教室に入った瞬間、私は空気が違うことに気づいた。
女子は妙にそわそわして、鞄を必要以上に大事そうに抱えている。男子は男子で、そわそわしていないふりをしながら、明らかにそわそわしている。
――そう。今日は戦場なのだ。
「詩音ちゃん、おはよう」
振り返ると、あかりさんが立っていた。にこにこと、実に楽しそうに。
「おはようございます。……あかりさん、なんですかその顔は」
「ふふ。はい、これ」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。開けると、クッキーが入っている。星の形とハートの形。アイシングで、丁寧に模様まで描いてある。
……可愛い。
「昨日、焼いたんだ。詩音ちゃんに」
「……いいんですか、私なんかに」
「もちろん、詩音ちゃんだから作ったんだよ」
もう……ずるいですね、この人は。
私も鞄から包みを取り出して、あかりさんに渡した。板チョコを型に流して固めただけの、簡単なやつだ。だが、あかりさんの分だけは、少し形を凝った。
「わあ、ありがとう。──あ、これ、猫だ」
「……ええ、まあ」
「詩音ちゃん、猫好きだもんね」
「メアカシとかね」
「メアカシ?」
「なんでもありません」
あの緑色の招き猫は、今も私の部屋の棚でニコニコと笑っている。圭ちゃんは怖いとしきりに言ってるが、私は可愛いと思っている。
あかりさんは、クッキーの袋を大事そうに鞄にしまいながら、ふふ、と笑った。
「バレンタインって、こういうのが一番楽しいよね」
「こういうの?」
「友達と交換するの」
私は、手の中のクッキーを見た。星と、ハート。丁寧に描かれた、アイシングの模様。
確かに、そうなのかもしれない。
聖ルチーアにいた頃の二月十四日は、また違った意味で戦場だった。女子しかいない花園、麗しの学園生活……なんていってしまえば聞こえはいいが、その実、赤外線トラップがごとく張り巡らされた人間関係という名の赤い糸に、このバレンタインはひっかかりまくるイベントだったからだ。誰と誰があげた、誰からはもらってない、私より形が凝っている、etcetc……
ギスギスという擬音が聞こえてきそうになるほど、胃も頭も痛くなる二月十四日は、私は忌避していたくらいである。
……っと。やめましょう。今日は、そういう日ではない。
「……ええ。悪くないですね、こういうのも」
「でしょ?」
あかりさんが、にっこりと笑った。うん、友達というのは、なかなか、いいものだ。
さて、放課後――ではなく、まだ朝のホームルーム前だというのに、私の机の上には包みが積まれていた。
「園崎さん、これどうぞ! いつも生徒会でお世話になってるので!」
「園崎先輩、あの、憧れてます!」
「園崎さん、同好会の女子一同からです」
「園崎氏!拙者からも!」
クラスメートの女子、後輩の女子。生徒会で力を貸した同好会……ってあれ?最後の女子生徒からですよね?
まあともかく、色とりどりの包みや中には手紙のついたやつまで並んでいる。
嬉しい。嬉しいのだ。本当に。
こんなにも人から何かをもらえるというのは、幸福なことでしょう。かつての私からすれば、想像もつかなかった光景だ。
……が。
なんで私がもらってるんですか。
一応バレンタインって女の子が男の子に贈る日ですよね。少なくとも日本では。
私だって例外なく、この日のために生チョコを三回試作して、リボンを三回結び直して、朝五時に起きて頬を叩いて気合いを入れてきたんですよ。
なのに、なぜ私の机に山が築かれているんですか!いや嬉しいですけど。
「詩音ちゃん、すごい人気だね」
「あかりさん。笑ってないで助けてください」
「えー。だって詩音ちゃん、綺麗だし、頭いいし、腕っぷしも強いし」
「最後のは余計です」
と、そこへ。
「おー、すげぇな。モテモテじゃねぇか」
のこのこと、圭ちゃんがやってきた。
私の机の山を見て、実に楽しそうに笑っている。
「さすが詩音だな、大した人望だ」
「……どうも」
「けど、あんまり男どもの妬み買うなよ? 後ろに男子連中の視線が刺さってんぞ」
こいつは……ッ!私が誰にチョコを渡そうとして、いや誰に告白させようとこの一月半、何と戦ってきたと思っているんですか。
――私は、あなたにあげようとしているんですよ、この馬鹿!
