音は文句のひとつも言わずに、大人しくついてくる。

 その足取りが、危なっかしいったらなかった。

 

 

 鍵を開けて、玄関を上がって、そこでようやく腕を振りほどかれた。振りほどかれたというより、逃げられたと言ったほうが近い。詩音はふらつく足でリビングまで歩いて、炬燵の前にぺたんと座り込んだ。

 

「はぁ……」

 

 深い息を吐いて、こいつは炬燵の天板に突っ伏す……いやいや。

 

「ここ、俺の部屋なんだが」

「知ってますよぅ」

「知ってて上がり込んでんのかよ」

 

 こいつは顔だけ横に向けて、天板に頬をつけたまま、じとりとこっちを見た。

 

「炬燵がありますから」

「いや、それだけか」

「ええ。私の部屋、炬燵がないので」

 

 というかそもそも、そこの炬燵を買ったのはお前の金だ。俺の部屋にあるものは全部こいつの金で揃ったものだし……いや、そういう話じゃないな。

 

「病人はちゃんと、自分の布団で寝ろ」

「歩くのが億劫です」

「隣だぞ」

 

 言うが早いか、詩音は炬燵布団を肩まで引き上げて、完全に籠城の構えに入った。半分は本気で動きたくないんだろう。目がとろんとしていて、瞼が重たそうに落ちかけている。

 

「詩音」

「ここでいいです」

「よくねぇって。炬燵で寝ると風邪が悪化するんだよ。喉やられんぞ」

「もう風邪ですし」

「悪化するっつってんだろ」

 

 こいつは答えなかった。答える気力もないらしい。頬を天板につけたまま、目を閉じている。

 

 ……はぁ。

 

 俺はコートを脱いで椅子に放った。それから腕まくりをして、炬燵の前にしゃがみ込む。

 

「最後に聞いとくぞ?歩けるか」

「んー、歩けません」

「そうかよ」

 

 言うが早いか、俺は炬燵布団をはぎ取った。詩音が「あ」と声を上げる間もなく、膝の裏と背中に腕を回して、そのまま持ち上げる。

 

「──っ!?」

 

 軽い。

 いや、そりゃ女子高生なんだから重くはねぇんだろうが、それにしても軽い。腕の中で詩音の体が跳ねて、両手が反射的に俺の首へ回った。

 

「な、な、なにを──!」

「病人を運ぶだけだ」

「お、下ろしてください!自分で歩けます!」

「さっき歩かねぇって言ったのはどこのどいつだ」

「言いましたけどっ!これは、これはちがっ……!」

 

 じたばたと暴れる。だが力が入っていない。熱で。俺は玄関へ向かいながら、鍵を口にくわえて、片手でどうにか扉を開けた。

 

 冬の廊下の空気が、一瞬で肌を刺す。そのまま隣、詩音の部屋へ。

 

「圭ちゃん。圭ちゃんってば」

「なんだ」

「……人が来たらどうするんですか」

「別に構いやしないだろ」

 

 腕の中で、詩音がひゅっと息を呑んだ。

 

「な──っ」

「病人を運んでるだけなんだから」

 

 それ以外の何に見えるってんだ。……いや、待て。今のはちょっと、まずかったか?

 だが詩音は何も言い返してこなかった。俺の胸のあたりに顔をうずめて、ぴくりとも動かない。首に回った腕に、さっきよりわずかに力がこもった気がした。

 

 ベッドの上に詩音を下ろすと、こいつは座り込んだまま、しばらく俯いていた。顔が見えない。

 

「着替れるよな、制服のまま寝るやつがあるか」

「……はぁい」

「台所にいるから、終わったら呼んでくれ」

 

 襖を閉めて、俺は台所へ引っ込んだ。やかんに水を張って、火にかける。

 

 妙に静かだった。文句のひとつも飛んでこないってのは、こいつに限っては異常事態だな。爪を剥ぐだの眼球がどうだのと、常のこいつなら三つは脅し文句を並べてくる場面だってのに。

 

 ……それだけしんどいってことか。なのに隠そうとするんだから、まぁタチが悪い。

 

