ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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詰め上手の姫君

 

 

 

 

 天井が見えた。

 

 古い梁が渡してある。染みがひとつ、鳥の形に見えた。何度この天井を見上げたか、もう数える気にもならない。

 

「さぁ、立ってください」

 

 視界の端で、黒い柔道着が動いた。俺は畳に手をついて、身を起こす。背中はじんじんするが、痛みは残っていない。受け身だけは、この一ヶ月でようやく形になった。それだけが唯一の進歩かもしれない。

 

「今、何を考えていましたか?」

「崩す前に……掛けにいきましたけど、焦ったかな」

「ええ、功を焦りましたね。ですが、悪くないアプローチでした」

「さいですか」

 

 葛西さんは、汗ひとつかいていない。

 

 黒い柔道着に、きっちり締めた黒帯。そして、サングラス。組んでも投げても、あの黒い硝子は微動だにしない。接着剤で固定してるんじゃねぇのか、この人。

 

「もう一本」

 

 俺は帯を締め直して、構えた。

 

 園崎家が持っている古い道場だ。興宮の外れ、川沿いの一角。昔は組員の稽古場だったらしいが、今は使う者もない。畳は擦り切れて、窓の建て付けは悪く、夜になれば底冷えがする。だが、それでいい。誰にも見つからねぇからな。

 

 右手で前襟を取る。釣り手。左手で袖。引き手。

 

 この一ヶ月で、体はこの形を覚えた。組む位置も、足の運びも、頭では全部分かっている。崩し、作り、掛け。この三つだ。相手の重心が傾いた方向へ、こちらが手を貸してやる。倒す方向をこっちが決めるんじゃない。相手が倒れたがっている方へ、背中を押してやるだけ。

 

 ──分かってるんだよ。分かってるんだ。

 

 葛西さんが、じり、と足を送った。

 

 ──今だ!

 

 重心が右へ流れる。引き手を引く。相手の踵が浮く。ここで、体を入れて──瞬間、体が前に泳いだ。

 

 俺の意志と関係なく、爪先に体重が乗る。踏ん張ろうとした足が遅れる。

 次には、天井が見えていた。

 

「ぐ、はっ」

「惜しいですね」

 

 俺の上で、葛西さんが淡々と言った。

 

「崩しまでは、悪くありませんでした。──ですが、崩れたのを見た瞬間に、あなたは急いだ。腰が浮いて、上体だけが突っ込んだ。だから私に返された」

「……返した?」

「はい。あなたの引きに、私が乗っただけです」

 

 ……乗った、って。俺が引いたのに。俺が引いたのに、それに乗られて、俺が投げられたのか。

 

「柔よく剛を制すと申しますが、あれは綺麗な話ではありません。相手の力を頂戴する、実に振れ幅が大きい技術です」

 

 ……この人、時々、妙に楽しそうに喋るな。

 起き上がる。息が上がっている。手のひらの豆が、また潰れた。

 

「もう一本、お願いします」

 

 

 

 結局、その夜も俺は一度も葛西さんを投げられなかった。

 

 三十本か、四十本か。組んで、崩して、そこまでは行くようになった。行くようになった、が、そこから先が越えられない。崩したところで急いて、腰が浮いて、返される。同じところで、同じように転がされる。

 

 最後の一本で、俺は立ち上がれなかった。膝が笑って、畳に腰から落ちる。そのまま大の字になった。

 

「……あー」

「本日はここまでに」

「まだ、いけます」

「無理をしないことも、また強さですよ」

 

 葛西さんは、それだけ言って道場の隅へ歩いていった。

 俺は天井を見上げた。染みが、また鳥の形に見える。

 手を持ち上げてみた。豆が潰れて、皮が剥けて、指がまだ震えている。握力が残っていない。

 

 一ヶ月、か。受け身は取れるようになった。組み方も、足の運びも覚えた。崩しも、たまには入る。

 だが、一本も取れちゃいねぇ。いや、体格差を考えたら無理に決まってる話なんだが……でも、こんなもんじゃ、まだまだ足りない。

 

 

 道場の縁側は、驚くほど冷えていた。

 汗を吸った柔道着が、風に晒されて一気に体温を奪っていく。それでも中に籠っているよりはましだ。俺は手ぬぐいを首にかけて、板張りの縁側に腰を下ろした。

 

 隣に、葛西さんが座る。手には湯呑みが二つ。片方を、無言で俺に寄越してきた。

 