と、腹の底で絶叫しながら、私は口の端を持ち上げた。
「あら。妬んでるのは圭ちゃんのほうでしょう?顔に書いてありますよ」
「は?」
「羨ましいんですねぇ。ふふ、そんなに欲しいなら、恵んであげてもいいですよぅ?」
「やかまし」
そういってぷいっと顔をそむける圭ちゃん。なんですかもう、可愛いところあるじゃないですか。ちょっぴりでも羨ましいなら仕方がありませんね。私がとびっきりのチョコを恵んであげますから、せいぜい放課後まで悶々としててください。
なんて思っていたら――
「おーい岡崎くん」
「ん?」
――と、隣の席の男子が、圭ちゃんの肩を掴んだ。非常に軽やかな声で、しかし死んだような瞳で――いや、死んでいるというより、憎悪で燃えていた。この世のすべてを呪い殺しそうな瞳で。え、怖いんですけど。
「行けよ、裏切り者岡崎よ」
「は?」
「さっさと廊下に出て、彼女のチョコを受け取ってやれ」
ぐいっと彼が指す指先。廊下には他クラスだろう、女子がやや顔を俯かせて立っている。手には可愛らしい包みを手にして……
「え、俺?」
「そうだ――ただし、だ」
男子の手に、力がこもった。
「もし本命なんぞもらって教室に戻ってきたら、命はないと思え。かつての同志は、敵同士となる。同志だけに」
「うまくねーよアホか」
圭ちゃんは肩をすくめて、そのまま廊下へ出ていった。
確かに、寒い。というか、圭ちゃんもいつの間にか変な友人を作ってるんだな……じゃなくて!え?は?え?なんですかこれ、圭ちゃんに?バレンタイン……だと。
え……私まだ渡してないんですけど。え?本命?
「詩音ちゃん!」
「……」
「詩音ちゃん、緊急事態だよ」
あかりさんが、私の腕を掴んだ。
「え」
「行くよ!」
「い、いや、ちょっと、あかりさん!?」
ぐいぐいと引っ張られる。
私は椅子から立ち上がらされて、そのまま教室の後ろの扉へ連行された。
廊下の角。壁に張りついて、そっと顔を出す。
……何をやっているんですか、私は。
「詩音ちゃん、こっち。もう少し寄って」
「あかりさん。あなた慣れすぎでしょう」
「しー」
十歩ほど先で、二人が向かい合っていた。
女子生徒のほうは俯いている。制服の胸元で包みを両手で握りしめて、指が白くなっていた。
圭ちゃんは、その前に立っている。
「あの……岡崎くん」
小さい声だったが、私にはやけにはっきり聞こえた。
「あの、これ……よかったら」
「え、俺に?」
「うん。あの、この前手伝ってくれて助かったから。その、お礼、みたいな」
「おお、そうか。悪ぃな、ありがとう」
――受け取った。
あっさりと。にっこり笑って。
女子が「じゃ、じゃあ!」と言って走り去っていく。顔が茹だっている。
私の中で、何かが、軋んだ。
ぎしり、と。
……いや。
落ち着け。落ち着きなさい、園崎詩音。あれは義理です。「手伝ってくれたから」と言っていたでしょう。単なる感謝の表明です。私が後輩からもらったのと、まったく同じ。
うん。同じ。ゆえに何の問題も――
「し、詩音ちゃん……」
「え?」
あかりさんの声が聞こえてハッとする。気が付けば私は、無言で拳を握りしめていたらしい。
「あの、落ち着いて。ね?」
「え、えぇ……私は至って冷静ですよ、この上なくクールです」
「すっごい怖い顔してたけど……」
ふっと力を抜く。まったく、はしたないことです。
私は深呼吸をして、さっと髪を整えた。