 薬箱を探す。この部屋の勝手は分からない。片っ端から引き出しを開けて、ようやく戸棚の奥から見つけた。体温計と、風邪薬。

 襖の向こうで、衣擦れの音がしている。それから、布団に潜り込む音。

 

「……もういいですよぅ」

 

 妙に間延びした声だ。襖を開けると、詩音が布団の中から顔だけ出してこっちを見ていた。パジャマの襟から、細い首がのぞいている。髪が枕の上に広がって、頬が上気していた。

 

「体温計、あと解熱剤だ。自分で飲めるか?」

「いりません」

 

 枕から頭を持ち上げて、詩音は不敵に笑ってみせた。

 

「薬なんぞに頼らずとも、こんなもん気合いで治しますってば」

「気合いで菌が死ぬなら医者はいらねぇんだよ」

 

 抵抗も虚しく、俺は体温計を詩音の口へ突っ込んだ。もごもごと何か言っているが、無視する。

 

 三分待って、抜き取る。

 

「……三十八度五分」

「あら、平熱ですね」

「馬鹿言うな」

 

 薬を出して、水の入ったコップと一緒に枕元へ置いた。詩音がそれを見て、露骨に眉を寄せる。

 

「飲め」

「……粉ですよね、これ」

「粉だな」

「錠剤はないんですか」

「なかった」

「圭ちゃん。私、粉薬は苦手なんです」

 

 じとっとした目でこっちを睨みながら、詩音は渋々起き上がった。袋を開けて、口へ運んで、水で流し込む。飲み込んだ瞬間、顔が盛大に歪んだ。

 

「──っ、にっが……」

「そりゃ薬だからな」

「ひどい人ですね。病人にこんな仕打ちを」

「病人だから飲ませてんだよ」

 

 詩音はまた布団に潜り込んで、恨めしそうに俺を見上げてきた。目のふちが赤い。まつげが少し湿っている。薬が苦かっただけだろうが、それにしたって。

 

「……鬼ですね、圭ちゃんは」

「勉強のときもそう言ってたな」

「ふふ、あのときは本当に地獄でした」

 

 どこか懐かしむように言いながら、かけ布団を顔の近くまで引き上げた。

 

「おとなしく寝てろ。何か作ってくる」

「……ん」

 

 やけに素直な返事だ。俺は襖を閉めた。

 

 

 鍋に米と水を入れて、火にかける。

 昔の俺だったら、こんなもん作れなかったろうな。米の研ぎ方すら怪しかった男が、今じゃ鍋の火加減を見ながら灰汁をすくっている。人間、必要に迫られりゃ何とかなるもんらしい。

 

 弱火にして、蓋を少しずらす。米が踊る音がする。

 卵を落とす。あと、梅干しもつけよう。

 

 鍋を火から下ろして、器によそう。湯気が立った。盆に乗せて、水差しと一緒に運ぶ。

 襖を開けると、詩音は目を閉じていた。眠ったのかと思ったが、俺が枕元に座ると、うっすらと瞼が開く。

 

「粥を作ったけど……食えるか?」

「んー……」

 

 のろのろと体を起こす。布団の上に座り込んで、こいつは俺の手元をじっと見た。

 

「圭ちゃんが、作ったんですか」

「まぁな」

「へえ」

 

 匙を渡してやると、詩音はそれを受け取って、粥をひとすくいした。息を吹きかけて、口へ運ぶ。

 

 しばらく、黙って咀嚼していた。

 

「……おいしい」

 

 ぽつりと、そう言った。

 からかいも、皮肉も、余計な一言も、何もついてこない。素直な態度に少し調子が狂う。

 

「……そりゃ、どうも」

「ふふ」

 

 詩音は目を細めて、また一口すくった。ゆっくり、ゆっくり食べている。器を抱えるようにして、湯気に顔をうずめて。

 

「圭ちゃん」

「なんだ」

「ありがとうございます」

 

 こいつが素直に礼を言うのを、俺は何度聞いたことがあるだろうか。数えられる程度だ。しかもたいてい、そのあとに必ず何かがつく。冗談だとか、からかいだとか。

 

