休みの日は、朝から気持ちよく晴れていた。梅雨のさなかにしては、上出来の空だ。
支度を終えて居間に戻ると、詩音が、もう出かける格好で待っていた。
……お。
この前、二人で買い物に行ったとき、詩音が選んだ服だ。ゆったりした、淡い水色の半袖シャツ。裾のあたりが、きゅっと絞ってあって、ふんわりと膨らんでいる。それに、同じ系統のブルーの、ふわっとしたスカートを合わせている。膝が半分ほど見える、軽やかな丈。
いつもの、露出がやや多めな格好とは、だいぶ趣が違う。清楚、って言葉が、そのまま服になったみたいな。それでいて、堅苦しくもなくて、休日らしい、ほどよい抜け感もある。
店で見たときも、いいなとは思ったんだ。でも、こうして実際に着てるのを見ると、思った以上に、よく似合ってる。見慣れたはずの私服なのに、いつもと印象が違って、なんだか、新鮮だった。
「……なんですか。じろじろ見て」
「あー、いや。……その服、やっぱ、似合ってるなと思って」
「っ。……そ、そうですか」
珍しく、素直に言ってやったら。詩音のほうが、不意を突かれたみたいに、目を逸らして、耳を赤くした。……うむ。たまには、こういうのも、悪くない。
と、今度は詩音が、俺の格好を、上から下まで、点検する。
「圭ちゃんの方も問題なし、ですね」
「そりゃどうも。てか、お前が選んでくれた服だろ」
「そうですよ。私が選んであげてるんですから、当然です」
えっへん、と、詩音が胸を張る。
……で。これが、俺には、ぐうの音も出ない話なんだが。今日の俺の服も、上から下まで、ぜんぶ詩音の見立てだ。
恥ずかしい話だが、俺は、服のセンスってやつが、本当にこれっぽっちも分からん。放っておくと、動きゃすさ最優先で、色とか季節とかほぼ考えてないでテキトーに掴んで着る、みたいなスタイルだったので、いつからか、詩音が「見てらんない」と言って、俺の服を、あれこれ見繕ってくれるようになった。
少し前の俺なら、正直服なんざなんだっていいと思ってた。でも、こうして、詩音が自分の服を選んで、俺の服まで選んで。そういう、細かいところに気を遣ってるのを見ると。……なんつーか、彼女は俺の隣に並ぶことを、ちゃんと考えてくれてるんだよな、と思う。それが、素直に嬉しい。
なら、俺も少しはそういうのを考えねぇとな。……なんて、殊勝なことを思って。この前、一人で服を選んでみたんだが。詩音に見せたら、開口一番、「うわ」と真顔で言われた。……やっぱり、まだまだこいつには頼りきりらしい。
「さ、行きますよ。あかりさんと、待ち合わせでしょう」
「おう」
今日は、地域交流の下見。児童養護施設への、挨拶と、段取りの確認だ。俺たちは、連れ立って、家を出た。
三人が合流したのは、施設へ向かう路線バスの停留所だった。
真田さんは、俺たちより先に着いていて、こっちに気づくと小さく手を振ってくる。
「詩音ちゃん、岡崎くん。おはよう」
「あかりさん、おはようございます」
「おはよう」
やってきたバスに三人で乗り込む。休日の昼前だからか、車内はがらがらだ。後方の座席に並んで腰かける。
バスがのどかな景色の中を走り出すと、真田さんが、膝の上で手を組んで、おっとり切り出した。
「それで。今日は下見だけど……当日、子どもたちと何をするか、決めておかないとね」
「そうですね。交流会って言っても、幅が広いですし」
詩音が真面目な顔で頷く。
「外で遊ぶのか、室内なのか。年齢もばらばらでしょうから、みんなが楽しめるものを考えないと」
「楽しめるものなぁ」
……子どもと交流会、か。俺は、窓の外を眺めながら、思わずぼやいた。
「……俺、あんまり、子供と遊ぶの、得意じゃねぇんだよな」
「はっ、なーに言ってるんですか」
と、詩音が、呆れたようにこっちを見る。
「雛見沢じゃ分校の低学年の子たちと、毎日遊びまわってたじゃないですか」
「……昔の話だよ。あの頃とはもう、色々変わっちまったからな」
つい自虐めいた言い方になっちまった。……あの賑やかだった日々は、もう遥か遠い。というか、考えてみりゃガリ勉だった頃の俺も小さい子供は苦手で……どちらかといえば雛見沢の方の俺が無理をしてたんだよな。
なんて、ズルズルと意識が暗闇の底に引き摺られかけたが、詩音は、あっけらかんと笑い飛ばした。
「なに黄昏てんですか。そもそも、人間、そう簡単に変わりゃしませんよ」
「……」
変わらないなら、余計に苦手ってことになるが。
「……だいたい圭ちゃん、精神年齢が、その辺の小学生と大差ないですから。放っといても、勝手に懐かれますって」
