すみません!一話入れ忘れていました!「奇襲」というタイトルで、二話前に追加してます。そちらも読んでいただけると嬉しいです
赤坂さんの声が、夜気を裂く。
その一言が合図だったみたいに、倉庫の入り口から、制服の波が雪崩れ込んでくる。
あとは、本当にあっという間だった。
人の背中で、視界が埋まった。怒号が飛び、無線の割れた声が飛び交って、あちこちで名前と番号を叫び合っている。血の匂いと油の匂いが充満していたこの場所が、ものの数十秒で、まるで別の生き物みたいな顔に変わっていく。
修羅場が、瞬く間に事件現場に。
竜堂会の男たちが、次々と地面に組み伏せられていった。逃げようと駆け出した男が、五歩も行かずに数人がかりで押し倒される。さっきまで園崎の腕に沈められて転がっていた連中まで、片っ端から引き起こされて、腕を後ろへねじり上げられていく。
抵抗する声。うめき声。金属の擦れる、冷たい音。
園崎の面々にも、当然のように警官が近づいていった。武器を下ろせ、その場を動くな、と。葛西も、宗石さんも、素直に両手を上げてみせる。……でも。
どうも様子が変だ。
園崎への当たりが、明らかに違う。竜堂会の連中を扱う手つきの荒さと比べて、こちらへ向けられる声は、驚くほど事務的で、淡々としている。手荒に組み伏せられることもない。まるで、そうするようにあらかじめ決まっていたみたいに。
……なんだろう、これ。
考えている間にも、捜査員の一団が、倉庫の奥へ吸い込まれていった。奥の方から、木箱をこじ開ける音が響いてくる。
あそこに何が積まれているのか、私は知っている。鵜飼が、あの得意げな顔で、わざわざ教えてくれたから。
押収、なんて言葉が、遠くの誰かの口から聞こえた。
……なんだか、夢みたいだ。
ついさっきまで、私は壁に縫いつけられて、指の一本も動かせずにいた。それが今、目の前で、なにもかもがひっくり返っていく。私がなにか一つでも手を打ったわけじゃないのに、勝手に、猛烈な速さで。
現実感が、どうにも追いついてくれない。
私はただ、その激流のまんなかに突っ立って、行き交う制服の背中を、ぼんやりと目で追っていた。
そんな中でひとつだけ、頭のなかで転がり続けている問いがある。
なんで、赤坂さんが。どうして、あの刑事さんが、こんなところにいるんだろう。
「──ふざけんじゃねぇぞっ!」
両腕をねじり上げられながら、新開が喚いた。
「俺を誰だと思ってやがる。竜堂会の若頭補佐だぞ。……おい、そこの刑事。あんた、自分が誰に手錠かけようとしてんのか、分かってやってんのか?」
脂ぎった目が、赤坂さんを睨め上げる。
「うちの後ろにゃ黒門連合がついてんだ。俺一人パクったところで、あんたら、この先ずっと西を敵に回すことになるぜ。……悪いことは言わねぇ。今なら見なかったことにできる」
その声を聞いて、私の背筋が、また少しだけ強張った。
だってさっき、その名前で、この場の全員が黙り込んだのだ。園崎の腕自慢たちも、父も、あの葛西でさえ。腫れあがった顔から迸るその一言には、それだけの重さがあった。
「だいたい、俺は被害者だぞ!見ろよこの面ァ!そこのガキにバットで殴られたんだ。捕まえるならそっちが先だろうがよ!」
なのに。
誰ひとり、動じない。
新開を押さえている警官も、そのまわりで淡々と作業を続ける捜査員たちも、まるで酔っ払いの絡みでも聞いているみたいな顔をしている。あの名前が出るたび、場が、しらけていく。
……なんで、誰も怯えないんだろう。
そのとき、赤坂さんが、ゆっくりと新開の前へ立った。ポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ腰を屈めて、視線の高さを合わせる。
「まぁ落ち着いてください、新開さん。どうも話の行き違いがあるみたいです。別に我々とて、竜堂会を解散に追い込もうとしてる訳じゃない」
凄むでも、勝ち誇るでもない声だった。天気の話でもするみたいに、あまりに平坦で。
「先週、大阪で南郷さんにお目にかかってきまして」
新開の喚き声が、ぴたりと止まった。
「とてもお忙しい方だったのに、二時間もお時間をいただきましてね。ゆっくりお話しさせていただきました。……お宅も、うちに突かれたくないところが、いろいろとおありのようでしてね」
