ひぐらしのなく頃に〜後祭り編〜 作:村人A
マンションに来て、一週間。大きく感じたことといえば、ここの天井には、シミがないことだった。
病院の天井には右から三番目にシミがあって、俺はそれを毎日眺めているだけの生活だったからだ。生活が丸ごと変わる、その象徴が天井だったわけだ。
詩音は毎日、情報共有の時間を作ると言い出した。しかしまだ特に仕事をしているわけでもないので、毎回どうでもいい馬鹿話にしかならない。それでも会話を交わすことが重要だという彼女の命に、特に逆らう意味もないので従っている。
勉強も始まった。転入に向けた準備とやらで、詩音が教えるつもりでいたらしい。彼女はなるほど成績が良いのは嘘ではないらしかったが、蓋を開けてみたら話が逆になって、気づけば俺が教える側に回っていた。本来の趣旨とあべこべだが、教える方も勉強になるので特に俺としても異存はなかった。
一方で仕事は、何もなかった。
詩音が言う「俺への仕事」というのが何を指すのかもよく分からず、しかし一週間経っても一向にそれらしい話が来ない。誰かと話し、学び、そして誰かとご飯を食べる。ただそれだけ。普通の生活。
生きているということが、これほど静かなものだったのかと、改めて思い知る。病院にいた頃とは違う静けさだ。あっちは虚無の静けさで、こっちは——普通の静けさだ。普通、という言葉を久しぶりに実感した気がした。
しかし、平穏とは突然崩れるものである。
この日の夕食後、詩音が「明日、最初のお仕事をお願いします」と言ってきたのだ。
ついに来たか。
葛西さんは食器を片付けながら特に表情を変えず、詩音はにこにこしていた。その笑みが屈託のないもので、逆に恐ろしくも思える。
さて、どんな仕事が来るのか。
部屋に戻って、ベッドに腰を下ろして考える。詩音は跡目争いの渦中にいる。園崎家というのはメインがヤクザの組織だ。その中で動くということは——誰かを脅す必要があるかもしれない。あるいは、もっと物騒なことを頼まれるかもしれない。最悪、誰かを——
まあ、俺は死人も同然だ。北条鉄平だけじゃない、村人千人以上を殺した大罪人。今更何を怖がる必要がある。正直怖くないと言ったら嘘になるが、それでも腹は括らないといけない。怖いなんて感情を持つこと自体が贅沢なんだ──これは罰であり、契約なのだから。
心を無にしようとベランダに出た。夜の興宮の街が広がっている。遠くに街灯の光。どこかで車が走っている。空には薄く雲がかかっていて、星はほとんど見えない。
床に座って、足を組んだ。目を閉じる。呼吸を整える。
心を無に。心を無に。何も考えない。ただ、目の前のことをやるだけだ。感情を切り離す。俺はただの駒だ。詩音の駒だ。駒に感情はいらない——
「……何やってるんですか」
目を開けると、隣のベランダに詩音が立っていた。風呂上がりらしく、髪がまだ少し湿っている。部屋着姿で、俺を見下ろしていた。
「精神統一だ」
一瞬の間があった。
「ぷっ——」
詩音が吹き出した。口を押さえたが、肩が揺れているのが丸見えだ。
「笑うなよっ」
「だってっ——!」
堪えきれなくなったらしく、腹を抱えて笑い出した。夜の興宮に、その笑い声が響く。コイツ……人の気も知らないで。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「だってっ……ふふ、だって圭ちゃん、病室では世界の全てを知ったような顔して、皮肉ばっかり言って、死ぬのも怖くないどころか殺してくれとか言ってたじゃないですか」
「……」
「それが仕事にビビって、坐禅組んで精神統一って——」
また笑い声が弾けた。今度はもう堪える気もないらしい。
本当に急に恥ずかしさが込み上げてくる。今の自分に対してではない。入院していた時の俺に対してだ。いや、俺は間違ってないはずだ。コイツがおかしいだけだ。住んでる世界が違い過ぎるだけで。
「ビビってるわけじゃない。心の準備をしてるんだ」
「同じですよぅそれ」
……まあ、そうかもしれない。
詩音はひとしきり笑ってから、目の端に浮かんだ涙を指で拭った。
「……おやすみなさい、圭ちゃん。風邪ひかないようにしてくださいよ」
それだけ言って、詩音は自分の部屋に戻っていった。
俺はもう一度目を閉じた。
心を無に。心を無に。
明日、何が来ても受け入れよう。そう決めて、その夜は眠りについた。
翌日。
葛西さんの車が止まったのは、隣県のショッピングモールの駐車場だった。
大きい。それが最初の印象だ。休日ということもあって、駐車場はほぼ埋まっている。入り口には家族連れや若いカップルが次々と吸い込まれていく。人、人、人。
なるほど。
人を隠すなら人の中、か。あえて人目が多いところを選ぶわけだ。確かに理にかなっている。この人混みの中なら、多少物騒なことが起きても騒ぎに紛れられると言ったところか。拉致か、あるいは——いや、暗殺にしては場所が開けすぎている。もしかして取引か?何かの受け渡しか?
