ちょっと調子に乗り過ぎました……ごめんなさい!
六月に入った。
じめじめとした、梅雨の季節だ。窓の外じゃ、朝からひぐらしが、気の早い声で鳴いている。もう少し空気を読んでもらいたいもんだが。
気づけば桜も散って、俺たちは高校二年生に進級していた。クラス替えはあったが、詩音とはめでたく同じクラス。真田さんや、生徒会の面子も相変わらずで、学校の日々は、代わり映えしない。それでも、時間ってやつは、ちゃんと前に進んでいる。
園崎のいざこざも、片が付いた。今の俺たちは、茜さんから借りた古い一軒家で、二人、のんびりと暮らしている。
そんな俺が、今、頭を悩ませていることと言えば──
キスがしたい。
いや待て紳士淑女諸君。今引いただろ。ドン引きの顔しただろ。分かる。分かるぞ。朝っぱらから、なにを言い出すんだこいつは、と。だが、聞いてくれ。これには、深くて切実で、んでもって抜き差しならない事情ってのがあるんだ。
あの事件から、俺と詩音は晴れて、恋人同士になった訳だが。
考えてもみてくれ。膝枕はするわ、腕枕はするわ、あーんまでするわ。それだけベタベタしといて、俺たちはまだ、キスの一つも、してねぇんだぞ。
おかしいだろ!?なぁ、おかしいと言ってくれ兄弟!膝枕はできてキスはできない。この、絶妙な、いや絶望的なチグハグ具合を、一体どう説明しろってんだ。
……いや。原因は、分かってる。分かってるんだ。
考えてみりゃ、あの手のスキンシップは付き合う前からの、なし崩しの惰性なんだよ。なんとなーく空気で、いつの間にかそうなってた、良くも悪くも既成事実。自分の意志で、恋人として、「よし、やるぞ」と踏み込んだもんじゃ、断じてない。
だから俺は、ちゃんと、踏み込みたい訳だ。恋人らしいことを。自分の、意志で。
……なんて言うと、聞こえはいい。聞こえはいいんだが。本音を白状すりゃあ、話は、もっとしょーもない。
単に、俺が……あいつのことを、好きすぎるんだ。
好きで好きで、どうにかなりそうなんだよ。あの笑顔を見てるだけで、胸の奥がぎゅうっとなる。ふとした瞬間に、いい匂いがしたりすると、脳みそが沸騰しそうになる。この、有り余る「好き」を、どこにどうぶつければいいのか、俺はもう、分からなくなってるんだ。持て余してるんだよ、自分の気持ちを!
おまけに、だ。ここに来て、新たな不安要素まである。
俺たちが付き合ってること、学校じゃ当たり前だが、公言してない。隠しちゃいないが、わざわざ言いふらすことでもないしな。……が。それってつまり、傍から見りゃ、詩音は「フリーの美少女」ってことになる。
……想像しちまった。どっかの馬の骨が、詩音に、下心満載で近づいてくる図を。
だめだ。想像しただけで、こめかみの血管が、ヤバい音を立てた。誰が渡すかっ!!これはもう、俺自身が安心するためにも。ここらで一つ、はっきりとした、恋人の証ってやつが、必要なんだと思う訳で。
そう。つまり。
キスを……キスをするしかない。
好きすぎる気持ちの、やり場。恋人としてのけじめ。他の男への牽制。俺の情緒の安定。……そのぜんぶを、一挙に解決する、銀の弾丸。それが、キスなんだよ!
完璧だ。我ながら、完璧な理論武装だ。頭はクールに、心はホットに。もはや、キスをしない理由が、どこにもない。
「……よし」
俺は、洗面所の鏡の前で、ぐっと拳を握りしめた。鏡の中の俺が、なぜだか、ずいぶんと呆れたような顔をしている。「アホかお前は」と。だが知ったこっちゃあない!