――いや、認めたくはないですけど。圭ちゃんはまあ、顔も悪くない。背も高いほうだし、生徒会の副会長で頭も回る。頭はいいし、そりゃチョコを上げてしまう物好きもいるでしょう。そんなことで何を動揺してるんだって話ですよ、ええ。
放課後の生徒会室。圭ちゃんは書類を取りに職員室へ行っている。戻るまで、十分もないだろう。
私は椅子に座ったまま、鞄の中の白い箱を見ていた。
「渡さないの?」
向かいで、あかりさんがお茶を淹れている。
「渡しますよー、テキトーに帰り道とかで」
「ふむふむ」
湯呑みが置かれた。彼女は、それ以上何も言わない。にこにこしているだけだ。
……その沈黙が、なんだか居心地が悪い。
「……何ですか」
「ううん。詩音ちゃん、朝からずっと鞄気にしてるなって」
「ゔっ」
「ねえ詩音ちゃん。怖い?」
──手が、止まった。
「……何がです」
「なかったことにされるのが」
私は、湯呑みを見つめたまま動けなかった。
「……ええ、そうですね」
認めるしかなかった。
「きっと圭ちゃんは、受け取ってはくれます。笑って、ありがたくって。でもそれは──『恩人からの差し入れ』として棚に仕舞われてしまう。それで明日も、何も変わらない朝が来る」
私は湯呑みを両手で包んだ。熱くて、指が少し痛い。
「渡した瞬間に、私の一月半が、あいつの棚の中で埃をかぶっちゃうかもって思ったら。きっと、今度も同じ結果になるって思っちゃうんじゃないかって」
あかりさんは、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みに息を吹きかけて、一口飲んで。
「渡さなかったら、棚にすら入らないんじゃないかな」
「……」
「岡崎くん、ただ鈍いんじゃないと思う……あ、基本的には鈍いと思うよ?ものすごーく鈍いけど、その中でも分類的にまだマシというか」
「ふふ、なんですかそれ」
あかりさんの表現がおかしくて、つい笑いがこぼれてしまう。
「気づかないふりを、無意識でしちゃってるんだと思う。──でも、だからこそ、無意識のうちなら、まだ間に合うよ」
「あかりさん……」
「それに!もし今回棚にしまわれちゃっても、だから何なのって話だよ。だったら次に仕掛ければいい。それがダメならまたその次!棚を壊すまで、決して諦めないのが私の知ってる詩音ちゃんだと思うな」
……ずるいですね、この人は。
私は白い箱を取り出した。リボンが、一日鞄で揉まれて、少しよれているそれを、きゅっと結び直す。
「確かに、圭ちゃんごときにチョコを渡すのでうじうじ悩んでるなんて私らしくありませんしね!ありがとうございます、あかりさん。目が覚めました」
「ううん、どういたしまして」
ふんわりと笑う彼女を見て、胸の中につっかえていた鉛のような重さがすっと消えていく。
「あ、ちなみに今口走ったことはすべて幻なんで忘れてください。私が圭ちゃんに渡すのは飽くまで慈悲ですので」
「えぇ……この期に及んでそれなの?」
「しゃらっぷ!」
と、廊下から足音がした。がさつな足音だ。書類を抱えた男が、扉を蹴り開けるみたいにして入ってくる。
「わりぃ、遅くなった。教頭に捕まっててよ」
「停学ですか?」
「なんでだよ!?」
私は白い箱を鞄に戻して、立ち上がる。
あかりさんが、机の下で、そっと親指を立てているのが見えた。
校門を出て、坂道を下る。日はもう傾いて、街が橙色に染まっていた。
