三月も中旬に差し掛かろうという、ある放課後のことだった。
生徒会の仕事を片付けて、俺と詩音は並んで通学路を歩いていた。芝浦の件は、相変わらず膠着したままだ。答えは見えているのに手が出せない。そのもどかしさは胸の底に居座り続けているが、四六時中しかめ面をしていたところで、事態が動くわけでもない。
で、俺はふと、もうすぐ来る日のことを思い出した。
「なあ、詩音。ホワイトデーって、来週だよな」
「そうですね。三月十四日ですから。──それが、どうかしました?」
「いや。お前、何が欲しい?」
詩音が、ぴたりと足を止めた。それから、心底呆れたという顔で、こっちを見上げてくる。
「圭ちゃん。あなた、そういうのを本人に直接聞きます?」
「聞いちゃダメなのか」
「ダメというか……そういうのは、こう、黙って用意して、さりげなく渡すものでしょう。サプライズというか。情緒というものがないんですか」
「情緒で腹は膨れねぇだろ」
「うわぁ……相変わらずですねぇ圭ちゃんは」
呆れた視線にもめげずに、俺は肩をすくめた。だってそうだろう。要らないものを勝手に渡されたって、困るのは向こうだ。どうせ渡すなら、ちゃんと喜んでほしい。それの何がいけないというのか。
「いや、だってよ。せっかく渡すなら、お前が喜ぶもんがいいだろ。見当外れのもん掴まされても困るじゃねぇか」
そう言うと、詩音は一瞬、きょとんとした顔をした。それから、ふいと横を向いて、歩き出す。
「やっぱり……相変わらずですねぇ、圭ちゃんは」
「だから、なんだよ相変わらずって」
「なんでもありませーん」
声が、妙に弾んでいる気がした。なんだこいつ、機嫌でも良くなったのか。よく分からん。
「で。結局、何が欲しいんだよ」
「そうですねぇ」
詩音が、わざとらしく顎に指を当てた。
「じゃあ、ここは初歩に立ち返ってエルメスのケリーバッグでお願いします」
「だからんな金ねーよっ!」
前にもこのくだり、やった気がする。値段を聞いて目玉が飛び出るかと思ったのはもう昨年のことだが……高校生の付き人風情が、そんなもん買えるわけがないだろう。次だ、次。
「では、蓬莱の玉の枝を」
「かぐや姫かよ。俺に求婚でもさせる気か」
「ふふ。手に入れたら考えてあげますよ」
「一生手に入らねぇよ、そんなもん」
俺がぼやくと、詩音はけらけらと笑った。それから、実に楽しそうに、次の無茶を繰り出してくる。
「じゃあ、この際もっと現実的にいきましょう。──駅前にできた、あの喫茶店のいちごのタルト。あれの一番大きいやつを、ワンホール」
「急にえらい現実的だな……」
「一回やってみたかったんですよねー、ホール丸ごと食べるの」
「聞いてるだけで胸焼けがしそうだ」
言いながら、俺はなんだか可笑しくなってきた。
詩音はそんな俺を横目に、なおも上機嫌で軽口を続けている。あれやこれやと無理難題を吹っかけては、俺が律儀にツッコむのを見て、心底楽しそうに笑っていた。
……まあ、いいか。こいつが機嫌よく笑ってるなら、それで。
そんな事を考えながら、駅前の雑踏を抜けようとしたとき、人混みの向こうに、見覚えのある顔があった。よれた白いスーツに、妙に磨かれた靴。会合で鵜飼の後ろに座っていた、あの関西訛りの男だ。向こうも俺に気づいたらしく、ふっと目が合った。
男は、にっと笑って、軽く顎を引いてみせた。ただの会釈のような。俺も反射的に、小さく頭を下げ返した。それきり、男は人混みに紛れて消えた。
「圭ちゃん?どうかしました?」
「いや。──ほら、この前の会合で鵜飼の後ろにいた男がいてさ。今すれ違った」
「ああ……あの、妙に不気味な。今、この辺にいたんですか」
「みてぇだな。まあ、鵜飼の関係者なら、興宮をうろついてても不思議はねぇだろ」
そう言いながらも、胸のざわつきはなかなか消えなかった。あの男は何もしていない。ただ笑って会釈しただけだ。なのに、背中に薄い膜が一枚張りついたような、うすら寒い感じが残っている。
──気のせいだ。
俺はそう自分に言い聞かせて、詩音を促した。春先の風が、まだ冷たい。日の傾いた道に、俺たちの影がひょろりと長く伸びていた。
三月十三日。拍子抜けするくらい、何もない穏やかな一日だった。
朝は詩音の「起きてくださーい」で始まり、相変わらず容赦なく布団を剥がされ、味噌汁の匂いに引きずられるようにして起き出す。学校では、三年生を送る会の準備で生徒会がばたついていたが、それも夕方には片が付いた。帰り道、詩音は明日の予定だの、来週の小テストだの、どうでもいい話を機嫌よく喋り続けて。何ひとつ特別なことのない。
因みに、夕飯の肉じゃがは、じゃがいもが少し形が崩れていた。詩音曰く、煮込みすぎたらしい。
「今日のは、ちょっと失敗しました」
「いや、うまいぞ。溶けたじゃがいも味が染み切ってて」
「無理やり褒めなくていいですよぅ。……でも、まあ、圭ちゃんがそう言うなら」
文句を言いつつ、詩音は俺の茶碗に二杯目をよそってくれた。口ではあれこれ言うが、俺が飯をおかわりすると、決まって機嫌がよくなる。
