二月も下旬に入って最初の日曜、その夜のことだった。俺の部屋の炬燵には三人分の湯呑みと、詩音が広げた紙の束が載っている。報告会も何度目になるか分からないが、毎晩顔を突き合わせているうちに、詩音は議事録なんてものまで作り始めていた。
「ちょっと気になる話があるんです」
詩音が紙束から一枚を抜いた。学校のガリ版刷りだ。
「先週、芝浦の高校で、生徒が三人捕まったんですよ。覚醒剤の所持で」
「へえ」
俺は湯呑みを傾けた。芝浦は、お世辞にも治安のいい場所じゃない。もとは造船と港で食ってきた町で、景気のいい時分には出稼ぎ労働者が全国から流れ込んで栄えたらしいが、造船が傾いて工場が畳まれると、仕事だけが先に消えて、人だけが取り残された。今じゃ日中から酒臭い男が道端に座り込み、軒下で寝てる者も珍しくない。
早い話、生活の水準が高いとは言えない土地だ。当然、文教地区とは程遠くて、周りの学校はどこも荒れている。だから高校生が薬に手を出したと聞いても、正直、驚きはしなかった。
「……で、それの何が気になるんだ?」
「──そのブツってのが、見たこともないような外国製だったらしいんです。しかも、ここだけの話ですけど、その子たち、『ヤクザから買った』って言ってるらしくて」
……ヤクザ。俺は湯呑みを置いた。芝浦でヤクザといえば、思い当たる先は一つしかない。
「それ、園崎組のことじゃ」
葛西さんのほうを見ると、この人はゆっくり首を振った。
「いえ、園崎は、薬を扱いません。代々、そこだけは一度も曲げておりません」
迷いのない声だった。じゃあ、園崎以外のヤクザが、園崎の庭で好き勝手やってるってことだろうか。
芝浦といえば、鵜飼が急にシノギを立てた町でもある。会合やその後の宗石さんら園崎家から聞いた話だと、昨今、都会のほうで芝浦再開発の噂が立ち始めているらしい。
まだ噂の段階だが、いずれ開発会社などが土地を欲しがる。鵜飼はその波を先読みして、宗石さんの縄張りだろうとお構いなしに乗り込み、自分の不動産を通じて造船所跡や倉庫を安く買い占めた。そのうえで、目をつけた会社に「まずは安く借りて、物になりそうなら買い取ればいい」と持ちかける。その賃料と仲介料が、そっくりシノギになっていた――というのが、鵜飼の言い分らしかった。
もっとも、俺が歩いた限りじゃ、買われた土地はもぬけの殻の建屋のまま放置されてるような有様だったが。様子見の段階だから当然なんだろうが、なんとも寒々しい眺めではある。会合で鵜飼の隣に座っていた男は、そんな土地の借り手、大阪の観光会社の社員と紹介されたという。カタギには到底見えなかったが、あれが借り手ってことらしい。
結局あの土地は宗石さんのシマに戻ったが、不動産そのものは鵜飼が握ったままだ。内情はほとんど入ってこないし、最近は肝心の仲介話もめっきり鳴りを潜めて、一月の会合で約束したシノギは右肩下がりだと聞く。宗石さんたちも踏ん張ってはいるが、また鵜飼に奪い返されるのは、もう目に見え始めていた。
「実は」と、葛西さんが湯呑みを置いて口を開く。
「同業伝いの話ではありますが、私も似た噂を耳にしておりました。芝浦で、海の向こうのヤクが動いていると。──ただ、そう話す連中が揃いも揃って半信半疑なのですよ。『園崎がそんな掟破りをするのか』と」
なるほど……園崎の「薬をやらない」という掟は他の組にも知れ渡るくらい有名なのか。
「で、葛西さんはどう睨んでるんです」
「まず間違いなく、鵜飼でしょう。あの男が芝浦に入ったのと、ヤクが動き出したのが、同じ時期です。死んだ町から三月で数字を作った手腕も──そう考えれば、腑に落ちる」
「つまり、土地がどうのっていうのは」
「恐らく薬を裁くための表向きの口実なのではないか、と」
掟が図らずも隠れ蓑に、ってことか。
「なら、話は早いんじゃないですか」
薬をやってるなら、園崎から警察にでもリークして失脚させりゃいい。そう思ったんだが、葛西さんは力なく首を振った。
「それが、そう簡単でもないのです。会合のあと、鵜飼も、その手下も、誰ひとり現場で見かけた者がおりません。倉庫にも、港にも、芝浦に足を運んだ形跡すら、ほとんど残っていないらしいのです」
「けど、薬は継続的に出回ってる、と」
「えぇ」
鵜飼という男は相当に周到な男のようだ。そうでもなきゃ、平然と組の掟を破りながらのし上がるなんてことできっこないか。
