拝啓 親父 お袋。
いえ、お父様、お母様。
ご無沙汰しております。
そちらは今、寒いでしょうか。それとも暑いでしょうか。何にせよ、来世に召されるまで穏やかに、安らかに過ごされてください。
私、前原圭一は今、そちらに逝こうかと咄嗟に考えるくらいには情緒が荒れております。そうですね、例えば、今すぐ星になりたいとか。え?何故って?そうですね……それは、まぁ、至極思春期らしい理由かもしれません。
私の初恋が、今目の前で終わったからです。はい。
「お断りします」
お断り……
断り……
詩音の口から零れたそれが、俺の脳天から爪先まで、しっかりと俺を引き裂くようにして駆け抜けていく。抜けていったはずなのに、その言葉は耳にこびりついて離れない。ドップラー効果のように延々と鼓膜の奥底で反響し続けている。
脳が、フリーズしていた。目の前の光景も、耳に届く音も、何もかもがやけに遠い。なのに詩音の“拒否”だけは強く強く残っている。両肩を掴んだ手の形も、吸い込んだ息も、全部さっきのまま。時間だけが、ぴたりと止まって動かない。
OK。クールになれ前原圭一。もうクールだけど。全身が凍りついたように冷たくなっていくのを感じているけれど。クールどころかコールドだけども。
状況をおさらいしよう。今俺は渾身の勇気を振り絞って。人生で一番、格好つけて。あらん限りの本心を、洗いざらいぶちまけた、その返事が。
……お断りします。だ。
OKOK。なんて事はない。告白して、振られただけじゃないか。なんの問題もない。よくある思春期のエピソードの一つだ、後々笑い話になるアレだ。なら、なんの問題もないな?なんの問題も……
「お断りします」
じわじわと、その言葉の意味が、時間差で効いてきた。ボディブローみたいに、下腹の奥へ、ずしんと。本当に重く。
そう、フラれたのだ。
終わったのだ、俺の初恋、ここに死す。享年、僅か数分。セミの一生すら長寿に感じるほど短命だった。
渾身の告白は、抜く間もなく叩き落とされ、ノータイムでゴミ箱行き。デッドボールですらない、ボールが手を離れる前に見逃し三振を宣告されたようなもんだ。
さっきから俺は何を考えている?話が行ったり来たりしててもうめちゃくちゃだ。俺を狂っていると思うかい諸君。でも分かってくれよ兄弟、俺も今どうしていいか分からないんだ。思考が濁流のように溢れ出し、あちこちで氾濫が起こっている。なのにたった一つだけ分かっていることがある。分かってしまっていることがある。振られた、ということだけだ。
いやなに、当たり前の話だ。告白したらうまくいくこともあれば、失敗することもある。極論ニブイチだ、それを外してしまっただけのことだ。それだけのこと……それだけの。それだけ……
ずるずると、俺の思考は暗い海溝の底へ沈んでいくにつれて、次第に全身の冷たさはどんよりとした生温い重さに。脳だけはやけにクールになっていく。
やっぱり詩音には……俺なんか相応しくないわけで。いや、考えてみれば当然だ。俺は最低最悪の殺人鬼なんだから。付き人として彼女の側にいられただけでも幸せだったわけだ。まぁそれもどうなるか分からない……いや、多分もうクビかもな。
あぁ……それでも最後に、彼女を一目見ておこうか。せめて愛した彼女の顔を一目見て、この物語にけりをつけようじゃあないか。申し訳なさそうな顔をしてたら、気にするなと明るく言って彼女の前から消えよう。気まずそうな顔をしてたら、余計気まずくなるかもしれないけれど、平身低頭謝って彼女の前から消えよう。もしくは──
「……」
その前に目を閉じて、小さく、息を吸う。
それでも悔いはない。いや嘘だ、悔いだらけだけども。でも詩音に、本気で好きになった彼女に、この思いを伝えられただけでも良かった。どんな反応をされても、最低最悪な自己満足かもしれないが、それでも俺は──
だが、目を開けると、こちらを見ていた詩音の表情は恐ろしく真顔だった。……え?なんですか詩音さん、その表情?
