ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

69 / 69
最終章
引き金


 

 

 

 饐えた埃の味だ。喉の奥で、張りついて離れない。

 

 地下だからか。何度息を吸い込んでも、肺の底へ届く前に、冷えて澱んだ何かに濾し取られていく気がした。消毒液の名残と、錆と、甘ったるい腐敗の匂い。それが一つに混ざり合って鼻の奥にこびりついている。

 

 頭上の蛍光灯が一本、切れかけていた。

 じ、じ、と焦げるような音を立てて白い光が明滅する。明滅するたびに、俺の影が壁のコンクリートの上で伸びては縮んだ。染みだらけの壁だ。水が伝った跡が幾筋も黒く垂れて、ところどころ塗装が剥がれ落ちている。

 

 部屋の隅に埃をかぶった計器の群れが息を潜めていた。用途もわからない機械。垂れ下がったコード。ひび割れた計器の硝子。どれもとうに死んでいて、二度と動くことはないんだろう。時間そのものがこの部屋の底で腐って止まっているみたいだった。

 

 そう、例えて言うならば。

 生きるものの居場所じゃないんだ、ここは。

 

「……」

 

 右手の拳銃の重みを、あらためて手のひらに感じた。

 思っていたよりずっと重い。金属の冷たさが汗ばんだ指の熱をゆっくりと吸っていく。握り直すと、微かな軋みが手の中で鳴った。銃口はまっすぐ前を向いている。ぶれないように、俺は両手でそれを支えていた。

 

 その先に、“あいつ”が横たわっている。

 

 簡素な寝台の上。薄い毛布の下から痩せ細った輪郭が浮き上がっている。かつてのあの自信に満ちた立ち姿を思えば、別人としか思えなかった。頬はこけ、髪は乱れ、開いているのかもわからないほど落ち窪んだ目。虚ろに天井を見上げたまま、指一本動かさない。

 

 

 鷹野三四。

 

 

 ……さっきまでこいつは廃人に等しかった。魂の抜けた、ただの脱け殻。それがどういうわけか、今は違う。眼の奥に確かな光が戻ってきている。何かを見て、何かを考える人間の光が。

 

 どうして、とは思わない。今は。

 

 どこか遠くで水の滴る音がした。一定の間隔で、ぽつ、ぽつと。それ以外に音はない。自分の心臓の音がやけに大きく耳の奥で鳴っていた。

 

 鷹野の、乾いた唇がかすかに動いた。薄く開いた眼が、俺を捉えた。

 

 落ち窪んだ眼窩の奥で、濁った瞳がゆっくりと動いて俺の顔を探り当てる。そうして唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。笑ったのか。この期に及んで、こいつは。

 

 指が引き金にかかる。

 

 あと少し。あとほんの少し力を込めれば、それで終わる。終わらせられる。頭ではわかっている。わかっているのに、俺の指はそこで凍りついたように動かなくなった。

 

 殺人だ。

 

 どこまでいっても、これは殺人だ。人が人を殺す。それ以上でも以下でもない。そして俺は、その禁忌に一度手を染めている。手のひらの奥に今も焼きついて消えない感触がある。思い出すたび胃の底が冷える、あの重さが。忘れられるはずもない。

 

 また、繰り返すのか。

 

 ここで引き金を引けば、俺はまたあっち側へ落ちる。人殺し。殺人鬼。あの日から何一つ変わっちゃいない、血に汚れた手のままの俺に戻る。

 

 ──こんな手で。

 

 詩音の顔が浮かんだ。

 

 あいつだけは、守りたい。この世界で他の何を失っても、あいつだけは。俺の隣で笑っているあいつを見ていられるなら、それだけで俺は生きていける。あいつの側にいることが、俺が息をしている理由みたいなものだった。世界一大切で、代えのきかない、たった一人。

 

 だからこそ、だ。

 

 こんな血みどろの手で、本当にあいつを守れるのか。人を殺めた手で頭を撫でて、あいつは笑ってくれるのか。俺は、俺のままで、あいつの隣に立ち続けられるのか──。

 

 わからない。指が、震える。

 

 だが。

 

 視線が鷹野へ戻った。その瞬間、腹の底から別の熱がせり上がってきた。

 

 この女だ。

 この女が、全部殺した。レナも、魅音も、沙都子も、梨花ちゃんも。どんな時も守ってくれた親父も、いつも心配ばかりしていた母さんも。雛見沢の、あの村の皆を。一人残らず。

 

 なんのために。

 くだらない理由でだ。反吐が出るほど自分勝手で、あまりにちっぽけな理由で、こいつは村を丸ごと消し去った。あの夏の日を、俺たちの居場所を、まるごと。

 

