ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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興宮の車窓から

 

 

 地面に散らばったガラスが、陽の光をチラチラと反射している。

 見事に二個ともグラスが砕け散ったなと、ぼんやり思いながら……俺はおもむろに顔を上げた?

 目の前には車椅子に座ってこちらを見つめる金髪の青年、そして俺の隣には、目を見開いて立ち尽くす詩音の姿が。

 

「あの……大丈夫?」

 

 凍りついていた詩音に、青年は少し心配そうに声をかける。だが詩音は、彼を見つめたまま、ぴくりとも動かない。返事もない。

 

 青年は、少し困ったように、俺のほうへ目を向けてきた。助けを求めるようなその視線。……そう言われても。俺だって、何がなんだか分からないんだ。

 

 「悟史」

 詩音は、確かにそう言った。……悟史って、あの悟史か。こいつが?いや、でも。頭の中が、疑問符で埋め尽くされて、ぐるぐる回る。俺は、詩音と青年を、交互に見ることしかできなかった。

 

 と。そのとき。

 

「悟史!もう、こんなところにいた」

 

 今度は施設のほうから、一人の女の子が駆けてきた。歳は、俺たちと、同じくらいだろうか。栗色の髪を後ろで一つに結んだ、可愛らしい子だ。青年のそばまで来ると、少し頬を膨らませる。

 

「おやつ、みんな待ってるよ。……まーた絵に夢中になってたでしょ」

「あはは。ごめんごめん」

 

 青年が、へにゃりと笑うと、女の子はしかたないなあ、という顔をした。仲が良い友人のようだが……いや待て。今彼女は確かに悟史と言った。ってことはやっぱり。

 

 青年は、車椅子の向きを変えながら、俺のほうを見て、ふわりと笑った。

 

「じゃあ、僕、行くね。……岡崎君、また」

「あ、ああ……」

 

 俺が、間の抜けた返事をすると。青年は、女の子と何か話しながら、施設のほうへと戻っていく。詩音のことも、凍りついたその様子を、少し気にかけるように、一度だけ振り返って。でも結局そのまま、行ってしまった。

 

 俺は、遠ざかっていく青年の背中と、隣で凍りついたままの詩音を、交互に見る。……おい。どうなってんだ、これは。

 

 どれくらい、そうしていたのか。

 凍りついていた詩音が、ふいに、ぐらりと揺れた。かと思うと、その口から、堰を切ったみたいに、言葉が溢れ出す。

 

「……夢。そうだ、夢だ。これ、夢ですよね」

「は?」

「だって、そうでしょう。悟史くんが、こんなところにいるわけ、ない。……ってことは、これは全部夢。まだ私夢の中にいるんですよ」

「お、おい。詩音」

「あれ。でも、どこから?どこからが、夢……?……ま、まさか。け、圭ちゃんと、恋人になれたのも……夢?」

「いや、なんでだよ」

 

 思わず真顔で突っ込んじまった。

 

「そーですよ、夢!夢に決まってます!だって、最近の圭ちゃん、以前の圭ちゃんと、違いすぎますもん!」

「はぁ?」

「昔の圭ちゃんなんて、殺意を覚えるくらい、鈍感で、ガサツで!人の気持ちは無視するし、暑苦しいし!」

「おい」

「そりゃ、頼りになるところとか、カッコいいところも、ありましたけど!それを差し引いても、マイナスが大きすぎて、目も当てられなかったのに!」

「おーい。無闇に人を傷つけるのやめろ。訴えるぞ、こら」

 

 まくし立てる詩音に、俺は半眼で抗議する。……こいつ。パニックだか何だか知らねぇが、言いたい放題、言いやがって。

 だがまあ。これだけいつも通りに口が回るなら。とりあえず、大丈夫そうだな。

 

「あのなぁ、詩音。いいから、落ち着け」

 

 俺は、詩音の両肩をぐっと掴んで、正面からその目を見た。かと思えば、彼女の頬を軽くつまむ。

 

「な、なにするんですか」

「感覚あるだろ?夢なら何も感じねぇはずだ。だから今は、正真正銘現実だっつうの」

 

 詩音の揺れていた瞳が、俺の顔を映して、少しずつ焦点を結んでいく。

 

「……ほんとに?」

「ああ。何度でも言ってやる。夢でも、まぼろしでもねぇよ」

 

 きっぱり言い切ってやると。詩音は、ぱちぱちと、まばたきをして。詰めていた息を吐き出した。少しだけ、いつもの顔が戻ってくる。

 

 ……と、思ったのも、束の間。

 

「……あ」

 

 詩音が、今度は足元に目をやって、間の抜けた声を出した。地面に散らばった、割れたグラスと、麦茶の水たまり。

 