「……あざっす」

 

 白湯だった。熱い。喉を通ると、腹の底に落ちていく。

 

 庭は荒れている。手入れをする者がいないから、雑草が伸び放題だ。その向こうに川があって、水音だけが聞こえる。空には星が出ていた。雛見沢で見た空より、いくらか薄い。

 

「筋が良くなってきましたね」

 

 葛西さんが、前を向いたまま言った。

 

「……お世辞はいいっすよ」

「お世辞ではありません」

 

 白湯をひとくち飲んで、この人は続けた。

 

「一ヶ月前、あなたは受け身も取れませんでした。組めば力み、投げれば自分から転び、数本もやれば息が上がった。それが今日は四十本近く立った。──成長してる証です」

「手も足も出ないだけですよ。葛西さんからまだ一本も取れてないし」

「はっはっは。流石に、まだやられませんよ」

 

 おかしそうに笑う葛西さんの隣で、俺は湯呑みを両手で包んだ。指の震えが、ようやく止まってきた。褒められて悪い気はしない。しないが。

 

「こんなもんじゃ、まだ足りない」

「圭一くん、焦りは禁物です」

「えぇ、分かってます。でも……」

 

 湯呑みの水面に、庭の暗がりが映っている。

 

「あの座敷で、俺は壁際に突っ立ってただけです」

 

 葛西さんは、何も言わない。

 

「詩音が二十人相手に一人で立ち回ってるのを、後ろから見てただけだ。あいつが罠にかけられて、笑ってそれを呑み込むのを、見てただけだ。何ひとつ、できなかった」

 

 目まぐるしく変わる状況に、ただ息を呑んでいることしか出来なかった。何とかなる、なんて良い加減な答えしか、詩音に贈ることが出来なかった。

 

「鵜飼……さんに、一言も言われなかったんです。俺」

「……」

「馬の骨だの、小僧だの、何か言われてりゃ、まだ言い返しようもあった。でも、あの人は何も言わなかった。見て、それで終わりだ。──俺は、あの部屋にとっちゃ、床の間の掛け軸と同じだったんですよ」

 

 情けない話だ。誰かに罵られたわけでもない。ただ見られただけで、俺は勝手に傷ついている。口に出せば、ただの被害妄想だ。

 だから、詩音には言っていない。言えるかよ、こんなカッコ悪いこと。

 

「……こんなんじゃ、あいつの隣に立てないんですよ」

 

 俺は空を見上げた。

 

「権力もなければ、腕っぷしもない。家の理屈もさっぱりだ。あいつが背負ってるもんの重さだって、たぶん半分も分かっちゃいねぇんだ」

 

 ……それでも。

 

「それでも、俺は、あいつの隣に立ちたいんです」

「……」

「だから強くなりたい。理屈じゃないんですよ。守りたいんです。俺が。──そのためには」

 

 やれる事は何でもしなければ。もしかしたら全部無駄なのかもしれないけど、でも……少しでも隣に立つことに意味を持てるのなら、俺は。

 

 しばらく、水音だけがして。葛西さんが、白湯を飲み干す音がした。

 

「圭一くん」

「はい」

「あなたは、一月前も、同じことを仰いました」

 

 俺は隣を見た。葛西さんは前を向いたままだ。サングラスの奥は、相変わらず読めない。

 

「一言一句、ほとんど同じです。あの晩、この道場の玄関先で」

 

 そういえば……言ったかもしれない。というか、言った。

 

「進歩がないって話ですか」

「いいえ」

 

 葛西さんが、立ち上がった。

 

「変わらぬということです。──それが、あなたの唯一にして最大の武器でしょう」

 

 この人は湯呑みを盆に置いて、道場のほうへ歩いていく。その背中に、俺は思わず声をかけていた。

 

「葛西さん」

「はい」

「なんで、俺に稽古をつけてくれるんですか」

 

 背中が、止まった。

 振り返らないまま、この人は言った。

 

「男には、そうならなきゃならない時がある」

 

 大きな背中だ。いつか俺は、この人の強さを理解出来るようになるんだろうか。俺は縁側から立ち上がって、その背中を追いかけた。

 

 

「詩音の隣で、守れるような存在に」

 葛西さんにそう打ち明けたのは、一ヶ月前。

 本家のあの会合が終わって、屋敷から帰った、次の日の夜だった。

 

 

 

 あの日、俺は葛西さんを呼び出した。

 

