ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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政略

 

 最初に戻ってきたのは、匂いだった。

 

 埃と錆びた鉄、饐えた油の匂い。鼻の奥にまとわりつく不快なそれが、私の意識を暗がりから引きずり上げた。頭の芯が鈍く痺れている。舌がざらついて、こめかみの奥で心臓とは別の脈が打っていた。薬で眠らされた時の、あの厭な後味。何度か味わったから、もう覚えてしまった。

 

 瞼を持ち上げる。視界がぼやけて、それからゆっくりと像を結んでいく。高い天井。剥き出しの鉄骨。切れかけた蛍光灯が、じじと虫の羽音みたいな音を立てて青白い光を明滅させていた。

 

 倉庫だ。

 

 そこまで悟って、私は自分の状況を点検した。硬い椅子に座らされている。手首は後ろに回されて、粘着テープか何かで縛られているらしい。足首も同じ。丁寧なことに、逃げられないようにきっちり固定してくれている。もっともこの非力な女一人にそこまで警戒するなんて、光栄なのか失礼なのか判断に迷うところだけど。

 

 状況から察するに、ここは恐らく。

 

 ──芝浦、か。

 

 私をこんな状態にしたのは、まず間違いなく鵜飼だろう。

 そしてこの匂いと、この寒々しい広さでおおよその見当はついた。鵜飼が竜堂会に貸していたらしい、例の倉庫。園崎の縄張りの真ん中で、よその薬が転がっていた場所。よりにもよって、私はその心臓部に運び込まれたわけだ。

 

 思い出す。本家の奥座敷。母の筆跡を真似た、あの呼び出し。二人だけで話がしたい、なんて。まんまと私は一人で奥へ通されて、背後に人の気配を感じた時にはもう遅かった。口元に押し当てられた、湿った布の甘ったるい匂い。それきり、ぷつりと記憶が途切れている。

 

 やられた。それも、一番安全なはずの本家で。圭ちゃんと葛西も、きっと別室でまんまと待たされていたに違いない。あの二人が、私を一人にした自分をどれだけ責めているか。考えると、胸の奥がきりりと痛んだ。

 

 でも、ここで取り乱すのだけは絶対にごめんだ。

 

 私は一つ、ゆっくりと息を吐いた。冷たい空気を肺に入れて、散らかりかけた頭を無理やり片付けにかかる。取り乱したら負け。喚いたら負け。攫った側が見たいのは、怯えて泣きじゃくる哀れな娘の顔だ。だったら私は、意地でもその逆をやってやる。

 

 顔を上げると、暗がりの向こうに人影がいくつか浮かんでいた。

 

 すぐそばに、見慣れた恰幅のいいシルエット。仕立てのいい背広に、爬虫類のような目とそら寒くなるような愛想笑い。鵜飼だ。その斜め後ろに、この寒さでも派手なシャツの襟を開けた四十がらみの男。値踏みするような、ねっとりした目つきでこちらを見ている。会ったことはないが、こいつが竜堂会の人間だというのは纏う空気で知れた。さらにその背後に、若い衆らしいのが数十人もいる。壁際には、腕を組んで微動だにせず立っている痩せた男もいる。

 

 ずいぶんと、大層な顔ぶれで囲んでくれたものだ。

 

 私はぱっちりと目を開けて、にっこりと笑ってやった。囚われの姫君にしては、上出来の笑みだったと思う。

 

「あらあら。女子高生一人相手に、随分な歓迎ぶりですねぇ」

 

 我ながら、悪くない第一声だ。声が微塵も震えなかったのは、褒めてやってもいい。

 

 

 最初に反応したのは派手なシャツの男だった。

 

 ほう、と面白がるように眉を上げる。それからゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。革靴が埃っぽい床を鳴らす音が、やけに大きく倉庫に響く。近づくにつれて、そいつの顔がはっきりと見えてきた。四十の半ばか、もう少し上か。脂の乗った赤ら顔に、いやに手入れの行き届いた眉。半開きの唇の奥で、金歯がちらりと光った。安っぽい香水の匂いが、饐えた油の匂いを押しのけて鼻を突く。

 

 男は私の正面で足を止めると、腰をかがめて顔を近づけてきた。

 