 今日は、それがない。

 俺は妙に据わりが悪くなって、盆の上の水差しを意味もなく直した。

 

「……礼を言われるようなことはしてねぇよ。付き人だからな」

「そうやってすぐ、つまらない事を言う」

 

 詩音が匙を止めて、こっちを見た。

 熱のせいで、目がとろんとしている。焦点がわずかに合っていない。それなのに、その視線はまっすぐ俺に向いていた。

 

「圭ちゃんは、私のごはんを食べるとき、いつも嬉しそうな顔をしてくれますよね」

「……そうか?」

「しますよ、すごく」

 

 匙を器に戻して、詩音はふにゃりと笑った。

 

「今、私、たぶん同じ顔してます」

 

 心臓が、勝手に一つ跳ねた……熱だ。熱のせいだ。こいつは今、頭が茹だってる。何を言ってるか自分でも分かっちゃいない。

 俺は空になりかけた器を取り上げて、盆に乗せた。

 

「食ったら寝ろ。薬が効いてくるはずだから」

 

 詩音は素直に布団へ潜り込んだ。俺は盆を持って立ち上がる。

 

「圭ちゃん」

「今度はなんだ」

「……ここにいて」

 

 足が、止まった。

 振り返ると、詩音は布団の中から片手を伸ばしていた。俺のズボンの裾を、指先でつまんでいる。ほんの少しだけ。振り払おうと思えば、なんてことなく振り払える力で。

 

「……あのな」

「いてください」

 

 目が、半分閉じかけている。呂律も少し怪しい。

 

「どこにも行かないで」

 

 俺は、その手を見た。それから、詩音の顔を見た。

 瞼はもう、ほとんど閉じている。

 

「……行かねぇよ」

 

 盆を床に置いて、俺は枕元に座り直した。

 詩音の指は、俺の裾をつまんだままだ。しばらくすると、寝息が聞こえてきた。浅くて、少し苦しそうな。それでも、寝息だ。

 

 俺は壁に背中を預けて、天井を見上げた。

 

 ……熱にうかされてるだけだ。

 そう自分に言い聞かせる。快復すりゃ、こいつはけろっとした顔で「そんなこと言いましたっけ?」なんてとぼけるに決まってる。

 

 俺は結局、その手を振りほどかなかった。日が傾いて、部屋が茜色に染まるまで、ずっとそこに座っていた。

 

 

 

 

 翌朝になっても、熱は下がらなかった。

 むしろ、上がっていた。

 

 体温計の目盛りを二度見して、俺は舌打ちを噛み殺す。三十九度二分。ゆうべより一度近く上がっている。詩音は目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返していた。前髪が汗で額に張りついている。

 

「……詩音」

 

 声をかけても、返事はない。眉根が寄って、また緩む。それだけだ。

 

 俺は台所へ行って、洗面器に水を張った。氷を浮かべて、手ぬぐいを浸す。この部屋に氷嚢があるかどうかも分からなかったから、冷凍庫の製氷皿を丸ごと持ってきた。手が痺れるほど冷たい。

 

 絞った手ぬぐいを額に乗せると、詩音がわずかに身じろぎした。

 

「ん……」

「動くな。冷やしてるだけだ」

 

 聞こえているのかいないのか。詩音はまた静かになる。

 俺は廊下へ出て、固定電話から葛西さんの部屋の番号を回す。一回のコールで出た。

 

「はい、葛西です」

「あ、圭一です。あの、詩音が熱を出してて」

「存じております。昨日、ご様子を伺いに参りましたので」

 

 ……来てたのかよ。

 

「玄関先で失礼いたしました。お邪魔をするのも野暮かと思いまして」

「いや、野暮って」

「学校のほうは、ご欠席をお伝えしております。ご心配なく」

 

 流石。この人はいつも、こっちが動く前に片がついている。

 

「今日、俺も休みます。あいつ、熱が上がってて」

「そうしていただけると、助かります」

 

 妙にはっきりした声で、葛西さんは続ける。

 

「では、前原さん。どうか……詩音さんをよろしくお願いいたします。もし何か必要なことがあれば、遠慮なく」

「はい、ありがとうございます」

 

