週末の朝は、よく晴れていた。
葛西さんの運転する黒い車が、興宮の街を抜けていく。冬の日差しがフロントガラスに跳ねて、少しばかり目に痛い。俺は助手席で、意味もなく膝の上の手を握ったり開いたりしていた。
「圭ちゃん」
「あ?」
「貧乏ゆすり」
「ゔ……すまん」
後部座席から、詩音の声。振り返ると、こいつは書類の束に目を落としたままだった。顔も上げない。
服装こそいつもの制服姿。髪型と黄色いリボンでハーフアップでいつも通り。ただ、顔付きは仕事の──園崎のそれだった。目を細めながら、膝の上に広げた紙の束に、時々、赤い印をつけている。
書類の束は、葛西さんが集めてきたものだ。芝浦町の管理がいつから園崎の手に渡って、どこの誰が仕切って、上がりがどう推移してきたか。それから、鵜飼という男の履歴。どこの生まれで、いつ組に入って、どんな仕事で頭角を現してきたか。
本家に向かう前に、詩音たちと一緒に目を通した。正直一人で読んだら何が何だか分からなかったが、そこは詩音や葛西さんたちがわかりやすくて補足してくれた。
「いいですか、圭ちゃん。ここの数字は上納金です。この列が、年ごとの推移。──で、ここを見てください」
「昭和五十一年から、がくんと落ちてるな」
「そう。造船の不況が始まった年です。工場が畳まれて、人が減って、金が落ちなくなった」
「……なるほど」
しかし、こういう世界は分からないものだ。儲かってねぇどころか、損してんじゃねぇか。なんでそんな土地を今でも抱えてんだ。
「義理ですよ」
詩音はあっさりと言った。
「昔、面倒を見てもらった。だから面倒を見返す。損得じゃないんです。──と、まあ、そういう理屈が通る世界なんですよ、うちは」
資料には鵜飼派閥の面々、経歴などもあった。
昭和十九年生まれ。四十歳とまだ若い。園崎とは何の血の繋がりもない。十代のうちに組の下働きに入って、そこから叩き上げ。金融、不動産、興行──要は、金を作る仕事ばかりを渡り歩いている。どの部署でも数字を残している。やり手ではあるらしい。
「……こいつ、優秀なんだな」
「ええ。うちで一番、頭が回ります」
「お前を除いて、か?」
「あら嬉しい。でも私も含めて、です」
みかんが一房、飛んできた。反射的に口で受け止める。
詩音がふふんと笑った。それから、また書類に目を落とす。
「──特に、ここ最近の芝浦の実績は顕著です」
「みたいだな」
こいつが指差したのは、直近の数字だった。芝浦の上がり。去年の秋から、異様なほど跳ね上がっている。
「前にも言いましたけど、でもここは元々古参の縄張りでした。明確なルール違反ですけど、これまで鵜飼のやり方を疎ましく思ってた古参の連中は泳がせようとしてたみたいですね。元々旨みのある場所でもないですし」
「つまりあれか、不毛の地で試させて、結果が出なけりゃ嬉々として叩けると」
「御名答。で、とんでもない結果を出しちゃったので、古参連中も迂闊に口を出せなくなって、泣きついてきたって訳です」
「そこだけ聞くと、どっちが悪者かわかんねぇな」
そういうと、詩音は軽く肩をすくめてみせた。
「ま、鵜飼のやり方がこれまでも義理や仁義を無視して、“ルール違反”を繰り返してきましたからね……逆にそれで潰れちゃった縁も少なくないんです」
「なるほどな」
しかし……俺は改めて、その地域の情報に目を落とす。それだけの利権を生むポテンシャルが、この町に残ってるのだろうか。工場はどんどん畳まらて、人は出ていく。店は潰れる。金を落とす人間も減っていく。そんな中で、どうやって今の園崎組に投資をしてくれる事業があるってんだ?そこはこの鵜飼って奴の手腕なんだろうか。
詩音は、みかんの残りを口に放り込んだ。
「……ま、いいです」
やがて、詩音が書類を閉じた。
「今度の会で、あの人を落ち着かせるのは無理でしょうね。今のうちは、実績には弱いですし、そもそも私にそんな立場はない。今日はただ、収めに行くだけ」
車が坂を上っていく。
俺は膝の上で、あの数字のことを考えていた。
