雨の音で、朝が来たのがわかった。
六月の雨は、しとしとと控えめに屋根を叩く。窓の外は乳白色に煙っていて、庭の紫陽花が重たそうに首を垂れているのが、曇りガラス越しにぼんやり滲んでいた。
俺は台所に立って、味噌汁の鍋を火にかけている。出汁の匂いが湯気に乗って、狭い台所にゆっくり満ちていく。隣では詩音が、フライパンで卵を焼いていた。じゅう、と油の跳ねる音。菜箸を器用に動かす横顔は、まだ少し眠たげで、それがやけに色っぽい。
……こういう朝を、俺は昔、想像もできなかった。
全部を失って、何もかも終わったと思っていた。でも今はこうして、好きな女の子と一つ屋根の下で、二人ぶんの朝飯を作っている。当たり前みたいな顔をして、味噌汁なんか温めている。奇跡みたいな話だ。奇跡って言葉すら、安っぽく感じるくらいの。
この当たり前を、俺は何があっても手放したくない。
「圭ちゃん、お味噌汁、そろそろじゃないですか?」
「わかってる。今おたま取るから、ちょっとどいてくれ」
「えー。私がどくより、圭ちゃんがこう、後ろから手を伸ばせばいいじゃないですか」
言うが早いか、詩音は卵から手を離さないまま、ちょんと身体をこっちへ寄せてきた。狭い台所だ。ただでさえ距離が近いのに、そんなことをされたら、もう肩も腰もぴったりくっついてしまう。
「……おい」
「ふふ、なんですか?」
振り向いた詩音の顔が、すぐそこにある。上目遣いで、悪戯っぽく口の端を持ち上げて。こいつは自分の武器を、完璧に理解した上で使ってきやがる。
「なんでもねぇよ。ほら、卵焦げるぞ」
「あら、ほんとだ。……もー、圭ちゃんが変な気を起こさせるからですよ」
「起こしてねぇ、勝手に人のせいにするな!」
くすくす笑いながら、詩音は卵を皿に移す。まったく、この余裕。ちょっと前はもっと、感情剥き出しにして俺にぶつかってきたのに。今はこうして、手のひらの上で俺を転がして楽しんでいる。いや、寧ろ以前に戻ったのか、それこそ雛見沢にいた頃に戻ったみたいで……まぁ悔しいが、それすらも可愛いと思ってしまうんだから、俺も相当重症だ。
「でも圭ちゃん」
皿を置いた詩音が、ふいに声のトーンを落とした。俺の腕に、そっと自分の指を絡めながら。
「ゆうべは、変な気を起こすどころじゃありませんでしたよね?」
──ぶっ。
「……っ、お、お前な」
「あんなに余裕なくなっちゃって。可愛かったですよ、圭ちゃん」
とどめとばかりに、耳元でそう囁かれる。かあっと顔が熱くなるのが、自分でもわかった。朝から蒸し返すなよ。
昨夜は、遅くまで勉強するはずだったんだ。
居間の座卓に参考書を広げて、俺は英語の長文と睨めっこしていた。梅雨の湿気で紙が湿っぽくて、シャーペンの滑りも悪い。集中しろ、と自分に言い聞かせながら、それでも俺の意識は、風呂場から聞こえる水音に、さっきから半分持っていかれていた。
やがて、詩音が上がってきた。
風呂上がりの、火照った肌。薄手のキャミソール一枚。乾かしたばかりの艶やかな髪から、石鹸だか何だかの甘い匂いを振りまいて、こいつは当たり前みたいに俺の隣に腰を下ろした。まだ湯気の残る肩が、俺の二の腕に触れる。
「圭ちゃん、勉強はかどってます?」
「……お前がそんな格好で来なけりゃ、はかどってた」
「あら。そんな格好って、どんな格好です?」
わざとらしく小首を傾げて、詩音は俺の顔を覗き込んでくる。乾かし残しか、毛先がか白い頬に一筋張りついていた。そこから雫が、つう、と首筋を伝って、鎖骨の窪みへ落ちていく。俺の目は、間抜けにもその軌跡を追ってしまう。
……見るな。見るなよ、俺。
理性が必死でブレーキを踏んでいた。今は受験生だ。欲望に簡単に呑まれるようではいかん。誘惑を断ち切る強さが強さが求められてるんだ。頭の中で優等生な自分が、正論を並べ立てる。
だが。
「圭ちゃん」
詩音が、俺のシャツの裾を、きゅ、と摘んだ。
顔を上げたら、いつものからかいの色が、その瞳から消えていた。代わりにあったのは、もっと素の、俺だけに向けられる、無防備な熱。──ずるいだろ、それは。あんな顔をされたら。
ぷつん、と。頭の中で、何かの糸が切れる音がした。相変わらず弱ぇな、俺の理性の糸は。