「わ、私。グラス、割っちゃって……っ。す、すみません、片付けないと」

 

 こんな時に、そんなどうでもいいことを。詩音は、慌ててその場にしゃがみ込んだ。そして、散らばった破片に手を伸ばして──

 

「あっ」

「おい、待て。素手で触──」

 

 止める間も、なかった。

 

 小さく、詩音が声を上げる。その白い指先に、ぷつりと、赤い玉がにじんだ。破片で切っちまったんだ。

 

 考えるより先に、体が動く。すぐさま詩音の手を取って、その指先を、自分の口に含んでいた。

 

 口の中に詩音の指、柔らかい感触。そしねじわりと滲む鉄の味。……って。

 

 ──い、いや、いやいや。俺、今何して。

 

「──っ」

 

 顔を上げると。至近距離で、詩音が耳まで真っ赤にして、俺を見ていた。目がまん丸に見開かれている。……俺だって、自分でやっといて、心臓が、破裂しそうだ。

 

「わ、悪ぃ!つい、反射で……っ」

 

 慌てて指を離すと、さっきとはまったく別の意味で、二人してあたふたと、うろたえる羽目になった。

 

 ……だが。おかげでというべきか。先程の混乱に対しては、俺の頭は、妙にすっと冷えていた。

 落ち着け。取り乱してる場合じゃねぇ。まずは状況を、整理しねぇとな。

 

 

 俺は、隣に立つ詩音を見た。さっきまで真っ赤だった顔は、もうすっかり血の気を失っている。視線は、悟史が消えた施設のほうへ、じっと据えられたままだ。

 

「……詩音。さっきのあいつ。本当に、あの北条悟史だったのか」

「……」

 

 俺は悟史の顔を知らない。会ったことは一度もない。沙都子の兄で、綿流しの晩に消えた北条悟史。レナや沙都子からも聞いていたし、詩音からも事情は何度も聞いた。そもそもにして、悟史を探すというのがコイツとの最初の約束だったはずだ。そう、詩音のためにいつか見つけ出してやると誓った相手だが、よく考えれば、その顔だけは知らないままだ。

 

「……間違いない、と思います」

 

 詩音の声は、低くて平らだった。取り乱すでも、涙ぐむでもない。意外なほど、冷静な声色。

 

「それにあの子も、悟史って呼んでました。名前も一致してる。なにより……私が、見間違えるわけがない」

 

 言い切ってから、詩音は、しばらく黙った。膝の上で握った手を、そのまま動かさない。その横顔は、どこか、遠いものを見るような目をしている。

 

 ……なんつーか。俺が想像してたのと、少し違った。長いこと探し続けた相手だ。もっとこう、取り乱すとか、嬉し泣きをするとか、そういう感情の爆発があると思ってたんだが……詩音の様子はそれらとは違う。喜びとも、恋しさともつかない。もっと静かで、重たい、別の何か。そんな感じがした。

 

「でも、変ですね」

「何が?」

 

 ふいに、詩音が言った。

 

「悟史くん、私の顔を見ても……なんの反応もなかったんですよ」

「……そういや」

 

 確かにそうだ。詩音は魅音として一年、悟史のそばにいた。魅音として。綿流しの翌日には、詩音として、あいつの前に立ったはずだ。

 なのにまるで見覚えすらない、初対面の人に接するような態度だった。普通なら、驚いたら動揺したりするんじゃないか?大災害の生き残りなんだから……仮に詩音と認識しなくても、例えば魅音と間違えても、それ相応の反応を示さないとおかしい。

 

 あの青年は、詩音を通りすがりの誰かみたいに見ていた。知り合った同い年の男の子の友人かな?くらいに。

 

「知らない人を見るみたいな、目でした……」

 

 詩音の声が、少しだけ掠れた。

 

「……名前も見た目もおそらく本人なのに、お前を覚えてない、か」

「結構ショックなんですけど」

「そりゃまぁ、な」

 

 わざと明るく振舞おうとしているのか、詩音は大げさな仕草でため息をついてみせる。

 初恋の相手にこうも他人扱いされたら、誰だって心にくるだろう。それもただ同じクラスにいたとか、そういう間柄でもない。1年近くも、側にいたんだ……いや、だったらやっぱり変だ。忘れるなんてことあるはずがない。悟史と直接面識があるわけじゃないが、そんな薄情な奴ではないはずだ。

 

「双子とか?実は沙都子の兄貴は二人いて、そいつが今になって登場したとか」

「さすがにそれは……そんな話、誰からも聞いたことないですよ」

「ほら、ミステリーとかにはお決まりのシチュエーションだ。片親が同じだけど、幼いころに生き別れてた双子的な。悟史や沙都子も知らなかった設定でさ」

 

