交流会当日は、朝から雲一つない晴天だった。
ひだまりの家の庭に、子どもたちのはしゃぐ声が響き渡っている。準備してきた飾り付けが風に揺れて。手作りのゲームコーナーやら、お菓子の配布所やら。ここ数日、子供たちと一緒に用意してきたものが、今ちゃんと形になっている。
「おいこら、廊下走ると鬼にとって食われるぞ?いいのか?」
「わーっ!!」
俺は、動き回る子どもの一人をひょいと抱え上げてやると、くすぐったそうにけらけらと笑っている。
「岡崎くん、そっちのボール、お願いー」
「はいよ」
真田さんの声に応えて、転がったボールを蹴り返す。あちこちで、子どもと高校生が入り混じって遊んでいる。
ここはうちの高校と、近くの小学校が割り当てられている。施設の子供たちと、低学年の子どもたちがはしゃぐ様子を、少し大きな高校生のお兄さん、お姉さんたちが面倒を見ながら。
いつか見た景色に似てる気がして。どこかで聞いた笑い声に似てる気がして。そんなものが見られるのなら、時間のかかった準備も、報われるってもんだ。
そして、詩音はといえば。
生徒会長として、テキパキと場を仕切っていた。子どもたちの班分け、スタッフとの連携、時間の管理。お昼の用意まで。
……けど、よく見れば。
あいつの笑顔の、その奥に。今日この後に控えていることが、ずっと居座っているはずだ。表向きは完璧に、いつも通り。でも、ふとした瞬間に、視線があの木陰のほうへ流れる。悟史が子どもたちの相手をしている、あのほうへ。
その悟史はといえば。
「危ないから、走らないでね。……ほら、順番、順番」
車椅子の上から、穏やかに子どもたちを見守っていた。誘導係を任されたんだ。持ち前の優しい雰囲気のおかげか、子どもらは悟史の言うことを素直に聞く。その隣で、友里って女の子も甲斐甲斐しく手伝っている。
「悟史、次はあっちの班だって」
「ああ、ありがとう。友里、助かるよ」
二人の息の合った様子。それを見て、詩音がどんな顔をするのかと思ったが。……いや。詩音は、ただ穏やかに、その光景を見ているだけだった。ただ、静かに。
交流会は、盛況のうちに進んでいった。
子どもたちの笑い声。高校生たちのかけ声。菓子の甘い匂いと、昼下がりのやわらかな日差し。気づけば俺も、本気で鬼ごっこに参加していた。……くそ。こいつらの無尽蔵の体力を舐めてた。
そうして。あっという間に、閉会の時間がやってきた。
「おにいちゃん、また来てね!」
「おう。約束な」
「楽しかったよー」
名残惜しそうに手を振る子どもたちに見送られて、小学生と高校生生徒たちは、後ろ髪が引かれるようにして帰っていく。
交流会は大成功で幕を閉じた。……準備はやや骨が折れたが。やった甲斐はあったなと。
だが、本番は……むしろ、ここからだった。俺は何をするわけでもないんだけども。
閉会後の後片付け。俺たち生徒会と職員さんらがそれぞれ、道具を運んだり、ゴミを集めたり、ばたばたと動き回っている。その雑然とした空気を、俺は狙っていた。
さりげなく真田さんに耳打ちする。
「真田さん。悪い。ちょっとこっちの片付け、任せていいか。あと……詩音のこと、少し借りるわ」
真田さんは、一瞬きょとんとして。それから、何かを察したように、こくりと頷いた。
「……うん。わかった。こっちは任せて」
詮索も何もしないでくれるのが彼女の優しさなのだろう。
俺は彼女に心の中で手を合わせて、それから詩音のところへ向かった。
段取りはつけてある。あとは二人を、そっと二人きりにするだけだ。人の目をうまく逸らして。詩音が心置きなく、あいつと向き合えるように。
「詩音」
「……圭ちゃん」
声をかけると、詩音は振り返った。その顔は、もう覚悟を決めている。
「行ってこい。悟史、今あっちの休憩スペースに、一人でいる。……周りは、俺がなんとかしとくから」
「うん」
詩音は、短く答えた。それから、一つ深く息を吸って。まっすぐに、悟史のいるほうへと歩き出す。
暫く見送っていた詩音の背中が休憩スペースの角を曲がって、見えなくなって。
……さて。あとは待つだけだ。