 かちり、と電話が切れた。

 俺はしばらく、受話器を戻せずにいた。冬の朝の空気が、耳の裏を撫でていく。葛西さんは俺に何を頼んだんだろうな。詩音の看病か。それとも、もっと別の何かか。

 考えたところで分からないので、俺は受話器を置いて部屋へ戻った。

 

 

 

 昼を過ぎても、熱は下がらない。

 汗をかくたびに、パジャマを替えさせる。着替えは俺が背を向けている間に自分でやらせたが、二度目からはそれも怪しくなった。体を起こすのも億劫らしい。

 

「……圭ちゃん」

「なんだ」

「腕、上がりません」

 

 俺は天井を仰いだ。仰いでから、覚悟を決めた。

 

「後ろ向いてろ。ちゃんと目ぇつぶるから」

「ふふ……つぶってたら、着替えさせられないでしょう」

 

 結局、半分は俺が手を貸した。汗で湿った背中に、乾いたタオルを当てて、新しいパジャマの袖に腕を通させる。

 詩音は抵抗もせず、されるがままだった。それがどうにも落ち着かない。

 

「水、もっと飲むんだ」

「……はい」

 

 支えてやると、素直に口をつける。半分ほど飲んで、また枕に沈んだ。

 スポーツドリンクを買いに走って、林檎をすりおろして、着替えを洗濯して、氷を作り直す。

 

 やることは、いくらでもあった。やることがある限りは、何も考えずに済んだ。

 

 異変に気づいたのは、夕方だ。詩音の呼吸が、明らかに乱れていた。

 うなされている。眉間に深い皺が寄って、肩が小刻みに震えている。俺は手ぬぐいを替えようとして、その手を止めた。

 口が、小さく動いている。

 

「……ぃ……」

 

 聞き取れない。俺は顔を近づけた。

 

「──ごめん、なさい」

 

 背筋に、冷たいものが走った。なんだ?

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい」

 

 繰り返している。うわ言だ。壊れた玩具みたいに、同じ言葉を何度も。

 その手が、掛け布団を握りしめていた。指が白くなるほど強く。爪が、生地に食い込んでいる。

 

「詩音。おい、詩音」

 

 肩を揺すった。反応がない。

 

「……ごめんなさい……わたし……」

 

 声が、震えている。俺は、その顔を見ていた。

 こいつが今、どこにいるのか。何を見ているのか。何に謝っているのか。

 

 ……分からない。夢の向こうで、こいつが何に謝り続けているのか、俺にはひとつも分からない。

 知ったつもりでいた。分かったつもりでいた。同じ地獄を見たんだと、そう思っていた。けど。

 

 俺は、詩音の手を取った。布団を握りしめていた指を、一本ずつ、ゆっくり開かせる。抵抗はなかった。開いた掌に、自分の手を重ねる。

 小さい。それに、熱い。

 

「……ごめん、なさい」

「聞こえてるよ」

 

 詩音の耳元で、俺は言った。

 

「聞こえてる。だから、もういい」

 

 何に対して言ってるのかも分からないまま、俺はそう言った。分からねぇまま、握った手に力を込めた。

 しばらくして、震えが止まった。

 

 眉間の皺が、ゆっくりと解けていく。呼吸が、少しずつ深くなる。俺は、その手を離さなかった。

 

 

 どのくらい時間が経ったのだろうか。

 部屋の明かりは落として、枕元の電気スタンドだけ点けている。橙色の光が、天井にぼんやりと影を作っていた。

 

 時計を見る気力もない。もう何時なんだか。

 壁にもたれて座ったまま、俺の瞼はとっくに限界を迎えていた。落ちる。持ち上がる。また落ちる。頭が前に傾いて、はっと起きる。その繰り返し。

 

 ……寝るか。いや。もう少し。

 

 熱が下がったのを確認してから。そう思っているうちに、視界が溶けていく。橙色が滲んで、輪郭がぼやけて、音が遠くなる。

 

 どこか遠くで、衣擦れの音がした気がした。

 

「……圭ちゃん」

 

 声がする。

 

 瞼を持ち上げようとして、うまくいかない。世界が半分しか見えない。ぼんやりした橙色の中に、白いものが動いている。

 

