ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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甘味戦線異状のみ

 

 

 二月十三日、午後六時四十七分。

 私はベッドに寝転がって、枕を抱えたまま天井を睨んでいた。

 

 明日は、二月十四日。

 

 枕に顔をうずめて、目を閉じる。そう、バレンタインデーですよ、バレンタイン。

 この制度を考えた人間には、園崎家の名において感謝状を贈りたい。何なら銅像を建ててもいい。屋敷の玄関に、デカデカと。

 

 だってそうだ。

 女子高生なんてものは、好きな男子を前にして、何ひとつまともにできない。目が合えば逸らす。優しくされれば「べつに」と背を向ける。アプローチしようとしても「アンタの為じゃないんだからねっ!」とつい言ってしまう生き物なのだ。

 ……いや、私は違うけど。私は違うけどね。

 

 ともかくだ、それが、二月十四日という一日だけは、チョコレートを渡すことで気持ちが伝わりやすくなっている日なのだ。恋する乙女を全力でブーストする一大イベント。

 告白ではないのに、実質告白だ。流石に渡された方も「え?これは義理か、本命か」という風に意識せざるを得ないはず。流石のあの鈍感バカも、バレンタインは知ってるはず。知ってさえいればいいのだ。

 

 ──発明ですよ、これは。リリンの生み出した文化の極みってやつです。

 

 

 さて。

 私は身を起こして、ベッドの上に正座した。浮かれてばかりもいられない。戦況を確認しなくては。

 

 宿敵の名前は、前原圭一。

 

 骨の髄まで惚れさせて、向こうから告白させて、優雅に受けてやると誓った男。そして恐らくこの地球上で五指に入るレベルの超絶鈍感男。あの晩、私を抱きしめて、世界中が敵に回っても側にいると言い放って、そのくせ最後に「かけがえのない恩人だ」などとほざいて私の心臓を一度殺した憎き憎き男だ。

 

 あれから、一月半。私は必死に戦った。

 

 例えば、自宅で。膝枕から、背後の抱擁。あれは我ながら大胆だった。心臓が肋骨を突き破りそうだった。首筋に圭ちゃんの匂いがして、あと三秒で意識が飛ぶかという有様だった。でも、気力と根性で何とか押し切った。

 

 結果。

 

 「人肌恋しけりゃ、湯たんぽ代わりでもなんでも」

 

 ……ゆ、た、ん、ぽ?

 

 私は枕に顔を押しつけて絶叫を噛み殺した。

 思い出しただけで腹立たしいことこの上ない。あいつは私が全身全霊で仕掛けた勝負手を、あろう事か暖房器具に変換したのだ。人類史上もっとも愚劣な誤読だと思う。……あと、私の体温が温かいとか、いつでもいいぞ、とか余計な事まで言ってきて。ぐぬぬ。

 

 ……落ち着け、私。

 

 あれは負けじゃない。戦略的撤退だ。得た戦訓もある。すなわち──遠回しな仕掛けは、あの男に一切通用しない。

 

 風邪の時は遅れをとった。……あれは事故だ。断じて作戦ではない。

 

 結果として、あの人は学校を休んで、二日間、私に付きっきりになった。額に手を当てられ、抱えて運ばれ。粥を作ってもらった。米の研ぎ方も知らなかった圭ちゃんが、私のために。……ふふ、ずっと付きっきりで看病してくれて。じゃない、今は戦況分析だ。

 

 熱にうなされ、かなり圭ちゃんに遅れを取ってしまったんだ。

 

 「どこにも行かないで」、なんて口走ったり。あの人の裾を掴んで。

 思い出すたびに布団の中で身をよじりたくなる。現に今、よじっている。

 

 そして、極めつけが。

 

 ……あの、頬への。あれだ。あれ。

 

 夜中に目が覚めて、私に付きっきりだった彼が壁にもたれて眠っていて、それで、その、私は。

 

 ……いや。いやいやいや。

 

 あれは正当な戦術行動だ。敵の油断につけ込んだ、大胆かつ精緻な奇襲。孫子だって認めるはず。

 

 結果。

 

 ――「ずっと寝てたぞ、お前」

 

 ……気づいては、いなかったけれど。

 あの男は、私が命を賭けて敢行した奇襲を、まったく認識していない。あるいは、気づいていて、なかったことにしているか。

 どちらにせよ、私の唇の記憶だけが、この世に取り残されているわけだ。

 

 ぽすぽすぽす。

 いたたまれなくなって、枕を三回ほど殴った。

 

 

 本家会合からの帰り。

 あれは良かった。肩に頭を預けて、腕を絡めて。中々の攻撃を仕掛けることが出来たはずだ。胸元を指でつついたりもしてやった。あと、その、腕にいろいろ当てて。自画自賛なのでアレだが、結構な火力で叩きのめせたんじゃないだろうか?

