朝の道場は、しんと冷えていた。
踏み込んだ足の裏に、畳のひやりとした感触。次の瞬間、視界が、ぐるりと裏返った。天井の梁が、斜めに流れて――背中から、畳に落ちる。どん、と鈍い衝撃が、肩甲骨を突き抜けた。肺の中の空気が、一気に押し出される。
「腰が浮いてます。そこを取られたら、力の差なんて関係なく飛ばされますよ」
葛西さんの声が、頭の上から降ってくる。畳に伸びた俺を、覗き込んで。サングラス越しでも、その目がかすかに笑ってるのが分かった。
この人に稽古をつけてもらうようになって、半年になる。あの、園崎の解体騒動の後も、俺は週に二回。こうして本家の道場に通っては、みっちり畳を舐めさせられているわけだ。
園崎の家は、詩音の宣言で、今まさに解体の真っ最中だ。だから葛西さんも、もう詩音の付き人ではなくなった。親父さんが組長の新しい組織の幹部――というのは表向きの話。茜さんが裏で手を回したようで、名目の役目は解いても、目付け役として、この人を詩音のそばに残すことにしたらしかった。まあ親心ってやつだろう。今は昔みたいにすぐ近くじゃなく、本家住まいだが。会おうと思えば、いつでも会える間柄だ。
で、俺が、なんでこう必死に通ってるかっていえば、理由は一つ。この先も詩音を、そして自分自身も守るため。あの一件で思い知った。詩音だけじゃない、自分の身も自分で守れなければ、生きて、彼女の隣にいなければ意味がないんだと。
でなきゃ、詩音をどこぞの馬の骨に奪い取られるかもしれない。そんなこと、到底我慢できるはずもない。つまりは、俺自身のエゴだ。
「……もう一本」
まだ痺れの残る背中に力を入れて、立ち上がる。
「いい返事ですね」
組む。襟を取る。次の瞬間には、また、天地がひっくり返っている。畳が頬を打つ。汗が目に染みる。それでも、起き上がる。何度でも。
小一時間、そうして揉まれた。案の定、足腰が笑い始めた。膝ももう言うことを聞かない。そこで、ようやく、葛西さんが手を止めた。
「ずいぶん、筋が良くなりましたよ。最初の頃とは、比べ物になりません」
放られたタオルが、顔にかかる。
……そうだろうか。正直、実感なんてまるでない。今日だって、何十回畳を舐めたか、数える気にもならん。だけど、この人が世辞を言う性格じゃないことは、よく知ってる。
「……どうも。ありがとうございます」
汗を拭いながら。その言葉は素直に受け取ることにした。
乱れた息が落ち着くのを待って。俺は、本題を切り出す。
「葛西さん。この前、お願いした件……その後、どうですか」
「悟史くんの件、ですね」
葛西さんの声が、すっと低くなる。
悟史のことは、もう、この人に話してある。俺と詩音だけじゃ、手の届かねぇことが、多すぎた。あいつが、なぜ生きてたのか。どういう経緯で、あの施設にいるのか。俺たちには、調べようがない。だが、この人になら。
「私も今は、おおっぴらに動ける立場じゃありませんからが、できる範囲で、探ってはみましょう。彼が一体、どうやってあそこに辿り着いたのか。何故大災害を生き延びていなのか」
「……助かります。本当に」
深く頭を下げると、葛西さんは軽く手を振った。
「お礼は、何か分かってから、聞くとしましょう」
道場を出る頃には、日がすっかり高くなっていた。差し込む光が、汗ばんだ首筋にじわりと熱い。門のところで、葛西さんが、思い出したように足を止めた。
「一つ、お伝えしておくことが」
「なんです?」
「近いうちに、赤坂さんが、また興宮に来られるそうです」
その名前に、少し意表を突かれた。赤坂さんとは、鵜飼の一件で顔を合わせたきりだった。あの後、すぐ東京へ戻っちまって。
「その際、圭一くんに、話があるとのことでした」
「俺に?……なんだろうな」
心当たりはまるでない。首をひねる俺だったが、葛西さんは、それきり何も言わなかった。
……まあ、いい。赤坂さんの話がなんであれ。今は、それどころじゃない。
考えなきゃならないのは、悟史のこと。そして、あいつを前にして、揺れてる詩音のことだ。
道場からの帰り道、俺は自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、ぼんやり考えていた。
交流会の本番は、もう数日後に迫っている。市内の高校が合同で、あの施設を訪ねる、あの行事だ。……つまり、それが一つの区切りだ。詩音が、悟史とどう向き合うのか。答えを出すにしても、出さないにしても。あの日までに、何かしらの片をつけなきゃならない。
この数日はいろいろあった。
俺と詩音は、あの下見のあと、もう一度、あの施設を訪ねている。交流会の準備で、詰めなきゃならないことがあったからだ。当日の食事の手配やら、スケジュールの割り振りやら。そういうのを、施設側と直接詰める必要があった。
……そして、その二度目の訪問で。詩音は、また悟史と、顔を合わせることになったんだ。