「起きて、ますか」

「……ん……」

 

 声を出したつもりだった。出せていたかどうかも定かじゃない。

 

「ずっと、側にいてくれたんですね」

 

 やわらかい声だった。いつもの、突っかかるような響きがない。剃刀みたいな軽口も、意地の悪い語尾も、何ひとつない。

 俺は、どうにか口を動かした。

 

「……付き人、だからな」

 

 自分の声が、やけに遠くから聞こえた。

 

 衣擦れの音が、近づいてくる。

 橙色の光が、何かに遮られた。影が落ちる。近い。近づいてくる。息が、かかった気がした。

 

 そして頬に、やわらかいものが。触れた。

 

 温かい。ほんの一瞬。羽が落ちたみたいな。

 それから、離れていく。衣擦れの音。布団の擦れる音。誰かが横になる音。

 

 静かになった。

 俺の意識は、まだ半分どこかに沈んでいた。

 

 ……なんだ、今の。

 

 手が、勝手に動いた。頬に触れる。指先に、まだ熱が残っている。

 

「──ッ!?」

 

 目が、一気に開いた。

 心臓が、跳ねた。跳ねたなんてもんじゃない。肋骨の内側で、めちゃくちゃに暴れている。血が全身を殴りつけるみたいに巡って、指先まで痺れた。

 

 俺は跳ね起きた。周りを見る。

 部屋は、静かだ。電気スタンドの明かりが、変わらず橙色に灯っている。壁の影も、床のシミも、さっきと同じ場所にある。何ひとつ変わっていない。

 

 布団を見る。

 詩音は、背中を向けて眠っていた。

 

 肩まで布団を引き上げて、動かない。呼吸は静かで、規則正しい。ぐっすり眠っている。

 

 俺は、自分の頬に手を当てた。

 

 熱い。

 

 いや、これは俺の手が熱いのか。それとも頬が熱いのか。どっちだ。どっちでもいい。とにかく、熱がある。何かの余韻みたいに、そこだけが。

 

 ……いや。

 

 落ち着け。落ち着け前原圭一。

 俺は今、丸一日ろくに寝てない。飯も食ってない。ずっと看病をして……そんな状態で、うたた寝をした。

 

 ……そりゃ、変な夢のひとつも見るだろうよ。

 

 その理屈を三回ほど頭の中で反芻した。反芻して、うん、と一人で頷いた。それでも頬の熱は、引かない。心臓も、鳴りやんでいない。

 

「……夢、だよな」

 

 答えが返ってくる訳でもない。

 ただ、詩音の寝息だけが、規則正しく聞こえている。俺は立ち上がって、その顔を覗き込んだ。

 

 こいつは眠っている。熱で赤いのか、他の理由で赤いのか、頬の色は判別がつかない。眉間の皺は、もうない。呼吸は穏やかだ。

 

 額に手を当てる。熱は……下がってる。

 峠は越えたらしい。それだけ確認して、俺は手を引っ込めた。

 電気スタンドの光を落とす。盆を持って、足音を殺して、襖を開ける。

 冬の廊下の空気が、火照った頬を刺した。

 

 ……夢だ、夢。

 

 自分に言い聞かせながら、俺は自分の部屋の鍵を開けた。

 

 

 

 

 

 久しぶりに、ノックが鳴った気がして、俺は瞼を開けた。天井が見える……時計は、七時半。ぐわぁ、寝坊した。

 

「圭ちゃん、朝ですよー」

 

 かと思えば、間延びした声。返事も待たずに扉が開く。人の部屋なんだから多少は遠慮しろと何度言っても直らない、いつものやつだ。

 

「起きてください。遅刻しますよ」

「おう……」

 

 のろのろと体を起こす。頭が重い。ここ二日ろくに寝ていないんだから当然だ。目をこすりながら顔を上げると、扉のところに詩音が立っていた。

 制服姿で、髪も整っている。鞄まで持っている。すっかりいつも通りだ。

 

「熱、下がったのか」

「おかげさまで。もうぴんぴんしてます」

 

 言いながら、こいつはくるりと踵を返した。

 

