引き金
饐えた埃の味だ。喉の奥で、張りついて離れない。
地下だからか。何度息を吸い込んでも、肺の底へ届く前に、冷えて澱んだ何かに濾し取られていく気がした。消毒液の名残と、錆と、甘ったるい腐敗の匂い。それが一つに混ざり合って鼻の奥にこびりついている。
頭上の蛍光灯が一本、切れかけていた。
じ、じ、と焦げるような音を立てて白い光が明滅する。明滅するたびに、俺の影が壁のコンクリートの上で伸びては縮んだ。染みだらけの壁だ。水が伝った跡が幾筋も黒く垂れて、ところどころ塗装が剥がれ落ちている。
部屋の隅に埃をかぶった計器の群れが息を潜めていた。用途もわからない機械。垂れ下がったコード。ひび割れた計器の硝子。どれもとうに死んでいて、二度と動くことはないんだろう。時間そのものがこの部屋の底で腐って止まっているみたいだった。
そう、例えて言うならば。
生きるものの居場所じゃないんだ、ここは。
「……」
右手の拳銃の重みを、あらためて手のひらに感じた。
思っていたよりずっと重い。金属の冷たさが汗ばんだ指の熱をゆっくりと吸っていく。握り直すと、微かな軋みが手の中で鳴った。銃口はまっすぐ前を向いている。ぶれないように、俺は両手でそれを支えていた。
その先に、“あいつ”が横たわっている。
簡素な寝台の上。薄い毛布の下から痩せ細った輪郭が浮き上がっている。かつてのあの自信に満ちた立ち姿を思えば、別人としか思えなかった。頬はこけ、髪は乱れ、開いているのかもわからないほど落ち窪んだ目。虚ろに天井を見上げたまま、指一本動かさない。
鷹野三四。
……さっきまでこいつは廃人に等しかった。魂の抜けた、ただの脱け殻。それがどういうわけか、今は違う。眼の奥に確かな光が戻ってきている。何かを見て、何かを考える人間の光が。
どうして、とは思わない。今は。
どこか遠くで水の滴る音がした。一定の間隔で、ぽつ、ぽつと。それ以外に音はない。自分の心臓の音がやけに大きく耳の奥で鳴っていた。
鷹野の、乾いた唇がかすかに動いた。薄く開いた眼が、俺を捉えた。
落ち窪んだ眼窩の奥で、濁った瞳がゆっくりと動いて俺の顔を探り当てる。そうして唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。笑ったのか。この期に及んで、こいつは。
指が引き金にかかる。
あと少し。あとほんの少し力を込めれば、それで終わる。終わらせられる。頭ではわかっている。わかっているのに、俺の指はそこで凍りついたように動かなくなった。
殺人だ。
どこまでいっても、これは殺人だ。人が人を殺す。それ以上でも以下でもない。そして俺は、その禁忌に一度手を染めている。手のひらの奥に今も焼きついて消えない感触がある。思い出すたび胃の底が冷える、あの重さが。忘れられるはずもない。
また、繰り返すのか。
ここで引き金を引けば、俺はまたあっち側へ落ちる。人殺し。殺人鬼。あの日から何一つ変わっちゃいない、血に汚れた手のままの俺に戻る。
──こんな手で。
詩音の顔が浮かんだ。
あいつだけは、守りたい。この世界で他の何を失っても、あいつだけは。俺の隣で笑っているあいつを見ていられるなら、それだけで俺は生きていける。あいつの側にいることが、俺が息をしている理由みたいなものだった。世界一大切で、代えのきかない、たった一人。
だからこそ、だ。
こんな血みどろの手で、本当にあいつを守れるのか。人を殺めた手で頭を撫でて、あいつは笑ってくれるのか。俺は、俺のままで、あいつの隣に立ち続けられるのか──。
わからない。指が、震える。
だが。
視線が鷹野へ戻った。その瞬間、腹の底から別の熱がせり上がってきた。
この女だ。
この女が、全部殺した。レナも、魅音も、沙都子も、梨花ちゃんも。どんな時も守ってくれた親父も、いつも心配ばかりしていた母さんも。雛見沢の、あの村の皆を。一人残らず。
なんのために。
くだらない理由でだ。反吐が出るほど自分勝手で、あまりにちっぽけな理由で、こいつは村を丸ごと消し去った。あの夏の日を、俺たちの居場所を、まるごと。
そんな女に、俺は今、慈悲をくれてやろうとしているのか。
皆の無念を晴らしもせず、ここでしっぽを巻いて帰るのか。俺から家族を、仲間を、居場所を奪って。詩音から、あいつの半身だった魅音を奪って。それでのうのうと生きているこの女を、このまま。
冗談じゃない。
殺意と、迷いが、俺の中で何度も入れ替わる。引けと囃す声と、引くなと縋る声。どちらも俺の声だ。手の中の銃が、汗で滑る。
その拮抗を、掠れた声が断ち切った。
「……殺しなさい、前原くん」
鷹野だった。血を吐くような、それでいてどこか安堵にも似た響きで、こいつははっきりとそう言った。俺を見上げ、乾いた眼で、殺せと乞うている。
……ああ。
指に、力がこもっていく。じわり、じわりと引き金が沈んでいくのが、他人の指みたいに遠く感じられた。
どうして。
どうして、こんなことになったんだろうな。
俺は──。
乾いた炸裂音が、地下の一室を白く塗り潰した。
最終章です。第一話は短めに。
独自設定のオンパレードになってしまいますが、最後まで何卒お付き合いいただけますと幸いです!