退院して一週間が過ぎた。
右足首の腫れも引いて包帯が取れた。頭の傷は糸を抜いたあと、うっすら跡が残る程度で済んだ。髪をおろしていればまず目立たない。医者は無理をするなと言うが、正直もう普段どおりに動ける。あとはあの派手な事故の記憶を、体のほうが忘れてくれるのを待つだけだ。
もっとも周りは俺ほど気楽じゃない。とりわけ詩音は、退院の日から俺の背後霊みたいに張りついて離れない。夜、一人で買い物に行こうとしただけでも、どこへ行くのかと問い詰められる。その表情に、僅かにだが不安そうな色が覗くのだから、無下にも出来ない。
目の前で付き人が血まみれで吹っ飛んだんだ、神経質にもなるだろう。だから俺も、しばらくは大人しく飼い殺されてやることにした。
そんな療養暮らしの裏で、盤面のほうは静かに動きはじめていた。
園崎の本家が正式に鵜飼を見張りはじめた。当主代行の水面下の命により、あの男の外出には尾行がついたそうだ。誰と会って何を話したかが、逐一報告に上がる。俺たち三人がこそこそ嗅ぎ回っていた頃とは、動く駒の数がまるで違う。
もっとも俺はその輪の外にいる。しがない付き人の、それも療養中の身だ。監視の報告が直に上がってくる立場じゃない。だから盤面の様子は、もっぱら葛西さんの口から少しずつ拾うことになる。
その日も、葛西さんは夕方に部屋に現れた。手土産はまた渋いやつだった。今度は最中である。もう入院していないのだから、そんなに気を遣わなくてもいいんだけど。
「加減はいかがですか、圭一くん」
「おかげさまで。もうすっかり元気っすよ。最中、ありがたく頂きます」
包みを受け取りながら、俺は単刀直入に切り出した。世間話でじらされる趣味はない。
「それより、大阪の会社の件はどうです。何かわかりましたか」
葛西さんはサングラスの位置を軽く直して、丸椅子に腰を下ろした。
「……正直、難航しています。あれは、思っていたよりずっと厄介な代物でして」
「厄介、というと」
葛西さんは指を折りながら、順に説明してくれた。まず、登記簿に載っている代表者がくせ者だった。会社の中身を何一つ知らない、ただの赤の他人らしい。報酬をもらって名前だけ貸した、いわゆる名義人ってやつだ。糸を手繰って代表者に行き着いても、そこで道は途切れる。
「では会社の持ち主を上へたどればいいのですが、そこも簡単な話ではない。その会社を持っているのが別の会社で、それをまた別の会社が持っている、そういう入れ子になっているんです。一枚めくると、また一枚。どれも書類だけは綺麗に揃った、真っ当な会社の顔をしている」
まるでロシアのあの人形だ。
開けても開けても、中からまた同じような会社が出てくる。しかもご丁寧に、一番外の観光会社は本物の観光業まで営んでいるらしい。ちゃんと看板を掲げて旅行商品を並べ、実取引もいくつかある。
「だから、表面をなぞる限りは、ただの真面目に営業している会社に見えてしまう。怪しいと言い張る根拠が、こちらの手には残らないんですよ」
俺は思わず唸った。手が込んでいる、なんてもんじゃない。名前だけの他人を一番外に立たせ、後ろに会社を何段も積む。おまけに本業の色まで塗ってある。薄目で覗いたくらいじゃ、その先の本当の持ち主にも薬にも絶対に届かない。届く前に真っ当な会社の壁へ何度もぶつかって、諦めるようにできている。
「園崎の伝手を使っても、たどれるのはせいぜい入れ子の途中まで。その先の実体には、今のところ手が届いていません」
鵜飼の帳簿が綺麗なのと、まるで同じ構図だ。あの男は表も裏も、紙で追う人間を弾き返すようにできている。つくづく隙のない狸である。
「けど、手が届いてないってだけで、諦めたわけじゃないんでしょう」