「早くしてくださいね。先に行っちゃいますから」

「待て、待て。すぐ支度するよ」

 

 台所へ引っ込んでいく背中を見送って、俺は布団から這い出した。

 顔を洗いながら、俺は鏡の中の自分を見た。ひどい顔だ。目の下にくまができている。

 

 ……いや、そんなことより。

 

 あいつ、一度もこっちを見なかったな。

 考えてみりゃおかしい。詩音が減らず口を叩くとき、必ずこっちの顔を見る。反応を確かめるためだ。遅刻するだの支度が遅いだの、そういう軽口を投げるときほど、あいつは俺の顔を覗き込んでにやにやする。

 

 ……気にしすぎか。

 

 病み上がりだ。本調子じゃないんだろう。俺は鏡から目を逸らした。逸らした拍子に、頬に指が触れた。

 心臓が、勝手に一つ跳ねて。いや、気のせいだ気のせい。蛇口をひねって、冷たい水を思い切り顔にぶちまけた。

 

 

 

 

「詩音ちゃん、なんだか元気ないね?もう治ったんでしょ?」

 

 昼休み、真田さんも心配そうに覗き込む。やはり、詩音の態度にどこか違和感を覚えたらしい。付き合いの長い彼女が言うのだから、やはりそうなのだろう。

 

「病み上がりですからねぇ。まだ本調子じゃないんですよ」

「うん。そっか。無理しないでね」

「はぁい」

 

 納得こそしなかったようだが、真田さんは気遣うように微笑んでいた。けれど、やはりこの日の彼女は妙だった。特に俺が話しかけると、返事が一拍遅れる。

 

「詩音」

「……はい?」

「昼、食わねぇのか」

「あ……ええ、食べますよ。食べますってば」

 

 ぱたぱたと弁当を広げる。その手つきが、どうにも落ち着かない。

 ……なんなんだ、こいつは。

 

 

 放課後。生徒会室は、すっかり片づいていた。

 実行委員の割り当ては終わっている。出し物の希望も集計済みだ。俺と詩音が二日休んでいる間に、全部進んでいた。

 

「あかりさん。ありがとうございます、本当に」

「ううん。みんな手伝ってくれたから」

 

 真田さんが集計表を差し出す。詩音がそれを受け取って、目を通した。

 その瞬間、こいつの顔つきが変わった。

 

「──三年A組の希望が、劇と合唱で割れてますね。これ、投票にすると角が立ちます。両方やらせましょう。持ち時間を分ければ入ります」

「あ、そっか」

「体育館の使用申請は、教頭のところで止まってるはずです。私が明日ねじ込みます。あと、この予算だと照明が借りられないので──圭ちゃん」

「あ?」

「放送部に貸してもらえるよう、頭を下げてきてください。あそこの部長、押しには弱いはずです」

 

 ああ、これだ。この顔だ。

 仕事の顔をしているときのこいつには、隙がない。表情も声も、指の動きひとつまで無駄がない。よそ見をしていた俺のほうが叱られる始末だ。

 

 少しだけ、ほっとした。いつも通りじゃねぇか、やっぱり気のせいだったかな。

 

 

 

 そして帰り道。日はもう落ちて、街灯がぽつぽつと灯り始めている。白い息が、街灯の光の中で溶けていく。

 詩音は、俺の半歩後ろを歩いていた。

 

「……圭ちゃん」

「ん」

「あの、看病、ありがとうございました」

 

 立ち止まりはしなかった。ただ、声だけが背中の後ろから届く。

 

「付き人だからな。少しは役に立っただろ?」

「え、ええ。その……」

 

 しかし言い淀む。

 俺は歩調を落とした。詩音が隣に並ぶ。だがこいつは、前を見たままだ。

 

「あの……私、変なこと、言ってませんでしたか」

 

 心臓が、一度だけ大きく鳴った。

 

「……いや」

 

 俺は前を向いたまま答えた。

 

「ずっと寝てたぞ、お前」

「……そう、ですか」

 

 その声が、どういうものなのか、安堵しているのか落胆しているのか、俺には判別がつかなかった。ただ、隣を歩く足音が、それきりしばらく止んだ。

 