頭の中でシミュレーションを始めていると、助手席のドアが開いた。詩音が颯爽と車を降りる。
「じゃ、行きますよー圭ちゃん」
そのまま歩き出す。軽やかな足取りで。慌てて降りて、その背中を追いかける。
「ちょっと待ってくれ。まだ仕事内容を教えられてねぇぞ」
「決まってるじゃないですか」
詩音は振り返りもせずに言った。
「買い物の付き添いですよぅ」
……は?
買い物。かいもの。それが何かの隠語である可能性を咄嗟に考えた。買い物——人身売買とか?いや、まさか。でもヤクザの世界には色々と隠語があると聞いたことが——
「荷物持ちをやってもらいます。今日は色々回る予定だったので、人手が必要で」
「……えっと」
俺は立ち止まった。
「マジの、買い物、なのか?」
「それ以外に何に見えるってんです?」
詩音がようやく振り返った。きょとんとした顔だった。本当に、心の底から、何がおかしいのかを理解していない顔だった。
「それが……仕事?今日の?」
「そうですよ。重要なミッションです」
ショッピングモールの入り口が、目の前にある。家族連れが横を通り過ぎていく。どこかで子供が笑い声を上げている。
昨夜の坐禅は、完全に無駄だったらしかった。
洋服屋に入ると、詩音のスイッチも入るらしい。
飄々とした歩き方が消えて、ハンガーラックの間を縫うように動き始める。次々と服を手に取って、広げて、戻して、また手に取る。そのペースが妙に速い。俺はただその後ろをついていくだけだ。
まだ洋服屋に入って五分も経っていないのに、既に手には数着の洋服が──女子の買い物って、皆こうなんだろうか。
「ちょっと待っててください」
詩音が何着かを抱えて試着室に消えた。
俺は入り口近くの柱に背を預けて待った。店内にはBGMが流れている。他の客が楽しそうに服を選んでいる。なんか場違いだな、と思った。黒いスウェット姿の男が洋服屋の柱に寄りかかっている絵面は、どう見ても買い物客には見えない。というか、単純に居心地が悪い。
試着室のカーテンが開いた。
詩音が出てきた。淡い色のワンピースだった。
「どうですか」
「似合ってるんじゃねぇか?」
「……もっとちゃんと見てください」
ちゃんと見て、似合っていると思うと言ったんだが……なにが不満なんだ。
詩音は少し唇を尖らせながら試着室に戻った。しばらくしてまたカーテンが開く。今度は少し落ち着いた色合いのブラウスだった。
「こっちはどうですか」
「似合ってと思うぞ」
「また同じ返事ですか」
だって似合ってないとは思わないし、他に言いようもない。
詩音は何かを言いかけて、やめた。それからため息をついて試着室に戻った。
三着目。カーテンが開く。今度は少し華やかなデザインの服だった。
「……どうですか」
「あぁ、似合ってるんじゃね?」
長い沈黙だった。詩音がこちらをじっと見ている。笑っているわけでも怒っているわけでもない。ただ、静かに、じっと見ている。
「……圭ちゃん」
「なんだ?」
「ちょっとそこに座りなさい」
「え」
「ほら、正座!!」
有無を言わさぬ声だった。俺は気づけば店の隅で正座していた。なんで俺は洋服屋で正座しているんだ。
詩音が腕を組んで俺の前に仁王立ちになっている。
「アンタ、大災害と一緒に乙女心を慮る機能も無くしてきたみたいですね」
「ブラックジョークが過ぎるぞオイ」
「やかましい」