赤坂さんは、にこやかに続ける。
「まあ、私としては今回はそちらに興味はありませんし。ええ、とても穏やかな会食でしたよ」
「……は?」
新開の口から、間の抜けた声が漏れた。
「な、なんで、あんたがうちのオヤジと……」
「だから言ったじゃないですか。竜堂会と戦争をするつもりはないって」
赤坂さんは、それ以上なにも言わなかった。ただ、人懐こく笑ったまま、腰を伸ばして肩をすくめる。
なのに。
新開の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。自分の親が、公安の刑事と穏やかに飯を食っていたということ。その席で、なにが交わされ、なにが差し出されたのかということ。
この人は、頭を押さえに行ったんだ。竜堂会の、そのまた上まで話を通して、この夜の落としどころを、あらかじめ決めてきた。だから警官の誰ひとり、彼らの名前に眉ひとつ動かさない。動かす必要がないから。
「嘘だ」
新開が、掠れた声で呻いた。
「嘘だ、そんなわけあるか。オヤジが、俺を……っ、俺は若頭補佐だぞ、シノギだって誰よりも──」
「せやから言うたやんか」
その声は、暗がりの外から、やけに気安く飛んできた。
両手をポケットに突っ込んだ男が、ぶらぶらと歩いてくる。左の頬に真新しい擦り傷。土埃で汚れたスーツ。それでも、口の端だけは相変わらず愉快そうに吊り上がっていた。
「能瀬……っ!てめぇ、生きて──」
「うん。えらい目に遭うたけどな。おかげさんで、この通り」
新開の前まで来ると、能瀬は膝を折って、しゃがみ込んだ。目線を、腕をねじり上げられた男の高さへ落とす。
「あんたなぁ。ワシが裏切ると読んで、泳がせたつもりでおったやろ」
「……っ」
「読み、当たっとったで。ワシは初めっから、あんたを売るつもりでここにおった。……そこまでは、あんたの読み通りや」
能瀬の目から、笑いだけが、するりと抜け落ちた。
「そやけどな。あんた、その先を読まんかったやろ。ワシが誰と繋がっとるか。誰の指図でここにおるか。……そこを確かめもせんと、勝手に泳がせて、勝手に勝った気になっとった」
新開が、なにか言おうとして、言葉にならずに喉を鳴らす。
「新開さん。あんた、もう竜堂会の人間やないねん。今朝方、破門状が回ったわ」
しん、と。
その一言で、この一角から、音という音が引いた気がした。
「生かしてもらってるだけ有難い思いや。オヤジも、あんたのシノギの腕だけは惜しんどったで。……まあ、それもついこの間までの話やけどな」
能瀬は、ゆっくりと立ち上がった。土埃を軽く払って、もう新開のほうを見もしない。
「──ほな、あとはよろしゅう」
その言葉が、誰に向けられたものだったのか。
答えるみたいに、新開を押さえていた警官が、その腕をぐいと持ち上げた。
支えを失った男の、なんと小さいことか。
ついさっきまで、この一角の空気を丸ごと呑み込んでいた男が。西から来る濁流の化身みたいに見えていた男が。今はもう、腕をねじり上げられたまま、なにも言えずにいる、腫れあがった中年でしかない。
連れて行かれる新開の背中を、私は目で追った。
その隣で、鵜飼が俯いている。もう顔を上げる気力もないらしい。私と目が合って、その濁った瞳が何か言いたげに揺れたけれど。
興味なんて、これっぽっちもなかった。私は視線を外して、歩き出す。
まっすぐに、あの男のほうへ。
「お、おい。詩音?」
圭ちゃんの戸惑ったような声が、遠くで聞こえた気がした。
しかし歩みを緩めるつもりはない。
一歩。二歩。
地面を踏むたび、体の芯から、冷たいものがせり上がってくる。熱じゃない。煮えるようなものじゃない。爪先から頭の天辺まで、ゆっくりと氷を注ぎ込まれていくみたいな、あの感覚。
そう、例えて言うのならば。私のなかの、もう一人の私。
「──っ、てめ……」
私に気づいた新開が、腫れた顔を上げたその瞬間──その顎に、私の右足がめり込んだ。
助走も、溜めもない。腰の回転だけで叩き込んだ、正真正銘の一撃。骨と肉の軋む、いい音がした。押さえていた警官の手からもぎ取るみたいにして、大男の巨体が真横に吹っ飛んで、地面へ叩きつけられる。