 そんな女に、俺は今、慈悲をくれてやろうとしているのか。

 

 皆の無念を晴らしもせず、ここでしっぽを巻いて帰るのか。俺から家族を、仲間を、居場所を奪って。詩音から、あいつの半身だった魅音を奪って。それでのうのうと生きているこの女を、このまま。

 

 冗談じゃない。

 殺意と、迷いが、俺の中で何度も入れ替わる。引けと囃す声と、引くなと縋る声。どちらも俺の声だ。手の中の銃が、汗で滑る。

 

 その拮抗を、掠れた声が断ち切った。

 

「……殺しなさい、前原くん」

 

 鷹野だった。血を吐くような、それでいてどこか安堵にも似た響きで、こいつははっきりとそう言った。俺を見上げ、乾いた眼で、殺せと乞うている。

 

 ……ああ。

 

 指に、力がこもっていく。じわり、じわりと引き金が沈んでいくのが、他人の指みたいに遠く感じられた。

 

 どうして。

 どうして、こんなことになったんだろうな。

 

 俺は──。

 

 乾いた炸裂音が、地下の一室を白く塗り潰した。

 

 






最終章です。第一話は短めに。
独自設定のオンパレードになってしまいますが、最後まで何卒お付き合いいただけますと幸いです!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ひぐらしのなく頃に~神楽舞(作者:晃晃)(原作:ひぐらしのなく頃に)

目覚める世界は昭和57年。しかしそこは、羽入が神ではなく「姉」として存在する世界だった。この世界で殺されるのは自分ではなく羽入。▼ならば――絶対に死なせない。▼羽入と仲間たちを救うため、梨花は一年前から運命に挑む。▼(本作品は2000年代に公開されていた『ひぐらしのなく頃に』二次創作作品です。▼現在は公開元サイトが閉鎖されており、保存していたテキストをもとに…


総合評価:429/評価:9.08/連載:107話/更新日時:2026年08月07日(金) 17:23 小説情報

雛見沢とかいう田舎に転生した(作者:that's the plan)(原作:ひぐらしのなく頃に)

人並みの人生を歩んできた男は、寒い冬の日に川で溺れる少年を助けて死んだ。もしももう一度チャンスがあるなら、もっと一生懸命生きる人生がいい。そんなことを考えながら死んだ彼が生まれ変わった先は、田舎の村だった。▼生まれ変わった、そのアドバンテージを少しも活かせないとしても、彼は全力で生きる。目指すはロックスター……とは、いかない。▼温かく見守ってください。初投稿…


総合評価:16874/評価:9.08/完結:116話/更新日時:2026年03月15日(日) 12:32 小説情報

​『逆襲のシャア』の総帥に憑依した元商社マン、アクシズを落とさず地球圏を支配する 〜静かに暮らしたいだけなのに、アナハイムと狂信者に神輿を担がれて逃げられない件〜(作者:なやむ)(原作:ガンダム)

「お願いだから、もうこれ以上俺(キャスバル)を神輿として担がないでくれ……!」▼目が覚めると、そこは宇宙世紀0090年代▼よりにもよって、グリプス戦役末期、ハマーン・カーンと一騎討ちに臨み、その後消息不明になっていた世紀のカリスマ、シャア・アズナブルーキャスバル・レム・ダイクンに憑依していた▼本物のシャアはすでに成仏してどこにもいない。残されたのは、ただ「早…


総合評価:12362/評価:8.79/完結:9話/更新日時:2026年07月28日(火) 18:00 小説情報

モテたい小路(作者:エゴエロエゾロン)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

 モテて勝ち組になるために、綾小路が頑張るお話。勝つためにしていることなので、綾小路は最初から機械っぽい。機械小路ならこのくらいできるよねって感じで、コミュ力高めになってます。(これを書き始めたのは3年生編4巻時点です)


総合評価:3063/評価:8.61/連載:30話/更新日時:2026年07月09日(木) 21:05 小説情報

ストーカーしていたと思ったらストーカーされていたのは俺だった話(作者:アロアロス)(オリジナル現代/恋愛)

 銀髪狐耳タートルネックにダッフルコート、おまけに眼鏡をかけている。▼ 尻尾は四本、身長183cm、人気インディーズバンドの一員、担当はベース。▼ 名前を宮舞天音と呼ぶ。▼ 眼が眩むほどに輝く星に、それでも必死に手を伸ばしていたのに、その恒星が向こうから近づいてきたら焼き尽くされるのは道理と呼ぶ。▼推しをストーカーしてたら推しの方から近づいてきたので、それは…


総合評価:12944/評価:9.25/短編:2話/更新日時:2026年07月24日(金) 18:13 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>