俺がそう言うと、葛西さんはほんの少しだけ口の端を上げた。
「まあ、当たれる筋には当たってみているところです。……こういうものは、方々の伝手を頼るしかありませんのでね」
餅は餅屋、蛇の道は蛇って事だ。
「なら、こっちは大人しく待ってますよ。てか詩音が怖くて迂闊に出歩けゃしねぇ」
「少なくとも、今だけは詩音さんに従ってください……療養が最大の仕事です」
最中をひとつ口に放り込みながら、俺は窓の外に目をやった。日が落ちて、街の明かりがぽつぽつ灯りはじめている。
手応えはないが、じりじりとではあるが確かに鵜飼という一点へ近づいているはずだ。もっとも療養中の俺にできるのは、せいぜい体を治して最中をもう一つ齧ることくらいなんだが。
それから数日して、久しぶりに俺の部屋で「報告会」が開かれた。
事故の前まで、俺と詩音と葛西さんの三人でよくやっていた寄り合いだ。ちゃぶ台を囲んで茶をすすりながら、掴んだ端切れの情報を持ち寄って突き合わせる。名前だけは物々しいが、中身はただの内緒話の延長でしかない。
詩音が慣れた手つきで三人分の茶を淹れる。俺の湯呑みだけ、なみなみと注がれて熱いのはいつものことだ。猫舌の俺への嫌がらせか、それとも単なる大雑把か。
茶が行き渡ったのを見計らって、葛西さんが切り出した。いつもどおり前置きはない。
「例の大阪の観光会社。あの入れ子の、いちばん奥に行き着きました」
湯呑みに伸ばしかけた手が止まった。詩音の横顔もすっと引き締まる。
「どこだったんです」
「竜堂会。……関西の組です」
聞き慣れない名前だった。竜堂会。口の中で転がしてみても、俺にはまるでピンとこない。ちらと詩音を見ると、あいつも眉を寄せている。どうやら知らないのは俺だけじゃないらしい。
「葛西。竜堂会って、聞いたことないけど。関西の、どこの組なの」
「詩音さんが知らないのも無理はありません。うちのような地方の一家とは、付き合いのない相手ですから」
葛西さんは湯呑みを置いて、少し声を低くした。
「大阪に本拠を構える、広域組織「黒門連合」傘下の二次団体です。黒門連合は関西一円を束ねる、西の元締めのようなもの。傘下の二次団体、三次団体まで数えれば、頭数は園崎とは桁が二つも三つも違う」
桁が、二つも三つも。俺は思わず詩音と顔を見合わせた。
「歴史も古く、金の匂いのする商売から荒事まで何でもござれ。関東の大きな組とも、長く渡り合ってきた連中です。……その傘下組織が、この竜堂会です」
「その、竜堂会というのは、黒門連合の直系なの?」
「いえ、直系傘下というわけではないようですが……組織規模はかなりのものです。正直に言えば、園崎とは比較にならない」
俺は淹れたての茶を一口すすった。熱くて舌を焼いたが、それどころじゃない。頭の中で、話がだんだん物騒な形に組み上がっていく。
整理してみる。芝浦のあの土地を借りていたのは、大阪の観光会社。その正体は竜堂会。つまり鵜飼は園崎の縄張りを、そいつらに又貸ししていたわけだ。
……これはまずいなんてもんじゃなさそうだ。ただ薬を捌く密売組織が見つかった、なんて話で済まない。園崎の身内が園崎の顔に泥を塗る形で、外のでかい組織に地元を明け渡していた。そういう構図だ。
金の問題ならまだいい。これは面子の問題だ。ヤクザにとって、縄張りと面子は命そのものだと聞く。それを身内が勝手に、よその組織へ売り渡していた。跡目争いのごたごたなんて、もう軽く飛び越えている。園崎という家が、絶対に見過ごせない一線だ。
詩音は湯呑みを両手で包んだまま、じっと一点を見つめていた。その顔から、いつものからかいの色が抜けている。