 会合の翌日、詩音が生徒会の仕事で遅くなる日を狙って。電話では「二人だけで話したいことがある」とだけ伝えた。この人は理由を聞かなかった。

 

 マンションの一階、郵便受けの前で待っていると、いつもの黒い車が滑り込んできた。

 

「お待たせいたしました。──して、ご用件は」

「詩音には、内緒でお願いします」

 

 葛西さんは、サングラスの奥からしばらく俺を見ていた。

 

「……お乗りください」

 

 車は川沿いへ出て、堤防の下の空き地に停まった。人気がない。エンジンが切られると、水の音だけが残った。

 

「どうぞ」

 

 俺は助手席で、膝の上の拳を見ていた。

 

 順番を間違えるわけにはいかない。頼み事より先に、確かめなきゃならないことがある。それが済まないうちは、俺の頼みは口に出せない。

 

「葛西さん。ひとつ、先に聞かせてください」

「はい」

「詩音が何をしようとしてるか、知ってますね」

 

 フロントガラスの向こうを、車が一台通り過ぎた。

 葛西さんは、否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、ハンドルに手を置いたまま、動かない。

 

 それで、十分答えになっている。俺はそう解釈して続けた。

 

「園崎の家を潰そうとしてる。当主になって、内側から畳もうとしてる。──俺は、正月にあいつから直接聞きました。だが葛西さんは、それよりずっと前から知ってた。違いますか」

「……なぜ、そう思われます」

「屋敷で言ったでしょう。昔の詩音なら止められなかった。今の詩音なら背中を押す、って」

 

 ……あれが、ずっと引っかかっていた。理由はわからない。葛西さんは詩音の付き人である以前に、園崎組の幹部であり、園崎家の幹部でもあるはずだ。それが何故、詩音の味方になっているのか。けど、根拠のない確信はあった。葛西さんは知っている。

 

「あれは、慰めじゃない。何を止めるかを知ってる人間の言い方だ。──葛西さんは、知ってて、それでもあいつの味方でいる。」

 

 しばらく、返事はなかった。やがて、この人は短く息を吐いた。

 

「……その肯定が前提で、話がある。ということですね」

「えぇ、その通りです」

 

 やはり、そういう事だ。流石に話が早い……俺は膝の上の拳を、いったん開いた。

 

 ──ここからだ。

 

「頼みがあります。俺に、芝浦の件を調べさせてください」

 

 葛西さんの手が、ハンドルの上で止まった。

 

「……それは」

「ダメですか?」

「えぇ、危険です」

「危険なのは承知してます」

 

 葛西さんは首を振る。

 

「前原さんが不審に思うように、不審に思っている人間はおります。無論、私も。しかし、何が転がっているにせよ、堅気が触っていいものではありません。──前原さんは……失礼ですが、まだ高校生です」

「知ってます。けど、俺しかいないんですよ」

 

 俺は身を乗り出した。

 

「古参の連中は面子のことしか頭にない。宗石さんは何かに勘づいてるけど、多分立場上動けない。茜さんも組長も、下手に動けば家が割れる。──そして詩音は、当事者だ」

 

 葛西さんは、黙って聞いている。

 

「今のあいつが表立って芝浦を掘れば、政敵の粗探しをしてるって烙印を押されかねない。あれだけ啖呵を切った後だ……公然とは動きにくいはずだ」

「……」

「でも、俺は違う。どこの派閥でもなけりゃ、血も繋がってない。何より、誰も俺を数に入れちゃいない。──あの座敷で、鵜飼さんは俺を見ました。見て、それきり何も言わなかった。口をきく価値もない小僧だと思われたんですよ」

 

 拳が、また固くなっていた。

 

「だから、俺を警戒しない」

 

 車内が、静かになった。

 葛西さんは、しばらく前を見ていた。そして、こちらを向かないまま、言った。

 

「……なぜ、詩音さんに隠すのです」

「それは……」

  

 言葉に詰まりそうになって、小さく息を吸う。

 

「黙ってりゃ、俺が何を掴もうが、しくじろうが、あいつの手は汚れない。全部終わってから、結果だけ渡せばいい」

 

 言ってから、自分の言葉に気がついた。これ、あいつと同じこと言ってるな、俺。

 あの晩の、裏山の高台で。あいつは言った。これから私がやろうとしていることに、巻き込みたくない、と。矛盾だらけのことを並べて、俺を遠ざけようとして。でも、結局俺も同じ事をしようとしている……いや、これは“そうじゃない”。

