ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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ノーカン!

 

 

 

 その背中を、私は何度見てきたのだろう。

 

 ある時は崩れ落ちそうな程脆くて。ある時は苛立ちそうになるほど暗くて。

 ある時は甘えそうになるほど温かくて。

 

 そして今は──

 

 肩で息をして、金属バットをだらりと提げた、大きな背中。ワイシャツを捲って、肩が呼吸のたびに大きく上下している。よほど全力で走ってきたのか、それとも、あの一撃にありったけを込めたのか。襟足の髪が汗で首すじに張りついて、ぐしゃぐしゃに乱れている。

 

 そんな、大きな背中。

 

 彼の背中の、少しうしろ。そこが、いつのまにか私のいちばん落ち着く場所になっていた。だから見間違えるわけがない。何万人のなかに紛れたって、私はきっとこの背中だけを、目で拾いあげてしまう。

 

 その背中が今、私と、地獄のあいだに立っている。

 

 捕まってたはずなのに。もしかしたら、こいつらに酷い目に遭わされたかもしれないのに……なのに、ここに来てくれた。

 

 喉の奥が、ぐっと詰まった。

 

 ずっと氷を詰め込まれていた胸の底が、その背中を見た端から、じわじわとほどけて溶けていく。溶けて、熱くなって、その熱がまっすぐ目の奥へせり上がってくる。だめ。こんなところで。奥歯を噛みしめて、必死にこらえる。まばたきをすれば、たぶん一息にこぼれてしまう。だから瞬きもできない。にじんだ視界のなかで、その背中だけが、ゆらゆら揺れて見えた。

 

 ……圭ちゃん。

 

 いつだって、そうだ。私がもう膝を折りかけた、そのぎりぎりのところへ、この人は必ず滑り込んでくる。息を切らして、無茶な体で、まるでそうするのが当たり前みたいな顔をして。何度も、何度も。数えきれないくらい、この人はそうやって私の前に立ってきた。

 

 もしかしたら、ここではない別の世界でもそうだったのかな。

 

 

 あぁ、どうしよう。

 その、あまりに見慣れた光景が——今日はどうしてか、たまらなく、愛おしい。胸の奥をじかに握りつぶされるみたいに、苦しくて、あたたかい。自分でもびっくりするくらい素直に、私はこの背中を、愛おしいと思ってしまっている。

 あれ?さっきまで絶体絶命みたいな状況じゃなかったっけ。なんかもう全部解決した気がしてるのはなぜ?

 

 なんて考えていたら──その背中が吠えた。

 

「俺の女に……なにしやがるっ!!」

 

 ……ふ。 

 

 こらえていた涙が、ぴたりと止まった。込み上げてくる感情がつい、笑いに変わりそうになる。

 

 ったく、もう、なんですかそれ。俺の女、なーんて大見得まで切っちゃって。伸びた大男と、青ざめた鵜飼を目のまえにして、命がけの第一声がそれですか。ふふ、ほんとうに、まったくこの人は。……俺の、女、か。

 

 俺の女。

 

 おれの、おんな。俺の……あれ。

 

 ……ん?んん?えーと。

 

 宙で固まった涙の代わりに、まるで毛色の違う熱が、じわじわと顔じゅうへ這いのぼってきた。

 

 えっ、ちょっと待って。俺の女って。誰が?私が?私が、圭ちゃんの、女?いつの間に?

 え?ちょっと待って、これってつまりあれですか?告白されてます私?だったら、なにをしれっと言ってのけているんですかこの人は。いやいやいや、こんなのノーカンだ、ノーカン!

 

 どうせこの朴念仁のことだ。何も考えずに怒りに任せて口走ったに決まってる。私が後で期待して聞いても、「あれは勢いというか、そんなつもりじゃ」とか言うに決まってる。なによりこんなムードもへったくれもないものをカウントしてなるものか!……いやまぁ、ムードと言えばムードはあるけど。こうやってごちゃごちゃ言い訳を並べないといけないくらい……カッコいいけど。

 

 

 ったく、本当にこの男は……

 

 地獄の底のはずだった。怒りと、恐怖も、本当ならまだ治るはずもないのに。なのに、ついさっきまで爪先まで凍りついていたはずの私から、たった一言が、そんな感情の数々を根こそぎ奪い去られてしまった。

 人を安心させる隙も、泣く隙も、怖がる隙すら与えないで、ぜんぶ、根こそぎ持っていってしまう。……こんなときに、まで。

 腹立たしいことこの上ないので、あとで散々っぱらからかってやろう。

 

 