 私は笑みを保ったまま、内心で盛大に顔をしかめた。香水と、その下の脂と煙草の匂いが鼻の粘膜にべったり貼りつく。吐き気がした。だが、ここで顔を背けたら負けだ。私は微動だにせず、まっすぐにその濁った目を見返してやった。

 

 男の視線が、私の顔から下へと滑る。首筋から鎖骨、体の線を舌で舐めるみたいにねっとりと辿っていった。値踏み。それも、女を女としてしか見ていない粘つく値踏みだ。品物を吟味する客の目。いや、もっと悪い。獲物を前にした、舌なめずりの目だ。

 

 全身の肌が、ぞわりと粟立つのがわかった。

 

 こういう目には、反吐が出る。女を物として扱おうとするような目。いや、女どころか人を人とも思っていないような、値札を貼りつけるような目つき。

 

「……ふぅん」

 

 男は喉の奥で唸って、無遠慮に手を伸ばしてきた。太い指が、私の顎にかかる。くいっと上向かせられて、まじまじと顔を覗き込まれた。

 

 冗談じゃない。

 

 総毛立つような嫌悪感が、背筋を駆け上がる。この指を今すぐ噛み千切ってやれたら、どれだけ胸がすくだろう。歯を立てて力任せに食いちぎり、床に吐き捨ててやりたい。その衝動を、私は奥歯を噛みしめて呑み込んだ。今それをやったところで、状況が好転するわけじゃない。私の気分は晴れるけど。

 

 だから私は噛みつく代わりに、にっこりと笑った。

 

「女性にべたべた触るのは、感心しませんねぇ。そういう殿方って、いちばん嫌われるんですよ」

 

 顎を掴まれたまま、できる限り優雅に毒を乗せて言ってやる。声は甘く、言葉はたっぷり棘まみれに。それが私の、精一杯の抵抗だった。

 

 男は一瞬きょとんとして、それから腹の底から愉快そうに笑い出した。

 

「いいねぇ。聞いたかよ。この状況で、その減らず口だ」

 

 顎から手を離して、男は大袈裟に肩を揺すって笑う。金歯を剥き出しにした、下品な笑い方だった。若い衆のほうを振り返って、同意を求めるみたいに手を広げてみせる。

 

「実にいい。おれはなァ、こういうのが好きなんだよ。おどおど泣いて命乞いする女なんざ、抱き心地が悪くていけねえ。気の強い女ってなァ、こう、折り甲斐があるだろう」

 

 折り甲斐、か。

 

 私は笑顔の裏で、その言葉をゆっくりと反芻した。この男は、私の抵抗を楽しんでいる。怯えてほしいんじゃない。抗ってほしいんだ。強い女をじわじわと屈服させていく過程そのものを、こいつは味わおうとしている。反抗すればするほど喜ぶ。厄介極まりない、最悪の趣味だ。

 

 つまり私がどう出ようと、この下衆はご満悦というわけか。八方塞がりにも程がある。

 

「おっと、名乗りが遅れたな。お嬢さん」

 

 男は胸に手を当て、芝居がかった仕草でわずかに頭を下げてみせた。慇懃なつもりらしいが、にやけた顔のせいで台無しだ。

 

「新開誠三。竜堂会で、若頭補佐ってのをやらせてもらってる。以後、お見知りおきを」

 

 竜堂会、若頭補佐。

 

 その肩書きが、頭の中でずしりと重みを持った。葛西の話が正しければ、竜堂会は、関西組織の二次団体とはいえ、園崎よりも規模の大きい組織だ。その若頭補佐となれば、組織のナンバー3、相当な上のほうの人間ということになる。そんな男がわざわざこんな倉庫まで足を運んで、女子高生一人を舐め回すように見ているのか。

 

 嫌な予感が、確信めいた形に変わっていく。これはただの拉致じゃない。もっと、私という存在そのものを目当てにした企てがある。

 だが、それをおくびにも出すわけにはいかない。私は肩をすくめることすらできない身で、それでも精一杯の余裕をかき集めて口角を吊り上げた。

 

「あらご丁寧に。でも、あいにくと私、好きでもない男に媚びるほど落ちぶれちゃいないんで。次に触ったら、その指、二度と使えなくして差し上げますね」

 