「……鵜飼のやつ。園崎の看板を使って、その竜堂会に場所を貸してた。うちの縄張りでよその薬を捌かせて、上前をはねてたってわけ」
「そういうことに、なりますね」
ふと、この間の引っかかりがまた頭をもたげた。あれだけ周到に壁を張り巡らせる男が、なんだって詩音を車で撥ねるなんて雑な手を打ったのか。竜堂会なんて関西の後ろ盾がついているなら、なおさら妙だ。焦る理由が、どうも釣り合わない。
しかし考えても、答えは出ない。鵜飼の背後にぬっと現れた竜堂会という影が、俺の中で重みを増していく。あの慇懃な狸の後ろに、関西を束ねる化け物が控えている。そう思うだけで、背筋がうそ寒くなった。
重い沈黙を破ったのは、また葛西さんだった。ただ、今度の声には別の種類の硬さがある。
「それと、もう一つ。……鵜飼の様子が、少しおかしい」
「おかしい、というと」
「監視をつけてから、あの男の動きが妙に慌ただしくなりました。芝浦へ出入りする回数が急に増え、夜中に人を動かしている。まるで、何かを片付けているような」
嫌な予感がした。片付けている。その言い方が、やけに引っかかる。
「それって……こっちの監視に、気づいてるってことですか」
「断言はできません。ですが、その線で見ておくべきでしょう。あの男は鼻の利く狸です。尾行がついたことくらい、とうに勘づいていても不思議はない」
最悪の間の悪さだった。ようやく竜堂会という実体を掴んで、鵜飼を締める糸口を見つけた。その矢先に当の鵜飼がこっちの動きに気づき、証拠を片付けにかかっている。掴んだと思った尻尾が、指の間からするりと逃げていく。そんな光景が頭をよぎった。
「……時間がない、ってことね」
詩音がぽつりと言った。湯呑みを置く音が、やけに硬く響く。
「竜堂会の名前が出た以上、本家も黙っちゃいない。縄張りをよそに使わせてたなんて、園崎の面子まる潰れだもの。代行と組長は、この線で鵜飼を問い詰めるはず」
「ですが、鵜飼も馬鹿じゃありません。締め上げられる前に、尻尾を切って逃げ切る算段を始めているはずです」
追い詰められた鼠は猫に噛みつくという。まして鵜飼は、鼠なんてかわいいもんじゃない。竜堂会という牙まで隠し持った、追い詰められた狸だ。そんな男が功を焦って動きだしたら、次にどこへ牙を向けるか知れたもんじゃない。
狙われるとすれば、おそらくまた詩音だ。あの車の一件で、それははっきりしている。守られてばかりの療養人がえらそうに、とは自分でも思う。それでも──今度こそ、俺があいつのそばを離れるわけにはいかない。
ちゃぶ台の向こうで、詩音が険しい顔のまま冷めた茶を睨んでいた。俺はその手に、そっと新しい茶を注いでやる。今度は、熱すぎないように。
それから数日は、探るような静けさが続いた。
表では本家の監視が鵜飼を追い、裏では葛西さんが大阪の会社の実体を手繰る。二本の糸が、じりじりと一点へ寄っていく。鵜飼のほうも、追い詰められて息を潜めているのか目立った動きは伝わってこない。互いに相手の出方をうかがったまま、盤面がぴんと張り詰めて日だけが過ぎていった。
その静けさを破ったのは、一通の手紙だった。
本家から詩音に宛てた、代行──茜さん直々の私信。二人だけで話したいから本家まで来い、という短い文面だ。詩音は封を切って、しばらく妙な顔をしていた。母親からこの手の私信が来ること自体、珍しいらしい。
用件の心当たりはあった。鵜飼の一件だ。竜堂会との繋がりが割れて、家がいよいよ本腰を入れる。その相談を、母娘水入らずでしておきたいのだろう。攫われかけた娘を案じる親心も、多少は混じっているのかもしれない。柄にもなく、と茜さんには少し失礼な想像をしてしまう。