「三年を送る会。体育館の申請の件で不備があってな、教頭に突っ返されたんだが」
「……ええ」
「あと放送部の照明な。部長が二年の顧問に話を通してくれって言ってきてよ。あれ来週までに詰めねぇと間に合わねぇんだよな。あと予算の件も──」
なんで今日に限って、そんなに真面目なんですか、あなたは。いつもは「めんどくせぇ」の一言で終わらせるくせに。鞄に手をかけて、引っ込める。またかける。さっきからずっとこんな調子だ、あかりさんと交わした決意はなんだったのか。でも仕事の話をしている最中に、チョコレートは出せないじゃないですか。
「聞いてるか?」
「聞いてます」
もちろん、聞いてません。ぜーんぶ右から左です。
坂を下りきる頃には街灯が点り始めていた。なのに圭ちゃんは今日に限って仕事の話ばかり。せめて今日バレンタインだったよな、程度の一言があれば動けるのに。私は生徒会長だから相槌を打たないわけにはいかず、打つたびに話が続き、続くたびにマンションが近づいてくる。もう五分もない。
その時、ふつりと話が途切れた。
──今だ。
私が鞄に手を突っ込んだ、その瞬間だった。
「あ、そうだ。詩音。悪いんだけど、俺このあとちょっと出かけるわ。夕飯は今日別々で」
足が止まった。
「……どこに、行くんです」
「ちょっとな」
また、それだ。この一月半、あなたは「ちょっと」しか言っていない。しかも今日ですよ。二月十四日。どこの世界に、この日の夜に「ちょっと」出かける男がいるんですか。
「じゃ、また明日──」
背を向けようとした、その背中に。
「――圭ちゃん」
自分でも驚くくらい、はっきりと声が出た。
彼が振り返る。私は鞄から白い箱を取り出して、両手で差し出した。手が震えているのが自分でも分かったが、隠す余裕なんてどこにもなかった。
圭ちゃんがそれをきょとんと見ている。……なんで、そんな顔をするんですか。茶化してくださいよ、いつもみたいに。「なんだそりゃ」って笑い飛ばしてくださいよ。いや笑い飛ばされたら私もあんたを吹っ飛ばすつもりですけど。
「えっと、あの」
「詩音?」
「……これ。バレンタインです。圭ちゃんに」
橙色の光の中で、彼の目がまっすぐこっちを向いていた。そこにどんな思考が巡っているのか、私には分からない。っていうか、そんなこと冷静に分析してる余裕がない!
言え。『ほ、ん、め、い』と。たったの四文字でしょう。この一月半、そのために全部やってきたでしょうが。
息を吸って、私は口を開いた。
「──本命、です」
よし、言えた。
心臓がどこか遠くで鳴っていて、指先の感覚がなくて、世界から音が消えていた。それでも私は言ったのだ。ついに言ったのだ。圭ちゃんの目が大きく見開かれるのが、やけにゆっくりと見えた。
──怖い。正直、怖い。
何を考えている、困っている?嫌がっている?あの棚に、あの棚にしまわれる――けど、そんなもの知った事か。恐れていてはなにも始まらない、当たって砕けるつもりで……
ってあれ?ちょっと待ってください。あれ?これ私から言っちゃってません?私から「圭ちゃん大好き」みたいな感じになっちゃってません?あれ、私の目的って、圭ちゃんに告白することでしたっけ……いや違う違う!圭ちゃんから告白を勝ち取ることじゃあないですか!なんで?なんでいつの間に目的がすり替わって――くっ、ここは緊急回避を!