決めた、今日だ。今日という一日で、俺は、この二ヶ月の、奥手の歴史に終止符を打つ。詩音とキスをする。
「圭ちゃーん?まだ顔洗ってるんですかー?置いてっちゃいますよー」
「お、おう!今行く!」
脱衣所の外から、暢気な声。その、なんの警戒もしていない声を聞いた瞬間、俺の決意は、さっそくぐらりと揺らいだ。
え……できるのか?俺に。
もう一度鏡を見る。呆れを通り越して、冷笑すらしている己の顔だ。「ヘタレなのはお前も一緒だろ。そうやって一生うじうじしてな腰抜け野郎」とでも言うかのように。なんて暴言、なんたる辛辣。それでもお前は俺かっ!!と叫び出したくなる気持ちをグッと堪える。
いや、やるんだ。やると決めた。男に──前原圭一に二言はねぇ!!
通学路を、詩音と並んで歩く。
梅雨の晴れ間の、じっとりと蒸す朝だ。アスファルトから、雨上がりの匂いが立ちのぼっている。詩音は、いつもみたいに、俺の半歩後ろを、鼻歌まじりについてくる。
……で、俺はというと。さっきから、まるで、獲物を狙う狩人だった。
横目で、そっと詩音をうかがう。梅雨の湿気で、いつもより少し、髪が柔らかくうねっているのが、なんというか、色っぽい。時折、水たまりをぴょんと飛び越えるたび、スカートがふわりと揺れて。そのたびに、俺の心臓も、ふわりと跳ねる。細かい仕草一つ一つが、いつも以上に可愛く見えてしまうのは、それだけ俺が緊張している事の裏返しなのか。
って……いかんいかん。見惚れてる場合か。作戦だ、作戦。
俺の脳内では、朝から、緊急作戦会議が開かれていた。議題はもちろん、「いかにして、詩音とキスするか」。そして、たった今、俺は一つの結論に達していた。
──壁ドン。
そうだ、これだ。なぜ今まで思いつかなかった。
……いや、正確に言えば、思いついたんじゃない。仕入れたんだ。この前、詩音に借りて読んだ、恋愛漫画からだ。その中に、あったんだよ。主人公の女の子に、男が壁際に追い詰めて、ダン、とやるシーンが。いわるゆ告白みたいな事をするシーンで、そのあと二人は幸せなキスをしてハッピーエンド、と。
最初に見たときは何だコイツキザったらしいし癪に障る男だなとしか思わなかったんだが。
そのページについては詩音のやつ、真田さんと生徒会室でわーきゃー言いながら頬を赤らめてたんだよな。……なるほど、と、俺は思った。なるほど。女子ってのは、こういうのに、弱いのか、と。
つまり、これは詩音お墨付きの正攻法。人気のない場所で、詩音を壁際に追い詰め、ダンと壁に手をつく。逃げ場を失った詩音と見つめ合い、そして……完璧だ。完璧なシナリオじゃないか。
問題は、舞台だ。こんな往来の真ん中じゃ、出来るわけもない。二人きり、人目が付かないところではなくては。
と、そこで。俺の目が、一本の細い路地を捉えた。表通りから逸れた、ひと気のない、いい塩梅の裏道。……これだ!
「な、なあ、詩音。こっちの道、近道なんだよ。行ってみようぜ」
「え?そうなんですか?聞いたことないですけど……」
「まあまあ、いいから!」
怪しむ詩音の手を引いて、俺は、その路地へと足を踏み入れる。よし。首尾は上々。ひと気は、ない。舞台は、整った。
……あとは、やるだけだ。
心臓が、ばくばくと、うるさい。手のひらに、じっとりと汗が滲む。落ち着け。落ち着くんだ、前原圭一。忘れるな。イメージするのは常に最強の自分だ。外敵などいらぬ。お前にとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。
壁に手をつく。詩音が見上げる。顔を近づける。ただ、それだけだ。それだけの、簡単なミッション……!