 

「……前原さん」

「はい」

「それは、詩音さんが最も嫌う類の優しさでございます」

「知ってます」

 

 俺は、はっきりそう言った。

 

「それでもやります。バレたら、その時は素直にぶん殴られますよ」

 

 葛西さんは、また黙った。堤防の向こうで、水が流れている。

 やがて、この人はサングラスを外した。

 

 ──初めて見た。

 

 細い目だった。想像していたより、ずっと。だが、その目の下には深い皺があって、瞼が少し落ちている。疲れた男の目だ。

 その目が、俺を見た。

 

「──前原さん。ひとつ、お伺いしても」

「はい」

「あなたは、詩音さんのなさろうとしていることが、正しいとお思いですか」

 

 詩音がしようとしていること。

 

「園崎の家を畳む。組を切り離し、資産を分け、当主の座そのものを廃する。家の者から見れば、これは裏切りでございます。──あなたは、それが正しいと信じておられるのか」

 

 俺は、少し考えてから、正直に言った。

 

「分かりません」

 

 葛西さんの眉が、わずかに動いた。

 

「正しいのかどうかなんて、俺には判断できませんよ。組の人間が何百人いて、その家族がいて、それを全部ひっくり返そうって話でしょう。正しいわけがないって言われりゃ、そうかもしれない」

 

 俺は前を向いた。

 

「けど、俺にとってはそんなことはどうでもいいんです」

 

 そう、どうでもいい。そんな事は。重要なのは──

 

「あいつが、やりたいって言ったんだ」

「……」

「家に人生を奪われて、好きな人も奪われて、それでもあいつは今、笑って生きてる。その笑顔を失わせたくない──だから、俺はその隣にいる。理屈なんか要らねぇんだ」

 

 言い切って、俺は葛西さんのほうを見た。

 

「正しいかどうかなんて、後の連中が勝手に決めりゃいい。俺は、あいつを守りたいだけです」

 

 約束したから。世界が敵になったって、俺だけは側にいるって。

 

「でも今の俺じゃ、守れないんですよ。何ひとつ。──だから、お願いします」

 

 葛西さんは、俺の顔をじっと見ていた。長い時間、じっと。俺は目を逸らすことなく、じっと見返していた。

 やがて、この人は前に向き直って、ハンドルに手を戻した。

 

「……前原さん。私が『なりません』と申し上げた理由を、正しくお伝えしておきます」

「え?」

「あなたが、居なくなることが、恐ろしいのです」

 

 珍しく、葛西さんから感情的な言葉が溢れた、気がした。

 

「詩音さんは、今、あなたがいるから立っています。あの方は、世界中を敵に回して平気な顔ができる。──ただ一人、あなたが隣にいる限りにおいて」

 

 俺は、何も言えなかった。

 

「あなたが居なくなれば、詩音さんは──本当に潰れてしまう。今や貴方は……彼女の生きる意味そのものです」

「──っ」

 

 そんな事は、そう言いそうになって言葉に詰まる。

 葛西さんの声は、静かなのに、確かな響きをもって俺の胸に落ちてくるからだ。俺が居なくなったって……あいつなら、きっと。そんな風に思っても、何故か口には出来なかった。

 

「故に私は、あなたを行かせたくない。──ですが」

 

 この人は、サングラスをかけ直した。

 

「行かせぬことも、できません」

 

 エンジンをかけて、停止していた車を発進させる。

 

「行くなと申し上げたところで、あなたは行くでしょう。私が詩音さんに告げ口をすれば、あなたは詩音さんと喧嘩をして、それでも行くでしょう。──であれば、無防備なまま行かせるのが、最も愚かです」

「え、あの、葛西さん?」

「条件がございます」

 

 ハンドルを切りながら、この人は言った。

 

「芝浦へは、私が車を出します。土曜と日曜。──ですが、私が同行できぬ場面も必ずございましょう。その時、あなたが自分の身ひとつ守れぬのであれば、私は詩音さんに全てを話します」

 

 ……自分の身を、守ること。

 

「自分の身を守れる強さを得てください、前原さん。それが、私の唯一の条件です」

 

 俺は、その横顔を見ていた。

 

「……どうやって」

「仕込みます」

「は?」

 

 車は川沿いを走って、街の外れの、古びた平屋の前で止まった。

 板塀。傾いた門。奥に、暗い建物がある。

 