「誰が小学生だ、誰が」
俺が食ってかかると、詩音は、けらけら笑ってひらりと身をかわす。……ったく、言いたい放題言いやがって。
と。そんな俺たちのやり取りを、隣で聞いていたあかりさんが、くすくすと肩を揺らして笑い出した。
「ふふ。……二人って、恋人同士になっても、そういうところはほんとに変わらないね」
──さらり、と。
あんまり自然に言うもんだから、一瞬、聞き流しかけて。俺は遅れて、目を丸くした。いつのまに、知ってたんだこの人は。しかしその疑問は、隣で恥ずかしそうに俯いた詩音が答えてくれた。
「あ。……あかりさんには、その、話してあるので」
ぽつりと、そう呟いて。
なるほど、そういうことか。彼女たちは親友なんだ。むしろ知らない方が不自然だろう。
「四月の、終わり頃だったかな。詩音ちゃんが、実は、って教えてくれて。……わたし、嬉しくて泣いちゃったんだよ」
「泣くって……」
んな大げさな、と言いかけて言葉を飲み込む。他人のことで泣いてくれるのは彼女の優しさゆえなんだろう。そういった友人に恵まれて、詩音は幸せだなと思いかけていたら。
「だってね。岡崎くんがあんまりにも鈍感で。詩音ちゃん、ずーっと報われなくて。もう可哀想で、可哀想で。……よくここまで頑張ったねって。もう、それを思ったら、涙が止まらなくて」
温かくなった胸が、急速に冷えていく。……なんだか風向きがおかしいな。いい話っぽかったのに、盛大に責められてないか、俺。
「そうなんですよ、あかりさん。私、本当に苦労したんですから……もう涙なしでは語れない苦労の連続で」
「うんうん。分かるよ、詩音ちゃん」
女子二人が、うんうん、としみじみ頷き合っている。
「……つーか、俺だけ悪者かよ」
「あら。自覚はあります?」
「ないわ」
と。あかりさんが、のほほんとした笑顔のまま。
「でも、本当は、詩音ちゃんに聞かなくても、分かってたんだよ? ……三月くらいから、二人は付き合い始めたなーって」
――え?
俺と詩音は、揃って、あかりさんのほうを見た。
「な……っ、なんで、そんな」
「だって、二人とも、距離が、分かりやすすぎるんだもん。ふふ」
のほほんとした顔で、あかりさんはそう追撃してくる。……いや。別に隠してたわけじゃないんだが。かと言って、公言してたわけでもないわけで。
そんな話をしているうちに、バスはことこと揺れて、目的の施設のある停留所へと近づいていく。
「あ。次だね、降りるの」
あかりさんが、降車ボタンに手を伸ばした。
バスを降りて少し歩くと、目当ての施設が見えてきた。「ひだまりの家」と表札には書かれている。俺らの学校の割り当ては、この児童養護施設と、もう一つ隣町にある老人ホームの二つだ。老人ホームの方は明日、訪問に行く予定だと詩音から聞いている。
「ひだまりの家」は二世帯住宅のようにやや横に広い三階建ての建物。庭には遊具もあって、思っていたより、ずっと明るくて、あたたかな雰囲気があった。
「いらっしゃいませ!」
「お世話になります。興宮高校二年の園崎です。お電話した件で……」
玄関で、明るい笑顔で出迎えてくれた職員の女性に、詩音が生徒会長として、来意を伝える。当日の交流会の下見と、挨拶に伺った旨を、よどみなく。……こういうとき、こいつは本当にそつがない。
中へ通されると、何人かの子どもたちが、物珍しそうに、俺たちを取り囲んできた。
「なあなあ、おにいちゃんたち、だれ?」
「がっこうのひと?」
と、そのうちの一人が、なぜか、俺の袖を、きゅっと掴んだ。つられて、もう二人、俺の足元にまとわりついてくる。……いや、なんで俺だよ。
「あらあら。岡崎くん、さっそく、大人気だね」
「ほら見なさい。言った通りでしょう?」
詩音が、してやったり、と、俺を見てくすくす笑う。……ちくしょう。なんだか悔しい。
「じゃあ、打ち合わせは、私とあかりさんで進めておきますから。圭ちゃんは、その子たちと、遊んであげてください」
「は?いや、俺も打ち合わせ……」
「おにいちゃん、あそぼー!」
「そと!そといこう!」
子どもたちが、俺の手を、ぐいぐい引っぱる。……こいつら、すごい力だな。詩音とあかりさんは、そんな俺を、微笑ましそうに見送るばかり。
俺は、盛大にため息をついて、観念した。
「……はいはい。分かった、行くって。おら、おんぶしてやるから、引っぱんな」
「わーい!」
せがまれるまま、一番小さい男の子を、背中におぶってやる。残りの二人の手を引いて、俺は中庭へと向かった。