 なんて胸のうちで繰り返していたら、正面のほうから怒号が押し寄せてきた。

 更に、奥の方からは鉄と鉄のぶつかる音。誰かの悲鳴じみた叫び。地を蹴る足音が、いくつも重なって地面を揺らしている。冷静に考えると、この状況はなんだ?なぜ圭ちゃんがここにいる?もしかして、何かとんでもない騒ぎになってるんじゃ……

 

 視界の隅で、鵜飼も引きつった顔のまま、じりっと後ずさった。その爬虫類みたいな目が、伸びた新開と、仁王立ちの圭ちゃんとを、忙しなく行き来している。

 

「詩音!」

 

 振り向いた圭ちゃんが、私の手首を掴んだ。

 

 熱い。

 

 思わず、息を呑んだ。爪先まで凍りついていたはずの私の手を、その手のひらが、燃えるみたいな熱さで包み込んでくる。痛いくらいに強く握ってくる、圭ちゃんの手。

 

「掴まってろ、舌ぁ噛むぞ!」

 

 言うが早いか、ぐいと腕を引かれた。

 つんのめるみたいにして、私は駆け出す。けれど、長いこと同じ格好で縛りつけられていた足だ。すぐにもつれて、地面が傾いた。あ、と思う間もない。

 

 次の瞬間、視界がふわりと浮き上がった。

 

 圭ちゃんが、私を抱え上げていた。膝の裏と背中に腕を回して、まるごと。……お姫様抱っこ、なんて言葉が、こんなときに限って頭をよぎる。近い。顔が、胸が、あんまりにも近い。心臓が、勝手に馬鹿みたいな速さで打ちはじめる。

 

 抱え上げるその腕が、かすかに震えているのに気づいた。

 

 そうだ。この人は、病み上がりだ。足首も頭も、まだ本調子には程遠いはずで。走る足の運びが、右をかばうみたいに、わずかにぎこちない。それでも私を抱える腕だけは、絶対に離すまいとするみたいに、固く回されている。……ばか。こんな体で。無茶ばっかり。愛おしさと、申し訳なさと、名前のつかないざわめきが、いっぺんに胸へ押し寄せてくる。

 

 揺られながら、運ばれながら、私はぼんやりと思う。

 

 私は、彼を守るつもりだった。彼のためなら、なんだって差し出すつもりでいた。私が握って、私が動かして、そういう恋のはずだった。なのに——先に大見得を切られて、こうして抱え上げられて、足元をすっと掬われるみたいに、私がずっと握っていたはずのものが、この人の腕のなかへ、するりと持っていかれてしまう。

 

 嫌じゃ、ない。

 

 むしろ——なんて、危うく思いかけて、慌てて首を振る。だめだめ。ここでいつもの調子を取り戻さないと。なにか一つ、軽口の一つでも叩いて、主導権を握り直さないと。

 

「……け、圭ちゃんのくせに、生意気な」

 

 やっと絞り出した憎まれ口は、自分でも情けなくなるくらい、いつもの切れを、まるで持っていなかった。

 

「……ひでぇな、全力でここまで来たってのに」

 

 案の定圭ちゃんは軽く笑って、それを受け流した。走りながら息を弾ませて、いつもとおんなじ調子で。

 

 その、いつもどおりがいけなかった。

 

 張り詰めていたものが、ふつりと切れた。抱えられた腕の熱に、無茶な体でここまで来たこの人の温度に、どうしようもなく気がゆるんで——こらえていたものが、意思とは関係ないところで、ぽろりと零れ落ちた。

 

「……なんで、来たんですか」

 

 声が、掠れた。

 

「捕まってたはずでしょう。危ない橋なんか渡らないで、放っておけばよかったのに。私のことなんか」

 

 言葉が、止まらない。

 

「結局、私のそばにいる人は、いつもろくな目に遭わないんですよ。大事だと思う人ほど、気づいたら、手の届かないところへ行ってしまう……そんな運命なんです」

 

 お姉だって、悟史くんだって。それに、この前の圭ちゃんだって…… 撥ねられて、彼が冷たくなっていく感触が、まだ指先に残っている。

 

「私にかまってたらは、いつかきっと──」

 

 その先は、どうしても言えなかった。

 

 言えないまま、私は圭ちゃんの胸元を、きゅっと握りしめる。

 

「──だから、言ったろ」

 

 走る足が、ふっと緩んだ。

 圭ちゃんが、私を見下ろしている。息を切らして、汗だくで、それでも、ばかみたいにまっすぐな目で。

 

「世界中が敵になっても、俺はお前の側にいる。何べんも言わせんな。前原圭一に、二言はねぇ」

 

 息が、止まった。

 

「運命だぁ?そんなもん、金魚すくいの紙っきれとおんなじだ。簡単に打ち破れるもんなんだよ」

 