 詩音からは呆れたような視線が向けられる。なんだよ、別にふざけてるわけじゃねえぞ。

 

「そんな手あかのついた手法をいまさら後出しされても……」

「いやいや、けどよ。そのくらいしか思いつかねーだろ、この状況じゃあ」

「ぐぬぅ……」

 

 言葉に詰まったようにして考えこむ詩音。今の彼女の心情たるや俺には理解なんぞ及ばないが、それでも表向きは落ち着いてはいるようにも見える。

 

「ここで考えてても、埒があかねぇ。……確かめよう。あいつのことを、ちゃんと」

 

 俺が言うと、詩音はこくりと頷いた。まだどこか、呆然とした色をその顔に残したまま。

 割れたグラスを片付けて、俺たちは、施設のほうへ足を向けた。

 

 

 施設に戻ると、さっきの職員さんが、お茶を淹れて待っていてくれた。

 

 和室に通されて、俺と詩音は座布団に腰を下ろす。詩音はまだ顔色が戻らず、膝の上で、両手をきつく握り込んでいる。俺は当日の段取りの話にかこつけて、頃合いを見てから、それとなく切り出した。

 

「そういや。さっき中庭で、車椅子の子と話したんすけど。絵のうまい子で」

「ああ、悟史くん」

 

 職員さんは、湯呑みを俺たちの前に置きながら、にこやかに頷いた。

 

「絵を褒めてもらえたって、さっき嬉しそうにしてましたよ。あの子、普段はあまり自分から話さないんですけどね」

「悟史って言うんすね、彼」

 

 ええ、北条悟史君っていうんです。職員さんのその言葉に、隣で詩音が息を呑んだ気配がした。

 やっぱり……同姓同名んらば、もう本人確定と考えていいだろう。

 

「ここには長いんですか?」

 

 俺が水を向けると、職員さんは、湯呑みを置く手をほんの少し止めた。それから、声のトーンをそっと落とす。

 

「半年ちょっと、かしらねぇ」

 

 その言い方に、何か含みがある。詩音も気づいたんだろう。伏せていた目を、わずかに上げた。

 

「あの子ね、しばらく病院に入院していたそうなんです。半年くらい前に、退院してうちに来たんです。身寄りがないからって、その病院のお医者さんのツテで。ただ……」

 

 職員さんは少し言いにくそうに言葉を濁し、すこし逡巡してから続けた。

 

「なにも、覚えていないのよ」

「覚えていない?」

「ええ。自分の名前も、どこから来たのかも。家族がいるのかどうかさえ、何一つ。お医者さんの話では、精神的な影響だろうっていうけれど……肝心の原因も分からなくて」

 

 

 ……まさ、か。そんなことが。

 

 

 隣をそっと見ると、詩音はといえばもはや呆けたように、口を空けて固まっていた。もう濁流のように押し寄せてくる情報に、頭がついていかないとでもいうように。

 無理もない、俺自身も考えがまとまり切らないなかで、浮かんできた疑問をそのまま口にする。

 

「け、けど、さっき名前……悟史くんって」

「そう、北条悟史っていう名前もね。あの子の持ち物に、そう書いてあったんです。だから周りがそう呼んでいるだけ。本人にしてみれば、自分の名前ですら、あとから他人に教わって知ったようなものなんですよ」

 

 ……つまり

 

 記憶喪失、ってやつなのか。

 

 まだごちゃごちゃしっぱなしの頭の中で、辛うじてだが、さっきの中庭の光景と今の話が、ぼんやりとつながっていく。悟史が詩音を見ても、何も感じなかったわけ。別人だったわけでも、無視したわけでもない。ただ覚えていないってことなんだ。詩音のことも、自分が誰かってことも。北条悟史って名前が背負ってる何もかもを、綺麗さっぱり失くしちまってる……そういうことで。

 

「でも、心配しなくても大丈夫」

 

 俺たちの沈黙を、どう受け取ったのか。職員さんは、表情をやわらげて続けた。

 

「今はすっかりここに馴染んでね。皆のお兄ちゃん代わりなんですよ。穏やかで、優しくて。あの子がいてくれると、みんなほっとするみたいで」

 

 その笑顔に、悪気なんてこれっぽっちもない。むしろ、悟史を心から気にかけている、優しい顔だ。ただ、ありのままの事実を話してくれただけ。それが、かえってこたえた。

 詩音は、湯呑みを両手で包んだまま、じっとその水面を見つめていた。何も言わない。ただ、その横顔は、必死に何かをこらえているように見えた。

 

 それから俺は、なんとか当日の打ち合わせを済ませた。詩音のぶんまで、俺が受け答えして。職員さんに礼を言って、俺たちは施設を後にするのだった。

 