「園崎の道場でございます。今は誰も使いません」

 

 葛西さんが、車を降りた。

 

「明日から、週に三度。夜八時に、お迎えに上がります」

「ちょ、待ってください。俺は」

「これについては問答無用、とさせてください」

 

 この人は、門の錠を外しながら、こともなげに言った。

 

「私も、貴方には詩音さんの隣にいてほしい。ですから、私が責任をもって貴方を鍛えます」

 

 俺は車から降りて、その背中を追いかけた。

 埃の匂いのする道場に、裸電球が点る。畳は擦り切れて、壁には昭和三十年代の賞状が並んでいた。

 

 葛西さんが上着を脱いだ。ネクタイを緩め、ワイシャツの袖をまくり上げる。

 

 ──その腕を見て、俺は言葉を失った。

 

 太い。異常に太い。そして、前腕から肘にかけて、古い傷がいくつも走っている。

 

「葛西さん」

「はい」

「なんで、そこまでしてくれるんですか」

 

 この人は、しばらく黙っていた。

 それから、俺のほうを見ずに、こう言った。

 

「男には、そういう時がございますので」

「……なんすか、それ」

「美学ですよ」

 

 ふっと、葛西さんは静かに笑って。畳の中央で足を止めた。

 

「──前原さん」

「はい」

「私は一度、止めそこねております。でも貴方なら……きっと」

 

 ……え。

 

「何をです?」

「……いえ。年寄りの繰り言でございます。お忘れください」

 

 俺が聞き返す前に、この人は構えた。

 

「参りましょう。まずは、受け身から。──覚悟なさってください。私は、手加減が下手ですから」

 

 こうして俺は芝浦の調査と並行して、葛西さんからの特別特訓を受けることになったのである。

 

 

 

 

 で、道場での特訓の翌日。今週の土曜日もまた、朝から葛西さんの車で芝浦方面へと向かっていた。

 今日で五回目ほどになる。

 

 初めて降りたのは一月の終わり、道場での特訓が始まったのとほぼ同時期だ。駅前の商店街を見た瞬間に、宗石さんの言葉が全部本当だったと分かった。シャッターが、半分以上下りている。錆びて、色が抜けて、何年も開けられていない代物だ。開いている店にも客がいない。俺が魚屋に入ったら、新聞を読んでいた親父に驚いた顔をされた。

 

 人がいない町ってのは、こういう匂いがするのか。

 

 この一ヶ月、土日はこの町を歩いた。葛西さんが車を出してくれて、俺が話を聞いて回る。あの人がついてくると、どうしたって空気が変わるからだ。まあどう変装しても堅気の空気は出せないだろうしなぁ。

 

 その点、高校生ってのは便利だ。誰も警戒しない。道を聞くふりをして世間話に持ち込めば、そのうち向こうから喋り出す。雛見沢でも、そうやって村中の人たちと仲良くなったっけ。

 

 それで分かったことが、五つある。

 一つ。町は本当に死んでいる。これは宗石さんの言った通りだ。

 二つ。土地が売れている。商店街の外れにある、看板の傾いた不動産屋で聞いた。

 

「去年の秋くらいからかねぇ。売地の札が、次々になくなってったよ」

「誰が買ってるんです?」

「さあ。うちを通しちゃおらんもの。──直接、話がついとるんだろうな」

 

 三つ。買われた土地は軒並み建設利用の予定が一切ない。

 これも自分の足で確かめた。工場や造船所、倉庫など間抜けの殻で放ってある。

 

 ……予定の看板すらない。

 

 土地転がしなんてのは、ポテンシャルのある地域が前提の話じゃないのか。こんな場所なら、それこそ集客用の施設とか、何かを建てて初めて金になるもんじゃないだろうか。じゃなきゃ無駄に金を払うだけ。何ヶ月も草を生やして、何の得があるってんだ。

 

 

 四つ。港の倉庫には、夜、明かりがつく。

 三回目に行ったとき、日が暮れるまで粘った。商店街も、住宅街も、順番に暗くなっていく。その中で、港のほうだけが灯っていた。港は使われていないのに、なんの灯だろうかと気にはなったが、葛西さんから不用意に近づかない方が良いと忠告され、気になったままその日は退散を決め込んだ。

 