消える算段を立てていた俺の耳に。地の底から響くみたいな、低い声が届いた。
「……圭ちゃん」
うわ、出た。これは、怒っているときのやつだ。腹の底に一物あるときの、あの声色。フラれた上に、なんか知らんが機嫌まで損ねたらしい。俺はもう、平謝りする準備を整える。
「そこ、座ってください」
「は?」
「い・ま・す・ぐ。座ってください」
有無を言わさぬ、その圧。俺は気圧されるまま、言われるがままに、その場へ腰を下ろして──いや、下ろすも何も。
……正座、してるな。俺。
夜の砂浜に、きっちり膝を揃えて。冷たい砂の感触が、脛から尻へじわりと染みてくる。目の前には、仁王立ちの詩音。見上げる格好で、俺は間抜けにも、ちんまりと正座している。
なんだこの状況。
告白して、フラれて、なぜか砂浜で正座。泣きっ面に蜂ってヤツだ、流石に泣くぞ。処刑でも待つ心地で、俺は神妙にその時を待った。せめて、苦しまずに終わらせてくれ。男前原圭一、逃げも隠れもしない!!
「……」
俺を見下ろす詩音の顔は……真っ赤だ。耳まで。
眉は、グッと吊り上がっている。怒ってる。うん、怒ってはいる。いるんだが──その目が、微妙に潤んでいる、気がする。ブチ切れてるのとはまた違うような……まぁこんな状況なのに、俺の頭に浮かんでくることといえば、「やっぱ可愛いな」という間抜け極まりない感想だった。
これが惚れた弱みってやつか。こいつは勿論笑った顔が一番可愛いけど、怒った顔もこう、可愛いというか。鬼を宿すレベルは流石に勘弁なんだけど、ほらスタンガンとか持ち出して本気で殺されるかもって奴はね。あれは死んじゃうかもしれないから可愛くはないけど……いやでもあれはアレで良さがあるんだよなぁ……って俺は一体何を考えてんだこの状況で!いや、こんな状況だから、そんな事を考えてないとやってられないのかもしれん。
フラれたはずなのに。なんで、こんな事になっているのか。
俺の混乱は、いよいよ極まってきた。正座した膝の上で、俺はただ、その詩音をぽかんと見上げるほかない。
「あのですねぇ、圭ちゃん」
どこか呆れたような詩音の声が響く。
「なに、そんなお通夜みたいな顔してるんですか。世界の終わりでも見てきたんですか?」
いや、終わったんだよ俺の世界は。ついさっき、お前の口から死刑宣告が下されてな。……とは、さすがに言えず。俺は正座のまま、しゅんと肩を縮めるほかない。
「大体ですねぇ」
詩音が、腰に手を当てて、俺を見下ろす。
「あの告白は、なんですか。……好きだ、愛してる。そこまでは、いいでしょう。満点をあげてもいい。……なのに」
すう、と息を吸って。
「なんっ……で!そこから“結婚してくれ”に、ぶっ飛ぶんですかっ!!」
……ん?
思わぬ角度からの糾弾に、俺は目をしばたたく。え、そこ?怒ってるの、そこなの?告白そのものがダメだったんじゃなくて、結婚って言ったのが、いけなかった……?
いや待て。落ち着け。今、こいつ、なんて言った。告白は満点って、言わなかったか?
「え……ちょ、待ってくれ。じゃあ、あれか。俺は……フラれて、ねぇのか!?」
思わず、素っ頓狂な声で聞き返していた。すがるみたいに。
その瞬間。詩音の顔が、かっと火を噴いた。
「フラれるわけ、ないでしょうがっ!!!」
夜の海に、その絶叫が響き渡る。
「こっちがっ、こっちがどれだけ……っ!!ことあるごとに気を引いて、意識させて!これでもかってくらい、アピールしてきたのにっ!鈍感な圭ちゃんにも分かるように、うんと分かりやすくしてあげてたのにっ!それを、それを圭ちゃんはっ……!」
堰を切った、というやつだろうか。
止まらない。もう、止まらない。詩音の口から、これまで胸に溜め込んでいたらしいものが、濁流みたいに溢れ出してくる。
「私がどれだけ……っ、圭ちゃんのこと……どれだけ、す……っ」
そこまで、勢いよくまくし立てて。
「……」
ぴたり、と。
止まった。自分が今、何を口走っているのか。何を言いかけたのか。それに、ようやく気づいたらしい。
みるみるうちに、詩音の顔が、耳の先まで真っ赤に茹だっていく。わなわなと唇を震わせて、両手で口を覆って。そのまま、うつむいて──
「──っ!」
かと思えば、勢いよく、ぶんぶんと首を振った。もう完全に、ヤケクソになっている。
「だぁーっ、もうっ!だからっ!せっかく、せっかく完璧なムードだったのにっ!なんで最後の最後で、段跳びしてるんですかっ!バカっ!大バカっ!どこまで朴念仁なら気が済むんですかっ!」
……あぁ。
なんだ。なんだよ、そういうことか。
凍りついていたはずの俺の胸に、じわりと、あったかいものが染み出してくる。フラれてなかった。俺の初恋は、死んじゃいなかった。それどころか、こいつは──こいつは、俺のことを。
目の前で、顔を真っ赤にして、地団駄を踏まんばかりに怒っている。俺の告白の、たった一箇所に。段跳びしたことだけに、本気で腹を立てて、わめいている。
……あー、もう。
だめだ。こんな時に、不謹慎にも程があるんだけど。怒ってるその顔が、涙目でわめくその様子が、可愛くて可愛くて、しょうがない。頭のなかが、じんわり甘く痺れて、うまく働いてくれない。せっかくの深刻な空気も、俺の反省も、ぜんぶどこかへ吹き飛んで。
けれど、可愛さに見とれていられたのも、つかの間。
じわじわと、俺のなかにも、言い分ってやつが湧いてくる。……いや、待てよ。よくよく考えたら、俺、けっこう理不尽に怒られてないか?
