尻もちをついた背中に、冷たい壁がぶつかった。
それ以上、下がれない。逃げ場はもうどこにもなかった。俺は壁に張りついたまま、目の前の光景から目を逸らすことができずにいる。
血だ。
床一面に、どす黒い赤が広がっていた。まだ乾いてもいない、濡れた光を鈍く照り返す血の海。その中に、幾つもの人影が倒れている。真田さんが、うつ伏せに沈んでいた。その向こうにも、見知った顔が幾つも。みんな女子だ。誰一人、指の先ほども動かない。
嘘だ。
声にならなかった。喉が干上がって、空気だけが漏れる。
その血溜まりの真ん中に、あいつが立っていた。
詩音。
俺の……最愛の人。
そんな彼女の、白いはずのブラウスが、胸元から袖口まで真っ赤に染まっている。頬にも、額にも、返り血が飛び散っていた。垂れた前髪の先から、赤い雫がぽたりと床に落ちる。右手には、柄までべっとりと濡れた包丁。それをだらりと提げたまま、詩音は俺を見下ろして笑っていた。
うっとりと。恍惚と。
「……なんで」
やっとのことで、それだけを絞り出した。震える唇で。
「なんで、こんなこと……っ」
詩音が、笑った。
「あははははははッ」
天井へ突き抜けるみたいに、高らかに。血に濡れた喉を反らして、心底おかしそうに。その笑い声が壁に反響して、部屋じゅうを埋め尽くした。
ひとしきり笑って。それから詩音は、ゆっくりと俺に視線を戻した。
「圭ちゃんが悪いんですよ?」
甘い声だった。とろけるほど甘くて、だからこそ底が知れない。
「圭ちゃんが他の女に優しくするから。他の女に色目をつかうから……だから私が、後始末してあげなきゃいけなくなるんです」
血に濡れた頬を、詩音はぽっと桜色に染めた。うっとりと俺を見つめて。恋する乙女みたいな眼で、足元に転がる屍を踏み越えながら。
「ふふ、圭ちゃんには私がいるんですから。私だけを見てれば良いんです。私だけに触れて、私だけを撫でてくれれば……それでいい」
声が出ない。
喉も、手足も、俺のものじゃないみたいに固まって動かなかった。逃げなきゃいけないのに。立ち上がることすら、できない。
詩音が、一歩、にじり寄る。
「あ、そうだ圭ちゃん」
ぱちん、と、手を打つみたいに明るい声。まるでいい思いつきでも浮かんだみたいに。
「私しか見られないように、目をいっかいくり出してあげますね」
ひゅっ、と喉が鳴った。俺の喉が。
「いっそ、指も全部切り落として、私だけが撫でてもらえるように髪飾りにしてみましょうか。耳もそいじゃいましょう、私の声が最後の音になるように」
包丁が、持ち上がる。
濡れた刃が、頼りない光を照り返して、ぎらりと閃いた。振り上げられたそれが、俺の頭上で止まる。詩音の恍惚の笑みだけが、視界いっぱいに広がって。
俺は、悲鳴に似た声を上げるしかなかった──
「はい、カット──ッ!!」
部屋の隅から、よく通る声が飛んだ。その一声で、世界が瞬く間に元に戻る。
パッと蛍光灯の光が普段の明るさを取り戻し──いや、明るさは最初から同じだったんだろう。ただ俺の目に、ようやく色々なものが見え始めたってだけだ。三脚に据えられたビデオカメラ。銀色のレフ板。床に這うコードと、隅に寄せられた掃除用具。見慣れた生徒会室の、なんてことのない風景。
ついさっきまで屍が転がっていたはずの血の海が、ただの赤い絵の具をぶちまけたブルーシートに変わっていた。
……そう。これは撮影だ。
分かってた。最初っからずっと、これは撮影だって分かってたはずなんだ、俺は。だってのに……
「んー、やっと終わったぁ」
床にうつ伏せていた真田さんが、のんびりと身を起こした。絵の具まみれの手を、ふうと眺めている。倒れていた他の女子たちも次々に起き上がって、口々にお疲れさまと言い合った。ついさっきまで俺の心臓を握り潰していた地獄絵図は、跡形もなく消えて。
俺だけが、まだ壁に張りついて尻もちをついたままだった。背中に嫌な汗がびっしょり浮いている。
我ながら情けない。撮影ってわかってるのに、なんでここまで本気で怖がってんだ、いやでも怖ぇよ、あれ……演技だってこと途中から忘れかけるくらい心底恐怖を感じたんだ。
「園崎先輩!最高でした!」
カメラの後ろから飛び出してきたのは、一年下の後輩──映画研究同好会の会長だ。目をらんらんと輝かせて、詩音の前で拳を握りしめている。
「あの狂気の演技、鳥肌モノですよ!特に最後の、あのうっとりした笑顔……!ゾクッときました。園崎先輩、本気で女優目指すべきです。カンヌだって夢じゃないですって!」
「あら、そんなに褒められると、お世辞でも照れちゃいますねぇ」
ゴム製の小道具の包丁を指先でくるりと回して、詩音は満更でもなさそうに頬をゆるめた。上機嫌で、鼻歌でも歌い出しそうな顔をしてやがる。
いや、喜ぶところなのかこれは。
あんな怪演を絶賛されて素直に喜べる神経の方を、俺は疑うべきじゃないのか。褒められてる気がしねぇんだが。気のせいか?