二度目に訪ねたのは、下見から三日ほど経った午後のことだった。
交流会当日の段取りを詰めるのが、その日の用件だ。食事をどこで配るか、子どもたちをどう班分けするか、雨が降ったらどうするか。大まかな対応から細かい想定まで、できる範囲で詰めていく。
打ち合わせには、スタッフだけではなく、子供も何人か顔を出していた。その中に、悟史もいた。
施設では、悟史は年長のほうだ。だから、こういう準備には進んで手を貸しているらしい。車椅子の膝にメモ帳を広げて、当日の配置やら何やらを丁寧に書き留めている。その手元を覗き込むように、あの女の子──飯島友里という名前だと、このとき知った──が隣に座っていた。
「友里、その箱は重いから、無理して運ばないほうがいいよ」
「大丈夫だって。悟史は心配性だなぁ」
悟史が気遣わしげに言うと、友里はおかしそうに笑った。その気の置けないやり取りから、やはり仲の良い友人関係だというのは手に取るように分かった。
問題は、詩音のほうだった。
生徒会長としててきぱきと、表向きはいつも通り。そつがなくて、如才ない。誰が見たって、有能な生徒会長だ。
そして、その打ち合わせの流れで、詩音は悟史とも言葉を交わすことになった。
「……北条くん、でしたよね。当日、ここの子供達の誘導とかをお願いしてもいいですか」
「はい、もちろん。……えっと」
「……園崎、と言います。挨拶遅れてごめんない」
「うん、園崎さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
悟史は、詩音ににこやかに頭を下げた。当たり前だ。あいつにとって詩音は、この前の下見で顔を出していた他校の女の子。それ以上でも以下でもないのだから。
詩音も、笑顔で応じていた。「こちらこそ」なんて言って。傍から見れば、なんてことのない事務的なやり取り。
……だが。
詩音のその笑顔、声、仕草。どれも完璧に、いつも通りだった。少しも隙がない。まるで、隙を作ったら最後、何かがこぼれ落ちてしまうとでもいうように。
他人のふりをしている。一年そばにいた相手に。自分の名前を初めて教えるみたいに「園崎です」と名乗って。頭を下げて。
……今、何を考えているのだろうか。
取り繕った笑顔の、その下を潜んだものの正体を、つい考えてしまう。
でも、俺は何も言わなかった。言えなかった。ここで下手に口を出せば、詩音が必死で保っているその均衡を、崩しちまう気がして。
だから今は、ただの生徒会の副会長として、当たり障りのない顔でその場にいることにした。詩音が他人を演じきるのを、隣で見守りながら。
「岡崎君」
「ん。ああ」
ふいに、悟史が俺に話しかけてきた。
「この前は、子どもたちと遊んでくれてありがとう。あの子たち、すごく楽しかったって言ってたよ」
「……いや。こっちも楽しかったよ」
悟史は本当に、いい奴なんだろう。記憶があろうとなかろうと、それは変わらないらしい。……だからこそ、なんともやりきれない。
そんなふうにして、俺たちは少しずつ、悟史たちとも顔見知りになっていった。
打ち合わせは滞りなく進んで、その日も無事に終わった。
……ただ、帰り際。詩音が一度だけ振り返って、遠くで作業する悟史の背中をじっと見ていた。その横顔が何を思っていたのか。俺には、聞くことができなかった。
その日の夜、家に帰ってからも、脳裏には昼間の詩音の横顔が居座ったままだった。
夕飯を済ませて、風呂も出て。詩音は、ソファで雑誌をめくっている。俺は、その隣で茶をすすっている。
無理に話しかけらつもりはなかった。こいつが何かを、自分の中でこねくり回しているのは、見ていれば分かる。だけど、急かしてどうなるもんでもない。
なんて考えていたら、詩音の方からぽつりと言葉がこぼれる。
「……今日、悟史くんに「園崎です」って名乗ったんですよ」
「そうだったな」
「初めまして、みたいな顔して」
膝を抱えて、詩音はどこか他人事のような口調で。
「なんか、久しぶりだなぁって。不思議な感覚でした。他人のふりをするのって、昔はしょっちゅうやってたのに。簡単なはずだったんですけど……ううん」
詩音が、小さく首を振る。
「本当は……簡単、じゃなかったのかも。ただ体が、勝手に覚えてただけで」
「……」
「この前の下見のときは。ただただ、びっくりして。生きてたんだ、って、それだけで、頭がいっぱいで。何がなんだか、分からなかったんです」
詩音の声は、静かだった。落ち着いている、というより、慎重に、言葉を選んでいる感じがする。
「でも、今日。ちゃんとあの人と話してみて。……なんだか、余計に分からなくなっちゃいました」
詩音は、首を少し傾ける。
「今の悟史くん、本当に穏やかで。施設の皆とも仲良くて。子どもたちにも慕われてて。……本当に、幸せそうにしてるんですよね」
「……そうだな」