俺は、二人のいる場所から少し離れた中庭の隅に腰を下ろした。ここなら、あっちの声も聞こえないし、こっちもそう簡単には見られない。詩音が心置きなく話せるよう、俺はただの見張り役に徹する。それが俺の役目だ。
……なんて、殊勝なことを考えていられたのは、最初の三分くらいだった。
手持ち無沙汰に、地面の小石を転がしているうちに、だんだん妙な考えが頭をもたげてくる。
……いや、待てよ。
今あっちで、詩音は初恋の相手と二人きりなわけだ。悟史、と。
あいつは優しい。穏やかで、相手をよく思いやる。ちょっとした気遣いも、さらりとできるタイプなんだろう。数回話しただけの俺にも、それは分かる。きっと、あの分校でも、そういうところが、みんなに好かれてたんじゃないか。
……比べて、俺はどうだ。
ガサツでデリカシーがないって、しょっちゅう言われてる。気を遣うのも、正直、得意じゃない。悟史みたいに穏やかで、なんてのとは程遠い。
何よりも、いちばんの問題は。悟史が、詩音の初恋の相手だってことだ。あいつは、詩音がずっとずっと好きだった相手で。
……俺は。
……俺は、その後釜に、勝手に座っただけなんじゃないか。
悟史がいなくなって、その空いた椅子に。たまたま居合わせた俺が、ちゃっかり腰を下ろしただけ。本当は悟史が座るべきだった場所に、図々しく、盗人猛々しく居座ってるだけなんじゃ──
「だー、やめだやめ!」
俺は、両手で頭をがしがしと掻きむしった。やめろ。考えるな。なに一人で、どんどん暗いほうに潜っていってるんだ。
ったく。柄にもない。こんなうじうじ考えるの、俺のキャラじゃねぇだろうに。いや、むしろ最近は──大災害の後から、こういう方が多かったかもしれないな。
つーか、俺のキャラって一体なんなんだろうか。俺は……本当に俺なんだろうか──って、だからだめだ!じっとしてると変なことばかり考えちまう。
どうも、待つってのは性に合わない。手も口も動かせないと、頭ばっかりが空回りする。ろくでもない妄想を次から次へとこしらえて、勝手に傷ついて。……我ながら、世話のない話だ。
でも、だ。もし、もしも、だ。これがきっかけで、振られたりしたら、どうするか。潔く身を引く? うぅ……潔くなんて、到底無理だ。絶対無理。でも、じゃあ泣いてすがりつく? 馬鹿言うな、んなことしたら最悪だ。情けなくて涙が出そうだ。葛西さんに弟子入りして山にこもる? なんでだよ。思考が完全に迷子になってる。
「……はぁ」
深いため息が出た。
結局、俺がこうやってうじうじ不安になるのは、詩音にとって悟史が特別な相手だからだ。初恋ってのは、どれだけ後から上書きしようとしても、その人の中に消えない何かとして残っちまう。……そういうもんなんだろう。
じゃあ、俺の初恋は……考えるまでもない。あいつだ。あの、生意気で口の減らない園崎詩音。だからこそ、分かっちまう。初恋ってやつの特別さが。
「……そりゃ、勝てねぇわ」
俺は、がっくりとうなだれた。自分で自分を追い詰めて、勝手に土俵の外まで転がり落ちた気分だ。
ああ、くそ。いっそ旅に出も出るかな……かつて日本には地球一周分ともいえる四万キロを歩き、日本の地図を完成させた伊能忠敬という傑物がいたという。俺もかの伊能忠敬大先生の足跡を辿る日本一周の旅でもしようか。失恋の傷を癒すにはちゃうどいいかもしれないな。
ダメだ、もうアホなことしか思いつかない。
俺は、途方に暮れたように空を見上げるのだった。
どれくらい、そうしていただろう。
ふいに、砂利を踏む軽い足音が近づいてきた。俺は、はじかれたように顔を上げる。
詩音が、こっちへ歩いてくるところだった。
俺は慌てて立ち上がった。……どうだった、と喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。詩音の顔をまっすぐには見られなくて。かといって逸らすこともできなくて。ただ間抜けに突っ立っていた。
詩音は、俺の前まで来ると、しばらく何も言わなかった。
……おい。なんか言えよ。その沈黙が、俺には永遠みたいに長く感じられる。心臓が、いやな感じに早鐘を打つ。
やがて、詩音がゆっくりと口を開いた。
「……ちゃんと」
……ちゃんと?