 

 ふふ、圭ちゃんは真っ赤になっていた。心臓が跳ねるのも、この指で確認した。とどめに「起こしに来てくださいね、私の部屋に」で完全に締めて。

 これは勝ったでしょう、完膚なきまでの実力を示せたはずだと。

 

 ……なのに。

 

 次の日、彼はいつも通りだった。

 いつも通り朝ごはんを食べて、いつも通り軽口を叩いて、いつも通り学校へ行った。何も変わっていない。

 

 なんなんですか、圭ちゃんは。

 あれだけ動揺しておいて、一晩寝たら全部リセットされるんですか。脳の容量がニワトリ以下ですか。

 

 ……いや。違う。

 

 分かっている。彼はそれを「付き人の務め」だの「恩人だから」だのという棚に押し込んで、蓋をしているのだ。それが意識的なのか無意識なのかは、分からないけれど。

 

 あの棚が、憎い。私は今、あの棚を壊すために戦っている。

 

「……はぁ」

 

 ベッドに倒れ込んだ。まぁ要するに、ここまでの戦果はほぼゼロ。こちらの被害は甚大。恥ずかしさで死にかけたのが五回、心臓が止まりかけたのが三回、夜中に枕を殴った回数は数えていない。

 

 正直に言えば、毎回、限界なのだ。

 圭ちゃんに触れるたび、涼しい顔で軽口を叩きながら、内心ではぷちパニックを起こしている。今のは行きすぎたのではないか。引かれたのではないか。気持ち悪がられたのではないか。

 

 ……でも。

 

 私は園崎詩音。園崎家の次期当主候補。

 その私が、たった一人に告白させることができなくて、何が跡目争いか。

 これはもう、意地の問題だ。根性の問題だ。

 

 私は起き上がって、拳を静かに握る。

 冷静に考えよう。

 

 なぜバレンタインが、これほど重要なのか。理由は二つある。

 

 ひとつ。これまで私は、彼に対して常に「からかい」という鎧を着て接近してきた。膝枕も、抱擁も、車の中の一件も、全部「冗談ですよぅ」で逃げられる構えを取っていた。だから圭ちゃんも、冗談として処理できた。いや、出来てしまった。

 

 だがチョコレートは違う。あれは物だ。形が残る。渡したという事実が、あの人の手の中に残るのだ。

 

 ふたつ。バレンタインには世間の文脈がある。誰もが意味を知っている。だからあの鈍感な男でも、「これはそういう意味かもしれない」と考えざるを得ない……はずだ。

 言葉で説明する必要がない。世間が説明してくれる。これほど心強い援軍はない。

 

 ……くっくっく。

 

 なんて都合がいいのか。そして、なんて卑怯なのか。

 

 ──卑怯で上等、搦手最高じゃないですか。

 

 私は拳を天井に突き上げた。

 明日、勝つ。骨の髄まで惚れさせて、あの棚を叩き壊して、向こうから言わせてやる。

 

 ……そういえば。

 

 拳を下ろして、ベッドの上に座り直して、少しだけ考える。

 最近、少し圭ちゃんの様子が変だ。いや。日常は変わっていない。朝は起こしに来る。ごはんも一緒に食べる。学校でも普通だ。軽口も叩く。

 

 ただ。

 休日に、ちょくちょく一人で出かけている。

 どこへ行くのかと聞いても、「ちょっとな」としか言わない。帰りが遅い日もある。先週なんて、日曜の昼から夕方まで部屋にいなかった。

 

 ……浮気?

 

 自分の頬を叩いた。落ち着け。何を言っているんだ、私は。

 浮気も何も──私たち、付き合ってすらいないでしょうが。

 

 付き合っていないのだから、何の関係もない。あの人が誰と会おうが、どこへ行こうが、私に文句を言う筋合いは、法的にも道義的にも一切ない。

 

 私は雇い主で、あの人は付き人。それだけの関係だ。

 

 ──そうですよ、それだけの関係ですよ!