一蹴される。つーか、怖い。目が。
「女の子が服を着て感想を聞くというのはですね、単純に似合ってるかどうかを聞いてるわけじゃないんですよ。どこがどう似合ってるのか、なぜ似合ってるのか、あるいは他のものと比べてどうなのか。そういうことを聞いてるわけです。分かりますか?」
「えっと……なんとなく?」
「なんとなくじゃダメです。女の子とどこかに行くことがあったら、ちゃんと相手を見て、ちゃんと言葉にする。それが最低限の礼儀というものです」
「俺に女の子と出かける予定なんてないけどな」
「今まさに出かけてるじゃないですか」
そりゃそうだけど……俺は飽くまで荷物持ちであって。
「それに今後そういう機会がないとも限らないでしょう。人生何があるか分からないんですから」
「いや、そもそもだな……」
「口答えですか?」
詩音がさりげなくポケットに手を入れた。スタンガンの輪郭が、布越しにうっすら見えた。マジかこいつ。
「……なんでもないです」
「よろしい」
なんでスタンガンを買い物に持ってくるんだこいつは。というかそれ、持ち歩いていいやつなのか。色々と突っ込みたいことはあるが、今は黙っておくのが正解だろう。
……死にたいとは口にしたが、いくらなんでもこんな情けない死に方は、ちょっと。
「では改めて」と詩音が服の裾を少し広げながら言った。
「どうですか」
機嫌を損ねると、下手したら病院に強制送還させられるかもしれない。死活問題だ。俺はちゃんと見た。デザイン、色、全体のバランス。詩音の雰囲気に合っているか。
「……明るい色の方が、お前には合う気がする。それはちょっと大人しすぎるんじゃねぇか」
詩音が目をぱちくりとさせた。
「……なんですか急に」
「聞いたのはお前だろ」
「まあ、そうですけど」
詩音は少しぎこちない動きで、試着室に戻った。カーテンが閉まる直前に舌打ちが聞こえた気がしたが、聞こえなかったふりをした。
さて問題は、洋服屋だけで終わらなかったことだ。
次の店、また次の店。詩音の足が止まらない。雑貨屋、靴屋、アクセサリーの店。入るたびに何かが増えていく。俺の両手に、どんどん袋がぶら下がっていく。
雑貨屋で巾着袋ひとつ。靴屋で箱がひとつ。アクセサリーの店で小さな袋がふたつ。洋服屋の紙袋がみっつ。気づけば両手がふさがっていた。
「ちょっと待ってくれ」
次の店に入ろうとする詩音の背中に声をかけた。
「これ以上持てる気がしないんだが」
「え、まだ両手空いてるじゃないですか」
「どこがだよ」
両手を持ち上げて見せた。左右ともに紙袋と箱でぱんぱんだ。詩音はそれを見て、少し首を傾けた。
「……確かに」
「確かに、じゃないだろ」
「でもまだ行きたいお店があるんですよねぇ」
困ったように言うが、全然困っていない顔だった。むしろ楽しそうだ。
俺は荷物を一旦床に下ろした。肩が楽になる。こんなに重かったのか。
「葛西さんを呼ぶのは?」
「それはダメです」
「なんで」
「これは圭ちゃんの為のミッションなので」
ミッション。買い物が重要なミッションらしい。どこからどう見てもただの荷物持ちなのだが、本人の中では重要らしい。これも契約、か。
「……分かったよ、とことん回ってくれ」
「ふふ、ありがとうございます」
詩音はあっさりと礼を言って、次の店に向かって歩き出した。俺はため息をついてから荷物を拾い上げた。重い。本当に重い。これだけ買って、一体全部どこに仕舞うつもりなんだ。