「ちゃんと、私なりに。……ケジメ、つけてきました」
詩音はそう言って、ふわりと笑った。
それは、憑き物が落ちたみたいな笑顔だった。ずっとあいつの奥のほうに澱んでいた何かが、すっかり晴れたみたいな。……そんな、晴れやかな笑み。
「もう、悔いはありません。悟史くんとのこと、ぜんぶ。……待たせてごめんなさい。ちゃんと、ここに帰ってきましたよ」
「……」
その瞬間、俺は危うく、その場にへたり込みそうになった。腰から力が抜けていく。……やべ。安堵で脚が笑ってやがる。
気が気じゃなかった、詩音が戻ってこなかったらどうしようって。さっきまで一人で、あんなにみっともなく、うだうだと。
……でも。それを顔に出すのは、男として、送り出した身として、ちょっと格好がつかないから。
「そっか」
俺は、必死に平静を装って頷いた。
「まあ、心配なんざ、これっぽっちもしてなかったけどな。どう転んでも、お前ならちゃんとやるって、信じてたし」
我ながら白々しい。声が少し上ずってる気がする。
案の定、詩音は俺の顔を、下から覗き込んできた。にやり、といたずらっぽく。
「ふぅん。本当ですかぁ? ……その割に、なんだか顔色、悪いですけど」
「き、気のせいだろ。……ほら、帰るぞ」
俺は誤魔化すように、詩音に手を差し出した。
詩音はくすりと笑って、その手に自分の手を絡めてくる。ただ繋ぐんじゃなく、指を一本ずつ絡めるみたいに。そのまま、俺の腕にきゅっと身を寄せてきた。
……ひっつきすぎだ。まあ、いいけど。
施設を出て、二人並んで夕暮れの道を歩く。
しばらく無言だった。だが、いやな沈黙じゃない。詩音の肩のあたたかさを感じながら、俺はなんとなく切り出しそびれていた言葉を、ついこぼしてしまった。
「……なあ。良かったのか。本当に、“ここ”で」
呟くみたいな、小さな声だった。自分でも、聞こえるか聞こえないかくらいの。……だが。
「……圭ちゃんじゃないと」
詩音の声が返ってきた。同じくらい小さな、囁くような声で。
「“ここ”じゃないと、ダメなんです」
──っ。
その一言が、じわっと胸の奥に染み込んでいく。俺は何も言えなくなって、ただ繋いだ手に、少しだけ力を込めた。
詩音も、応えるように握り返してくる。そんな二つの影が、夕陽に照らされて、長く長く伸びていた。
家に着いて、玄関の鍵を閉めると。二人きりの、静かな空気が、俺たちを包んだ。
詩音は靴を脱いで、居間に戻ってから。ふう、と小さく息をつく。今日一日、張り詰めていたものが、ようやくほどけたみたいに。
と。詩音が、くるりとこっちを振り返った。
「……圭ちゃん。今日は、本当にありがとうございました」
まっすぐに俺を見て、そう言った。
「圭ちゃんが、いてくれたから。待ってて、くれたから。……私、ちゃんと前を向けました。あなたが、そばにいてくれなかったら。きっと、こんなふうには、いかなかった」
……その、まっすぐな言葉が。まっすぐな瞳が。俺の中の何かに、火をつけた。
待っている間、ずっと、腹の底でくすぶっていたもの。あいつを他の男と二人にする不安。取られたくない、っていう、みっともない独占欲。感謝の言葉に応えるより先に、その抑えつけていたものが、ぶわっと込み上げてきた。
気づいたら、俺は、詩音の腕を引いていた。
「っ、圭ちゃ……ん」
最後まで、言わせなかった。俺はそのまま、詩音の唇を塞ぐ。
──ん、っ。
驚いたように、詩音の体が、一瞬こわばった。細い肩が、俺の腕の中で、びくりと跳ねる。だが、それもつかの間で。やがて、その体からゆっくりと、力が抜けていって。すがるみたいに、俺の胸に、そっと、手を添えてきた。
……その、小さな手の感触に。俺の抑えなんて、もう利かなかった。
深く、深く、口づける。触れるだけの、優しいやつじゃない。もっと、奥へ。詩音の、唇のやわらかさを。あたたかさを。一つ残らず、確かめるみたいに。角度を変えて、何度も何度も。詩音の甘い匂いが、鼻先をくすぐって。それだけで、頭の奥が、ぼうっと霞んでいく。
やがて。薄く開いた、その唇の隙間から。おずおずと、詩音の舌が、触れてきた。まるで、こちらの様子を、うかがうみたいに。遠慮がちに。ちょん、と。
……そのいじらしさに、何かが焼き切れた。
応えるように、俺は、その舌を絡め取る。ぬるり、と、触れ合った、その甘さ。やわらかさ。とろけるような、その感触に。背筋を、甘い痺れが、駆け抜けていく。逃げようとする、詩音の舌を、追いかけて。絡めて。もっと、深く、深く。二人の境目が、溶けて、なくなっちまいそうなくらい。
「ん……っ、ふ……ぁ、っ」