 そして、五つ目。これは、今日聞いた話だ。

 駅前に、煙草屋がある。婆さんが一人でやっている、間口一間の小さな店だ。四回目に道を聞いて以来、行くたびに顔を出している。

 

「見ん顔の男が、ようけおるようになったねぇ」

「見ない顔?」

「そう。この町の人間やない。──言葉が、ちがうんよ」

「訛ってる、ってことですか」

「そうさねぇ」

 

 婆さんは、煙草の箱を並べ直しながら、思い出したように顔を上げた。

 

「そうだ、あんた。船は見んかったかね」

「船?」

「昔は、あの港にいくらでも入っとったんよ。造船所が生きとった頃はねぇ。──それが、もう何年も、ぱたりと止まっとった」

 

 その話は宗石さんたちからも聞いている、が。

 

「それがね」

 

 婆さんの手が、止まった。

 

「去年の秋くらいからかねぇ。夜になると、小さいんけど、汽笛が聞こえるようになったんよ」

 

 

 帰りの車の中で、俺はその話をした。

 葛西さんはハンドルを握ったまま、しばらく何も言わなかった。芝浦から興宮まで、電車なら三十分の道を、この人はいつも一時間かけて走る。遠回りだ。尾行を警戒しているのだと、三回目にようやく気づいた。

 

「船、ですか」

「ええ。去年の秋から」

「……土地が売れ始めたのと、同じ頃合いでございますね」

「そうなんですよ」

 

 窓の外を、街灯が流れていく。

 

「全部、去年の秋なんです。土地が動き出したのも。見ない顔が増えたのも。船が入るようになったのも。──鵜飼さんが芝浦に入ったのも」

 

 葛西さんは、答えない。

 

「でも、そこから先が分からない。誰が土地を買ったのか。倉庫で何をしてるのか。船が何を運んでるのか……もしかしたら全部たまたまで、別々の案件なのかもしれないけど」

 

 俺は膝の上で拳を握った。何もわかっちゃいない、一か月という月日の経過があまりにも短く感じていた。

 

「圭一くん、焦りは禁物です。道場でも同じ、焦った方が投げられる」

「はい」

 

 葛西さんが、前を向いたまま静かに言った。その通りだ。成果を期待して勇み足になれば、思わぬ力ですくわれる。それをこの人には一か月しっかり教え込まれているじゃないか。

 俺は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。心は熱く、頭をクールに、だろう。前原圭一。

 

「ありがとうございます、葛西さん」

「いえ、私の独断でしていることですから」

 

 頼もしい返事をもらって、更に頭は冷静になれた。

 車が興宮に入る。と、葛西さんがウインカーを出して、マンションのある通りを素通りした。

 

 この一ヶ月、俺たちはマンションの前で降りたことがない。二本手前の細い路地。街灯が一本しかない、暗くて狭い道だ。そこで降りて、俺は歩いて帰る。

 詩音に見られないためだ。あいつの部屋は三階の角で、窓から通りが見える。葛西さんの車が停まれば一発で分かる。

 

 車が停まった。路地は暗い。人影もない。俺は鞄を掴んで、ドアを開けた。

 

「……用心深いっすね」

「詩音さんは、こういうことには目ざといので」

「違いない」

 

 二人して小さく笑う。

 そのまま鞄を掴んでドアを閉めようとして──

 

「──あらぁ、誰が目ざといんです?」

 

 背後から。耳元で。

 

「──ッ!?」

 

 俺はとっさに飛び退いた。が、実際には足がもつれて、そのまま情けなく尻餅をついてしまう。

 なんだ幽霊か!?悪霊か!?そんなわけはない、聞き覚えのある声に俺は反射的に首を振る。そんなわけはない、あるとすればそれは、俺のあいつへの後ろめたさが聞こえさせた幻聴だ。そうに違いない、ってかそうであってくれ。

 

 心臓が俺の逃避を許さないかというように、肋骨をぶち破る勢いで暴れ、警告している。

 恐る恐る見上げると、街灯の下に、見知った女が立っていた。

 制服のままだ。コートも着ていない。両手を後ろで組んで、じいっとこちらを見下ろしている。

 

 ……園崎詩音。俺の雇い主その人である。

 

「し、詩音……」

「はーい」

「い、いつから」

「さあ。いつからでしょうねぇ」

 

 詩音は、にっこりと笑った。

 ……いや、笑ってない。口の端が上がっているだけで、目がまったく笑ってない。街灯の逆光で、顔の半分が影になっている。

 

 いやめっちゃ怖いんだが。音もなく、気配もなく。完全に無防備な背後を取られていたことになる。前世は暗殺者だったりするのかこいつ?