当然、俺と葛西さんもついていった。あの事故のあと、詩音を一人で外へ出すなんて論外だ。護衛だと肩肘を張るわけじゃない。それでもなるべく一緒に動いて、車で本家まで送り届けた。
問題は、着いてからだ。母娘二人だけで話したいという茜さんの意向は、さすがに尊重するしかない。奥へ向かう詩音を見送って、葛西さんと俺は手前の座敷で待つことになった。
詩音は別に一緒でもいいのに、と唇を尖らせていた。だが母娘の内緒話に付き人と護衛が割り込むのも野暮だ。なにより、ここは園崎の本丸である。家中で一番安全な場所だ。だから俺もこの時ばかりは、大いに気を緩めていた。
それが、どれくらい前になるだろう。
俺は広い座敷で、畳の目を数えるのにも飽きていた。隣では葛西さんが、いつもの姿勢で静かに座っている。茶まで出されたはいいが、奥へ引っ込んだ詩音はさっきから戻ってくる気配もない。
茶が、すっかり冷めている。
湯呑みの底で、茶柱が横倒しになっていた。俺はなんとなく落ち着かなくて、膝の上で指を組んだりほどいたりしている。待たされること自体は構わない。母娘の話が込み入るのは、まあわかる。わかるんだが、それにしても長すぎやしないか。
「葛西さん。ちょっと、長くないっすか」
「……ええ」
葛西さんの返事が、いつもより一拍遅れた。サングラスの奥はうかがえないが、その横顔がわずかに廊下のほうへ向いている。この人も、何かを感じ取っているらしい。
妙だ。本家がやけに静かだった。これだけの屋敷なら、家人や若い衆の気配がそこかしこにあっていいはずだ。廊下を行き交う足音も遠くの話し声も、いつの間にか綺麗に消えている。まるで、この一角だけ人を払われたみたいに。
何か言いようのない嫌な予感を覚えて、背筋を冷たいものが這い上がってきた。
「葛西さん、これ」
「ええ、何かがおかしい」
葛西さんが低く言って、すっと腰を浮かせた。その手が、懐に伸びている。俺も慌てて立ち上がろうとした。その時だった。
奥の座敷のほうから、どすっと重い物が倒れるような音が一つ。
それきり、しんと静まり返る。悲鳴も、争う声もない。その一音だけが、やけにはっきりと鼓膜に残った。例えていうなら、人が倒れた時のような──
詩音──ッ。
考えるより先に、体が動いていた。俺は襖を蹴り破る勢いで開けて、廊下へ飛び出す。葛西さんが何か鋭く叫んだが、耳に入らない。奥だ。詩音がいるはずの、奥の部屋。まっすぐそこを目指して、板張りの廊下を走る。走りながら、頭の隅で嫌な計算だけが冷たく回っていた。
茜さんの手紙がきっかけとはいえ、俺は今日一度もあの人を見ていない。そして、恐ろしいくらいに人払いされた静かな屋敷。予感はもう、確信に変わっていた。これは呼び出しなんかじゃない。
罠だ。
奥の襖に手をかけて、力任せに引き開けた。畳の上に、詩音の湯呑みが転がっている。中身がこぼれて、黒い染みが広がっていた。窓が、開いている。夜の風が、白いカーテンをゆっくりと揺らしていた。部屋の中に、あいつの姿はない。
窓の外の闇に、複数の人影が滑るように動くのが見えた。その真ん中に、ぐったりと誰かの体を抱えた男がいる。細い手が、力なく垂れて揺れている。黄色いリボンに挿さった金の髪飾りが、月明かりを弾いて一瞬光った。
「詩音――ッ!」
窓へ飛びつこうとした俺の背後で、空気が動いた。振り向く暇はなかった。後頭部に、鈍くて重い衝撃が突き抜ける。視界が大きく傾いで、畳が斜めにせり上がってくる。遠ざかる意識の隅で、あの金の光が闇に呑まれていくのがゆっくりと見えた。
ストックが無くなってきたので、そろそろ間が空くかもしれません。よろしくお願い致します。