浜は、すぐそこだった。
倉庫の喧騒が、一歩ごとに背中の遠くへ退いていく。かわりに、波の音が満ちてくる。寄せては返す、低い繰り返し。街灯の一つもない暗がりに、黒い海がのっぺりと広がって、沖のほうで時折、白いものがちらりと崩れる。
砂を踏む足が、二人ぶん。あとは、波だけ。
さて。わざわざこんなところまで連れ出して、いったい何を聞かせてくれるんだか。私は半歩うしろから、圭ちゃんの背中をつつくみたいに視線を送る。ほら、早く。もったいぶらないで。
圭ちゃんが、立ち止まった。こちらへ向き直る。口を開きかけて、閉じる。喉のあたりで、言葉がつかえているのが見て取れた。ふふ、緊張しちゃって。かわいいところもあるじゃないですか。
先を促してやろうかと、私が口を開きかけた、その先を越して。
「──悪かったっ!」
圭ちゃんが、勢いよく頭を下げた。腰から直角に、深々と。
……は?
波の音だけが、やけに大きく響く。差し出しかけた私の軽口は、行き場をなくして宙に浮いた。身構えていたのと、まるきり違う方向から来た。からかう気も、優雅に受ける気も、全部きれいに空振りして、私はしばし、下げられた圭ちゃんのつむじを見下ろすばかり。
え、なに。謝罪?そういうオチ?
……ああ、いや。待って。そういうことか。
じわじわと、合点がいく。攫われた件だ。この人は、私を守りきれなかったと思っている。危ない目に遭わせた、指の一本まで届かなくさせた、と。今日ずっと、その負い目を抱えたままここまで来たんだろう。だからあんなに、そわそわして。……まったく、この人は。そんなこと、気に病む必要なんてこれっぽっちもないのに。
私は少しだけ、姿勢を正した。
「……顔を上げてください、圭ちゃん」
努めて、柔らかい声を出す。包んでやるくらいの余裕で。
「あれは私のせいです。鵜飼たちの悪知恵に気が付かなかったし……そもそも屋敷で待ってるように言ったのも私です。だから、今回のことは言いっこなし」
圭ちゃんが、のろのろと顔を上げる。その目を、まっすぐ見返してやった。
「圭ちゃんが、あんな体で助けに来てくれた。おかげで私は、こうしてぴんぴんしてます。終わりよければ、すべてよし。……ふふ、正直に言えば、ちょっと格好良かったですしね。今日のところは、及第点をあげましょう」
これで、この話はおしまい。肩の荷を下ろして、いつもの調子に戻ればいい。そういうつもりで、私は締めくくったのだ。
ところが、圭ちゃんは首を横に振った。
「……いや。それも、ある。あるんだけど」
言葉を、探すみたいに。一度唇を結んで、それから、絞り出すように続ける。
「俺が謝りてぇのは……そこじゃ、ねぇんだ」
用意していた着地点を、するりと外された。包んでやるつもりで広げた手が、宙で行き場をなくす。……そこじゃない?じゃあ、一体この男は何を謝ろうとしているのか。
私が視線で続きを促すと、圭ちゃんが、意を決したように息を吸った。
「あの時……お前の前に立った時に……俺、その、言っただろ。その……『俺の女』って」
言いながら、みるみる耳まで赤くなっていく。それでも目だけは逸らさずに、まっすぐこっちを見て。
「あれ、お前の気持ちも聞かねぇで、勝手に口走った。お前にだって、相手を選ぶ権利があんのに。……こんなときに、あんな身勝手なこと言って、悪かった。それを、謝りたかったんだ」
波が、寄せて。返す。
私は、まばたきも忘れて、圭ちゃんの顔を見つめていた。頭のなかが、しんと静まりかえって、言葉というものが一つも浮かんでこない。
え……そこ?
そこを、謝る?わざわざ、こんな夜の海まで連れ出して。あんなに深刻な顔で、そわそわして。その果てに出てきたのが……それ?
理解が追いついた瞬間、しんと静まっていた頭のなかで、なにかが轟音を立てて噴き上がった。
──アホかお前はっ!!!
声にならない絶叫が、脳天を突き破る。
この、大馬鹿者。天下の大朴念仁。私がこれまで、どれだけ手を尽くしてきたと思ってる。どれだけ好き好きのアピールを送り倒してきたと思ってるんだ。隙あらば意識させて、外堀を埋めて内堀も埋めて、天守閣の目前まで攻め込んでやったつもりだったのに。
なのに、こいつときたら。それを全部きれいに素通りして、まさかの「勝手に言って悪かった」。選ぶ権利がどうこう。……なにを、しおらしく。こちとら、もうずっと圭ちゃん一択なんですけどっ!?
もはや朴念仁などという生易しい言葉では追いつかない。これはもう、鈍感の一言で片づく領域を超えている。私と同じ言語を喋り、同じ飯を食い、同じ空気を吸っておきながら、これほどまでに何も伝わっていないとは。ひょっとして、生物学的な分類からして違うのかもしれない。今度、詳しく調べてみる必要がありそうだ。
沸騰した頭のてっぺんまで、熱が突き抜けて。喉の奥から、本音がせり上がってくる。
──アンタのことが、世界で一番、大好きなんですよっ!!