俺の腕の中で、詩音が、たまらなさそうに、身をよじった。膝から、力が抜けていくみたいに。俺の胸に、ぐったりともたれかかってくる。逃がすもんか、と。俺は、その細い腰を、片腕でぐっと、抱き寄せた。舌を、深く絡めるたびに。詩音の甘い声が。俺の口の中で、とろとろに溶けていく。応えるように、詩音の指が、俺のシャツを握りしめて。
その、いじらしい仕草が。俺を、もっともっと、深みへと引きずり込んでいく。
「ぁ……けい、ちゃ……」
ようやく、唇を離すと。詩音は、とろんとした目で、俺を見上げた。頬は火照って、真っ赤に染まって。半開きの、濡れた唇から。甘い吐息が、こぼれ落ちる。……その顔が。反則なくらい可愛くて。微かに残った俺の理性すらも、根こそぎ削っていく。
「悪ぃ。詩音」
俺は、彼女の火照った頬に右手を添えた。
「……やっぱり、俺。嫉妬してたわ。ずっと」
詩音の目が、少し見開かれる。
「お前らが二人でいる間。……気が気じゃなかった。取られたら、どうしようって。情けねぇ話だけどな。ずっと」
口に出してみたら、止まらなくなった。
「他の男のこと、考えてるお前を、見てるのも。……正直、面白くなかった。全部、俺だけ見てりゃいいのに、なんて。そういう、狭量なこと考えちまうくらいには。俺は、お前のことでいっぱいみたいだ」
言い切って。俺はもう一度、詩音を抱き寄せた。
「独り占めしたい、詩音を。……誰にも、渡したくねぇ」
二度目の口づけは、さっきより、もっと深かった。
込み上げる独占欲を、そのままぶつけるみたいに。俺は、詩音の唇を、貪った。今度は、遠慮なんてしなかった。最初から、深く。こじ開けるみたいに、その唇を割って。奥で、待っていた、あいつの舌に、俺のを絡める。
ぴちゃ、と。かすかな、水音が。静まりかえった部屋に、やけに、大きく響いた。その、甘ったるい音が。俺の感情を、際限なく煽り立てる。
詩音は、逃げなかった。それどころか。自分から、俺の首に、腕を回して。爪先立ちになって。もっとと、せがむみたいに。夢中で応えてくれる。あいつの、火照った体温が。とくとくと、速い鼓動が。触れ合った胸から、直に伝わってくる。……ああ、くそ。可愛い。可愛くて、たまらない。
「……ん、ん……っ、けい、ちゃ……ん」
キスの合間に。息継ぎのように、詩音が、俺の名を呼ぶ。とろけきった、甘え声で。瞳を、潤ませながら。その声が。その顔が。鼓膜を、脳を揺さぶるたびに。俺の中で、あいつを独り占めにしたいっていう衝動が、まだまだ膨れ上がっていく。もっと。もっと、こいつを。俺だけの色に。誰にも渡さないくらい、深く。染めちまいたい。
……と。
唇を離した、その瞬間。
詩音が、潤んだ瞳で、俺を、上目遣いに見つめて。濡れた唇を、そっと、開いた。
「……なら」
「……?」
「どうする、んですか……?」
──ぞくり、と。その甘く、掠れた声に。背筋が痺れた。
「……どうって」
「独り占め、したかったんでしょう……? 私を」
詩音の、細い指がもう一度俺のシャツを、きゅっと握る。とろけた瞳が、まっすぐ、俺を捉えて離さない。無自覚なのか。分かってやってるのか。……そんなの、もう、どっちでも良かった。
──ぷつん、と。
俺の中で、最後まで踏ん張っていた、最後の一本、理性の糸が。呆気なく千切れる音がした。
もう、どうなっても……知らねぇぞ。
俺は、詩音の腰を引き寄せて。その耳元で、低く囁いた。
「……俺のことしか。考えられなくなるように、してやりたい。今すぐ」
詩音の喉が、こくり、と鳴る。その、真っ赤になった顔が。こくん、と、小さく頷いたのを。俺は見逃さなかった。
三度目の口づけは。もう、優しさなんて、どこにもなくて。ただ、互いを、求めるだけのもので。
──そのまま、俺の意識も全てが溶けるように、詩音の中に入っていった。
翌朝は土曜日。学校が休みの週で本当に良かった。首に幾つもあるアザが目立たないことを願うばかりだ。
詩音は一日中ベタベタしてきた。いや、比喩でもなんでもなく、文字通り引っ付いては離れず状態だ。昨夜もあんなに必死にしがみついてきて、「好き」と何十回も言ってくれたのに。まだ足りないとでも言うように。
曰く。
「学校中はベタベタできないでしょ?だから休日に目一杯チャージしておくんです」
らしい。こんな、胸焼けがしそうなくらい甘ったるい日も、あったって良いかもしれないな。
またしてもやりすぎ、かつどえらい砂糖漬けのラストになってしまいました……すみません。もう一話を書いて、九章は終わりたいと思います。そして、最終章になります。随分と長くなってしまいましたが、もう少しで終幕です。最後までよろしくお願いします!