あちこちで、息を呑む音がした。
私は構わずに、倒れた男のそばへ歩み寄る。そして、その胸の上へ、片膝を落とすようにして乗り上げた。潰れた蛙みたいな声が、男の喉から漏れる。
「……ぐっ、が」
「ねぇ、新開さん」
甘い声色を意識しながら、制服のポケットから、それを取り出す。
握り込んだ黒い塊。親指を、スイッチへ。
ばぢっ、と。
青白い光が、暗がりに弾けた。空気の焦げる匂いが、鼻先をかすめる。
新開の目が、限界まで見開かれた。
「アンタ、私を娶ろうとしてましたよねぇ」
火花の散る先端を、ゆっくりと、その顔へ近づけていく。
「気の強い女は嬲り甲斐がある、でしたっけ。折り甲斐があるって。……ふふ、ずいぶん楽しそうに仰ってましたよねぇ」
新開が、逃げようと身をよじった。無駄だ。押さえつけている私の膝が、そこを許さない。この体格差で、なぜ動けない、と思っているんだろうか。人の体には、押さえれば動けなくなる場所というものがある。あ、良い子は真似しないでくださいね。怪我じゃ済みませんから。
「一つ、教えといてあげます」
ばぢ、ばぢっ。
火花が、男の睫毛を焦がすほどの距離まで来た。青白い光に、見開かれた眼球が、てらてらと照らされる。
「園崎の女はね。躾けられるものでも、飼われるものでもないんですよ。……アンタ程度に手綱を握れるなんて、本気で思ってました?」
言葉が、自分でも驚くほど、滑らかに出てくる。
「ねぇ、知っていますか。目玉が焼けた匂いってどんなものか」
「ひっ……ひ、」
「あ、でも。一発目で潰れちゃったら、つまらないでしょう?だからね、まずは瞼のふちから、じわじわと。ふふ、ふふふ。舌は残しておいてあげます。だって、悲鳴が聞こえないと、つまらないじゃないですか」
私の喉から、笑い声が転がり出た。対照的に新開は蚊の中ような細い音しか出てこない。
実に胸が掬うような心持ちだ。
さっきまで絶対的優位に立っていたこの男の顔から、あの脂ぎった余裕が、一滴残らず抜け落ちていくのを見るのが、愉快でたまらない。私を値踏みしていた目が、恐怖でぐしゃぐしゃに歪んでいくのを見るのが、愉快で仕方がない。
「あ、あ、あ……っ」
新開の喉が、ひゅう、と鳴った。
瞳孔が開いて、白目を剝いて。あれだけの巨体が、びくんと一度跳ねたきり、動かなくなった。
あらら、気を失っちゃいましたか。極道ともあろう人間が。
立ち上がろうとして、ふと、手が止まった。
そうだ。まだ、一つ残っていた。
私は、動かなくなった男の襟元を、指先で押し広げる。晒された太い首すじへ、火花の散る先端を、そっと当てた。
「これは、別件です」
聞こえるはずもない相手へ、私は囁く。
「アンタ、圭ちゃんのこと言いましたよねぇ。どうでもいい男が一人、って。……安いもんでしょう、って」
スイッチを、押し込んだ。
鈍い音とともに、男の巨体が、びくんと大きく跳ねた。白目を剝いたまま、口の端から泡を噴いて、それきり、ぐったりと弛緩する。
私は、そこへもう一度、押し当てた。
もう一度。
三度目で、ようやく指を離した。
……ふう。少しだけ、気が済んだ。
立ち上がって、制服の裾を軽く払う。振り返ると、警官たちが、揃いも揃って固まっていた。誰も、私を止めなかった。止められなかった、というほうが正しいのかもしれない。
その輪の外で。
赤坂さんが、腕を組んで、こちらを見ていた。少しだけ困ったような顔で。
私が肩を竦めると、彼もまた肩をすくめて返して見せた。そして、部下たちに向かって顎をしゃくった。連れて行け、というふうに。まるで、今しがた目の前で起きたことなんて、何一つ見ていなかったみたいに。
新開の巨体が、警官の手で引きずられていく。爪先が地面を擦って、砂利に二本の筋を残していった。
それを見送っていると、すぐ後ろで、長い溜め息が聞こえた。
振り返る。圭ちゃんが、金属バットを提げたまま立っていた。私と、遠ざかっていく新開とを、何度か見比べている。
「……お前、えげつないな」
「あら。褒め言葉として受け取っておきますね」
「褒めてねぇよ。……ったく、俺が言うのもなんだけどよ」