 なにを言い出すのか。呆けた私に、圭ちゃんはにっと笑ってみせる。

 そして抱える腕が、私をそっと抱き直した。壊れ物を扱うみたいに、優しく。温かかった。

 

 ──ああ。

 

 その、理屈にもなっていない理屈が。へらへら笑って言ってのける、なんの根拠もない断言が。私がずっと後生大事に抱えてきた暗い理屈を、まるごと、どこかへ攫っていってしまう。

 

 ……もう、本当に。

 

 私はとっくに、この人に、心の全部を奪われてしまっているんだ。悔しいくらいに。泣きたいくらいに。歓びと綯い交ぜになって、根こそぎ、まるごと。

 

 

 

 ぐずぐずに溶けてしまった私を抱えたまま、圭ちゃんは走り続けた。

 

 倉庫の壁を伝って、裏手から、乱闘の音がするほうへ。近づいていいのか、と一瞬思う。でも彼の足は、迷いなくそっちへ向かっている。怒号が、鉄のぶつかる音が、だんだん大きくなってくる。……ほんとうに、なにが起きてるんだろう。なんでこんな大騒ぎに。圭ちゃんが、どうしてここにいるのかも、まだちっとも分からないままで。

 

 外周へ回り込んだ、その先。

 開けた一角には、恐らく新開の手下だろう竜堂会の男たちがのされて、そこかしこに倒れていた。

 その周りには、見覚えのある背中が、いくつも立っていた。

 

 葛西。宗石さん。竜堂会の男たちを、次々と地面へ沈めていく。危なげのない、園崎の腕。そしてその奥に——和服の裾をからげた、お母さん。腕を組んで仁王立ちのお父さん。

 

 ……あー。

 

 思わず、天を仰ぎたくなった。

 

 来てしまったのか、と。そんな気まずさが、じわりと胸に滲む。担がれるだけの神輿のくせに、御輿を担ぐ人たちを、こんな血なまぐさい場所まで引っぱり出して。……まったく、この人たちは。私なんかのために、みすみす危ない橋を渡って。

 バツの悪さのすぐ隣で、形容しがたい温かさもあって。すごく心の中が混乱しているような、そんな感じ。

 

「おや」

 

 私を抱えた圭ちゃんに気づいて、母が片眉を上げた。それから、にんまりと、実にいい笑顔になる。

 

「あっはっは!なんだいなんだい、婚礼の真っ最中に花嫁をかっ攫うたぁ、圭一くんも隅に置けないねぇ。……で?誓いのキスはもう済ませたのかい?」

「なっ……!?」

 

 瞬間、全身の血が、顔面へ逆流した。この状況で、この人はなにを。

 

「お、下ろして!圭ちゃん、はやく下ろしてください!」

「あ、っと、悪ぃ」

 

 じたばたと暴れる私を、圭ちゃんが慌てて地面に下ろす。膝が、まだ少し笑っていた。頬の熱が、どうやっても引いてくれない。まったく、この親子は。人がせっかく、しんみりしていたというのに。

 

 ──と。

 

 その空気を、背後から裂くように、低い声が這い寄ってきた。

 

「……逃がすと、思ったか」

 

 振り返ると、新開が立っていた。口の端から血を垂らして、顔面を無残に腫らして。それでも、あの脂ぎった目だけが、爛々と光っている。その斜めうしろには、鵜飼の姿も。

 

 園崎の主だった顔と、私と圭ちゃんと、新開たちと。狭い一角で、視線が交錯する。ほどけかけた空気が、一息に、ぴんと張り詰め直した。

 

「ったく……随分とまぁ、好き勝手やってくれたじゃあねぇか」

 

 好き勝手やってたのはどっちだと喉元まで出かかるが、グッと飲み込む。新開は薙ぎ倒されていた部下たちを一瞥して、吐き捨てるように続ける。

 

「いいのか?俺にこんな真似して。……竜堂会を敵に回すってのが、どういうことか。てめぇら、分かって言ってんのかァ?」

 

 追い詰められているとは思えないような、忌々しい余裕の笑みを浮かべながら新開はおもむろに続ける。

 

「わかってねぇようだから、教えといてやるよ」

 

 新開は、腫れあがった顔を歪めて、ぐるりと園崎の面々を睨め回した。血の混じった唾を、地面へ吐き捨てる。

 

「園崎ぃ。てめぇら、地元じゃさぞかし大層な顔なんだろうな。この一帯じゃ、園崎の名前を出しゃ、誰もが道を空ける。……そうやって、長いことぬくぬくやってきたんだろうよ」

 

 その声には、追い詰められた男とは思えない、ねっとりとした余裕があった。

 