 できるだけにこやかに、できるだけ物騒なことを言う。もちろん縛られたこの状態で、指一本どうにかできるはずもない。ただの虚勢だ。それでも、黙って怯えているよりはよほどましだった。

 

 新開は、また嬉しそうに目を細めた。

 

「はっはァ、いいねぇ。ますます気に入った」

 

 ぞっとするほど、上機嫌な声だった。この男が上機嫌になればなるほど、私の状況は悪くなっていく。そういう仕組みらしい。反抗が武器にならないどころか、相手の燃料になっている。こんな理不尽があるだろうか。

 

 内心で舌打ちを三十回はした。けれど表向きは、あくまで涼しい顔を崩さない。崩したら、そこで終わりだ。この笑顔だけが、今の私に残された唯一の武器なのだ。

 

 新開がひとしきり笑ったところで、それまで黙っていた鵜飼がずいと一歩前へ出た。

 

「新開さん。そのあたりで、お嬢さんに事情をご説明しても」

 

 揉み手でもしそうな、下手に出た物言いだった。新開のほうが格上なのは、その態度で知れる。新開が鷹揚に顎をしゃくると、鵜飼はこちらへ向き直った。爬虫類じみた目が、ぬらりと私を捉える。

 

「詩音お嬢さん。あなたには、事の次第をきちんとお話ししておきましょう。もう何をお聞かせしたところで、変わることは何一つございませんのでね」

 

 勝ち誇るでも、凄むでもない。決まりきった事実を読み上げるような、平坦な声。それがかえって、ぞっとするほど不気味だった。

 

 鵜飼はゆっくりと、語りはじめた。

 

「まず、芝浦の土地。あれはね、ただの看板でございます。リゾート開発だのなんだのは、体のいい建前でしてね。本当の商売は、あの土地じゃない。そこに建っている倉庫のほうです」

 

 わかっていたことだ。私は笑みを保ったまま、先を促すように小首をかしげてみせた。

 

「倉庫で、竜堂会さんのお品物を捌かせていただく。土地の賃料や仲介料は、帳簿に正規の額で載せて、園崎へきっちりご報告する。だから帳簿は、どこから突かれても綺麗なものです。そして、お品物のほうで動く金は、帳簿には一度も顔を出さない。そっくりそのまま、私の懐へ収まる仕組みでしてね」

 

 簿外のマージン。表の帳簿は清廉潔白、裏の金は全部ポケット。なるほど、どこから見ても叩けないわけだ。忌々しいくらいに、よくできてる。

 

「けれど、金がいくら貯まったところで、私は所詮、番頭止まりでございます。血が繋がっていなければ、この家でそれ以上は上がれない。何十年忠勤に励もうとね、しょせん飼い犬は飼い犬だ」

 

 そこで初めて、鵜飼の声にほんのわずか感情らしきものが滲んだ。恨みでも、自嘲でもない。もっと乾いた、諦めのような何か。

 

「ですが、竜堂会さんは違う。ここでは、血の天井がない。持ち込む手土産次第で、いくらでも上へ行ける。私はね、お嬢さん。園崎の番頭で朽ちるつもりなんぞ、はなからなかったんですよ」

 

 ああ、そういうことか。

 

 私は胸の内で、ぱらぱらと絵札が裏返っていくのを感じた。この男は、園崎を裏切ったんじゃない。はじめから、園崎になど何の忠義もなかった。ただ、竜堂会で成り上がるための踏み台として、園崎を使っていただけ。土地も薬も、全部そのための布石。ずっと、ずっと前から。

 

「その手土産が、二つ。ひとつは、芝浦の商売ごと竜堂会さんへお渡しすること。そしてもうひとつが──お嬢さん、あなたです」

「……私?」

 

 鵜飼の視線が、値踏みするように私の全身をなぞる。新開のそれとは違う、品物を検分する即物的な目だった。

 

「園崎の直系のお嬢さんが、ご自分の意思で竜堂会さんに嫁ぐ縁組という建て付けにしようと考えております。血の繋がった当主候補が、自ら向こう側に立つ。そうなれば、園崎の古狸どもがいくら吠えたところで、争いにすらならない。担ぐ神輿が、もう向こうにいるんですからね」

 

 背筋を、氷の指がなぞっていった。

 