いっそ、この場でぶちまけてやろうか。両襟を掴んで、揺さぶって、耳元で怒鳴りつけてやろうか。そうすれば、この分厚い鈍感の壁にも、さすがに風穴くらいは──
と、開きかけた口を、私は寸前で引き結んだ。ぶんぶん、と首を振る。
だめだ、だめだめ。落ち着け、私。ここで叫んだら、私の負けだ。
あの日から、私はずっと決めていたじゃないか。この恋は、向こうから言わせる。私が焦れて先に音を上げるなんて、断じてあってはならない。ここまで来て、ゴール目前で足を踏み外してどうする。私は大和撫子。清く慎ましい、日本女児の鑑。……欲しがりません、勝つまでは。
ふうー、と。腹の底で、たぎる熱を押し戻す。
鎮めて、鎮めて。表面には、いつもの涼しい顔を貼りつけて。
「……はいはい。もう、いいですよぅ」
我ながら、上出来の余裕だった。ひらり、と手を振ってみせる。
「そんなこと、これっぽっちも気にしてませんから」
せっかく、どんなオチが来たって笑って許してあげようと、あんなに殊勝に構えていたのに。それをよりにもよって、こんな……鈍感の極みみたいなオチで台無しにしてくれて。腹の底では、まだ小さく噴煙が燻っている。
早いところ、この話は切り上げてしまおう。そう思って、私が次の言葉を継ごうとした、そのとき。
「け、けど……」
流しかけた私の声に、圭ちゃんが食い下がってきた。
「あの言葉は、なんつーか、その」
まだ言い足りないのか、口のなかで言葉をもごもごと転がしている。往生際が悪いというか、なんというか。ほら見なさい、やっぱりオチをつけに来た。私は内心でやれやれと肩をすくめて、さっさと幕を引きにかかる。
「だから、もういいですってばー。んなことで怒るわけ──」
「違うっ!」
遮る声が、思いのほか強くて。
「あの言葉は……本心なんだ」
「そりゃ良かっ……え?」
流れかけた相槌が、途中でつんのめって、止まった。
本心。
いま、本心って言った?この人が?さっきの、あれが?え、待って。それってつまり、どういう。ずっと、勢いで口が滑っただけだと思ってたのに。それが……本心?
跳ねあがりかけた心臓を、私は慌てて押さえ込む。
落ち着け。早まるな。まだだ、まだ。相手は、あの圭ちゃんなんだぞ。ここまでいい雰囲気に持ち上げておいて、次の瞬間、紐なしバンジーよろしく真っ逆さまに落っこどしていける男だ。ぬか喜びして、雛壇のてっぺんから転げ落ちるのは、もう飽きるほど味わった。どうせこの先に、盛大なオチが口を開けて待っている。そうに決まってる。
そう言い聞かせるのに。鼓動だけが、勝手に速くなっていく。
圭ちゃんは、すぐには続けなかった。一度、足元の砂に目を落として。それから、ゆっくりと言葉を選びはじめる。
「……あのさ。お前が攫われて、俺が動けねぇでいた間、ずっと考えてたんだ。俺にとって、詩音がなんなのか」
波の音に紛れそうなくらい、静かな声で。
「怖かった。お前がどっかに連れてかれて、二度と戻ってこねぇんじゃねぇかって。そう思ったら、頭ん中が真っ白になって、なんも手につかなくなった」
「……」
一語ずつ、地面を踏み固めるみたいに。
「俺はずっと、付き人だからって、そう言い訳してごまかしてきた。お前を大事に思うのも、そばにいたいのも、ぜんぶ役目のためなんだって。……でも、違ったんだ。今日のことで、はっきり分かった」
圭ちゃんが、顔を上げた。まっすぐに、私を見る。逃げも隠れもしない目で。
「詩音。お前は俺にとって、かけがえのない存在なんだ。……けど、それは、付き人と主人だから、じゃねぇ」
心臓がうるさいくらい鳴りやまない。
「俺個人にとって……お前が、詩音が誰よりも大切なんだよ」
もう、だめだった。
貼りつけていたはずの涼しい顔が、音を立てて剥がれていくのが、自分でも分かる。頬が熱い。目の奥も熱い。どう見たって、これは。どこからどう聞いたって、これは。
どう聞いたって、これは。もう、言い逃れのしようもなく、これは──
その先を、脳が処理しきれなくなった。頬の熱が、耳まで駆けあがる。目の奥がじわりと潤んで、まっすぐな圭ちゃんの目を、まともに見返せない。俯きそうになるのを、奥歯を噛んでこらえる。
まずい。まずいまずい。このままじゃ、緊急事態だ。
そうして私は、脳内に、会議を招集した。
議題は一つ。──これは、告白か否か。
脳内に参集するのは、例えて言うなら小さい私たち。ガヤガヤとざわめきが支配する会議場から、一人の私が声を張り上げる。例えていうなら、小さな私の一人──チビ詩音壱号とでもしておこう。