「けどなァ。それも、この狭い田舎でだけの話だ。俺のうしろにいるのは黒門連合だ。西を丸ごと束ねてる、本物の広域組織よ。てめぇらが束ねてるちっぽけな縄張りとは、そもそも土俵が違うんだよ」

 

 その一言一言が、やけに重たく、鼓膜に残った。

 

 園崎の何人かもごくりと喉を鳴らす。ここに集められた園崎の腕利きで、十数人。地元でなら、これだけ揃えば向かうところ敵なしだ。……でも。西を束ねる、という言葉の桁が、まるで見当もつかない。何百なのか、何千なのか。私たちの物差しでは、測ることさえできない。

 

「若頭補佐が手ぇ出されて組が黙ってると思うか?事と次第によっちゃあ連合だって出張ってくるだろうなぁ?面子ってもんがあるんだよ、こっちにゃあ」

 

 新開の舌は、止まらなかった。

 

「明日にゃ、この興宮に、西からわんさか人が流れ込む。園崎の息のかかった店。シノギ。長ぇこと守ってきた地元の縄張り。……その根っこを、跡形もなく引っこ抜いてやるよ。てめぇらが土に張った根を、な。地元に根を張ってるってなァ、裏を返しゃ、逃げも隠れもできねえってこった」

 

 父の眉間の皺が深くなり、葛西は黙ったきり。言われっぱなしで黙っているのかと本来なら啖呵を切りたいところだけど、事ここに及んでは腕でどうにかなる話じゃない、ということだ。もう力ではもう届かない場所に、問題があるということ。

 

 きっと園崎なんて、こんな連中の前では、砂の城みたいなものだ。

 

 私が今日まで、恐れて、憎んで、いつかこの手で畳もうとまでしてきた、あの巨大な園崎の家。この土地で、逆らう者のいなかったあの家が。西から来る本物の濁流を前にすれば、波打ち際に築いた、頼りない砂の山でしかない。ひと押しで、あっけなく崩れる。

 

 私は、園崎を壊したかった。私の意志で、私のやり方で、この家に決着をつける。それが私の、たった一つの願いだったはずで。

 

 けれど——こんな形を望んでた訳じゃあない。

 

 私がなにをするより先に、この家は、外から来た濁流に、まるごと呑まれて消える。母も、父も、葛西も、宗石さんも。この地に生きてきた人たちが、根こそぎ。そして——圭ちゃんまで。私なんかに関わったせいで園崎に足を踏み入れた、この人まで、その流れに、一緒くたに。

 

 私の手が届くより先に。私の知らないところで、なにもかもが、勝手に。

 気づいたときには、私は圭ちゃんの袖を、無意識に、きつく握りしめていた。

 

 その、細かく震える私の指を、圭ちゃんの手が、そっと上から包んでくれる。まるで、大丈夫だと言わんばかりに。

 

「へへ、ようやく分かってきたみてぇだな」

 

 私たちのやり取りを、新開が舌なめずりするみたいに眺めていた。

 

「なあ、園崎の。悪いことは言わねえ。その女、こっちへ返しな。そうすりゃ、連合には俺からうまいこと言っといてやる。今日のこたァ、若いモンの行き違いってことでよ──」

「──いやぁ。それは、無理な相談だと思いますよ」

 

 場違いなくらい、軽い声だった。

 

 張り詰めきった空気の、ちょうど真ん中に、ふっと風穴を開けるみたいに。園崎の誰の声でもない。竜堂会の誰の声でもない。それは、暗がりの向こうから聞こえた。

 

 ぱりっとしたスーツの男が、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、こつ、こつ、と革靴を鳴らして歩いてくる。血と怒号の充満したこの修羅場を、まるで夜の散歩の途中みたいな、気の抜けた足取りで。

 

 その顔に、見覚えがあった。

 

 あれは……

 

「あ?なんだてめぇ」

「あぁ、どうも。ご紹介が遅れました──警視庁公安部の赤坂衛です。」

 

 ざわり、と。敵味方問わず、あちこちに動揺が走る。赤坂さん──なんで警察のあの人がここに。

 訝しむ私をよそに、赤坂さんは、新開のほうへ、おもむろに歩みを進める。そして懐から紙を取り出して。

 

「竜堂会、新開誠三。並びに園崎組、鵜飼浩介。未成年者略取ならびに逮捕監禁、傷害の現行犯で逮捕する」

 

 その言葉が放たれた瞬間、倉庫の入り口から警察官の大群が群れをなして押し寄せてきたのだった。

 

 

 





ストックなくなったので少し空きます!
とはいえメインストーリー完結までもう少し。頑張って走り抜けたいと思います!
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