バットを担ぎ直しながら、ばつが悪そうに顔をしかめる。
「あんまり無茶すんな」
ふふ。人のことを言えた口ですか。
顔面を殴り飛ばしておいて、自分は棚に上げるつもりらしい。……まあ、そういう不器用なところも、今日ばかりは目をつぶってあげましょう。
と、砂利を踏む足音が近づいてきた。
「災難だったね。二人とも、怪我はないかい?」
赤坂さんだった。両手をポケットに突っ込んだまま、まるで散歩の途中みたいな顔で立っている。
「おかげさまで。それより、赤坂さん」
ずっと胸の内で転がしていたことを、私は口にした。
「どうして、ここに?それも、こんな周到に」
「ああ。もともと興宮のほうに用があって来ていたんだ。それが少し、長引いてしまってね」
「興宮に?」
「うん。それで、こっちへ寄ることになった。……まあ、なんというか」
言葉を濁したその視線が、ふいと横へ滑る。
つられて目で追った先に、葛西がいた。
「……つまり、葛西の差し金ってわけね」
「──申し訳ございません」
葛西が、深々と頭を下げる。もっとも、その口ぶりに申し訳なさなんてものは、これっぽっちも滲んでいなかった。
「私が、赤坂さんにお願いいたしました。大阪の会社を洗っていただきたい、と」
「葛西さん。赤坂さんと繋がってたんすか」
圭ちゃんの声が、素っ頓狂に裏返った。
「はい。何ヶ月か前から」
「……いや、ひとっことも聞いてないんですけど」
「申し上げておりませんでしたので」
「そりゃそうでしょうけども」
圭ちゃんが、がっくりと肩を落とす。
「あら。圭ちゃんも知らなかったんですか」
「知るかよ。この人、ほんっと必要なことしか喋んねぇんだから」
「私も同意見ですけど。ねぇ葛西、少しは口を軽くしたらどうです?」
「軽い口は、命取りでございますので」
しれっと言ってのける葛西。敵を欺くためにはまず味方からってことか。
「赤坂さん。……ありがとうございました。私たち、今ごろどうなっていたか」
「あの、俺からも。……ほんとに、助かりました」
頭を下げると、圭ちゃんも倣うようにお辞儀をする。そんな私たちに、赤坂さんはひらひらと手を振って、部下のほうへ歩いていく。
それと入れ替わるみたいに、ぶらぶらとこっちへ寄ってくる影がひとつ。
能瀬だった。左頬の擦り傷は、通用口で私を逃がしてくれたときのものだ。
「無事で何よりや、嬢ちゃん」
「おかげさまで。……助けてくれて、ありがとうございます」
「なーに、利害の一致やって言うたやろ。気にせんで」
私が頭を下げると、能瀬は片手をひらつかせた。あの通用口で、追手をぜんぶ引き受けて残ったのはこの人だ。あの数分がなければ、私は圭ちゃんの顔を見る前に潰されていた。利害の一致だろうと、命を拾ってもらった事実は事実で、そこに蓋はしない。
「ま、あんたを逃がしそこねたときは、正直しくじったと思うたけどな。なんや、結果だけ見りゃ上出来や」
「赤坂さんのおかげですね」
「まあ、そういうこっちゃ」
能瀬が、腫れた瞼を掻きながら顎で赤坂さんのほうを示す。
「あの人が上に話つけてくれたんが、でかい。うちのオヤジと、じっくり腹ァ割ってな。……ワシら、初めから新開を切る口実を待っとったから、渡りに船やった訳やな」
こうして考えると、随分と赤坂さんは私たちに肩入れしてくれているように思う。そもそも警視庁公安部が、なぜ興宮くんだりのヤクザの揉め事に介入してくれたのかという疑問は尽きないが……まぁ、今はいいか。
「新開は今朝方、破門済みや。もう竜堂会の人間やない」
能瀬の声から、含みが抜けた。
「薬のルートも、こないして警察に丸ごと押さえられた。この期に及んで園崎に手ェ出してみい。竜堂会ごと、藪蛇で首絞められるだけや。旨みがひとっつもない。……せやから、もう誰も来ん。この土地にも、あんたらにもな」
「だといいですけど」
つっけんどんに返事をしつつ、張り詰めていた背中の芯から、すうっと力が抜けていくのを感じた。
「ともあれ——もう、貸し借りは、なしですね」
「おう。きれいさっぱりな」
言うが早いか、能瀬はもうこちらへ背を向けていた。ポケットに手を突っ込んで、来たときとおんなじ、気の抜けた足取りで。