『招集ありがとうございます!さあ皆さん、ついに、ついにこの時が来ましたよ!』
壱号が机を叩いて立ち上がった。頬を上気させ、目をきらきらさせて。
『どう聞いたって告白です!私たちの、勝ちです!長かった……長い戦いでした。もう、勝利のお風呂に入ってしまってもいいのでは!?』
『お待ちなさい』
冷静な声で制したのは、対抗席で腕を組んだ弍号。眉間に皺を寄せ、椅子に深く腰かけている。
『まだ、決定的な一言が出ていません。ここで舞い上がるのは、時期尚早というもの。……忘れましたか。相手はあの圭ちゃんですよ。この期に及んで、真っ逆さまに落下してくる可能性が、まだ残っている』
『そんな、落ちるわけないですよぅ!』
半泣きで異を唱えるのは、隣の参号だ。
『ここまで来て落下だなんて、そんなのってあります!?だいたい、ここから落とされたら、もう私たちに勝てる見込みなんて、どこにも──』
『くっ……』
頭を抱えてうずくまったのは、向かいの肆号。
『こんなにも、こんなにも手強い相手に。私たちはいったい、どう立ち向かえばいいの……っ』
『ともかくっ!』
最後に、議長席に座った伍号が、資料を片手に声を張った。
『議論している場合ではありません。勝利は、限りなく近い。ならば私たちは、来たるべきその瞬間に備え、万全の準備を整えておくべきでは!?』
異議なし、の声が、脳内議場にこだまする。
……よし。方針は、決まった。
期待ゲージは、この短時間で、一気に跳ね上がっている。もう、疑うのはよそう。優雅に。あくまで優雅に、そして深い慈悲をもって、私は圭ちゃんの告白を受けてあげようではないか。さあ、来るなら来なさい。私はいつでも──
と、脳内で女王のごとくふんぞり返った、次の瞬間。
現実の圭ちゃんの、あまりにまっすぐな目と、まともに視線がぶつかった。
──む、り。
全部、吹き飛んだ。優雅も、慈悲も、女王の余裕も、一瞬で。心臓が、痛いくらいに暴れて、顔から火が出そうで。だめ、無理、見てられない。俯きたい。今すぐこの砂に埋まってしまいたい。……なのに、視線だけは、どうしても外せなくて。
結局、私にできたのは。真っ赤な顔のまま、上目遣いに、圭ちゃんを見上げることだけ。
女王様は、どこへやら。これじゃあ、借りてきた猫だ。
そんな上目遣いのまま、固まってしまった私を見据えながら、圭ちゃんが、すっと息を吸い込んだ。そして。
「……好きだ、詩音」
「──っ」
「俺は……前原圭一は、園崎詩音を、愛してる。世界中の、誰よりも」
世界から、音が消えた。
脳内で侃々諤々やっていたチビ詩音たちが、その一言の閃光をまともに浴びて、声を上げる間もなく、跡形もなく吹き飛んだ。議場が、消し炭になる。思考という思考が、真っ白に焼き切れる。
好きだ。愛してる。誰よりも。
その三つが、順番に、胸のど真ん中へ突き刺さって。私はもう、まばたき一つできずに、ただ立ち尽くしていた。声が、出ない。指の一本も、動かせない。あれだけ待ち焦がれた言葉を、正面から浴びせられて。その威力の前に、私は完全に、機能を停止していた。
圭ちゃんは、そんな私を見て、少しだけ慌てたみたいに続ける。
「……けど!これは、俺の勝手な気持ちだ。押しつけんのは、違うよな。どう受け取るかは、お前が決めることで。俺はただ、どうしても今、これだけは伝えときたくて」
一度、言葉を切って。それから、意を決したように。
「だから、詩音。俺と……」
嗚呼、もうダメ。
もう、なにも考えられない。
足元がふわふわして。胸の辺りがきゅんきゅんして。
優雅も、慈悲も、女王の余裕も、勝ち負けも。ついさっきまで後生大事に抱えていたものが、ぜんぶ、どうでもよくなっていた。
ただただ、圭ちゃんが大好きで、圭ちゃんしか見えなくて、圭ちゃんに何もかも奪われたいというその一色で、胸のなかが塗りつぶされている。
……ああ、もう。いっそ、このまま。この勢いのまま、強引にキスでもしてくれないかな──なんて、はしたない願いまで、頭の隅をかすめる始末で。
圭ちゃんの手が、私の両肩を、そっと掴んだ。
大きな手のひらの熱が、肩から伝わってくる。彼が、ひときわ深く、息を吸い込むのが分かった。
その時が──遂に
「俺と……俺と、結婚してくれ!!」
・・・・・
・・・・
・・・
海が、凪いでいる。
肩を掴まれたまま、圭ちゃんの必死な顔を、じっと見上げて。それから、スッと目を細めて答えたのだった。決まりきった答えを。
「お断りします」