「詩音」
「はい?」
振り向いた詩音の、その肩に、手をかけようとして──ふと、俺の動きが、止まった。
……いや、待てよ。
冷静に、考えてみろ。人気のない路地裏に女の子を連れ込んで、壁際に追い詰めて。……これ、どう見ても、犯罪者のムーブじゃねぇか?相手が恋人だろうがなんだろうが、無理やりってのは、良くないだろ。うん、良くない。断じて良くない。
じゃあ、どうする。「これからキスするけど、いい?」って、先に聞くか?いや、それはそれで、ムードもへったくれもねぇ。じゃあ、壁ドンしてから聞くか?いやいや、順序が、完全に、おかしい。追い詰めてから許可取るって、それもう脅迫だろ。えーと、じゃあ、どのタイミングで……。
──と。俺が、脳内で、しょーもない禅問答を繰り広げていた、まさに、その隙に。
「あっ、圭ちゃん見てください!子猫!」
「え」
ぱっ、と。詩音が、俺の横をすり抜けて駆けていった。塀の隅に、丸くなっていた一匹の子猫。そいつに、まんまと気を取られて。
「わぁ、可愛い……こっちおいで?ほーら」
「…………」
俺は、宙ぶらりんに手を浮かせた、間抜けな体勢のまま。しゃがみ込んで子猫を愛でる、詩音の背中を、呆然と見下ろしていた。
……なにやってんだ、俺。
千載一遇の好機だったってのに。うじうじ、うじうじと、一人で問答してる間に。すべては、子猫の手の中……いや、肉球の中だ。しかし、可愛いなこの子猫。
「圭ちゃんも見てくださいよ、ほら。あー、逃げちゃった。……って、圭ちゃん?なんで、そんな中途半端に手ぇ浮かせてるんです?」
立ち上がった詩音が、きょとん、と小首をかしげて、俺を見上げる。その、あまりにも、なんの含みもない、無垢な瞳。……こいつ。気づいてないな。これっぽっちも。
「……いや。なんでも、ねぇよ」
俺は、浮かせた手を、そっと下ろした。
初戦は惨敗。子猫に負けた。いや、正確には、自分の小心に負けた。
だが、まだだ。まだ終わっちゃいない。今のは、たまたま、間が悪かっただけ。次こそは。
……なんて、下ろした手を握りしめて、俺は密かに、闘志を燃やすのだった。前途は、多難である。
学校に着いても、俺の戦意は衰えちゃいなかった。
むしろ燃えていた。通学路での失態は、ほんの小手調べ。本番はこれからだ。……とはいえ、学校ってのは通学路とは比べ物にならない難関ではある。
なにせ、俺と詩音が付き合ってることは、誰も知らない……はずだ。隠しちゃいないが、わざわざ言うことでもない。つまり俺は、この人目だらけの校舎で、誰にもバレず、かつ二人きりになる必要がある。いや仮に隠してなくても人前でんな恥ずかしい事はしないけど。
一回目の好機は、昼休みに訪れた。
学食に向かう途中、生徒会室に寄ってからだったので、たまたま二人きりで、人気のない渡り廊下にさしかかった。周りに人影はない。……ここだ。ここしかない。
俺は意を決して、努めて真剣な表情で低く名を呼ぶ。
「……詩音」
「はい?」
振り返った彼女の肩に、ポンと手を置く。
すると詩音が、小首をかしげて、俺を上目遣いに見上げてくる。
……不覚にも、可愛い。なんだその顔は、くそっ、反則だろ。不意打ちで繰り出されたその破壊力に、俺の心臓がまた跳ねる。いや、ひるむな前原圭一。敵がいくら強大だとしても、ここで決めなければならないっ。今しかない。俺は、もう片方の手を、詩音の背後の壁へと、伸ばして──
「あれ、詩音ちゃんと岡崎くんだ」
──ぬぉっ!?