 

「な、なんでここに」

「散歩ですよ、さ・ん・ぽ」

 

 俺は尻餅をついたまま、後ずさろうとした。詩音が一歩、前に出る。

 足音が、しない。

 

 ……なんだこれ。この女、こんな能力あったか?

 

 と、運転席のドアが開いた。

 

「──詩音さん」

 

 葛西さんが、車から降りてきた。そうだ。この人、まだいたんだ。

 だが葛西さんは、驚いていなかった。俺が腰を抜かしている横で、この人はごく静かに、詩音の正面に立って一礼した。

 

「やはり、気が付いていらっしゃいましたか」

「へ?」

 

 俺は思わず葛西さんを見上げた。

 

「葛西さん。今、なんて」

「詩音さんが路地におられることは、曲がる前から存じておりました」

「──は?」

「五十メートル手前で、電柱の陰に。あの角度ですと、街灯が影を伸ばしますので」

 

 おいおい。知ってて、俺だけ降ろしたのかよ、この人。

 

「か、葛西さん!?なんで教えてくれないんですか!」

「申し上げれば、あなたは逃げると思いまして」

「そりゃ逃げますよ確実に!」

 

 ……この、人は。

 

「あら葛西。ずいぶんと私の付き人らしいじゃないですか」

 

 詩音の声は明るさこそあれ、しっかりと葛西さんを非難するような棘が仕込まれていた。

 

「最近はずーっと圭ちゃんと一緒みたいでしたから、てっきり転職するのかと思ってましたよ」

「……恐れ入ります」

「ったく」

 

 ジト目の詩音にも、葛西さんはさっと会釈するのみ。まるで豪風をいなす柳のごとく。

 俺はどうにか立ち上がって、鞄の埃を払った。膝がまだ笑っている。

 落ち着け、前原圭一。こいつが握ってるのは、俺が葛西さんの車で帰ってきたって一点だけだ。それ以上は何も知らない。ならば、しらを切れ。

 

「ど、どうしたんだよ詩音」

「あら、圭ちゃんこそ、こんな休日にどこにお出かけで?」

「俺は、えっと、あれだ、ちょっと隣町の書店に行っててな。」

 

 詩音はじーっとこちらを睨みつけてくる。全く信じていない目だ。けど、負けるな!ここは何としてもシラを切り通さないと明日はない!

 

「まあ、いいですよ。別に隠さなくても。──宗石さんから聞きましたから。芝浦地区で圭ちゃんを見かけたって」

「え。宗石さんが?来てたのか?見かけなか──」

 

 そこで言葉が詰まる。しまった、まんまと嵌められた……葛西さんが深々と溜息をつき、詩音がにやりと微笑む。

 

「やっぱり圭ちゃんも、芝浦に行ってたんですねぇ」

 

 やはり勘付かれていたのだろう。その名前が出てくるってことは、つまりはそういう事だ。詩音は腕を組んで、心の底から呆れたような顔をしていた。

 

「休日のたびに出かけて、行き先を聞けば『ちょっとな』の一点張り。挙句、マンションの手前で降りてこそこそ帰宅。──圭ちゃん。あなた、私を誰だと思ってるんです」

 

 ……そりゃまあ。園崎詩音だよな。気が付かない方がおかしい、か。

 

「悪かった。……その、お前を巻き込みたくなかったんだよ」

 

 詩音が、にっこりと笑った。

 

「へえ。巻き込みたくなかった。──ねえ圭ちゃん。あの晩、私が同じことを言ったとき、あなたなんて言いました? 知ったことか、でしたっけ。人の話も聞かずに、勝手に抱きしめて、勝手に黙らせて。──で、今度はご自分がそれをやると。私はダメで、圭ちゃんはいい。そういうことでよろしいですか?」

「ゔ」

 

 帰す言葉もない。

 立て続けに逃げ道を封じられて、小さくならざるをえない。主人の前で、付き人など所詮無力なのだ。

 

「はぁ」

 

 詩音が深いため息をつく。そこへ、葛西さんが静かに前へ出た。

 

「詩音さん。圭一くんは、あなたの隣に立ちたい、少しでも役に立ちたいという一心で、一ヶ月あの町を歩き続けました。──男には、そういう時がございます」

 