しかし、二歩ばかり行ったところで、その足がふと止まった。首だけ、こちらへ振り向ける。その視線が、まっすぐ私を捉えた。
「あ、そうや嬢ちゃん」
口の端が、片方だけ吊り上がる。
「往生際は、悪ぅいっとけよ」
「はい?」
「狙った獲物は、どんな手を使ってもモノにせんとあかん」
──そういえば、助けてもらったときにそんな話をされたっけ。惚れた男はどーたらこーたらって。
「……なんの話です?」
「くっくっく」
くつくつと喉を鳴らして、能瀬はもう歩き出していた。今度こそ、振り返らない。
「……往生際って、なんだ?」
隣で、圭ちゃんが心底きょとんとした顔をしている。
「圭ちゃんには、一生わからないことですよ」
「なんだそりゃ」
能瀬の背中が、警察の投光器の光の輪を抜けて、夜の奥へ溶けていく。
私はその後ろ姿に、胸のうちだけで、もう一度だけ礼を言っておいた。
喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
怒号も、鉄のぶつかる音も、もうしない。無線のくぐもった声と、捜査員の淡々としたやり取りが、夜気にぽつぽつ落ちるだけ。潮が引くみたいに、あの一角が静けさを取り戻していく。
少し離れたところで、赤坂さんが母と何か話していた。差し出された手を、父が握り返している。その隣では母が豪快に笑っている。まあ、悪い話ではないんだろう。
私は、そんな光景をぼんやり眺めていた。言うなれば、台風一過。さっきまでとは打って変わって、嘘みたいに晴れやかな景色だ。
爪先はまだ冷えているのに、胸の底には、名前のつかない温いものが残ったままで。けれど心底、疲れた。
そんなことを思っていると、隣の気配が、やけに落ち着かない。
圭ちゃんだ。バットはもう手放したらしい。さっきから、口を開いては閉じて、視線をあらぬ方へ泳がせている。頬を掻いたり、髪をかき上げたり。いつもなら真っ先に軽口を飛ばしてくるくせに、それがない。
病み上がりで無茶をしたのだ。疲れているんだろう。……にしては、妙だけど。
「あー、詩音」
名前を呼ばれた。
「なんですかー」
「……ちょっと、話がある」
なんだか彼の声が、いつになく低い。ぴん、と芯の通ったその響きに、私の心臓が、ことりと跳ねた。
「その……二人きりに、なれねぇか」
え。
真剣な顔。二人きりで、話。まさか。首をもたげかけたそれに、思わず息が詰まる。これはまさか、来たのか?遂に?苦節百年……も経ってないけど、気持ち的には一億年と二千年は下らないだろう。これまでの戦いの成果が、遂に圭ちゃんの口から……?
いや落ち着け、早まるな。クールになれ園崎詩音。
だってこれは、あの圭ちゃんだ。さんざん人をドキドキさせておいて、肝心なところで盛大にずっこけさせてくる。今まで何度、それで肩透かしを食らってきたか。どうせ今回も、間の抜けたオチが待っているに決まってる。
ならば──
「なんですかー、あらたまって?圭ちゃんの“女”である私に、なんの用ですかぁ?」
「ぶっ!?」
わざと、もったいぶった、例のセリフに言及すると圭ちゃんは盛大に吹き出した。そしてみるみる顔を赤らめて慌て始める。ふふ、いい気味だ。見え透いたオチをぶつけられる前に、満足するまでからかってやろう。
「い、いや!あれは、だな!」
「いやー、びっくりしましたよぅ!まさかあんなタイミングで熱愛宣言されちゃうなんてー」
「あ、俺は……っと、その、だな」
あたふたする圭ちゃんが面白くて可愛くて。
まあ、今日はさんざん格好良いところを見せてくれたのだ。どんな場所でも、圭ちゃんなら必ず助けにきてくれるって、改めて教えてくれたのだ。だから……
「ま、冗談はさておき……いいですよ。聞いてあげます」
圭ちゃんは、一度ぐっと唇を結んで、それから浜のほうを顎で示した。倉庫の裏手のすぐそこに、夜の海が黒く広がっている。
「悪い……あっち。海んとこで、二人で」
人気のない、暗い浜辺。わざわざ、そんなところで。ずいぶんとまあ、ムードのある場所を選んだものだ。この期に及んで、まだ勿体を付けるらしい。
ま、いいだろう。今日だけは、どんな肩透かしなオチが来たって——笑って、許してあげるつもりなんだから。