 これはつまり、私をダシに使った組織の吸収か。

 園崎を内側からこいつらに明け渡させる。当主候補という私の血が、そのまま園崎を食い破る刃になる。よくもまあ、ここまで悪辣な絵を描いたものだ。感心を通り越して、いっそ寒気がする。

 

 けれど。

 その周到な絵図の中に、どうしても収まりの悪い札が二枚あった。

 

「ねえ、鵜飼。ひとつだけ聞いていい?」

 

 私は笑みを崩さないまま、できるだけ暢気な声で尋ねた。

 

「あんた、そこまで私を大事な手土産に据えてたわけじゃないですか。だったら、なんで私、車で撥ね殺されかけたわけです?大事な献上品を、往来のど真ん中で轢き殺そうとするなんて。周到なあんたにしちゃ、ずいぶんお粗末な話じゃないですか」

 

 毒を含ませて、たっぷり嫌味に言ってやる。周到なあの男にしては、あの一手だけがあまりに雑で釣り合わない。ずっと引っかかっていた、その一点。

 

 鵜飼の顔に、初めて苦いものがよぎった。

 

「……あれは、私の指図ではございません。まったくもって、こちらの筋書きにない不始末でしてね」

 

 鵜飼は、ちらと新開のほうをうかがった。格上の相手を立てるように、言葉を選びながら。

 

「新開さんのところの、血の気の多い若い衆が。私どもがあなたを嗅ぎ回っていると知って、功を焦ったんでしょう。よかれと思って、勝手に片付けようとした。……こちらとしては、大事な大事なお嬢さんを危うく損なうところだった。肝が冷えるとは、まさにあのことで」

 

 私を殺されかけて、肝が冷えた。品物が壊れかけて、ひやりとした。そういう意味だ。この期に及んで私の命の話を、傷物になりかけた商品みたいに語りやがる、このウスノロども。

 

 そこへ、新開が愉快そうに割り込んできた。

 

「ああ、あれなァ!いや、まいったまいった」

 

 まるで武勇伝でも語るように、けらけらと笑いながら。

 

「うちの若えのが早とちりしやがってな。だが結果的にゃ、あんたにゃ傷ひとつつかなかったんだ、めでたしめでたしよ。死にかけたのは、なんだ、そこらの付き人だったらしいじゃねえか。どうでもいい男が一人くたばりかけただけだ。安いもんだろう」

 

 どうでもいい男が、一人。

 その一言が鼓膜から入って、体の芯まですうっと冷たく落ちていった。

 

 ──ああ。

 

 不思議なくらい、頭は冴えていた。かっと熱くなるのではない。逆だ。すとんと何かが静かに底まで沈んで、そこから先は氷みたいに澄んでいく。視界がやけに明瞭だった。この倉庫にいる人間の頭数も立ち位置も、一つ残らず克明に見えた。

 

 この男たちは今、なんと言った?

 

 血まみれで吹っ飛んで、私の腕の中でぴくりとも動かなかったあの日。私がどれほど死ぬ思いをしたか、この連中は知らない。知らないまま、どうでもいい男が一人と笑っている。

 

 胸の底で、私はゆっくりと問い返す。もちろん声には出さない。出さないまま、その問いは冷たい炎になって体の内側を這いずり回りはじめた。

 

 ──どうでもいい男。安いもん。

 

 その言葉を口にした脂ぎった唇から、まず切り落としてやろうか。二度と誰かを笑えないように。舌を引き抜いて、金歯を一本ずつへし折って。それから、圭ちゃんを轢いた戸倉とかいう若造。功を焦った?  よかれと思って?

 

 ふざけないで。あんたが撥ねたのは、私のたった一人の──。そう考えるだけで、そいつの体を一本ずつ丁寧に潰していく光景がありありと浮かぶ。悲鳴を上げても、まだ足りない。あの夜に圭ちゃんが流したぶんの血を、耳を揃えて返してもらうまで。

 

 鵜飼、あんたはいちばん最後だ。その爬虫類みたいな目玉を、ゆっくり時間をかけて。何をどう奪えばあんたがいちばん惨めに命乞いをするのか、私にはもう手に取るようにわかる。

 