「私が、余計なことを言って、あの平穏を引っかき回す権利なんて。あるのかなって」
詩音の指が、膝の上で、きゅっと、シャツの裾を握る。
「前にも言いましたよね。私には、彼に伝えたいことがあるって。……でもそれは、彼の環境を……」
言葉が、途切れた。
「悟史くんがやっと手に入れた、今の、穏やかな時間を。私の勝手で、壊しちゃうかもしれない」
詩音は、そこで、ふ、と、力なく笑った。
「でも、じゃあ。このまま──他人の振りのまま、さよならするのが、正しいのか」
そりゃ、簡単に答えの出る話じゃない。伝えれば、悟史の平穏が、揺らぐかもしれない。伝えなきゃ、詩音が、ずっと抱えてきたものが、宙に浮いたまま、消える。どっちを選んでも、何かを、諦めることになる。
俺は、こういうとき、気の利いたことを、言ってやれる柄じゃない。だから、思ったことをそのまま、口にすることにした。
「……どっちでも、いいと思うぜ」
「うわぁ、投げやり」
「そうじゃねぇよ」
まぁ回答自体は投げやりなんだけども。
「詩音がそこまで思い悩んで、出した結論は……きっとどっちだったとしても、正しいんだって。俺は思う」
「……後で、後悔しかしなくても?」
「後悔しない人生なんてあるかよ。俺を見ろよ、後悔するしかないに決まってる選択ばかりしてるだろ」
雛見沢が消えてからこのかた、てめぇの選択を後悔しなかった日はない。やり直せるなら、あの日に戻って……俺は沙都子を助けるための別の方法を死ぬ気で皆に提案しただろう。
「……つまりそれって、私と付き合ってることも後悔ってことになりません?」
「あ、いや!そういう訳じゃなくてだな。詩音と、その、こういう関係になれたのは素直に嬉しいけどよ。えーと、だからって、俺がしてきた事が正しいとは言えないわけで、その……でも今、それでも詩音と一緒にいられて、笑うことが出来てるっていうか」
言い訳じみたことを慌てて並べていると、じーっと見ていた詩音の視線が少し緩む。
「ごめんなさい、ちょっとだけ意地悪しました。分かってますよ、圭ちゃんの気持ちは」
「ったく……まぁ、つまりだな」
こほんと、大袈裟に咳払いを一つ。
「一つだけ、言えるのは。……お前が、どっちを選んでも、俺は、お前の味方だってことだ。伝えるって決めたら、一緒に行く。伝えないって決めても、そばにいる。それだけは、変わらねぇよ」
詩音は、しばらく俺の顔を、じっと見ていた。それから、ふっと肩の力を抜くみたいに、微笑んだ。
「……ずるいですね、圭ちゃんは。結局、私に丸投げじゃないですか」
「バレたか。カッコつけてお前に全部押し付けるって算法だったんだけどな」
「……ふふ、最低」
抱えていた膝を、そっと下ろす。少しだけその横顔が、やわらかくなった気がした。でも今は、それでいい。
「それにしても」と。詩音が、雑誌をパタリと閉じて、わざとらしく、口を開いた。
「圭ちゃんって、余裕ですよね」
「あん?何がだよ」
ぱたん、と雑誌を閉じる。そして、じとっとした目で俺を見た。
「私が私の初恋の人のことで……こんなにも悩んでるってのに。圭ちゃんったら、なーんにも動じてないじゃないですか。それどころか、格好付ける余裕まであるなんて」
……そうは言ってもなぁ。
「俺が動じてどうすんだよ。今一番大変なのは、お前だろ」
「……そういうことじゃ、なくて」
詩音が、雑誌の角でつんつんと俺の腕をつついて。ぼそっと、口を尖らせた。
「……ちょっとくらい、妬いてくれても、いいじゃないですか」
「は?」
俺は、湯呑みを持ったまま、首をひねった。
そう言われても正直、ピンとこない。今のこいつは気持ちの整理がつかない状況なのだから、少なくとも隣の俺はどっしり構えてやることだと思うんだが。
……しかし、だ。こんなこと言うってことは。俺があんまり平然としてるもんだから、かえって心細くなってるのかもしれない。そういうことなら……俺は、湯呑みを置いて、詩音のほうに向き直った。
「心配すんな」
「……?」
きょとん、とする詩音。
「少なくとも、俺はお前のことを他の誰にも渡す気はないし、お前が誰と会おうが、俺のこの気持ちが揺らぐわけがねぇから……いちいち不安になる必要もねぇんだよ」
「ぐはっ……」
詩音が、胸のど真ん中を撃ち抜かれたみたいに、のけぞった。
両手で胸を押さえて、そのまま、ずるずると、ソファから崩れ落ちる。
「お、おい。どうした」
床にうずくまって、しばらくぷるぷると震えていたが。やがて、詩音は、よろよろと立ち上がった。そして、手の甲で口元の拭う。まるで、血を拭うみたいに。
「……相変わらず、やりますね。圭ちゃんの癖に」
「何の話だよ」
俺のツッコミもどこ吹く風。詩音は、ふう、と満足げに息をついて、また、ソファに腰を下ろした。……なんなんだ、こいつは。
さっきまでの、拗ねたような空気は、どっかに消えていた。