「────って言ったら、どうします?」
……嗚呼、私のばか。私は今すぐこの舌を引っこ抜いて、地面に叩きつけて、踏みつけたい衝動に駆られた。
圭ちゃんがまだ固まっている。目を丸くして、口を半分開けて、完全に硬直したまま。その沈黙に耐えられなくなって、私の口はまた勝手に笑った。
「なーんて。冗談ですよぅ。いつもお世話になってますからねぇ、付き人にはそれなりの待遇をと思いまして」
着てしまった。完璧に隙のない、いつもの鎧を。
「そ、そっか。そうだよな。うん、そうだよな」
圭ちゃんが耳まで真っ赤にして、何度も頷いている。なんであなたまで動揺してるんですか。もしかして、少しは意識して――いや、もう終わりました。私が自分で終わらせたんです。
あれだけ準備して、決意して、あかりさんに背中まで押されて。結果がこれですか。
これじゃ、お姉のことヘタレだなんて言えないですね……とほほ。
「詩音?なんか、遠い目してっけど」
「なんでもありません。ちょっとお姉に思いを馳せてたんです」
「は?魅音に?」
圭ちゃんは、白い箱を両手で受け取った。大事そうに、ゆっくりと。そのくせ次の瞬間には、当たり前みたいにリボンをほどき始める。
「ちょっ、圭ちゃん!?」
「ん?開けちゃまずいのか」
「い、いえ、まずくはないですけど。今ですか?」
「いや、せっかくもらったし食べようかと」
路上ですよ。街灯の下ですよ。あなたにはムードというものが一切ないんですか。
文句を言う間もなく箱が開いて、彼は生チョコをひとつ摘まみ上げた。橙色の光の中で、ココアパウダーの粉が少しだけ舞う。
「ん、うまい」
圭ちゃんは二つ目に手を伸ばした。
私はその横顔を見ていた。三回試作した。カカオの配合から調整した。生クリームは牛乳屋から取り寄せた。ラッピングは一時間迷って、リボンは三回結び直した。
それが、路上で立ち食いされている。
……いえ。喜んでもらえるのは、嬉しいのだ。本当に。でも、そうじゃなくて。私が欲しかったのは、そういう反応ではなくて。
まあ、仕方ない。あの「なーんて」の一言で、この箱の中身は、ただの美味しいチョコレートになってしまった。はぁ……私っていつからこんなヘタレになっちゃったのか。
「……そんなにがっつかないでください。はしたない」
「美味いからさ」
「……そんなに急いで食べなくても、逃げませんよ。それとも、これからのご予定に私のチョコはお邪魔ですか?」
「いやいや、んなことねぇけど」
拗ねるように口走ってしまってから、すぐに後悔する。別にこんな事いうつもりじゃなかったのに、止まらなくなってしまう。分かってる、こんなのただの八つ当たりだ。なのに、自分の情けなさを八つ当たりの材料にしてしまっている。最低なのに、止まらなくて。
「なに怒ってんだ、お前」
「べーつーに、怒ってません。……ええ、これっぽっちも。圭ちゃんと一緒で絶好調ですとも」
「俺が?」
「ええ、ええ。今日は廊下でもチョコもらったりして、ずいぶんおモテになっていたようですし?」
「……見てたのか。ありゃ義理だぞ」
「はぁ……結局圭ちゃんは、誰からもらったって、同じ顔をして同じように食べるんでしょうねー」
あれはきっと本命だ。鈍い彼は全く気が付いていなかったけど。本命をもらっている……私は義理ってことにしちゃったけど……ああ、もう!なんでこんな憎まれ口しか叩けないんですか私は!これじゃヘタレじゃなくてただのちょー面倒な女じゃないですかっ。
と、圭ちゃんが、三つ目を摘まむ手を止めたまま、実に不思議そうな顔で私の方を見てて。
「……いや。詩音にもらうのは、特別だけどな」
──え。
彼は、包み紙を畳んでいた。畳みながら、当たり前みたいにそう言った。照れもせず、ためらいもせず。まるで今日の天気の話でもするように。だから私もぽかんと、彼の顔を見つめたまま固まってしまって。
「え、なんだよ」
「……今、なんて」
「いや、だから──お前からもらうのが、」
言いかけて、彼が止まった。
圭ちゃんの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。畳みかけていた包み紙が、手の中でぐしゃりと潰れた。
……ん?これは、つまり?
圭ちゃんが、私から貰うのが特別、と。そう口にした。
途端、私の中で消えかけていた炎が、轟音を立てて再点火した。
いいですか、園崎詩音。あなたはさっき、千載一遇の好機を自分の舌で叩き潰した。ええ、潰しました。大ヘタレです。返す言葉もありません。
──ですが、天は私を見捨てなかったらしい。
彼が自らぼろを出した、迂闊にも勝利目前で油断した!いやもう勝利ってなんのことか分からないけど。ともかく!これはまさに絶好機、殺るなら今しか──じゃなかった、やるなら今しかない!