 

 枕を掴んで、壁に投げつけて。……いそいそと拾いに行った。

 そのまま枕を抱えてベッドに戻る。

 

 別に。別に、寂しくなんかない。

 ただ、最近、二人でいる時間が少し減ったな、と。それだけの話だ。私はそんな些細なことで拗ねるような、器の小さい人間じゃあない。

 

 枕に顔をうずめた。

 いや、今はそんな瑣末な事にはかまけていられない。ともかく明日は、二月十四日だ。雑念はここまで、早速準備を始めなくては。

 

 私はそそくさと台所に立っていた。

 

 湯煎したチョコレートを、ゴムベラでゆっくりと混ぜる。艶が出るまで、根気よく。手首だけを使って、空気を入れないように。

 温度計を見る。四十八度。もう少し下げる。

 

 ……ふっふっふ。

 これはですね。ただのチョコレートではありません。

 

 カカオの配合から練り上げた、生チョコレートというやつです。ボウルにかけた生クリームは、市販のものではない。牛乳屋から取り寄せた濃度の高いやつだ。仕上げにブランデーを──いや、未成年か。仕方ないのでバニラで香りを立てる。

 

 週末の休みを一日潰して、試作を三回した。三回も、だ。

 一回目は分離させた。二回目は固まらなかった。三回目でようやく形になって、味も申し分ない。

 

 ……我ながら、なんという執念か。いや、当然だ。これは戦いなのだから。武器の手入れを怠る戦士がどこにいる。中途半端な結果など不要、やるならば目指すは完全勝利のみと決めたはず。

 

 冷やした型に流し込む。表面をならして、冷蔵庫へ。

 あとは、明日の朝、切り分けて、ココアパウダーを振って、箱に詰める。

 

 ……箱、か。

 

 私は、台所の隅に置いた紙袋を見た。

 ラッピングの材料だ。デパートで一時間迷って買ってきた。赤、白、黒、金。リボンの色も、幅も、材質も。散々悩んで、結局全部買った。

 

 馬鹿みたいですって?いや、備えあれば憂いなしと言うでしょう。

 

 けど、問題は、そこではない。私はエプロンを外して、椅子に座った。

 問題は、渡し方だ。

 

 ちょっとだけシミュレーションをしてみよう。

 

 案その一。

 

 「はい、これ。ま、義理ですけど感謝に咽び泣いちゃってくださいねー」

 

 ──却下。問題外。

 

 あの男は、本当に義理として処理する。間違いなく。「おー、サンキュな」で終わる。終わってしまう。一月半の苦労が、その一言で灰になるのだ。文字通り完全敗北だ。そうなったら圭ちゃんを殺して私も死のう……なーんて冗談冗談。ですけど、敗北は許されないのでこれは却下。

 

 

 では、案その二。

 

 「その……圭ちゃんに、本命です」

 

 ……無理だ。

 

 言えるわけがない。この口が裂けても言えない。言った瞬間に私は死ぬ。恥ずかしさで人間は死ねる。だったら先に圭ちゃんを殺してから私も後追いするしかない……いやいや、冗談ですってば、冗談。心優しい私がそんなメンヘラじみた真似をするわけがないでしょう。

 けれど、これもある意味敗北だ。私の目的は飽くまでも、前原圭一からの告白を勝ち取ること、先に私から言っちゃってどーするんですか!次!

 

 

 という訳で、案その三。

 

 「作りすぎたので、余りです。感謝して食べちゃってくださいね⭐︎」

 

 ──却下。というかこれ、義理と同じじゃあないですか!言い方が違うだけで……ん?でもそうか、言い方ですか。つまり、私は物理的に本命ですとは言わないまでも、圭ちゃんが本命では?と意識してくれればいい訳で……

 

 

 案その四。

 

 無言で押しつけて逃げる。

 

 ……いや、まぁ意識はするでしょうけども。それは「あいつ大丈夫か?」的な意味での意識であって。それはもう完全に敗北でしょう。

 

 私は頭を抱えた。案が出ない。出るのは全部、逃げ道つきの案ばかりだ。

 逃げ道を用意している時点で、負けているのだ。分かっている。分かっているのだ。

 

 ──だけど。

 

 逃げ道を塞いだら。

 

 もし、それで。彼が、困った顔をしたら。

 

 私は、両手で顔を覆った。

 正直に言えば、怖い。彼は優しい。優しすぎる。だから、たとえ困っても、そんな顔はしないだろう。にっこり笑って受け取って、それで──それで、次の日から、少しだけ距離を置くかもしれない。

 

 あの棚に、私という存在ごと、そっと片づけてしまうかもしれない。

 

 ……それが、どうしようもなく怖い。

 