結局、俺に分かったことなんてほとんどない。読み込んだといっても、詩音と葛西さんに一から十まで教えてもらって、ようやく話の輪郭が掴めた程度だ。
それでも──ないよりはマシだ。何も知らずに、ただ突っ立ってるよりは。
「なあ、詩音」
「はい」
「お前が出る必要はあるのか?」
「……」
「まだ跡目が決まったわけじゃねぇんだろ。当主代行は茜さんだし、組は親父さんが仕切ってる。お前は、まだ候補だ。そのお前が、なんで収めに行くことになってんだ」
詩音は、しばらく黙っていた。
それから、書類に赤い印をひとつ落として、静かに言った。
「担がれる神輿だからです」
紙をめくる音。
「担がれるってことは、値打ちを示せってことなんですよ。ちゃんと立派に光って、御利益を垂れ流して、担ぎ手を満足させないといけない。役に立たない神輿は、蔵にしまわれるか、燃やされるかです」
「……むぅ」
「決める権限はありません。責任だけは取らされます」
こともなげに、こいつはそう言った。
俺は何も返せなかった。窓の外を、枯れた田んぼが流れていく。空が高い。雲がひとつもない。
……ふざけた話だ。
権限はないのに責任は取れ。それのどこが担ぐってんだ。それはもう、担いでるんじゃなくて、乗っかってるだけだろうが。
「圭ちゃん、心配してくれてるんです?」
「なんだよ、悪いか」
「いいえ。満更悪い気分でもありません」
バックミラーの中で、詩音がくすりと笑った。ったく、こっちは本気で心配してるってのに。
「ま、今日何がどうこうなるって話じゃないですし。そんなに気負わなくても大丈夫ですって」
「……わかったよ」
車が坂を上りきると、見慣れた黒い塀が見えてきた。長い長い塀。その奥に、屋敷の甍が重なっている。
正月に来たときは、ここが少しだけ懐かしい場所に見えた。餅をついて、門松を運んで、蔵で昔話を聞いた。組員たちに肩を叩かれて、酒を勧められて、それを断って笑われた。
今日は、そうは見えない。
門が開く。車が敷地に滑り込む。玄関の前に、黒服の男たちがずらりと並んでいた。
「──着きました」
葛西さんがエンジンを切る。俺は、大きく息を吸った。
通されたのは、正月に膳を並べたのとは別の座敷だった。
だだっ広い。畳が三十枚は下らない。天井は高く、欄間には鬼の面が彫り込まれている。障子が開け放たれて、冬の庭がまっすぐに見えた。松の枝に雪が残っている。
人が、いる。
左右に、ずらりと。黒い羽織。紋付き。仕立ての良いスーツ。年寄りから、俺と大して変わらねぇ歳の男まで。二十人か、三十人か。数える気にもならなかった。
全員が、こっちを見る。
……ひでぇ圧だ。正月に遊びにきた園崎家とは、何もかもが違う。
正月に肩を叩き合った顔もいくつかある。宗石さんもいた。だが今日は、誰も笑っていない。皆、床の間のほうを向いて、背筋を伸ばして座っている。
上座。
茜さんが座っていた。喪服みたいな黒い着物で、煙管を手にしたまま、目を閉じている。その隣に、詩音の父親──組長がいる。そして隣には葛西さんも鎮座している……こう、なんというか、付き人の時とは威圧感が違うな。俺、いつもあんな偉い人に送迎されてんのか……
詩音は、茜さんの隣に進んで、静かに座った。俺はその後ろの壁際に立つ。壁を背にして、両手を前で組んで、なるべく気配を消す。
と、右手の列で、一人の男が顔を上げた。
鵜飼だった。
仕立ての良い灰色のスーツ。膝の上に置いた手が、やけに大きい。四十だと聞いたが、髪には白いものが一本もない。しかしその爬虫類のような目が俺を見た。
ほんの一瞬だ。俺の顔を見て、それから足元まで一度なぞって、それきりだった。
鵜飼はもう俺を見ていない。前を向いて、静かに座っている。俺のことなんて、最初から視界に入っていなかったみたいに……いや、入ってたら困るんだけどな。一介の高校生なんて眼中にないままでいてくれ。
さて、そんな鵜飼の後ろに、もう一人。
見たことのない男が座っていた。三十半ばくらいか。鵜飼と違って、スーツの仕立てが良くない。だが靴だけが妙に光っている。この座敷の空気の中で、一人だけ背筋が丸い。退屈そうに、あくびを噛み殺している。