背後からの、間延びした声。心臓が、口から飛び出るかと思った。俺は、壁につきかけた手を、コンマ一秒で軌道修正し、渾身の緊急回避を敢行する。
「ラ、ラーメン!」
「は?」
「今日の昼飯は、ラーメンにしようと思うんだ。うん」
我ながら意味が分からん。だが、口が勝手に動いていた。壁に伸ばした手で、俺はなぜか、ぐっと固い握りこぶしを作って力説していた。
「ラーメンは、良い。人類が生み出した数多の食文化の中でも、あれほどまでに完成された総合芸術が、他にあるか? そもそもの成り立ちからして奥深い。大陸から渡ってきた一杯の中華そばが、この国で独自の進化を遂げ、今や土地ごとに無数の流派を生み出すに至った……これはもう、食の一大叙事詩と言っていい。いいか、まず醤油だ。琥珀色に澄んだスープを一口すすった瞬間、鼻に抜けるあの香ばしさ。これぞラーメンの原点にして王道、他の追随を許さぬ完成形よ。かと思えば味噌がある。あれは、寒さの厳しい北の大地が生んだ、いわば革命だ。こってりと濃厚で、五臓六腑に染み渡る、あの暴力的なまでの旨さ。そして忘れちゃならんのが、塩。一見、ただ淡白なだけに思えるだろう? ところが違う。余計なものを削ぎ落とすからこそ立ち上がる、素材そのものの滋味。あれは、引き算の美学なんだよ。醤油の王道、味噌の革新、塩の静謐……この三者が三様に頂点を極め、しかも今なお豚骨だ鶏白湯だと新たな地平を切り拓き続けている。分かるか詩音。ラーメンとは、完成されていながら、なお進化を止めぬ生き物なんだ。俺はな、その飽くなき探究の精神にこそ、心の底から──」
「……はいはい、分かりました分かりましたから」
滔々と語り倒す俺を、詩音が、心底訳が分からないという顔で押しとどめる。しまった、つい俺は力説を……
「なにしてるの、二人とも?」
振り返ると、真田さんが、きょとんと小首をかしげて立っていた。詩音が、やれやれと肩をすくめる。
「いえ。圭ちゃんが急に、ラーメンについて力説し始めて」
「ほ、ほら。……め、飯ってのはな。食う前に、こう、高らかに歴史やその良さ宣言するとだな。余計に、美味くなるもんだろ?」
「……はぁ」
詩音の、じとっと据わった目が痛い。……ぐ。苦しい。苦しすぎる言い訳だ。自分でも分かってる。だが、もう引けない。俺は「そういうもんなんだよ!」と、謎の勢いで押し切った。
結局、そのままの流れで、三人揃って学食へ向かうことに。
……とほほ。二人きりの好機は、俺の口から飛び出した、世にも間抜けなラーメン宣言と共に、はかなく散った。宣言したからには、俺はこれから、たいして食いたくもないラーメンを、すすらなきゃならん。いやラーメンは美味いけど、今日はトンテキ定食の気分だったのに、な。
と。食券機の列に並んでいると。すぐ後ろの真田さんが、ちょい、と俺の袖を引いた。詩音に聞こえないよう、声をひそめて。
「……岡崎くん。さっきは、お邪魔しちゃって、ごめんね?」
「え」
ぎくり、とする。……お邪魔、って。まさか。
「任せて。後でちゃんと、二人きりになれるように、チャンス作ってあげるから!」
おっとり笑って、小さくガッツポーズを作ってみせる真田さん。
なんてこった、バレてら。
やっぱりこの人には、全部お見通しだったのか。……恥ずかしいやら、ありがたいやら。しかし、今日に限ってはこの心強い支援に甘えることにした。俺はそっと顔を伏せて、こくこくと、ただ何度も頷くことで、協力要請を進言したのだった。
そして放課後の、生徒会室。