俺は正座を解いて、勢いよく立ち上がった。砂を払うのももどかしい。
「……なら!最初っから、そう言えよなっ!」
売り言葉に、買い言葉。今度は俺が、食ってかかる番だった。
「こっちは本気でフラれたと思って、この世の終わりみてぇな気分だったんだぞ!さっきまで遺書したためて親元へ行く勢いで絶望してたんだからな!お前のせいで!」
「なっ……勝手に絶望したのは圭ちゃんでしょうがっ!」
「そりゃお断りしますなんて真顔で言われたら、誰だってそう思うわ!」
「だから、それはっ、段跳びした圭ちゃんが悪いんですっ!」
夜の浜辺に、俺たちの怒鳴り声が、わんわん響き渡る。傍から見りゃ、告白帰りの色っぽさなんぞ、みじんもない。ただのガキの喧嘩だ。それでも、止まらない。
「大体な、お前がいっつもややこしいんだよ!素直じゃねぇっつーか、こっちの気も知らねぇで!こっちはなぁ、ずっと、ずーっとお前のことばっか考えてたんだぞっ」
「そ、そっちこそっ!こっちがどれだけ勇気出してアピールしてたと思ってんですかっ!全部空振りさせられて、こっちの身にもなってくださいよっ!好きな相手に伝わらないのが、どれだけ──なのに最後の最後でまた盛大に外して、なんですか結婚って!アホか!」
「うっ、仕方ねぇだろ!!結婚したいくらいお前のことが好きなんだからっ!!」
「は、はぁ!?」
って……あれ?
俺は、怒鳴りかけた口を、半端に開けたまま止めた。詩音も、まくし立てた勢いのまま、はた、と固まる。
さっきまで、確かに喧嘩をしていたはずだ。売り言葉に買い言葉、罵り合っていたはずで。なのに、いつの間にか。口から飛び出していたのは──どっちがどれだけ、相手のことを想ってきたか、なんて。
喧嘩の皮をかぶった、盛大なのろけの応酬。それに二人して、同時に気づいてしまった。
ぷつり、と。糸が切れたみたいに、言葉が途切れる。
肩で息をしながら、俺たちは、しばし呆然と見合った。だんだんと、頭が冷えてくる。冷えてくるにつれて──今しがた、自分が何を口走っていたのか。それが、じわじわと、恥ずかしさになって襲いかかってくる。
うわあ。俺は今、しらふで、なんつーことを。
詩音のほうも、同じらしい。さっきとは種類の違う赤さで、顔をぷしゅうと茹だらせて。気まずげに、俺から、つい、と視線を逸らす。
こほん、と。詩音が、わざとらしく咳払いを一つ。それから、まだ赤い顔を、ぷいと横に向けたまま、ぼそりと言った。
「……もう一回」
「え?」
「もう一回、です」
横を向いたまま、詩音は、もじもじと足元の砂を、つま先でいじっている。
「今度は……ちゃんと、段跳びしないで。順番どおりに。……言い直して、ください」
その、ぶっきらぼうな声の意味を。俺は、間違えたりしなかった。
もう一回、言い直せ。それはつまり──もう一回、チャンスをやる、ってことだ。今度こそ、しくじるな、と。答えなんてものは、とっくに、決まってるんだから。
俺は、ひとつ、大きく息を吸った。凍りついていた心臓が、今度はまるで違う理由で、早鐘を打ちはじめる。
さっきまでの喧嘩の熱も、わめき散らした勢いも、すう、と引いていく。かわりに腹の底へ、静かに、据わるものがあった。
俺は、詩音の目を、まっすぐに見た。逃げも、隠れもせずに。
「詩音」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「俺は……お前が好きだ。世界中の、誰よりも。……こればっかりは、何がどうなろうと、ひっくり返りようがねぇ」
詩音の肩が、びくりと跳ねる。さっきまでの威勢は、どこへやら。けれど勿論止まらない。ここで止まったら、男が廃る。
「前に言ったろ。世界中が敵になっても、俺はお前の側にいるって。……あれは、付き人としての約束だった。でも、もう違う」