 際限がなかった。殺意は湧いて出て、また湧いて出て頭の中で真っ黒な渦を巻いた。それは熱ではなく、冷気だった。煮えたぎるのではなく、凍てつきながらどこまでも深くなっていく。ここにいる全員を一人残らず、どの順番でこの世から消してやろうか。私の頭は驚くほど冷静に、その献立を組み上げていく。楽しくすらあった。

 

 昔たしかに、私はこういう場所へ堕ちたことがある。あの、爪先まで冷たくなる感覚。世界のすべてが敵に見えて、それを壊すことだけが正しく思えたあの底。忘れたつもりでいた。忘れられるはずも、なかったのに。

 

 ──でも。

 

 渦の真ん中で、私は奥歯を噛みしめた。今それをやったところで、この縄は解けない。私は非力な女子高生で、手も足もテープで縛られている。殺意だけで人は殺せない。ここで箍を外して暴れたところで、待っているのはあの連中を喜ばせるだけの結末だ。

 

 だから、呑み込む。今は。全部、腹の底へ沈めておく。

 

「もう一つ、疑問があるんですけど」

 

 私は業火を笑みの下へ押し込めたまま、努めて軽い調子で続けた。

 

「あんたの絵図は、私がこの縁組とやらに、自分から頷くのが大前提でしょ。園崎の娘が自分の意思で嫁ぐ。だからこそ、争いじゃなく縁組の顔になる。そこまではわかりましたよ。でもね、鵜飼」

 

 私はにっこりと、精一杯毒々しく笑ってやった。

 

「肝心の私が、首を縦に振らなかったら?まさか、こんな手荒な真似をしておいて、私が素直に嫁いでくれるなんて、本気で思ってるわけですか?」

 

 挑発だった。半分は虚勢で、半分は本気の疑問だ。どんな脅しをかけられようと、意地でも頷かなければこいつらの計画は成立しない。ならば、まだ打つ手はある。そう思いたかった。

 

 鵜飼は、動じなかった。むしろ待っていましたと言わんばかりに、その爬虫類の目をわずかに細めた。

 

「ええ。もちろん、お嬢さんが素直に頷いてくださるとは、私も思っておりません」

 

 嫌な予感がした。この男がこういう顔をするときは、決まって切り札を隠している。

 

「ですからね、こちらも一つ、ご用意させていただきました。お嬢さんが、どうしても頷きたくなるような、ちょっとした手土産を」

 

 鵜飼が、ぱちんと指を鳴らす。

 

 壁際の若い衆の一人が、ずいと前へ出た。手にした一枚の写真を、私の目の前に突きつけてくる。暗がりでも、私の目はそこに写ったものを一瞬で捉えてしまった。

 

 薄暗い部屋。床に、ぐったりと横たえられた人影。乱れた髪の下から覗く、見慣れた横顔。目を閉じて、身じろぎもしない。

 

 ──圭ちゃん。

 

 心臓が、氷の手で鷲掴みにされた。

 

「あなたの、“大事な”付き人ですよ。岡崎圭一くん、とおっしゃいましたか」

 

 鵜飼の声が、やけに遠くから聞こえる。写真から目が離せない。車に撥ねられて血まみれになったあの日の圭ちゃんが、今の写真に重なる。また。また、この人が私のせいで。

 

「本家で、少々手荒に眠っていただきました。今は、私どものよく知る場所で、大人しくしております。……もっとも、生かすも殺すも、こちらの胸ひとつ、というわけでしてね」

 

 やられた。

 

 頭の芯が、すっと冷えていく。さっきまで渦を巻いていた殺意が行き場を失って、代わりに底なしの恐怖が這い上がってくる。この男は、私のいちばん柔らかいところを正確に握っていた。両親でも、園崎の看板でもない。圭ちゃんだ。私が何を差し出しても守りたい、たった一人の事を。

 

「もしお嬢さんが、この期に及んで強情を張られるようでしたら」

 

 鵜飼は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

 

「あの付き人くんに、ここでご退場願うことになります。それも、あなたのおかげでね。竜堂会さんは、そういうことに関しては、実に手際がよろしい」

 

 その言葉の意味は、いやというほどわかった。園崎とは比較にならない、関西の巨大な組織。その気になれば、圭ちゃん一人の命なんて跡形の痕跡も残さずに消してしまえるということだ。

 