その日の業務も、あらかた片づいた頃だった。ふと気づくと、真田さんが、他のメンバーに、やたらと明るい声をかけていた。
「ねえ、みんな。この書類、職員室に届けに行こう?わたし一人だと説明仕切れないかもしれなくて。ね?」
……真田さんなら、一人で器用にこなしてしまいそうなものだが。メンバーたちは、特に疑いもせず、ぞろぞろと部屋を出ていく。
その最後尾で、真田さんが、くるりと振り返った。俺と目を合わせると──ぱちん、と片目をつむってみせる。
ありがたい。もう拝むしかねぇ。俺は、心の中で、深々と彼女へと手を合わせた。
そうして、案の定部屋には──俺と、詩音の二人きり。
来た。真田さんが、身を挺して作ってくれた、この好機。今度こそ、無駄にはできない。
書類を整える詩音の、結い上げた髪に、あの髪飾りが、蛍光灯の光を弾いている。ホワイトデーに、俺が贈ったやつだ。今日も、当たり前みたいに、つけてくれている。……そういうところだぞ、お前は。
俺は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「な、なあ、詩音」
「はい?」
振り向いた詩音に、一歩、踏み出そうとした──その時。
「失礼いたします。生徒会の、皆さま」
がらり、と。たおやかに、ドアが開いた。
ゆるく巻いた髪の、おっとりした女子。この子、確か、オカルト研究同好会の……いや、部に昇格したんだっけか。あの桃色の部室で、恋バナの生贄にされた記憶が、一瞬よぎって、背筋がひやりとする。いや、あれは夢だったから大丈夫なはず。
「あ、ちょっとすみません。来客ですので」
「おう、えーと、ちょいとお待ちを」
自分で、好機を、手放しちまった。……いや、仕方ねぇだろ。来客を待たせて、恋人に迫る副会長がどこにいる。俺は、社会通念という名の枷に、ぎりぎりと歯噛みしながら、俺はオカルト研究部の用事に対応することに。
内容はなんてことない、備品申請についてだった。
やがて、島崎部長が、ふわりと去っていく。よし。仕切り直しだ。
「……で。なんです、圭ちゃん。さっきの話」
「あ、ああ。それなんだけどな」
詩音が、小首をかしげて、こっちを見る。もう、四の五の言ってる場合じゃねぇ。俺は、詩音との距離を、一息に詰めた。壁際へ、そっと追い込んで。片手を、その顔の横の壁へと──
ぷるるる、ぷるるる。
……内線電話が、鳴り響いた。
「あ。……ごめんなさい、圭ちゃん。ちょっと待っててくださいね」
俺の腕の下を、詩音が、するりと抜けていく。受話器を取って、「はい、生徒会です」なんて、涼しい顔で応対を始めた。……俺は、壁に手をついた、間抜けな体勢のまま。今日、何度目とも知れない、虚空を見つめていた。
壁ドンしたいのに、その前に立ちはだかる壁のなんて高いことか。さながら、ドイツを東西に分断する壁のように堅強で、途方もなく高い。
電話の用件は、行事の対応についてのあれこれだった。すっかり目的を忘れてあれこてと対応しているうちに、あかりさん達も戻ってくる。さりげない彼女の目配せに、はたと思い出してバッテンマークを作ると、あらら、と困ったような表情を返してきてくれた。
すまん、真田先生……せっかくのご厚意を。
と、そんなこんなで。もう下校時間ギリギリに。俺たちは生徒会室を空にして鍵をかける。
「……ねえ、圭ちゃん。さっきから、どうしたんです?なんだか一日中、そわそわして。挙動不審にも、程がありますよ」
……とうとう、突っ込まれた。