ゆっくりと、しっかりと。確かめるように言葉を選んで、噛み締めて。
「これからは、付き人としてだけじゃなくて。一人の男として。恋人として、お前の側にいたい。最後まで、ずっとだ。──俺と、一緒にいてくれないか?」
今度は、段跳びも、勢い任せも、なし。正真正銘、腹の底から絞り出した、俺の全部だ。
しん、と。
夜の海が、静まりかえっていた。
そして──今度は、詩音の番だった。
あれだけ威勢よくわめき散らしていたやつが。今や、見る影もない。かあっと耳まで赤くして、目を、あちこちに泳がせて。口を、ぱくぱくと開けては閉じて、言葉にならない。しまいには、その場でちんまりと、小さくなってしまった。
人のこと散々っぱら振り回しておいて。いざとなったら、自分のほうがこの有様か……まったく。やっぱりこいつには、敵わない。かわいくて。
詩音が、消え入りそうな声で、なにかを言った。波の音に、危うくかき消されそうな。
「……はい」
それだけ。たったそれだけの、二文字。
うつむいて、耳まで真っ赤にして、それでも確かに、こくんと頷いて。詩音は、そう答えた。
──あぁ。
なんつーか。派手なファンファーレも、天からの祝福も、なんにもない。ただ、夜の浜辺に、波の音がするだけ。
なのに、俺の胸のなかは今、生まれてこのかた味わったことのない何かで、いっぱいに満たされていた。病み上がりの体の痛みも、正座の痺れも、今はどうだっていい。この長い一夜の、しんどかったことのぜんぶが、この二文字で報われた気がした。
思わず、締まりのない笑みが、こぼれる。
「……そっか」
「……ん」
「へへ。……そっか、うん」
「……なんですか、そのニヤけ顔。気持ち悪いですよ」
「お前、それがたった今告白受けた相手に言うことか?」
照れ隠しの憎まれ口さえ、今日ばかりは、ちっとも憎らしくなかった。
と。
少し離れた、堤防のあたり。ふと目をやると、見知った二人が、こっちを眺めていた。
茜さんと、葛西さんだ。
声までは、届かない。ただ、茜さんがそれはもう愉快そうに、けらけら笑っているのが見える。その隣で、葛西さんが、やれやれというふうに首を振って、それでも口元だけは、かすかに緩めている。
……見られてたらしい。全部。
いや、そりゎそうだ。あんなに大声であーだこーだ言い合ってたら、そりゃ見られるわ。
詩音も気が付いたらしく、ぼんっと音がしそうな勢いで、耳まで火を噴いた。
「なっ、なななっ……いつからそこにっ!?」
「ほとんど見られてたんじゃねぇかな……」
「圭ちゃんも圭ちゃんですっ!なんで気づかないんですかっ、この朴念仁っ!」
「なんでそこで俺が怒られんだよ!?」
結局、これだ。
しんみりした空気も、甘い余韻も、長くはもたない。ものの数十秒で、俺たちはまた、いつもの調子で、わーわーぎゃーぎゃーとやり合っている。
まったく、締まらない。けど──まあ、俺たちらしいっちゃ、俺たちらしいのだろう。
「ともかく!変な誤解されないうちにいきますよ!」
「誤解って……付き合う事になったのになにが」
「あの人らのことだから、悪ノリで挙式とか設定しかねません」
「悪ノリが過ぎる」
真っ赤になって慌てる詩音の、その手を。俺は、ごく自然に、そっと握った。振りほどかれは、しなかった。それどころか、遠慮がちに、きゅっと握り返してくる。
長い、長い、けれどこれ以上ないくらい温かい、そんな夜だった。
八章、これにて終幕です。ちょっと熱が入りすぎてしまいました……ただ後悔はしてません(少ししか)。
いっそこのままぶん投げてエピローグでもいいかなぁと思いつつ、積み残しの話がいくつかあるので、もう少し続きます。
とはいえ、書き始めてから書きたかったことは概ね書けたのかな、と。最後の積み残しを二人でどう乗り越えるか、見届けていただければと思います!よろしくお願いします!