 マンションに戻ってから、俺は薬局に走った。

 熱は下がったが、まだ咳が残っている。買い置きの風邪薬も切れていた。ついでに林檎とプリンを買って、袋を提げて帰る。

 

 そのまま自分の部屋に荷物を置いて、隣へ向かう。玄関に入り、廊下を当たり前のように歩いて。

 

「薬、テーブルに置いてるから──」

 

 そう言いながら、詩音の部屋の扉を開けた。

 だってこの二日間、ずっとそうしていたから。なんの疑問も持たずに、返事も待たずにドアを開けた。

 

 

 部屋の中で、詩音が振り返る。制服の上を脱いだ、途中だった。

 ブラウスの前が開いていて、白い肩が見えて、それから、その下も。

 

 

 ……時間が、止まった。

 

 俺と詩音の目が、まっすぐ合う。

 

「────」

 

 互いに、声が出ない。

 

 こいつの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。耳の先まで。首筋まで。それを見ている俺の顔も、たぶん同じことになっている。血が全部、頭に集まってくる音がする。

 

 脳みそが、一切の仕事を放棄した。

 三秒。いや、一秒だったかもしれない。永遠だったかもしれない。

 そして。

 

「──っ、け、け、圭ちゃん!?」

「うわ、わ、悪ぃ!!ちが、違うんだ、これは!」

「みっ、見ないでください!なんで!なんで開けるんですかぁ!?」

「い、いや、いつもの癖で!ってか声かけただろ俺!」

「かければいいってもんじゃないでしょうがッ!!」

 

 枕が飛んできて、顔面に当たった。ナイスヒット、って言ってる場合か!

 

「わ、悪かった!ほんとに悪かった!」

 

 俺は袋を床に放り出して、扉を叩きつけるみたいに閉めた。背中を扉に預けて、俺は大きくため息をつく。

 心臓が、ひどい。走ったわけでもないのに、息が上がっている。顔が熱い。手のひらが汗ばんでいる。

 

 ……見てしまった。

 

 いや違う。事故だ。完全に事故だ。俺は声をかけた。かけたじゃねぇか。あいつだって、もう動けるんだから鍵くらい──いや、ここ数日は鍵は開けっぱなしだった。俺が出入りしてたからだ。

 

 

 ……しかし、マズイ。事故とはいえ、だ。これは、俺は生きて帰れるのだろうか。

 

 眼球を焼いたあと指先から順番に解体されるかもしれん。もしくは舌を抜いて塩を詰められるか。……最悪爪剥ぎを覚悟しないといけない。いやそれ最悪か?上二つの方が最悪じゃねぇか?てか一番最初のやつ殺されてるじゃねぇか。

 とにかく、詩音が出てきたら平身低頭で謝罪しよう。殺される前になんとかその怒りを鎮めてもらって、冷静な話し合いの場を設けて……

 

 なんてわちゃわちゃ考えていたが、来ない。いくら待てど、扉は一向に開かない。

 しん、としている。物音ひとつしない。

 

 俺は恐る恐る顔を上げた。扉に耳を近づける。

 衣擦れの音。それから、布団か何かに倒れ込むような音。

 それきり、静かになった。

 

「あー、詩音?」

 

 返事はない。

 

「えっと、悪かった。その、つい」

 

 もう一度呼ぼうとして、その前に。扉の向こうから、小さな声が漏れてきた。

 

「……ばか」

 

 俺はいそいそと自分の部屋に戻ることにした。買ってきた袋は、あいつの部屋に置きっぱなしだったが、取りに行く度胸はなかった。まぁ、あとは自分で出来るだろう……うん、そう言うことにしておこう。

 

 

 翌日の学校でも、まだ妙によそよそしい態度だったが、詩音は特に怒っている様子はないように思えた。というか、問題なのは俺の方だ。彼女を見るたびに……どうしても昨日の光景を思い出してしまって……

 

 ええい、キモいとか言うな!!思春期の男子なんて皆こんなもんなんだよ、悪いか。

 