「──では、始めさせていただきます」
誰かの声が響いて、座敷が静まり返った。
最初に口を開いたのは、園田と呼ばれていた老人だった。
白髪の、痩せた老人。正月に会ったときは、詩音を可愛がる好々爺だったが、今日は、違う。
「鵜飼よ」
声が低い。
「芝浦の件、ひとつ、聞かせてもらいたい」
「はい」
「なぜ、こちらに断りを入れなんだ」
鵜飼は、まっすぐに顔を上げた。
頭を下げるかと思った。詫びるかと思った。しかし奴は、笑った。
「入れる先が、ございませんでしたので」
座敷が、ざわりと揺れた。
「──なんじゃと?」
「あの土地は、五年前から赤字でございます。上納どころか、持ち出しで補填されていた始末。どなたも手の施しようがなかった。違いますか」
誰も、答えない。
「造船が死に、鉄工が死に、人が出ていき、店が畳まれた。誰にも直せぬから、放っておかれた。義理だの何だのと、聞こえのよい言葉で包んで」
鵜飼の声は、静かだった。淡々としていた。それがかえって、刃物みたいに響く。
「誰も手を挙げぬのであれば、私が火を消すよりほかにございますまい。──感謝されこそすれ、非難される謂れはございませんな」
その瞬間だった。
「──小僧がァ!」
誰かが畳を叩いた。
「筋を通さんかったことに変わりはねぇ!あそこはウチが、何年も持ち出しで守ってきた土地じゃ!それを断りもなく踏み荒らして、人の顔に泥ァ塗って、それが感謝されるじゃと!?」
「よその面倒を勝手に見るのが仁義か!園崎の名を何と心得とる!」
「そもそも貴様のようなよそ者が──」
座敷が、荒れた。
古参たちが口々に吠える。畳を叩く音。羽織の擦れる音。誰かが立ち上がりかけて、隣の男に袖を引かれている。
俺は壁際で、その光景を見ていた。うーむ、何というかあまりにも現実味がない景色で、映画を見ているみたいな感覚に陥りそうになる。要するに、他人事感が拭えないというか、この輪の中に自分がいることが、改めて不思議でならない。
──と、鵜飼が、ゆっくりと顔を上げた。
「面子で、飯が食えますか」
その一言で、座敷が静まった。
「園崎の上がりは、この五年で四割落ちております。雛見沢を失い、地盤を失い、当主を失い、後継を失った。この家は今、沈んでおります」
「──っ」
「私が入ってからの三月で、芝浦の上がりは五から十倍になりました」
俺は、あの折れ線を思い出した。書類で見た、跳ね上がった数字。あれが、そういうことか。
「都心の資本が、地方の遊休地を買い漁り始めております。芝浦には港がある。倉庫がある。工場跡地が余っている。安く仕込んで、値が上がったところで捌く。あるいは押さえたまま賃料を取る。──それだけの話でございます。そんな外部の動き、ビジネスチャンスにも、お考えが古い皆様は誰も気が付かないまま。私がこうして教えて差し上げたのです」
鵜飼は、ぐるりと座敷を見回した。
「面子だの筋だのを通した結果、家が痩せ細るのを、どなたが、責任を取られるので」
誰も、答えなかった。
園田のおじ様が、口を開きかけて、閉じた。宗石さんは俯いて、歯を食いしばっている。他の連中も、みんな似たようなもんだ。
……理屈で、勝てない。
この人たちは、怒っている。腹の底から怒っている。だがその怒りを、言葉にする手段を持っていない。持っているのは義理と面子だけで、そんなもんは数字の前じゃ紙より軽い。無理からぬ話だったを
上座では茜さんは、目を閉じたままだ。組長も、腕を組んで動かない。
鵜飼が、深々と頭を下げた。
「差し出口を、失礼いたしました」
その後頭部を見下ろしながら、俺は思った。どうも、この鵜飼という男は
よく分からない。園崎家での地位に固執しているのなら、もっと上手い取り入り方もあるはずだ。こんな力技で、正面から喧嘩を売るような真似をして、首を絞めるだけじゃないのか。
長い沈黙を破ったのは、俺の目の前の背中だった。
「鵜飼さん」