 この人、いいこと言ってる風で完全に共犯者の弁明である。

 

「葛西。私だって圭ちゃんを思って遠ざけようとしたんですよ?それを踏み潰したのは、圭ちゃん自身です。それに、男だの女だのという物言いはナンセンスです。時代はジェンダーフリーですよ」

「今、昭和だぞ」

「しゃらっぷ!」

 

 理不尽だ。

 

「まったく、二人して。──だいたい葛西。あなた最近やけに圭ちゃんの肩ばっかり持ちますよねぇ。芝浦の件も私には一言もなし。挙句この期に及んで庇い立てまで」

「いやはや、面目次第もございません」

 

 葛西さんが恭しく頭を下げる。だがこの人、口元がわずかに緩んでいる。反省の色が皆無だ。

 

「それに、圭ちゃんへの呼び方も変わってますし。一体いつからそんなに仲良くなったんです?」

 

 そういえば、以前は「前原さん」だったのが、いつの間にか「圭一くん」になってたな。言われて初めて気が付いた。

 

「圭ちゃん。手を出してください」

「なんもねぇよ」

「出・し・て・く・だ・さ・い」

 

 凄まじい笑顔で迫られ、俺は観念して両手を差し出した。街灯の下で、詩音がそれを掴む。豆が潰れて皮が剥けて、また下からできて、その繰り返しの一ヶ月分の手だ。

 

「一体どうしたらこんなスポーツ選手みたいな手になるんですか」

「あー、これは……」

「毎晩どこかへ出かけてると思ったら──葛西。この人に何を仕込んでるんです」

 

 俺が葛西さんを見ると、この人は実にあっさりと言った。

 

「柔術です。週に三度、園崎の道場で」

「言うの早ッ!」

「こうなったら、詩音さんに隠し事は無理ですよ」

 

 詩音の表情が、すとんと抜け落ちた。

 

「……つまり。毎晩こそこそ出かけて、どこの誰と浮気してるのかと思ったら──まさかの、葛西?」

「浮気いうな。ってか、浮気ってなんだよ」

「人に黙って夜な夜な出かけて、男と組んづほぐれつしてやがってて……しかも相手はうちの付き人!斜め上すぎて、私、怒りを通り越して感心してるんですよ」

「だから柔道だっつってんだろッ」

 

 人聞きの悪い言い方をすんな!

 

「はっはっは」

 

 葛西さんが、実に朗らかに笑った。この人だけ、状況に全くついてきていない気がする。ある意味。

 

「詩音さんは拗ねてるんですよ。圭一くんとの時間を取られて」

「ちーがーいーまーすっ!」

 

 詩音が葛西さんの足を踏む。しかしこの人、微動だにしない。何なんだこの二人。

 ひとしきり騒いだ末、俺はアスファルトの上で正座させられていた。冷たい。しかも尻に小石が刺さっている。

 

「ま、圭ちゃん。やめろと言っても、やめないんでしょう」

「……」

「はぁ……私が止めれば、あなたは今度こそ一人で行く。葛西も使わず、電車で、のこのこと。──そのほうが百倍危ないんですよ」

 

 詩音は天を仰いで、深いため息をついた。それから俺の前にしゃがみ込んで、目線を合わせてくる。

 

「条件を出します。現地へ行くのは圭ちゃんだけ。私が芝浦をうろついたら、その日のうちに鵜飼の耳に入りますから。──ただし、何があっても毎回三人で集まって報告の場を設けます。見たもの、聞いたこと、考えたこと、全部です」

「あ、いや、だから」

「返事は?」

「……はい」

 

 逆らえる空気じゃなかった。抵抗むなしく頭を垂れると、詩音は「よし」とやっと納得したように小さく頷いてみせた。まあ、詩音が直接出歩かないなら、危険も少ない……だろうしな。多分。

 

「ったく。本当は、一、二発ぶん殴ってやるつもりだったんですけど」

「物騒だなオイ」

 

 こいつはしばらく黙って、それから、ぷいと顔を背けた。

 

「……浮気じゃなかったんで、許したげます」

 

 言い捨てて、さっさと歩き出す。俺は正座したまま、その背中を見送っていた。

 だから浮気って……なんでそうなるんだっての。

 

「圭一くん。お立ちになっては」

「無理っす。足がしびれて」

 

 柔道で満身創痍なところ、正座でお説教とは。泣きっ面に蜂とはまさにこのことか。

 

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