なんて言えばいい。キスしたくて朝からずっと機会を狙ってました、なんて、口が裂けても言えるか。俺は視線を泳がせ──廊下の窓の外、茜色の空へとその目を逃がした。
鳥が一羽、その橙色の海を悠々と泳いでいる。
「……鳥は、いいよなあってさ」
「はい?」
「あんなに、高く飛べてさ。……きっと、俺たち人間の抱える、こんな地べたのくだらん悩みとも、無縁なんだろうな。自由でさ。羨ましいよ、俺は」
我ながら、なにを言っているんだろう。
「……」
詩音は、ぽかんと口を開けて、しばし俺を見つめ。それから、心底どうでもよさそうに、ひと言。
「……今度、鳥類図鑑でも、買ってあげましょうか?」
「……ああ。頼むわ」
どっと疲れて、俺は力なくそう答えたのだった。
その夜。俺は、風呂から上がって、濡れた髪もろくに拭かないまま、居間へと戻ってきた。
……もう、今日は、へとへとだった。朝からの奔走が、ぜんぶ徒労に終わった、あの脱力感。キスの「キ」の字にも、たどり着けなかった己の不甲斐なさ。
……もう、いいや。今日は。そういう日も、あるさ。
半ば諦めていた。というか、擦り切れていた。俺は、上の空で洗濯するつもりだったワイシャツを身につけて、ハッとする。登校するわけでも外出するわけでもなし、なんでまたこんなもん着てんだろうか。
まぁ、髪乾かしたらでいいか。そう思い、ボタンを外したまま、髪をがしがしと拭く。
「もう、圭ちゃん。ちゃんと拭かないと、風邪ひきますよ」
と。詩音が、タオルを片手に、こっちへやってきた。
「ほら、屈んでください。拭いてあげますから」
「いや、こんくらい自分で」
「いーから!ほら、屈む!」
「……はい」
言われるまま、俺は、少し身を屈める。詩音の手が、俺の濡れた髪を、わしわしと拭き始めた。……こういうところ、面倒見がいいんだよな、こいつは。その手つきが、なんだ妙にくすぐったくて。
「はい、おっけいです。ちゃーんと乾かしてくださいよ」
「はいはい、あんがとよ」
そのまま、立ち上がって……ふと。
顔を上げれば、詩音が顔が目の前にあって。
──近い。
互いの鼻先が、触れそうな距離。詩音の大きな瞳が、すぐ目の前にある。予想外の至近距離に、俺たちは二人して、その場に固まってしまった。
しまった、と思った。が、体が動かない。逃げなきゃ、と頭では思うのに、その綺麗な瞳から、目が離せない。
気づけば、俺の片手は、詩音の顔の横、壁へと、つかえていた。
……あれ。これ。
狙ってもいないのに。あれだけ、必死に、狙っても一度も決まらなかった、あの体勢に。今、自然となっている。図らずも完成した。運命ってやつは、本当に意地が悪い。
詩音の頬が、みるみると赤く染まっていく。潤んだ瞳が、とろりと揺れて。その視線が、俺の目と、それから唇のあたりを、行ったり来たりして。
やがて。
詩音が、そっとその瞼を、閉じた。
……ああ。
言葉なんて、要らなかった。それが、なによりの合図だった。
俺は、もう、なにも考えられなくなって。ただ、吸い寄せられるみたいに、その顔へと、ゆっくり、顔を近づけて。
──そっと、唇を、重ねた。
……やわらかい。
ただ、それだけが、頭のなかを、埋め尽くした。詩音の唇は、びっくりするくらい、やわらかくて。ほんのり、あたたかくて。甘くて。触れているだけなのに、心臓が、壊れそうなくらい、早鐘を打っている。
時間が、止まったみたいだった。世界に、俺と詩音の、二人きり。ずっと、ずーっと、欲しかった、この距離。この、あたたかさ。指の先まで、じんと甘く痺れていくみたいで。
……ああ、そうか。俺はずっと、これが欲しかったんだ。