しばらく、その子たちの相手をしてやることになった。追いかけっこをしたり、おんぶをしたりしてやって。……笑顔の子どもらを見てると、まぁそう悪くはないかな。
と。しばらくすると、施設のほうから、職員さんが顔を出した。
「はーい、みんなー。おやつの時間よー」
「「「おやつー!」」」
その一言で、子どもたちの興味は、一瞬にして俺から離れた。綺麗さっぱり忘れて、施設のほうへ一目散に駆けていく。
「……薄情なもんだなぁ」
苦笑いして、その小さな背中を見送る。急に、静かになった中庭に、一人取り残されて。さて、詩音たちの所に戻ろうかと、一つ伸びをして。……そのときだった。
中庭の隅。木陰のベンチのそばに、先客がいたことに、俺は初めて気がついた。
車椅子に座った、金髪の青年。
歳は、俺と同じか、少し上くらいだろうか。優しげな顔付きで、膝の上にスケッチブックを広げて、色鉛筆を手に何かを描いている。俺と目が合うと、彼はふわりと柔らかく笑った。
「すごく楽しそうだったね」
「え」
「あの子たち。君に遊んでもらって、本当に嬉しそうだった。見てて、こっちまであったかい気持ちになったよ」
……見られてたのか。子ども相手に、必死こいて追いかけっこしてたとこ。ちょっと、恥ずかしいな。
「実はね。勝手に、描かせてもらってたんだ」
そう言って、彼はスケッチブックを少し持ち上げてみせる。
「え。……それ、さっきの?」
「うん。見る?」
差し出されたそれを、俺は、つい覗き込んだ。……お。そこには、さっきの、俺と子どもたちの様子が、生き生きと描かれていた。男の子の、はしゃいだ顔。女の子の屈託のない笑顔。俺の、たぶん間抜けな顔も。ほんの短い時間で、よくここまで描けるもんだ。
「いや、うまいもんだよ、これ。すげぇな」
「そんな。……ただの、手慰みだよ」
照れたように、彼ははにかむ。……謙遜すんな。本気で感心してるんだ、こっちは。
「俺なんか、絵はからっきしでな。……親父が絵描きだったんだけどよ。その才能ってやつは、これっぽっちも遺伝しなかったらしい」
自分で言って、苦笑する。彼も、くすりと笑ってくれた。
その笑顔は、なんというか、やけに穏やかで。見ているだけで、妙に心が落ち着く。それに──なんだろう。この感じ。どこかで会ったことがあるような、不思議な懐かしさが、胸の奥をそっとくすぐった。
「君は、ここには、どうして?」
「ああ。学校の地域交流ってやつでな。今度、みんなで遊びに来るんだ。今日は、その下見」
「そうなんだ。それは楽しみだな」
彼は、絵に色を足しながら、ぽつぽつと話してくれた。自分はここで暮らしていること。車椅子なのは、前に事故に遭って、しばらく入院していたからだということ。
「でもね。ここの人たち、みんな本当に優しいんだ。職員さんも、子どもたちも。……僕なんかに、こんなによくしてくれて。恵まれてるなって、思うよ」
穏やかにそう語る横顔を見ていたら。俺は、なんだか無性に、胸があったかくなった。
「……なんか、お前と話してると、初めて会った気がしねぇな」
「そうかな?もしかしたら、昔どこかで会ったことがあったのかな」
顔を見合わせて、笑い合う。……不思議な奴だな。
「あ。そういや俺、名乗ってなかったな」
俺は、軽く頭をかいて。
「俺は、ま……岡崎。岡崎圭一だ」
危うく前原と言いかけて、慌てて言い直す。気が緩むとまだ本名を名乗りそうになるな。彼は気にする風もなく、頷いて。
「うん。よろしく、岡崎君。……僕は、ほう――」
彼が名乗りかけた、そのときだった。
「──圭ちゃん。こんなところにいたんですか」
中庭に、詩音の声が響いた。
振り返ると、詩音が、グラスを二つ手に持って、こっちへ歩いてくるところだった。
「もう、捜したんですから。打ち合わせ、終わりましたよ。……はい、圭ちゃん。冷たい麦茶──」
言葉が、途切れた。
詩音の視線が、俺の隣の、車椅子の青年を捉えて。その瞬間、詩音の顔から、すう、と表情が抜け落ちた。
──ぱりん。
手から滑り落ちたグラスが二つ、地面で砕けて、麦茶が飛び散る。だが、詩音は微動だにしない。割れたグラスにも目もくれず、ただ、彼だけを見つめている。まるで、幽霊でも見たみたいに。
「……お、おい。詩音?」
ただならぬ様子に、俺は慌てて駆け寄る。だが、詩音の視線は、彼に釘付けのまま。その体が小刻みに震え出す。
「詩音?どうした、おい」
俺が呼びかけると、詩音の唇がわなないて。そこから、掠れた声がこぼれ落ちる。彼女の口から溢れた言葉に、俺もまた声を失うのだった。
「……さと、し、くん……?」