「葛西、組の金庫番はどうなってるんです?仮にヤクを捌いているなら、金額はたとえば別のとこにプールしておくなりして帳尻を合わせられるとしても、賃料だの仲介料の証拠はないんじゃ?」
「……そこも悩みの種でして」
葛西さんはため息をついて、続ける。
「鵜飼のいう賃料や仲介料は確かに存在しているようなのです。実際に、都会の開発会社からの賃料や仲介料が入っている証拠もある。それもどれもがちゃんと、報告通りの数字のようです。」
「実態はともかく、表向きまっとうな商いはしているってか」
詩音が舌打ちしてつぶやく。
いやまっとうの商いじゃないだろというツッコミは元も子もないので置いておく。
俺たちは炬燵の天板を見つめた。何かきな臭いことが起きているのは間違いない。
「圭ちゃんのほうは?何か拾えました?」
詩音に振られて、俺は湯呑みを置いた。胸を張れるような収穫はないが、引っかかってることなら、いくつかある。
「駅前の煙草屋の婆さんが、妙なことを言ってた。──ここ数ヶ月、港から汽笛が聞こえることが多くなったらしい」
「数ヶ月というと」
「去年の秋、くらいからだな。とくにここ数年はめっきりそんな機会もなかったらしいから、よく覚えてるってよ」
これも鵜飼が芝浦に入ったのと、同じ時期だ。
「あとは、昼間何度か港のほうに何度か足を運んだんだけど」
あそこには、行き場のない年寄りが何人か、倉庫の軒下で寝起きしている。最初は追い払われたが、通ううちに、一人だけ口をきいてくれる爺さんができた。何度目かに焼酎を持っていったとき、そいつがぽつりと言ったんだ。夜明け前になると、船が着くんだと。
「使ってないはずの岸壁に、明け方近く、船が入るって目撃情報があった。荷を担いだ男らが、それを倉庫のほうへ運んでいくんだと。……あんまり見ないほうがいい、って、声を潜めてたよ」
炬燵が、しんとした。葛西さんの神妙な表情が話を促そうとこちらを見る。
「船で、荷が……」
「そうです。夜明け前に、海から。倉庫のほうへ。──リゾート会社だの何だのの下見に、船で荷を運び込む必要ってあるんですか」
葛西さんが、わずかに眉を寄せた。
「……確かに、妙な話ですね。土地を見に来るだけなら、船も荷も要りません」
「ですよね。測量だの地質調査だの、そういうのに海から荷は必要ないはず。というか、とっくに使われてないあの港には夜中に船が入って、倉庫に荷が運び込まれてる」
俺は、頭の中で言葉を探りながら続けた。
「あいつら、土地なんてどうでもいいんじゃないですか。リゾートってのはただの看板で──本当に欲しかったのは、あの港と倉庫のほうなんじゃ」
港。倉庫。夜明け前に、海から入る荷。そして、詩音が持ってきた話。芝浦に出回り始めた、外国製の薬。
「……ほぼ間違いなく、ブツの密輸でしょうね」
詩音は目を細めながら、確かめるようにしてこちらを見る。
「葛西」
「えぇ──必要なのは、証拠ですね」
葛西さんが、ため息とともに言った。
「現状は所詮は噂話でございます。船から降りた荷が薬だと、誰も見てはいない」
「だったら、張り込みでもして現場を抑えれば」
「危険です。もし万が一密輸の現場であれば、それこそ命に関わります」
俺は口をつぐんだ。実際、あの港の空気は、昼間でもぞっとするものがあった。夜中に一人で踏み込む度胸は、正直俺にもない。
「──ひとつ、確かめさせてください。葛西、園崎は薬をやらない。これは絶対ですね」
「絶対です。組長の代でも、その前でも、そこだけは一度も曲げていない」
「わかりました。じゃあ、話を整理しますよ」
詩音が指を一本立てた。
「芝浦で薬が動いてる。でも園崎はやらない。なのに芝浦は、園崎の縄張りです。──つまり園崎の庭で、園崎じゃない誰かが薬を捌いてる。ここまではいいですね?」
「ああ」
「じゃあ圭ちゃん。よその人間が勝手に他所の縄張りで商売を始めたら、どうなると思います?」
「……そりゃ、揉めるだろ。喧嘩だ」
「そうです。喧嘩どころか、戦争ですよ。挨拶もなしに縄張りを荒らすなんて、この世界じゃ一番やっちゃいけないこと。──なのに芝浦じゃ、何ヶ月も静かに薬が捌かれ続けてる」
誰も揉めていない、戦争になっていない。ということは、園崎の側の誰かが、黙って使わせているということだ。園崎の縄張りを好きにできる立場の、園崎の人間が。
そしてそれが恐らく──鵜飼。