どれくらい、そうしていたのか。名残惜しく、そっと唇を、離す。
至近距離で、目が合った。詩音の瞳は、まだ、とろんと潤んでいて。その、半開きの唇から。
「……ん、ぁ……けい、ちゃん……」
──ぶわっ。
とろけるみたいな、その声色に、俺の全身の血が、いっせいに、沸騰した。理性という名のダムに、ぴしり、と、ひびが入る音がした。
俺の脳内で、緊急事態を告げる、けたたましいサイレンが、鳴り響いた。そして、光の速さで、脳内会議が、招集される。
『行けェ――ッ!!このまま、押し倒せェェェ!!』
議長席で、拳を振り上げて絶叫するのは、俺の中の、本能野郎だ。頭に血が上って、目が完全に、イッちまっている。
『落ち着けッ!落ち着くんだ諸君!!』
それを、必死に押しとどめるのは、眼鏡をかけた、理性の俺。
『思い出せ!俺たちは、詩音を、大切にすると誓ったはずだ!ここで獣に成り下がって、どうする!昼間、あれだけ「無理やりは良くない」と、自分に言い聞かせたじゃないか!』
『うるせぇ!こちとら二ヶ月も我慢したんだぞ!もう限界なんだよォ!』
『ならん!断じて、ならん!男の、誇りだッ!』
脳内で、本能と理性が殴り合いの大乱闘を繰り広げる。血で血を洗う、壮絶な内乱。……そして、結果は?
──理性軍の。辛勝だった。
「……っ」
俺は、詩音の顔の横についていた手を、なんとか引き剥がす。そして、一歩、後ずさって距離を取った。ぜえぜえと、肩で息をしながら。
……守った。守り、抜いたぞ。俺は、獣に堕ちなかった。
込み上げる達成感に、俺は内心、凱旋のパレードを繰り広げていた。理性軍の勝利。男の誇りは、ここに守られた。えらいぞ、前原圭一。お前は、立派だ。今夜のお前は、聖人君子と呼んでいい……!
──なんて。俺が、一人悦に入っていた、その時だった。
「……圭ちゃん」
鈴を転がすような、甘い声。見れば、詩音が、まだ、すぐそこにいた。後ずさった俺との距離を、詰めるみたいに。潤んだ瞳で、じっと、俺を見上げている。
「もう一回……して、ください」
──ぐらり。
守り抜いたはずの理性の砦が、その一言で、土台から傾いだ。もう一回。もう一回だって? この俺に。そんな可愛い顔で。可愛い声で。ねだって。
いや待て。待つんだ俺。さっき、あれだけの死闘の末に、勝ち取った勝利じゃないか。ここで陥落したら、あの脳内会議の犠牲は──
なんて、考える隙も許されない。
今度は詩音のほうから、つま先立ちに、ぐっと伸び上がって。あいつのほうから、俺の唇を塞いだのだ。
……さっきとは、まるで違う。
触れるだけの、あの初心なやつとは、何もかもが違う。もっと、深くて。もっと、長くて。お互いの唇の形を確かめるみたいに。柔らかくて暖かい舌が俺のに触れて……最初はびくっと、お互いに触れただけで離れて……でも今度はお互いに絡み合う。何度も、何度も。逃がさない、とでもいうように。
鼻先を、詩音の甘い吐息が、くすぐる。触れ合ったところから、あいつの体温が、じんわりと流れ込んでくる。翡翠色の髪が、俺の頬を、さらりと撫でて。そのたびに、あの慣れ親しんだ石鹸の匂いが、ふわりと香って、俺の脳を、甘く、甘く、麻痺させていく。全身が、まるごと、甘いシロップに漬け込まれていくみたいだった。
背伸びした爪先が、ぷるぷると震えて。少しでも、俺に近づこうと、届かせようとして。その健気さが、たまらなく愛おしい。俺のシャツの裾を、詩音の小さな手が、きゅっと、握りしめた。こうしてないと、崩れ落ちてしまうとでも、いうように。
……砕け散ってゆく。