 

 

 

 バス停まで来ると、俺たちはどちらからともなく、色の褪せたベンチに腰を下ろした。

 時刻表を見ると、次のバスまで、まだ二十分近くある。周りには田んぼが広がっているきりで、人の姿もない。どこかで、かえるがのんびりと鳴いている。

 

 そういえば、真田さんは一足先に帰宅していた。「急用を思い出した」なんて取ってつけたように言っていたが、ただならぬ俺たちの様子を察してくれたみたいだ。

 

 

「……」

 

 ベンチに座って、小さく息をつく。しばらく、どっちも何も喋らなかった。

 その暢気なかえるの声が、なんだか今の俺たちとちぐはぐで。俺はぼんやり、傾いた日を眺めていた。

 

「……悟史くん、生きてたんですね」

 

 先に口を開いたのは、詩音だった。膝に肘をついて、ぼうっと前を見たまま。ずいぶんと間延びした声で。

 

「生きてたな」

「しかも、記憶喪失」

「みたいだな」

「私のことも、さっぱり」

「……そうだな」

 

 我ながら、間の抜けた相槌しか返せない。だが、しょうがねぇだろ。あんまりいっぺんに、いろいろありすぎて。気の利いたことなんざ、頭に浮かんじゃこねぇ。

 

 詩音が、はあ、と長い息を吐いた。それから、ぐっと両腕を上に伸ばす。

 

「なんか、もう。びっくりを通り越して、逆にぼーっとしてきました」

「いまいち現実だって気がしねぇな」

 

 詩音が、口の端だけで笑った。いつもの、人をおちょくるような笑い方とは、少し違う。もっと力の抜けた、頼りない笑い方。

 

「不思議ですね。ずっと、無事でいてほしいって思ってたんです。生きててくれて、ほんとによかったって。……そう思うのに」

 

 言葉を探すみたいに、詩音はちょっと宙を見る。

 

「私のこと、まるっきり忘れてるって思ったら。なんか、こう……胸のあたりが、しんとしちゃって。寂しいのか、それとも」

「……」

「安心、しちゃってるのか」

 

 詩音はそう言ってから、最低ですね私って、と付け加えた。

 

 

 安心。

そういえば、以前も「安心しちゃってるんです」と打ち明けてくれたことがあった。その時はずっと悟史のことを待つ辛さから出た言葉だったと思うが……じゃあ、今の気持ちはどうなんだろうか。

 

 いや、詩音の気持ちを、分かってやれることなんて出来ない。できるはずもない。だから軽々しく、分かるなんて言うのも違う気がした。

 

「私。ずっと、あの人に、伝えなきゃいけないことが、あったんです」

「前も、そう言ってたな」

「……そうでしたね」

 

 伝えたいこと。

 それがどんなことなのか、俺はあえて聞かなかった。

 

 聞けば、こいつは話してくれるのかもしれない。でも、それは詩音が自分の心の中で、ずっと大事に抱えてきたものだ。こいつが自分で話すと決めるまで。あるいは話さないと決めるなら、それでいい。詩音が決めたことを、俺はそのまま大事にしてやりたかった。

 

「別に、今、無理に答え出さなくていいだろ。こんなの、そう簡単に割り切れる話じゃねぇんだから」

「……ふふ」

「笑うとこか?」

「いーえ、また出たなーって思って。圭ちゃんお得意の先延ばし戦法」

 

 誰がお得意だ、誰が。

 二人してぼんやりと空を見上げる。

 

「……ほんとに、どうしましょうかねぇ」

「なぁ」

 

 間延びした声で、揃って途方に暮れて。

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 やがて道の向こうから、一台のバスがのろのろとやってきた。がらがらの車内に、俺たちのほかに客はいない。いちばん後ろの席に、並んで腰を下ろす。

 

 ゆっくりと走り出した窓の外には、田んぼと夕焼けの空が、ゆるやかに流れていく。

 揺れる車内で、そのうち、詩音の頭が、こっくり、こっくりと、傾いてきて。……最後には。俺の肩に、こてんと、乗っかった。

 

 今日一日で、気を張り詰めて疲れきったんだろう。規則正しい寝息が聞こえてくる。

 俺は、肩の重みをそのまま受け止める。少しでもこいつが休めるように。窓の外の茜色が、だんだんと濃くなっていくのを、眺めながら。

 

 悟史のことは、まだ何一つ片付いちゃいない。これからどうすりゃいいのかも、正直さっぱりだ。

 

 でも。不思議と気持ちはそこまで重くはなかった。隣に、詩音がいるからかもしれない。彼女もそんな風に、思ってくれてばいいのだが。

 

 

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