マンションの収納がいくつあるか知らないが、足りるのか、あれで。
気づけば、夕方になっていた。
モール内のベンチに座って、俺は両腕を投げ出した。腕がじんじんしている。肩も痛い。足も地味に限界だ。周りには大量の紙袋と箱が並んでいる。一体何店回ったんだ。数える気にもなれない。
隣では詩音が涼しい顔でジュースを飲んでいた。全く疲れていない。人間としての作りが違うんじゃないかと思い始めていた。
「情けないですねぇ」
詩音がこちらを見て言った。
「荷物持ちでそんなに根を上げてどうするんですか。そんなんじゃ本番苦労しますよ」
「本番?」
「はい、本番です」
何の本番なのか。ひょっとして、これはトレーニングで、ヤクザの跡目争いに絡む何か物騒なことの前触れなのかと頭をよぎったが、今更それを考える体力が残っていない。尋ねる気にもなれなかった。まあ、来たときに考えればいい。
詩音が立ち上がって「葛西には夕方に来てもらうよう伝えてあります。そろそろ来る頃ですよ」と言った。時間まで読んでいたのか、さすがというか何というか。
荷物を抱えて立ち上がる。腕が悲鳴を上げた。
入り口に出ると、ほどなくして見慣れた黒い車が横付けになった。葛西さんが降りてきて、無言で荷物を受け取ってくれた。ありがたい。本当にありがたい。
車に乗り込んで、シートに体を預けた瞬間、全身から力が抜けた。ドアが閉まる。
「本日はお疲れ様でした」
葛西さんがミラー越しにこちらを見た。
「ま、初めてにしてはって感じですね」詩音が前を向きながら言った。
「24点くらいですか」
「赤点じゃねぇか」
「及第点なんて最初からあげませんよぅ」
葛西さんがわずかに表情を緩めた。
「前原さん、よく頑張られましたね」
その一言が、妙に染みた。
「葛西さん……本当にいつも大変だったんすね」
「……お気遣い、痛み入ります」
静かな声だった。でもその目が、わずかに細くなった気がした。
「こらそこ!変な意気投合しない!」
詩音の声が飛ぶ。
車内に、和やかな空気が流れた。窓の外を、夕暮れの興宮の街が流れていく。
忙しない一日だった。ヤクザの仕事でもなければ、荷物は重かったし赤点だったし本番の意味も分からないままだが——まあ、でも。そうだな。
腕の重さにそれ以上考えることをやめた。
*
それから一ヶ月。
この間、仕事らしい仕事はしていないと言って良い。
詩音に連れられて買い物に何度か付き合ったり、図書館で雛見沢村で過去に起きたオヤシロさまの祟りと呼ばれる連続怪死事件の記録を、古い新聞や雑誌の報道ベースで調べた。記事の多くは憶測と怪談めいた話が入り混じっていて、使えるものは少なかった。
その程度だ。
悟史を探す本格的な仕事は、まだ始まっていない……と思う。少なくとも、俺の知る限りは。
そうして、気づけば今日の転入日。早いような、長かったような。病院で時間の感覚を失っていたせいか、一ヶ月という単位がいまいち実感を持って掴めない。ただ、カレンダーがそう言っているのだから、間違いはないはずだ。
そして今、俺は教室のドアの前に立っている。
これからどんな生活になるのか、想像もつかない。詩音の付き人として、一体何が始まるのか。
奇妙な感覚だった。怖いわけじゃない。楽しみでもない。ただ、妙に静かな気持ちで。
俺はゆっくりとドアに手をかけた。