 私は椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。我ながらなんて情けない話だ。

 あの座敷で、二十人の男を相手に立ち回ってる園崎詩音が。爪を剥がされても毅然と立ち向かった園崎詩音が……あ、いやギャン泣きしちゃいましたけど、今はそんな野暮なツッコミはなしで。ともかく、

 

 チョコひとつ渡すのが、怖いなんて。

 

 

 ……はぁ。時計を見た。九時を過ぎようとしている所だ。

 まあ、いい。渡し方は明日考えよう。当日の風向きというものもある。臨機応変。これぞ園崎の兵法。……ただの先送りとも言うけれど。

 

 私は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。冷えた型がある。明日の朝には固まっているだろう。

 その隣に、もうひとつ。

 

 ――大量の、板チョコ。

 

 ……そう。

 

 これも作らなければならない。生徒会の面々に。クラスの女子に。それから、葛西や宗石さんたち組員の皆さんにも。

 

 義理チョコだ。

 

 ……いや、待ってほしい。これは打算ではない。断じて打算ではない。

 ただ、本命だけを持って学校へ行くのは、あまりにも──その、露骨というか。他の人に配る中に紛れ込ませたほうが、その、自然というか。

 

 ええ、そうですよ!保険です。悪いですか。

 

 私は溶かしたチョコを型に流し込みながら、深いため息をついた。

 

 園崎詩音、十七歳。

 跡目争いの真っ只中で、夜、呑気に義理チョコを量産している。

 

 ……何をやっているんだ、私は。

 

 

 

 

 

 目覚ましより先に、私は目を覚ました。窓の外はまだ薄暗い。時計は五時四十分。……ちょっと早すぎる。

 でも覚めてしまったものは仕方がない。布団の中で三十秒ほど固まったあと、私は跳ね起きた。

 

 顔を洗って、髪を整える。いつもよりリボンの位置を丁寧に決めた。制服に皺がないか三回確認した。前髪は七回直した。鏡の中の私はいつも通りだ。いつも通り、隙がない。よし。

 冷蔵庫を開けると、生チョコはきっちり固まっていた。包丁を温めて切り分けていく。四角く、均等に。ココアパウダーを茶漉しで振って、艶を落とす。

 

 ひとつ、味見をした。

 

 ……うん。舌の上でとろける。これはもう店で売れる。断言してもいい。

 箱を取り出したところで、私は固まった。赤か。白か。

 

 赤は主張が強すぎる。あからさまだ。あの鈍感でも気づくかも。……いや、気づかせたいんでしょう、私は。だが赤は、その、なんというか。負けた気がする。

 白にしよう。白に、細い金のリボン。控えめで品がある。だが、よく見れば手間がかかっている。

 

 ……よし、完璧だ。

 

 三回結び直して、ようやくリボンが決まった。

 鞄に義理チョコなどを詰めて、その奥に白い箱を入れる。持ち上げると、ずしりと重い。この重さの九割が義理で、一割が本命とは。なんとも情けない配分だと思う。

 

 深呼吸をひとつ。

 落ち着け、園崎詩音。いつも通りに部屋へ行って、いつも通りに起こして、いつも通りに朝ごはんを作る。そして、いつも通りの流れの中で、さらりと渡す。

 

 ――さらりと、だ。

 深刻な顔をしてはいけない。手が震えてはいけない。声が上ずってはいけない。あくまで日常の延長として。スマートに、むしろ余裕すら見せて園崎詩音の懐の広さを見せつけるくらいの気持ちで挑まなくては。あの難攻不落の城を攻め落とすことなんてできやしない。

 

「よし」

 

 私は自分の頬を両手で叩いた。合鍵を回して隣の部屋に入り、台所に鞄を置く。上着を脱いで、味噌汁の鍋を火にかけて。

 

 ……いや、待って。

 

 どのタイミングで渡すんですか、これ。

 

 朝ごはんの前? 寝起きで頭が回っていない状態では反応が鈍い。後?もう学校へ行こうという時で慌ただしい中で?……食事中に「はい、あーん」で口へ?いやいやないだろうそれは。

 朝から生チョコを口に押し込まれる圭ちゃんの姿を想像して、私は首を振った。却下だ。

 

 ええい、流れだ。流れで渡す!心は熱く、頭はクールに!臨機応変が私の持ち味なのだ。

 

「圭ちゃん、朝ですよー」

 

 扉を叩いて、返事も待たずに開ける。布団の中からうめき声がした。

 