「お世辞なもんですか!特にラスト、あのセリフは先輩のアドリブじゃあないですか!台本では笑って近づくだけなのに、あれほどの狂気的なセリフをすらすらと……!!」
会長はなおも興奮冷めやらぬ様子で目を輝かせている。詩音はふふっと笑って、こともなげに言い放った。
「くすくす。別になんて事はありません。圭ちゃんが浮気したらって考えて、思ったことをそのまま口にしただけですから」
「は?」
え、何言ってんのこの人。
「圭ちゃんが他の女の子に色目を使ったらどうしようって想像したら、自然とあのセリフが出てきたんです。そんな大層なものじゃありませんよ」
「大層だよッ!!本気で殺されるかと思ったわ!!」
「もー、大袈裟ですねー」
じゃあ何か?あれ演技じゃないの?素なの?
うっとりと小首を傾げる詩音を前に、俺は本日二度目の戦慄を覚えた。
「いや……浮気なんてしねぇけどな、俺は。絶対に。ていうか、あれか。仮にも万が一そういう事態になったら、俺、問答無用で目ん玉くり出されて、指は切断されて髪飾りにされんの?弁明の余地とかは?」
「ふふっ、圭ちゃんが私だけを見ててくれれば、そんなこと起きませんよ?」
浮気なんめするわけがない。するわけがないのだが、勘違いされるような行いすら、俺は徹底して気をつけようと心に誓った。生き残りたい、生き残りたい、まだ生きてたくなる。
「詩音ちゃん、すごい迫力だったねぇ」
絵の具を布で拭きながら、真田さんがおっとりと詩音のそばへ寄ってきた。くすくすと、口元に手を当てて笑っている。
「最後のじわーって迫ってくるとこ、私、ちょっと本気で背筋が寒くなっちゃった。本物の殺人鬼さんみたいで、格好よかったよ」
「あかりさんの断末魔も、真に迫ってましたよぅ。」
「ふふ、あれね。渾身の一声だったの」
女子たちが詩音を囲んで、わいわいと盛り上がる。血糊まみれの手を見せ合っては、誰の返り血がいちばんリアルだのと、絵の具の付き具合でひとしきり騒いでいる。実に和やかだ。楽しそうで何よりだよ。
その輪の中心で嬉しそうに笑う詩音を眺めながら──俺だけがひとり、じっとりと背中の汗を持て余していた。
なあ。この和気あいあいとした空間で、本気で命の危険を感じてたの、俺だけなのか?