詩音が、涼しい笑顔の間延びした声色で続ける。
「いやー、誰もできなかった芝浦をあっという間にモノにしてしまうその手腕。お見事ですねー、さすが鵜飼さん」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
これっぽっちもそう思っていないであろう調子で拍手する詩音。対して、これっぽっちもそう思っていないであろう調子で頭を下げる鵜飼。なんだか対照的にも似たもの同士にも見える対峙である。
「ちょーっと、確認させていただいても?」
「ええ、お嬢。なんなりと」
鵜飼が、詩音のほうへ体を向ける。その目つきを、俺は見逃さなかった。
──退屈そうだった。
こいつは今から、小娘のたわ言を聞いてやる。そういう顔だ。詩音は、そんなものは見えていないみたいに、至極軽やかに口を開いた。
「あなた、今ご自分でおっしゃいましたね。立て直し、火を消しに入ったと」
「……はい。申しました」
「では、お伺いします」
詩音の声が、座敷にまっすぐ通った。
「──火は、消えたのですか?」
「……ふむ」
鵜飼が、思案するような瞳で詩音を見据える。
俺は、その背中を見ていた。詩音の背中を。制服の、細い肩を。黄色いリボンが、微動だにしない。
「都心の資本の動きを読まれて、いち早く動かれた結果、ここ数年の十倍の成果を出してくださった。しかも安く仕込んで捌けばよい、賃料が取れる、とも」
詩音は、ゆっくりと続けた。
「それはつまり……当面は安泰、もう火は消えているということですね?」
なるほど……そういう、ことか。
つまり詩音はこう言いたいらしい。再建はもう済んだのか?と。
今さら「まだ途上です」なんて言えるか。言った瞬間、さっきのが全部大見栄ってことになる。鵜飼は、しばらく黙っていた。
その口元が、ほんのわずかに歪んだように見えた。笑ったのか、噛み締めたのか、俺には分からない。
そして。
「──成りましてございます」
そう言った。その瞬間、詩音が上座を向いた。
「代行」
茜さんの瞼が、ゆっくりと開く。
「火が消えたのであれば、正規の場所に、家主が戻るのが筋かと存じます。鵜飼さんは、火消しとして入られたのですから。大変な成果を上げられたのですから、この功績は素直に評価されてもいいかと。とはいえ、縄張りは戻るのが筋かと」
鵜飼は、自分の手柄を最大限に認められた。認められた、その瞬間に――追い出される。誰も損をしていない。宗石さんの土地は戻る。鵜飼の功績は残る。家は割れない。
茜さんが、煙管を灰吹きに叩きつけた。かん、と乾いた音が響く。
「……そうだねぇ」
だるそうな声だった。
「宗石。あんたんとこの若いのに、戻しな」
「──へいっ」
宗石さんが、深々と頭を下げた。その肩が、少し震えていた。
組長が、初めて口を開いた。太い、低い声で。
「鵜飼。褒賞は出す」
「ありがたく」
「だが──ルールは守れ。次はねぇぞ」
「肝に銘じます」
鵜飼は、深々と頭を下げた。
座敷の空気が、ようやく緩んだ。古参の何人かが、安堵の息を吐いている。
これにて手打ちってこと、なのか?俺は、壁に預けていた背中の力を抜いた。
いや……すげぇな、詩音。何の権限もねぇとか言ってたのに、この座敷ごと動かした。やっぱり人の上に立つ器ってのは、才能みたいなものはあるんだろうな。誰でも出来るような事じゃあない。
そう思って、少しだけ肩の力が抜けた、そのときだった。
「──恐れながら」
鵜飼が、顔を上げた。
「ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ、言うてみい」
組長が、低く促した。
鵜飼は、詩音のほうを見なかった。上座を──茜さんのほうを、まっすぐに見ていた。
「代行。ひとつだけ、申し上げておきたいことがございます」
「なんだい」
「芝浦は、私が入る前まで、赤字でございました。五年前から一度も黒に転じたことがない。誰も直せなかった。義理で守るしかなかった。それが芝浦という土地の、地力でございます」
……地力?