「……んー……」

「起きてください。遅刻しますよ」

「……あと五分……」

「じゃあ五分後にもう一度来ますけど、そのときは布団ごと簀巻きにしてベランダに放り出しますよ」

「鬼か……」

 

 もそもそと起き上がる。寝癖が今日もひどい。左側だけがぴょんと跳ねている。あくびをして、目をこすって、私の顔を見て。

 

「……ん。おはよ」

 

 寝ぼけた顔で、そう言った。なんですか、その能天気で無防備な顔は。

 こっちは昨日から一睡もできないような緊張を抱えて、朝から頬を叩いて気合いを入れてきたっていうのに。あなたは寝癖のついた頭で、あくびをして。

 

 でもちょっとだけ可愛いと思ってしまうのはやっぱり惚れた弱みなのか。実に悔しいところだが。

 

「何ぼさっとしてんだ?」

「なんでもありません。早く顔を洗ってきてください」

「へいへい」

 

 朝食の席には、味噌汁、焼き鮭、玉子焼き、ほうれん草のおひたし、白飯が並んだ。彼はいつも通り、実に美味しそうに食べている。

 

「うまい。この玉子焼き、なんか違うな」

「へぇ、よくわかりましたね出汁を変えたんですよー」

「そりゃ、毎日食べてるからな。お前の朝ごはん」

 

 ぐぬぬ……そうやってまた無自覚に人の心を撃ち抜くようなセリフを……人の気も知らないで。

 いや、負けていられない。今日の私には大きな武器があるのだ。そこの鞄に、そこにある。

 

 台所の隅に置いた鞄。その中に、白い箱。

 

 ……今だ。今、渡せばいい。

 

 「圭ちゃん。はい、これ。バレンタインのチョコレートです☆」とでも言って、箱を出せばいいだけだ。一秒で終わる。簡単じゃないですか。

 私は箸を置いて、立ち上がった。

 

「ん?」

 

 台所へ行く。鞄の前に立って、手を、伸ばす。

 

「……詩音?」

 

 背中に、声がかかった。

 心臓が跳ねた。私は鞄の口を掴んだまま、固まっていた。

 

 渡せ。渡せばいいでしょう。振り返って、笑って、はい、って差し出すだけ。からかえばいい。いつもみたいに。「圭ちゃん、今日が何の日か知ってます?」って。

 

 ……でも。なぜか口が、開かない。

 

「おい。どうかしたのか?」

 

 あの人が椅子から立ち上がる気配がした。――だめだ。こっちに来られたら、だめだ。

 

 私は鞄の中から水筒を掴んで、振り返る。

 

「──お茶!」

「へ?」

「お茶を淹れようかと思って!どうです、飲みます?」

「……それ、水筒だけど」

「一旦水筒に入れてからコップに入れ直すとまた美味しいんですよ!」

「初耳なんだが」

 

 私だって初耳です。

 

「……いえ、なんでもありません。座っててください」

「えっと、大丈夫か?もしかして具合が悪いとか」

「ええ。ええ、絶好調です」

 

 圭ちゃんが怪訝な顔で椅子に戻る。私は茶筒を鞄に戻して、両手で顔を覆った。

 

 嗚呼、私のばか……

 

 

 

 登校の道でも、私は半歩後ろを歩いていた。鞄がひどく重い気がする。白い箱が、まだそこにあるから。

 

「なあ、詩音」

「なんです」

「今日、何かあったか?」

 

 心臓が止まりかけた。

 

「な、なんでですか」

「いや。朝から変だったからよ」

「べ、べつに」

 

 ……なぜですか。

 

 なぜ、今日はこんなに喋れないんですか、私は。いつもなら彼をからかう軽口が、いくらでも出てくるはずなのに。

 なのに本気になった途端に、この有様だ。

 

 

 鎧が、着られない。

 からかいという鎧を、いつもみたいにすっと着ることができない。……いや、着られないんじゃない。着たら負けだと、分かっているのだ。

 からかいで渡せば、あの人はからかいとして受け取る。それでは意味がない。だから鎧を脱がなければならない。

 

 脱いだ私は、こんなにも無力なのだ。

 

「……詩音」

「なんですか」

「顔、赤いぞ」

「──寒いんです!」

 

 私は叫んで、足を速めた。後ろで、あの人が「なんだそりゃ」と笑っている。

 

 ――絶対に。今日、絶対に、渡してやる。

 

 白い息を吐いて、私は坂道を上っていった。

 






やはり2月、バレンタインイベントは避けて通れません。長くなりすぎたので分割して投稿することにしました。
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