食後にはいつも通り報告会。とはいえ、芝浦の件は、今日も一歩も進まない。葛西さんは「焦らず、続けるより他ありません」と静かに言い、詩音は難しい顔で議事録を睨んでいた。膠着したまま、また一日が終わる。それでも、三人で額を突き合わせて唸っているこの時間が、俺は嫌いじゃなかった。
葛西さんが帰り、詩音が風呂に入っている間、俺は自分の部屋に戻って、机の一番下の引き出しをそっと開けた。
奥のほうに、小さな包みが押し込んである。
先週末、一人で街まで出て買ってきたやつだ。何が欲しいと聞いたら、ケリーバッグだのかぐや姫の宝だのと好き放題だったから、結局、自分の頭で考えるしかなかった。
で、悩んだ末に選んだのは、髪留めだった。
詩音はいつも、髪をハーフアップにまとめている。雛見沢にいた頃から、ずっとだ。あの髪型は、あいつにとってただのオシャレじゃない。あれを結うことが、こいつが自分で自分を保つための、何かの儀式みたいなものなんだと、俺はなんとなく察していた。
だから、リボン型の留め飾りにした。金色の、小さくて控えめなやつ。派手すぎず、髪型の邪魔をしない。店先でいくつも見比べて、店員のお姉さんにも色々相談して、それでもさんざん迷って、ようやく決めた。
……変じゃねぇかな、これ。
包みを手のひらに乗せて、俺はしばらく眺めていた。似合うとは思う。思うが、彼女のことだ、センスがどうのこうのとか言って、呆れられるかもしれない。まあ、それならそれでいい。笑われるのも、彼女と過ごす時間の一部だ。
柄にもなく胸の奥がそわそわしているのが、自分でも可笑しかった。たかが髪飾り一つで、何をこんなに緊張しているんだか。俺は包みを引き出しに戻して、電気を消した。
──明日は、ホワイトデーだ。
布団に潜り込みながら、明日の段取りをぼんやり考える。学校の帰りにでも、さりげなく渡そう。なんでもないみたいに、ぽいと放り投げるくらいの感覚で渡すのがいい。そのほうが、詩音も受け取りやすいだろう。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌日は、朝から気持ちのいい晴れだった。
春の匂いのする風が吹いていて、通学路の桜のつぼみが、ずいぶん膨らんできている。あと二週間もすれば咲くだろう。
詩音はそんな空を見上げて、「今年は花見ができるといいですねぇ」なんて呑気なことを言っていた。芝浦だの鵜飼だの、いまだに面倒な話が山積みだってのに、こいつのこういうところは大したもんだと思う。
俺は制服の内ポケットに、例の包みを忍ばせていた。朝、家を出る前にこっそり突っ込んできたのだが、こいつが妙に軽いくせに、やけに存在を主張してくる。歩くたびに、そこにあるぞ、と囁いてくるみたいで、俺は一日中、どうにも落ち着かなかった。
渡すタイミングは、それとなく計っていた。だが、これがなかなか難しい。朝はバタバタして機を逃したし、昼は教室に人が多すぎた。あとなんか、「お前……女子と二人でこっそり消えたりしたら分かってんな?」という一部男子の脅迫めいた視線も受けていたし。どうも、今日は男子がピリピリと殺気立つ日らしい。
放課後は生徒会があって、二人きりになれなかった。そうこうしているうちに日が傾いて、結局、いつもの帰り道まで持ち越してしまった。
ええい、めんどくせぇな、俺は。たかが髪飾り一つ渡すのに、何をこんなに勿体ぶってるんだ。さっさと渡して、笑われるなり喜ばれるなりすればいいだけだろう。そう自分に言い聞かせるのだが、いざ内ポケットに手を伸ばしかけると、指が止まってしまうのである。
幸い、帰り道はいつもの通りだった。
学校を出て、緩やかな坂を下る。途中の商店街はもう半分がシャッターを下ろしていて、豆腐屋のラッパの音が、どこか遠くで間延びして聞こえた。坂を下りきると、川沿いの道に出る。
夕方のこの道は、いつも驚くほど人がいない。犬を連れた年寄りが一人、ずっと先を歩いているきりで、あとは俺と詩音の足音だけが、アスファルトにやけに響いていた。
川面が、夕日で燃えるように赤かった。その照り返しが、隣を歩く詩音の頬にちらちらと揺れている。こいつは相変わらず、明日の予定だの、駅前にできたパフェの店に今度こそ行くだの、とりとめのない話を続けていた。俺はろくに聞いちゃいなかった。頭の中は、いつ渡すか、そればかりで一杯で。
風が、川の匂いを運んでくる。あたりは、静かだった。車の一台も通らない。
……今しか、ないか。
周りにはあまり人気もなくて、この妙に穏やかな夕暮れ。これ以上の頃合いは、この先そうそう巡ってこないだろう。ぐずぐずしていたら、勘のいい彼女に、そわそわしている理由を全部見透かされちまう。どうせ渡すなら、こいつに気取られる前に、俺のペースで渡してやりたい。
「あー、詩音」
「はい?」
俺が足を止めると、詩音は一歩先で立ち止まって、振り返った。夕日を背にした横顔が、赤く縁取られている。とりとめのない話を途中で止められて、きょとんとした顔をしていた。
俺は内ポケットに手を入れて、あの包みを取り出した。
「これ、やる。この前のお返し、というか」
詩音の目が、まん丸になった。それから口元がむずむずと動いて、なぜか慌てたように引き結ばれる。さてはこいつ、今笑うのを我慢したな?