「岡崎くんも、お疲れさま」
真田さんが、こっちを振り返っておっとり微笑む。
「岡崎くんの怯えっぷり、とっても真に迫ってたよ。あんまり真剣だったから、途中でちょっと心配になっちゃったくらい」
「……いや、真田さん。あれ、演技じゃなくてほぼ素だ。本当に死ぬかと思った」
「でも、そんな詩音ちゃんが好きで好きで堪らないって、顔に書いてあるよ?ふふ……」
「……いや」
まぁ、それだけ愛してくれているというのは嬉しい事なのだろう。しかし、ああいう展開は流石に勘弁願いたい。
さて、なんだって俺たちがこんなドロドロの凄惨劇を撮影してるのかといえば。
この映画研究同好会──通称、映研の会長が、活動として一本、本格的な短編映画を撮りたいと言い出したのが始まりだった。しかもジャンルは、恋愛サイコホラー。愛が高じて狂気に転じる、ドロドロの一本を撮りたいんだと。その主演にどうしても園崎先輩を、と頭を下げてきたわけだ。
まあ、詩音の見た目と押し出しなら、被写体として申し分ないのはわかる。あの妖艶さと、いざとなったときの得体の知れなさ。適役といえば、これ以上ないくらいの適役だろう。
問題は、その相手役に俺が引っ張り出されたってことだ。当初は会員の男子生徒が予定だったのだが、会長曰く「この役は、本当の恋人である先輩がやる方がきっと良いものが撮れると思うんです!」という謎の熱弁により押し倒されてしまった。
いや、寧ろ本物の恋人がやってはダメな役じゃね?死んじゃいませんかね。という俺の反論などつゆも届かず、詩音や真田さんたちの面白そうという理由でゴリ押しされてしまった。
作品の筋書きはこうだ。詩音演じる主人公が、一人の男に狂おしいほど恋をする。だがその愛は募りすぎて、やがてみるみると歪んでいく。知人や友人に対して、「自分との中を割こうとしているのでは?」と疑心暗鬼を抱き始め、それが拗れに拗れ、やがて連続殺人へと発展していく。
こうして男に近づく者を、一人、また一人と手にかけていき、最後には愛する男すら手元に囲い込もうとする──そういう筋の話。恋に囚われて、暴走して、壊れていく女の物語。
……どっかで聞いたような筋だな。
妙に真に迫ってるのは、たぶん気のせいってことにしておく。深く考えると負けな気がする。
「じゃあ、編集できたらすぐ試写会やりますんで! 園崎先輩、岡崎先輩、ぜひ来てくださいね!」
機材をかついだ会長が、目を輝かせたまま生徒会室を出ていく。よほど手応えがあったんだろう。あの調子だと、完成した暁には全校生徒の前で上映しかねない勢いだ。勘弁してくれよ、俺のあの無様な尻もちが銀幕デビューとか。
「お疲れさまー。詩音ちゃん、岡崎くん、また明日ね」
最後に残っていた真田さんも、おっとり手を振って帰っていった。ぱたんとドアが閉まる。
途端に、部屋がしんと静かになった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。西日の差し込む生徒会室に、俺と詩音の二人きり。窓の外じゃ、湿っぽい風が木の葉を揺らしている。六月ももう目の前で、じきに梅雨入りってやつだろう。空気がぬるく重たい。
「圭ちゃん」
絵の具まみれのブルーシートをたたんでいた詩音が、こっちを振り返った。
「頬っぺた、まだ赤いの残ってません?」
見れば、確かに。落としきれなかった血糊が、詩音の右頬にひとすじ乾いてこびりついている。俺は近くにあったウェットティッシュを一枚引き抜いて、その頬にそっと当てた。
「ほら、じっとしてろ」
ぬぐってやると、詩音は少しくすぐったそうに目を細めた。近い。西日に照らされたまつ毛の一本一本まで見えるくらいの距離で、こいつは俺を見上げてくる。心臓に悪い。いつまで経っても慣れやしない。
「ふふ。甲斐甲斐しいですねぇ、圭ちゃんは」
「うるせぇ。誰かさんが返り血まみれで暴れるからだろ」
「あら。さっきはあんなに怯えてたのに、今はずいぶん余裕じゃないですか」
からかうような上目遣い。ついさっき俺の心臓を止めかけた狂気の女優が、今はすっかりいつもの詩音に戻って、悪戯っぽく笑っている。というか、こっちが本物なんだよな。くっ……悔しいが、可愛い。
「さっきのは反則だっての。素であんなセリフが出てくる方がおかしいんだ」
「もー、まだ言ってるんですか。心配しなくても、圭ちゃんが浮気さえしなければ、あの包丁は火を噴きませんから」
「火を噴いてたまるか、ありゃゴム製だろ」
ふふ、と喉を鳴らして詩音が笑う。俺の手からティッシュを取り上げて、今度は自分で頬をぬぐいながら、こいつは何気ない調子で言った。