「鵜飼──あの人が、大阪の観光会社に芝浦を使わせてる。表向きは、リゾート会社に土地を貸したってことにして。──本当は、薬の売人に、港と倉庫を使わせてる」
「ええ。その可能性が一番高いでしょうね。そして、その場所代を」
詩音が、後を継いだ。
「賃料と仲介料って名目で、堂々と帳簿に載せてる。──ほんと、反吐が出るくらい綺麗な絵ですねぇ」
「つまり鵜飼は、園崎を売ってる。この家の看板で、この家の庭を、薬の売人に貸している」
俺の言葉に、葛西さんは小さく息をついた。怒りか、呆れか。両方か。そりゃそうだろう……組としても家としても面子が丸潰れだ。これ以上の屈辱もないんじゃなかろうか。
「飽くまでも、状況証拠だけの推論っすけど」
「いえ、お二人の見立てはほぼ間違いないでしょう……組として、お恥ずかしい限りです」
炬燵の上に、重い沈黙が落ちた。筋は通った。全部が繋がった。──だが、肝心の証拠がない。
「……なあ。これ、どうやって鵜飼に突きつけるんだ。帳簿は綺麗、賃料も仲介料も報告通り。あの大阪の観光会社ってのが薬の売人だって分かれば話は早ぇけど、それを調べる方法が、俺たちにあるのか?」
「うーん」
詩音はあからさまに表情を曇らせる。
「まっとうな力が要ります。登記だの金の流れだの、素人が突っついてどうにかなるものじゃない。──それに、そもそも私には、鵜飼の帳簿を開ける権限すらないんです。跡目候補ってだけじゃ、何の力にもならない」
詩音が、膝の上で拳を握った。白くなったその手を、俺は黙って見ていた。
答えは、もう目の前にある。手が届きそうなところにある。なのに、それを掴むための力が、俺たちには何一つ揃っていない。──なんて、もどかしいんだ。
葛西さんが帰っていくと、部屋には俺と詩音の二人が残された。
時計はもう十時を回っている。詩音は当たり前みたいに湯呑みを流しへ運び、俺は炬燵の天板に散らばった議事録をかき集めた。
「圭ちゃん、そっちの湯呑みも」
「おう」
放り投げるみたいに手渡すと、詩音が危なげなく受け取った。流しで水を使う音がする。俺はその背中を眺めながら、議事録を封筒に戻した。
「しかし、まいったな」
俺が独りごちると、詩音が振り返らずに能天気に答えた。
「答えは見えてるのに、手も足も出ない。──もどかしいですねぇ」
「他人事みたいだなぁ」
「ま、こういう時は考えても仕方ないですしねー」
布巾を片手に戻ってきた詩音が、そのまま俺の隣にすとんと座った。炬燵に足を入れて、肩が触れる。触れても、どちらも引かない。近すぎる距離が、いつのまにか普通になっているような気が……
「あ、圭ちゃん。はい、口開けて」
「あ?」
言われるままに口を開けると、さっき茶請けに出した煎餅のかけらが放り込まれた。
「……なんだよ、いきなり」
「余ってたので。捨てるのももったいないでしょう」
「扱いが雑すぎるぞ」
「ふふ、付き人なんてそんなもんですよ」
けらけら笑う詩音の髪に、何かがついている。俺は考えるより先に手を伸ばして、その埃をつまんで払ってやった。詩音は「んー」と気の抜けた声を出しただけで、避けもしない。
……いや。これ、傍から見たらだいぶ変な絵じゃねぇか?まあ、いいか。誰も見てねぇし。
「圭ちゃん」
「なんだ」
「今日も、ありがとうございました。芝浦、大変だったでしょう」
「別に。歩いてただけだよ」
「それが一番大変なんですよ」
詩音が、こつん、と俺の肩に頭を預けてきた。深刻な感じじゃない。疲れた猫が、暖かいところに寄ってくるみたいな、それだけの動き。
しばらく、二人で炬燵の熱にあたっていたが……
「……ねえ、圭ちゃん」
「ん」
「もし、これが本当にヤバい話だったら。そのときは、ちゃんと逃げてくださいね」
「嫌だね」
「即答ですか」
詩音が、肩の上でふっと笑うのが分かった。
「ここで引いたら、なんつーか勿体無いだろ。読みかけの推理小説を途中で返しちまう、みたいな」
「なんですかそれ?私の家が結構めちゃくちゃになってる深刻な問題なんですけど?」
「その家ごと消し去ろうとしてる奴がよく言うぜ」
ひとしきり笑うと、詩音が立ち上がってぐっと伸びをする。
「さて、と。──圭ちゃん、お風呂沸いてます?」
「まだだ──って俺かよ、自分の部屋で入れって」
「あら、たまにはいいじゃないですかぁ。なんなら一緒に入ります?」
「ばっ、からかうな!」
楽しそうに舌を出して、詩音はパタパタと玄関を出て行った。