「いいんですか。私、無茶しか言ってませんでしたけど」
「かぐや姫の宝は無理だったけどな。あー、今文句は受け付けねぇぞ」
「ふふ。ないですよ。──ありがとうございます」
詩音が、両手を差し出した。子供みたいに、大事そうに、包みを受け取ろうと手のひらを開いている。俺はその手に乗せてやろうと、一歩、距離を詰めた。
──その、ときだった。
エンジンの音が、聞こえた。
いや、聞こえたときにはもう遅かった。川沿いの道の先、俺たちの進んできたほうから、一台の車が低く唸りを上げて、こちらへ突っ込んでくる。ヘッドライトもつけず、減速する気配もなく、まっすぐに、詩音の背中めがけて。
詩音はまだ、俺のほうを向いて手を差し出している。車に背を向けたまま、何ひとつ気づいていない。俺の視界の中で、その細い背中と、迫りくる鉄の塊とが、ぐんぐん距離を詰めていく。思考は、まるで追いつかなかった。
考えるより先に、体が動いていた。包みを放り出し、詩音の腕を掴んで、川とは反対の歩道の内側へ突き飛ばす。詩音の体が俺の手を離れ、たたらを踏むように吹っ飛んでいく。きゃっ、という短い悲鳴が、耳をかすめた。
突き飛ばした反動で、俺の体は道の真ん中に泳ぎ出ていた。目の前に、フロントグリルが迫っている。
──あ。
そう思った瞬間、世界が下から突き上げられた。腰のあたりに、丸太で殴られたような衝撃が走る。足が地面を失い、体が宙に浮いて、回る。空と、赤い川と、アスファルトが、ぐるぐると入れ替わった。どこにも力が入らない。何がどうなっているのか。
考える間もなく、硬い地面に叩きつけられる。ごつ、という鈍い音が、自分の骨の中で響いた。息ができない。口の中に鉄の味が広がり、視界の端が、じわりと赤く滲んでいく。
タイヤの軋む音。急に高くなったエンジンの音。それが、遠ざかっていく。
……逃げ、やがった。
頭の芯がじんと痺れて、それ以上何も考えられない。手も足も、自分のものじゃないみたいに重い。俺はアスファルトに頬をつけたまま、動けずにいた。夕日がやけに眩しくて、赤い光が、ちかちかと明滅している。
「圭ちゃんッ!!」
悲鳴が、聞こえた。その声で、俺の意識が、かろうじて水面に浮かび上がる。
俺は、痺れた首をどうにか動かした。声のしたほうへ。
いた。詩音が、歩道の内側に尻餅をついている。俺が突き飛ばした、あの場所に。制服が土で汚れて、髪も少し乱れている。だが、起き上がろうとしていた。両手をついて、こっちへ這ってこようとしている。その体には、傷ひとつ、ついていない。
──ああ。よかった。
ぐしゃぐしゃの頭の中で、俺はそれだけを思った。間に合った。こいつは無事だ。掠り傷ひとつ負っていない。突き飛ばした甲斐が、あった。こいつが無事なら、それでいい。
「いや……いやぁっ!!圭ちゃん!!」
すがりつくような、詩音の声が。俺のそばで、しきりに叫んでいる。だが、その声が、だんだん遠くなっていく。水の底に沈んでいくみたいに、音がくぐもって、薄れていく。視界が暗い。夕日の赤が、少しずつ、黒く塗りつぶされていく。
泣くなよ、詩音。そう言おうとしたが、口が動かなかった。持ち上げようとした手も、指一本、動かない。
地面に、あの包みが転がっているのが、ぼんやりと見えた。俺の手から放り出された、髪飾りの包み。せっかく渡そうとしたのに、結局、渡しそびれちまったな。
涙で歪んだ詩音の顔が、真っ黒に塗り潰される寸前──ぷつりと、俺の意識は途切れた。