 抗えば、圭ちゃんが死ぬ。

 その一点が、私の全身を内側から凍りつかせた。

 

 殺してやりたい。この場の全員を、一人残らず。さっきまで組み上げていた昏い献立が、まだ頭の隅で燻っている。私には、その気だってある。けれど──もし私がここで暴れたら。意地を張って、こいつらに牙を剥いたら。その報いは私じゃなく、囚われた圭ちゃんが払うことになる。

 

 そればかりは、ぜったいにダメだ。

 

 喉の奥から、笑い声が漏れそうになった。皮肉すぎて。あれだけ全員を殺す算段を巡らせておいて、私を縛るのは殺意でも意地でもない。たった一人を失いたくない、というこの弱さだ。惚れた弱み。守りたいものがあるというのは、こんなにも致命的な急所になるものなのか。

 

 笑みが、保てなくなった。

 頬に貼りつけた余裕の仮面が、ぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていくのがわかる。作り笑いの下から現れたのは、きっとひどい顔だ。血の気の引いた、追い詰められた女の顔。それでも、どうすることもできない。

 

「……圭ちゃんに、手を出さないで」

 

 声が、掠れた。もう毒も皮肉も、乗せられなかった。ただの、剥き出しの懇願だった。

 

「あの人には、手を出さないで。お願いだから」

 

 鵜飼の口元が、満足そうに吊り上がる。私が崩れるその瞬間を、この男はずっと待っていたのだ。

 

「では、頷いていただけますね。竜堂会さんへ、新開さんへ嫁がれると」

 

 喉の奥が、ひりついた。頷けば、私は自分から園崎を売り渡すことになる。父や母を、みんなを裏切る。こんな形で、私はこの家を消したかった訳じゃないのに……何より、頷かなければ、圭ちゃんが死ぬ。

 

 失いたくない。やっと……やっと私が、心の底から──

 

 私は、目を閉じた。あの人の顔が、瞼の裏に浮かぶ。少しは付き人らしいとこ見せられたか、なんてへらへら笑うあの顔が。世界中が敵になっても最後まで一緒にいると、そう言ってくれたあの声が。

 

 ごめんなさい、圭ちゃん。私、あんたを守るためなら他の全部なんてどうでもいいんだ。あーあ、こんな事なら、告白くらいしとくんだったなー。なんて、この期に及んで、お花畑な

 

「……わかった」

 

 声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「わかったから。だから、絶対に手を出さないで」

 

 私が頷いたのを見て、新開が両手を打ち鳴らした。

 

「決まりだなァ!いや、めでたい、実にめでたい」

 

 まるで、待ちわびた祝言でも始まるみたいな浮かれ具合だった。分厚い手をこすり合わせて、締まりのない笑みで私を見下ろしてくる。花嫁を前にした花婿、とでも思っているんだろう。その脂ぎった顔を眺めていると、腹の底へ沈めたはずの業火がまた性懲りもなく首をもたげかけた。

 

「よし、場所を移すぞ。ここじゃ辛気くさくて、晴れの席にゃふさわしくねえ。園崎の親御さんがたも、首を長くしてお待ちだ」

 

 園崎の親御さんという一言に、心臓が跳ねた。

 

 やっぱり、そういうことか。頭の中で、鵜飼の話が繋がっていく。私にこの縁組を了承させ、園崎の主だった者の前で自分の口から嫁ぐと言わせる。奪ったのではなく差し出されたのだという体裁を、別の場所で完成させるつもりなのだ。その証人として、両親たちはもうどこかへ呼び寄せられているのだろうか。

 

 鵜飼が、私の前へ歩み寄ってきた。

 

「お嬢さん。賢明なご判断、痛み入ります。……くれぐれも、余計なお気を起こされませんよう。あなたの大事な付き人くんの首が、あなたのお行儀次第で繋がっているということ、どうかお忘れなきよう」

 

 最後にもう一度圭ちゃんの命で私の首を絞めてから、鵜飼は身を翻した。新開と連れ立って、倉庫の出口へと向かっていく。その後ろを、ぞろぞろと若い衆が続いた。喧しい足音と下卑た笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。

 

 出口の手前で、新開がふと足を止めた。振り返って、壁際の痩せた男へ顎をしゃくる。

 