私は一歩、彼に近づいた。
「ねえ、圭ちゃん」
「な、なんだよ」
もう一歩。
彼が後ずさる。私は箱を持つ彼の手ごと、そっと下から覗き込んだ。上目遣いで。この角度が一番効くことを、私は知っている。
「今の、どういう意味です?」
「い、いや、それは」
「特別って。どういう意味でしょうか。ぜひ、詳しく教えていただきたいのですけど」
「詳しくもなにも、そのままの意味で──」
「そのままの意味って?」
じり、と圭ちゃんが下がる。私も同じだけ前に出る。
街灯の下で、彼はもう完全に茹だっていた。目が泳いでいる。口が意味のない音を出している。ああ、いい気味です。ざまあみろです。
そして。
「──だ、だから、その、一番世話になってんのが詩音だから!感謝の度合いが、他とは、違うっつーか!そういう話だよ!」
「……」
……はぁ。
結局、その「恩人」の棚だ。
この男、私の目の前で、その辺の言葉を掻き集めて、あの忌々しい棚に全部押し込みやがりました。
私は目を細めて、じっとりと彼を睨みつけた。頬が熱いのは自覚している。だが睨む。全力で睨む。
逃げた。今、確実に逃げましたね。この、鈍感で、無自覚で、往生際の悪い──いや、私も、さっき、同じことしたばかりだ。一ミリも他人のことは言えないわけで。
「……はぁ」
「な、なんだよ、そのため息は」
「なんでもありませんよー」
結局、この日、私たちは二人揃って同じ穴に飛び込んだのだ。似た者同士というのは、こういうのを言うのだろう。そんな所似ててもなにも嬉しくないっての!
圭ちゃんが、ばつが悪そうに箱の蓋を閉じた。それから、残りを胸元に抱え込むようにして、鞄にしまう。その手つきが、やけに丁寧だったので、私は何も言わないでおいた。
廊下を歩いて、圭ちゃんは部屋のドアに手をかける、
「……じゃ、また明日」
「はいはい。出歩くときは、夜道に気をつけてくださいね」
「いや、お前が言うと意味違って聞こえるんだが」
やかましい、とばかりに舌を出してから、顔を背けた。そして私もドアに手をかけて――
「……なあ、詩音」
「なんです」
振り返ると、圭ちゃんは少し気恥しそうに頬を掻いてから。
「美味かった。来年もまた、作ってくれよ」
……だから、どうしてまたそういう事を。
「わざとやってんですかアンタはッ!!」
「はぁ!?なんでキレてんだお前!」
私は彼の背中を目いっぱい両手で押して、部屋に突っ込ませた。そのまま閉まるドアを見送って、ため息をつく。
冷たい風が頬を撫でていく。熱を持った頬に、それがやけに心地よかった。
結局のところ今日も私は負けたわけだ。完膚なきまでに……でも。
来年、か。
ええ、作ってやりますとも。来年も、その次も、その次も。あなたが降参するまで、何度でも。
肝心の一歩が踏み出せないのは魅音っぽいなぁと思いつつ、詩音も多分、真正面からの本気の恋愛は弱いだろうなと自分は解釈してます。魅音も最初は悟史のこと好きでしたし、目明しで詩音が圭一に惹かれそうになって慟哭してるあたりを考えても、服装の趣味以外は双子なんだなぁと思ってます。
悟史にしろ圭一にしろ、割と出会ってた順番の違い(というと言い過ぎですが)な側面もあるよなーと思ってたり(飽くまで個人的な解釈なので悪しからず!)
まぁ笑いながら殺しにくるか(、泣きながら殺しにくるかの違いこそあれ、手際の良さや妙に冷静な手口とかやっぱ似てるなぁって思いますね(そこは似てなくていい)