「私はそこに三月おりました。三月で数字を作りました。──ですが、それは私が、押さえていたからの話に過ぎない。それはここにいる誰もが分かっている話かと」
「続けな」
茜さんが、煙管を口から離す。
「火は消えました。ただ、消えた火が二度と点かぬという保証は、どこにもございません。あの町の地力が戻ったわけではないのです。もし次の四半期。芝浦の数字が、今の水準を保てなかった際は」
顔を上げる。
「その時は、いかがなさいますか?」
しん、と静まり返った。誰かが、生唾を飲む音がした。
「本日の裁定は、本家直系、詩音のお嬢から出たものでございます。火は消えた。ならば家主に返せ、と。私はそれに従いました」
鵜飼は、丁寧に、丁寧に言葉を置いていく。
「ですが、もし数字が落ちましたなら。それは、火が消えていなかったということ。──お嬢のご判断が、正しかったかどうか。皆様の前で、答えが出ましょう」
つまり、詩音は次期当主に相応しくなかった、と。皆の前で知らしめることになるわけだ。なるほど、こりゃ一本取られたな。
あの土地は元々、五年間ずっと赤字だった土地だ。誰も直せなかった土地だ。数字が落ちるに決まってる。それくらいは、俺でも分かる。
「──ふぅん」
決めたのは茜さん──代行だが、進言したのは詩音だ。鵜飼にしてみりゃ、その事実だけで願ったり叶ったりなのだろう。全員の前で、詩音が間違っていたと示せるのだから。
俺の目の前で、詩音の背中は、ぴくりとも動かない。黄色いリボンが、静かにそこにある。
「だってさ、詩音。どうだい?」
「──ええ」
茜さんの振りに、詩音の声が凛と響く。
「鵜飼さんの言う通りですねぇ。私も楽しみにしております」
飽くまで正面から行くか、負けず嫌いは筋金入りらしい。こういうトコは魅音そっくりだ……姉妹だもんな。
「……お嬢」
「その時は、私が頭を下げて、過ちを認めた上で、再度お願いに上がりますよ。どうかもう一度、火を消してくださいと」
「……」
「ですから、その節はどうぞ、また腕を振るってくださいね。私、あなたのそういうところ、本当に頼りにしてるんです」
実に、にっこりと詩音は微笑んだ。
鵜飼が、しばらく詩音を見ていた。その顔から、ようやく退屈が消えていた。
「……畏まりました。その節は、喜んで」
鵜飼が座に戻る。座敷の空気が、どっと緩んだ。誰かが咳払いをして、誰かが茶をすする。会は、それで散った。
さて、なんだか面倒な事になってきた気がする。なにが今日は何もない、だよ。思い切り渦中に巻き込まれてんじゃねーか。そう思う一方で、俺はどこか溜飲の下がる心地だった。
鵜飼に一歩も引かないどころか、あれだけ上手く立ち回れるコイツの力量に正直ちょっと見惚れた部分があって。いや多分状況はあまり芳しくないんだろうけど……なんつーか、こう。“部活”で劣勢に立たされてる時みたいな感覚がして。
立ち上がった詩音が、俺のほうを振り返った。
「圭ちゃん。終わりましたよ……って、なんです、その変な顔は」
「なんでもねーよ」
「ふふ、心配しなくても大丈夫ですって。それよりもっとしゃきっとしてください。付き人がそんなんじゃ、雇い主の格が疑われますよ?」
不思議そうにこちらを覗き込む詩音は、どこか悪戯っぽく笑む。心配どころか、むしろちょっとお前をカッコよく思ってんだけどな。なんて口が裂けても言えないので。
「あー、いや。さっきからシャツ越しに下着が透けてからつい見て──」
問答無用で飛んできた詩音の鉄拳に、俺はあえなく吹っ飛ばされた。