「おい。丁重にお連れしろよ。なにせ、うちの大事な“お客様”さんだ。傷ひとつつけんじゃねえぞ」

「──承知しました」

 

 痩せた男が、静かに頭を下げた。その慇懃な会釈を見届けて、新開は満足げに出ていく。ずいぶんと信の置かれた男らしい。花嫁の護送を任されるくらいには。

 やがて、倉庫の中はがらんと静かになった。残ったのは、私とその痩せた男。それから、私を囲む新開の手下が六人。

 

 手下の一人が面倒くさそうに近づいてきて、私の手首のテープに手をかけた。

 

「ほら、立てや。移動だ」

 

 乱暴に縛めを剝がされた。手首が、足首が順に自由になっていく。とはいえ、逃げ場なんてどこにもない。屈強な男が六人、私一人を取り囲んでいる。私はゆっくり立ち上がりながら、それでも諦めきれずに倉庫の隅へ視線を走らせた。何か一つでも、突破口はないか。

 

 上役たちの足音が完全に遠ざかった途端、手下どもの空気がぬるりと変わった。

 

 私を囲む視線が、いっせいに粘つきはじめる。新開のあの舐めるような目つきを、そのまま下品にしたような目。それが六対。あちこちから、下卑た囁きが漏れてくる。

 

「なあ。どうせ兄貴に献上する女だろ」

「へへ、届ける前によ。ちょいと味見くらい、罰は当たらねえよなあ」

「傷はつけんなよ。……跡さえ残らなきゃ、誰にもわかりゃしねえって」

 

 反吐が出る。

 

 どこまでも、クズだ。この男たち。主のいない隙に、獲物を囲んで舌なめずり。人を、玩具か何かだと思ってやがる。腹の底で、さっき呑み込んだはずの業火がまた音を立てて燃え上がった。誰が。誰があんたたちなんかに。

 

 けれど、と冷静な私が同時に囁く。これは、まずい。

 

 いくら威勢よく睨んだところで、私は縛めを解かれただけの非力な女子高生だ。片や、相手は六人。手練れとまではいかなくとも、腕っぷしだけなら大人の男が六人だ。一人二人ならまだしも、束になって本気で来られたら抵抗がどこまで続くかも怪しい。指の一本も噛みちぎってやる、なんて虚勢はこの頭数の前ではあまりに心細かった。

 

 じり、と手下の一人が距離を詰めてくる。にやけた顔で、無遠慮に手を伸ばしてきた。その指が、私の肩に触れようと──

 

 その時だった。

 空気が、裂けた。

 

 伸びてきた手下の腕を、横合いからぬっと現れた影が掴む。次の刹那、その男の体が宙を舞って背後の仲間を巻き込み倒れ込んだ。何が起きたのか、誰も理解できていない。理解する暇すら、与えられなかった。

 

 あの痩せた男だった。壁際でずっと置物みたいにしていた、あの男。それが今、獣みたいな速さで下衆どもの間を駆け抜けていく。

 

 鈍い音が立て続けに響く。一つ二つと沈んで、そこから先はもう数える間もなかった。呻き声すら、ほとんど上がらなかった。私を囲んで舌なめずりしていた六人が、瞬く間に次々と床へ沈んでいく。まるで、鎌が稲を薙ぎ払うみたいに。

 

 ものの、数秒の出来事だった。

 

 気づけば、六人全員が倉庫の床に折り重なって伸びていた。立っているのは、その痩せた男ただ一人。呼吸ひとつ、乱していない。

 

 私は、声も出せずに立ち尽くした。頭が、まるで追いつかない。さっきまで私を舐め回していた男たちが、藁人形みたいに転がっている。それをやってのけた男が、ゆっくりとこちらへ向き直った。倒れた手下には、目もくれない。

 

 その静かな目が、まっすぐ私を捉えた。

 私は思わず身を引いた。この男も、結局は同じ穴の狢なのか。今度は私の番か。そう身構えた私に、男は低くはっきりと告げた。

 

「敵ちゃうよ。あんたを、逃がしに来たんや」

 

 





なんかヤクザ周りだけオリジナルキャラが急増してて申し訳ございません。また設定もガバガバなところが散見されるかと思いますが、私の脳だとこれが限界のようです。大変恐縮ですが、温かい目で見守っていただけますと幸いです。
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