「そういえば圭ちゃん。この前の模試、校内だと一位でしたよね」
「……まあ、たまたまな」
「たまたまで学年一位が取れたら、世の中の受験生は苦労しませんよぅ」
じとっと横目で睨まれる。褒められてるのか呆れられてるのか、微妙な線だ。
二人とも高校三年になって、いよいよ受験ってやつが現実味を帯びてきた。俺は昔からそこそこ勉強はできたが……二人の日々、いや二人の将来を守りたいって気持ちが、机に向かう理由をずいぶん硬くしてくれた気がする。やっぱり良い大学に行く方が、将来的には安泰になりやすい事は間違いないからな。
「詩音だって、20位以内だろ。」
「けど、圭ちゃんとは結構差がありますからねー」
詩音は一年の二学期、中間考査からずっと上位をキープしている。昨年あった跡目争いのゴタゴタの中でも、成績を落とさなかったんだから大したものだ。もともと地頭がいいんだ。やる気さえ乗りゃ、伸びるのは早かった。
「圭ちゃんの志望、まだ変わってませんよね?」
「ああ。名古屋か、京都の国立。……お前も、そこ目指すんだろ」
「もちろんです。圭ちゃんと同じところ以外、考えてませんよ」
当たり前でしょう、とばかりに詩音が唇を尖らせる。だがその横顔に、ほんの一瞬、影みたいなものがよぎった。
「……でも、まだちょっと不安なんですよねぇ。もし私だけ落ちて、圭ちゃんと離れ離れになったら、なんて」
その一言に、俺はつい口を滑らせかけた。だったら、いっそ二人とも確実なところに──と。
言い終わる前に、詩音の目がすっと細くなった。
「圭ちゃん。また志望校のレベル下げるとか、言い出さないでくださいよ?」
……ばれてたか。
「前もその話でずいぶん揉めたじゃないですか。圭ちゃんの成績なら、上を狙えるのに。私に合わせて下げるなんて、絶対に許しませんからね」
「……いや、でもな。お前が不安だってんなら」
「不安なのと、圭ちゃんに妥協してほしいのは、別の話です」
きっぱりと言い切って、詩音は俺の鼻先に人差し指を突きつけた。
「私が追いつくので。圭ちゃんは一歩も引かないで、そのまま突っ走っててください。それが一番、私のやる気に火がつくんですから」
そう言われてしまっては、何も返せない。参ったな。おかげでこっちは、一位の座から降りるわけにいかなくなっちまった。あいつが追いついてくるその場所を、下げてやるわけにはいかねぇんだ。
それに──と、これは口には出さないが。
万が一にも詩音が別の大学なんてことになったら、俺の気が休まらない。あんな見た目で、あんな性格で、放っておいたら周りの男が寄ってこないわけがないんだ。想像しただけで、腹の底がむずむずしてくる。誰にも渡したくない。俺以外の誰の隣にも、立たせたくない。
あー、いかんいかん。また出てる。
この独占欲みたいなものが、最近どうにも抑えがきかない。前はもっと、恩人だなんだと自分に言い訳できたのに。今はもう、そういう体裁もぜんぶ剥がれ落ちて、ただこいつが好きで、こいつを独り占めしたくてたまらない、っていう剥き出しの気持ちだけが残っている。ったく、困ったもんだ。
「圭ちゃん? なんだか怖い顔してますよ」
「……別に。将来のこと考えてただけだ」
「へえ。私との、将来ですか?」
「──っ」
こいつはこういうとき、絶妙に鋭い。にんまりと目を細めて、俺の心の柔らかいところを的確に突いてくる。
将来。ああ、そうだよ。俺の頭の中の将来には、当たり前みたいにお前がいる。同じ大学に受かって。一緒に卒業して。社会に出て、それで──。
それで、俺が一人前になったら。一生一緒に──
そのときは、ちゃんと言うつもりだ。本当は今すぐにでも口から出そうになるのを、毎日必死で飲み込んでいる。まだ早い。学生の分際で、守ってやれる甲斐性もないくせに。だからそれまでは、この気持ちは腹の底にしまっておく。
「なに黙ってるんですか。気になるじゃないですか」
「……なんでもねぇよ。ほら、片付け終わったなら帰るぞ」
「もー、はぐらかして。ずるいですよ、圭ちゃんは」
唇を尖らせながらも、詩音は鞄を肩にかけて俺の隣に並んだ。西日が二人分の影を、床に長く伸ばしている。
窓の外で、湿った風がまた木々を揺らした。じきに梅雨が来て、それが明ければ本格的に夏だ。受験の夏。忙しくて、きっとあっという間に過ぎていくんだろう。
それでも。この隣にこいつがいてくれるなら、どんな季節だって悪くない。
俺は、そんなことを思いながら生徒会室の鍵を閉めた。
たまに詩音に高笑いさせないと気が済まなくなる病に苛まれてます。嘘です。