もう何もかもが。理性だとか、誇りだとか。さっきまで後生大事に抱えていたものが、ぜんぶ、あぶくみたいに消えていく。頭の中が、詩音だけで、詩音のことだけで、いっぱいになって。脳細胞の一個残らずが、ショートして、麻痺して、じゅうっと音を立てて、焼き切れていく。
「……んっ」
ふいに、詩音が唇を離した。そして、俺の胸を、とん、と押す。
つんのめるみたいに、距離が、開いた。俺は、ぼうっとした頭のまま、目の前の詩音を見て──そして、凍りついた。
……なんだ、これは。
詩音の顔。頬は、真っ赤に上気して。瞳の奥には、これでもかと、ハートが詰まっている。……のに。その目が、恐ろしいくらいに、据わっていた。
色っぽい、とか。そういう、生易しいもんじゃない。獲物を前にした、捕食者の眼。この一帯の、食物連鎖の、頂点に君臨する、絶対強者のオーラ。全身から、ゆらり、と、ただならぬ気配が、立ちのぼっている。
──ああ、そうか。俺は、場違いにも、ぼんやりと、思い出していた。
園崎ってのは、元をたどれば、この土地の、鬼の血筋だ。鬼ヶ淵の言い伝え。……なるほど。合点がいく。今、目の前で、ぬらりと嗤っているこいつには、間違いなくその血が、流れている。鬼だ。正真正銘の、園崎の鬼が、そこにいた。
「……圭ちゃんが、悪いんですよ?」
色っぽく、甘いのに、どこまでも冷たい声色が。俺の背筋をなぞるようにして。
「そんな、色っぽい格好で……キスなんてして。……私だって、ずっと、ずーっと。我慢してたのに」
ぬらり、と。詩音が、一歩俺のほうへ、踏み出してくる。俺は、反射的に、一歩、下がった。……なんだ。なんだこの、圧は。
「あ、あの……し、詩音、さん?」
「ふふふ……」
「な、なんか、怖いんすけど。えーと。……一旦、落ち着こう? な?」
「落ち着く?」
詩音が、こてん、と、首をかしげる。笑顔のまま。目は、これっぽっちも、笑っちゃいない。やばい、これ完全に何かのスイッチが入っちまってる……ッ。
「ええ、ええ。落ち着いてますよ。園崎詩音は、クールです。すべからくクールです」
「どこがだよ!?」
じり、と、後ずさった、次の瞬間。
がしっ、と。俺の両肩が、恐ろしい力で、掴まれた。どこにそんな力が、と思うほどの、万力みたいな握力。逃がさない、という、鉄の意志。
──ぐるん、と、視界が回る。
気づけば、俺は、背中から畳へと、押し倒されていた。俺の上に、馬乗りになった詩音が、逆光の中で、ぬうっと、俺を見下ろしている。……ハートの詰まった、しかし据わった目で。
その時、俺の本能が、けたたましく、警鐘を鳴らした。太古の昔から、獲物が捕食者を前にした時に感じるという、あの根源的な警告。俺は、悟った。
──これは、
そこで、俺の記憶は、ぷつりと途絶えた。
いや、途絶えたことにしておいてくれ……何があったのか多くは語れない、語れるわけがないからだ。ただ一つ、確かなことがあるとすれば。
俺がこの家で、主導権とやらを握れる日は──当面来そうにない、ということだ。
やり過ぎたなぁと毎話書くたびに思いますが、つい熱が入ってしまうと筆が止まらないようです。今回は中でもやり過ぎたなぁと……そろそろ原作ファンの皆様にお叱りを受けそうでガクブルしてます。本当にすみません!でもイチャイチャが書きたかったんです許してください!
しかし、圭ちゃんはいつも周りからのアプローチをことごとくへし折る側でしたから、いざアプローチ側に回るのは書いてて新鮮で、ゆえにとても難しかったですね。さてはて、今後どうなるか……