 生徒会室での執務。詩音は書類を取りに行っていて、部屋には俺と真田さんだけだ。真田さんはお茶を淹れながら、なんてことのない世間話みたいな顔で口を開いた。

 

「岡崎くん。詩音ちゃんと、なんかあった?」

「……なんもねぇよ」

「ふうん」

 

 湯呑みが置かれる。

 

「昨日は詩音ちゃんが岡崎くんの顔見るたびに固まってたけど、今日は逆なんだね。岡崎くんの様子が変」

「気のせいだろ」

「わたし、そんなに目が悪くないよ」

 

 くすくすと微笑む真田さん。

 

 俺は湯呑みを手に取って、話題を変えることにした。

 

「それより、この前は助かったよ。あいつの分まで仕事回してもらって」

「いいの。詩音ちゃんが休むなんて滅多にないもん。よっぽど無理してたんだと思う」

 

 無理か、そうかもしれない。側にいるとかなんとか言ってたのに、そういう事に気が付かなかったんだよな……俺は。これじゃ付き人失格

 

「いくら近くたって、気が付けない事もあるよ。結局は別の人間だもん」

「は、え?俺声に出てた?」

「うん、思い切り」

 

 さいですか。

 

「でもね、それでも……今の詩音ちゃんには、絶対ぜーったい、今の岡崎くんが必要だと思う。細かい変化に気付けるとか、先回りして楽させようとか、そういうのじゃなくて」

「そりゃまたどうして」

「勘、かな。私の勘って、結構当たるんだよ」

 

 おっとりと笑う彼女は、その表情とは裏腹に、確かな響きをもってそう言った。何だろうな、全く根拠も理由もないのに、どうしてか納得させられてしまうような。

 ……それだけ、詩音のことを大切に思ってくれてるんだ。

 

「お待たせしましたー。あかりさん、資料もらってきました……ってなんですか、その空気」

 

 詩音が書類の束を抱えて戻ってくる。真田さんが、実に無邪気な顔でこう言った。

 

「今ね、岡崎くんに聞いたの。詩音ちゃんの事どう思ってるの?って」

「あかりさん!?何言ってんですかッ」

 

 ……訂正、やっぱり面白がってるだけかも。

 

 

 

 生徒会の仕事を終えて、詩音と二人で帰ろうとしていると、昇降口に葛西さんが立っていた。

 黒いスーツにサングラス。いつも通りの、影みたいな佇まいで。いや怖くないか、他の生徒はどう思うんだろうか。

 

「お疲れ様です。詩音さん、お体はもうよろしいので?」

「ええ、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」

「とんでもない」

 

 葛西さんは軽く頭を下げて、それから、事務的な声でこう告げた。

 

「先ほど本家より連絡がございました。今週末に、お越しいただきたいと」

 

 詩音の足が、止まった。俺も止まって、思わず、顔を見合わせる。

 

 ……来たか。

 

 詩音の目が、俺を見ている。まっすぐ。

 その目に、あの晩みたいな怯えはない。年の瀬の朝みたいな、遠くを睨む硬さもない。ただ、ちょっと面倒くさそうな、そして──どこか、面白がってるみたいな。

 

 俺は肩をすくめた。

 

「……ま、なんとかなるだろ」

「根拠は?」

「ねぇな」

「ないんかい」

 

 その顔を見て、葛西さんがサングラスの奥の目を細める。何か言いたげな、例の生温かい視線。この人はいつもこれだ。

 

「……葛西。車、出してもらえます?」

「えぇ、ご用意しております」

 

 詩音が歩き出す。俺もその後を追う。

 昇降口を出ると、冷たい風が吹き抜けた。詩音の翡翠色の髪が、風にさらわれて揺れる。

 

 こいつは俺を振り返って、いつもの顔で言った。

 

「圭ちゃん」

「あ?」

「今日の夕飯、何がいいです?」

「……お前が作んのかよ。病み上がりだろ」

「もう治ったって言ってるでしょう」

 

 言いながら、詩音はまた前を向いた。

 その耳の先が、まだ少しだけ赤い気がしたのは──たぶん、風のせいだ。

 俺は白い息を吐いて、その半歩後ろを歩き出した。

 

 





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