でも仕方ないだろ?だって今俺の中に残ってるのは、目の前のこいつが好きで好きでたまらないっていう、剥き出しの衝動だけ。誰にも渡したくない。俺だけのものにしたい。今すぐに。
俺はシャーペンを放り出した。
「あっ、こら、圭ちゃん、参考書がぐしゃぐしゃに……ん、あっ。もう、せめて電気くらい消して──」
バチン、と。
俺は無言で、部屋の明かりを叩き落とした。
あとはもう、言葉なんか要らなかった。雨の音も、湿気も、受験のことも、何もかもが遠くなって。ただ腕の中の詩音の体温と、俺の名前を呼ぶ掠れた声だけが、世界の全部になっていた。
いつもは減らず口の絶えないこいつが、余裕をなくして、俺にしがみついてくる。その事実に、頭が焼き切れそうなくらいの多幸感と、独占欲が満たされる感覚があった。
こいつのこんな顔を知ってるのは、この世で俺だけだ。
そう思うと、どうしようもなく愛おしくて。俺は何度も、腕の中の温もりを抱きしめ直した。
「……圭ちゃん。おーい、圭ちゃん?」
目の前で手をひらひら振られて、俺は我に返った。気づけば、味噌汁のおたまを握ったまま、完全に固まっていたらしい。
「もしかして、ゆうべのこと思い出してました?」
「……っ、思い出してねぇ!」
「嘘。耳、真っ赤ですよ」
してやったり、という顔で詩音が笑う。くそ、こいつ。全部お見通しで蒸し返してきやがったな。据わりが悪くて、俺は味噌汁をよそう作業に逃げた。手元がわずかに震えてるのは、断じて気のせいってことにしておく。
「まったく……朝から人をからかいやがって」
「だって、圭ちゃんが可愛い反応するのが悪いんですよぅ」
頬を膨らませるふりをして、その実、詩音は心底楽しそうだった。艶っぽいのか、あどけないのか。こいつは一瞬でその両方を行き来する。
できあがった味噌汁と卵焼き、それに炊き立ての飯を並べて、俺たちは向かい合って食卓についた。いただきます、と手を合わせる。雨はまだ、しとしとと降り続いている。
放課後の教室は、まだ昼間の熱を残していた。
梅雨どきの湿った空気が窓から流れ込んで、机の上に広げたノートの端を、じっとりと湿らせていく。窓の外では雨が上がりかけていて、雲の切れ間から鈍い西日が差し込み始めていた。掃除当番のモップがけの音、遠くの吹奏楽部の音出し。そういう、なんてことのない放課後の音に、教室は満たされている。
俺は自分の席で、詩音や真田さん、それに何人かのクラスメートと、机を寄せ合って駄弁っていた。名目上は居残り勉強なんだが、実態は半分以上が雑談だ。まあ、たまにはこういう息抜きも要る。ずっと根を詰めてたら、頭がどうにかなっちまうしな。
「皆は卒業したらどうするの?」
シャーペンをくるくる回しながら、真田さんがおっとりと口火を切った。
「私、まだ全然決まってないんだ。東京の学校より、地元でのんびりするのもいいなって思ったり」
「真田さんは、そのままでも幸せそうだよな」
「それ褒めてる?」
クラスメートの一人が「俺は専門行こうか迷っててさー」と話に乗っかり、また別の一人が「えー、みんなバラバラになるの寂しいじゃん」と唇を尖らせる。進路の話ってのは、この時期になると挨拶みたいに交わされる。それぞれの未来が、少しずつ形を持ち始めている。
「岡崎くんと詩音ちゃんは、決まってるもんね」
真田さんが、いかにも意味ありげに、俺と詩音を見比べた。
「二人そろって、同じ大学、目指してるんでしょ?」
「うぐ」
変な声が出た。いや、隠してるわけじゃないんだが、こう真正面から言われると据わりが悪い。
「ま、圭ちゃんに合わせるのは至難の道ですけどねぇ。放し飼いにして、変な飼い主に捕まらないかが心配なので」
「俺はペットかよ」
詩音は詩音で、涼しい顔で受け流している。こういうとき、こいつは本当に強い。と、女子の一人が詩音の両手を包み込むようにして握りしめた。
「あーし、二人のこと応援してるから!絶対幸せになってね!」
「え、えーと、ありがとうございます?」
あまりの勢いに、さすがの詩音も気圧されている。だが。
「あーしと彼氏、そろそろ倦怠期っぽくてマジやばいんだよね。だからうまくいってる二人にあやかりたいの!二人が幸せでいてくれないと、あーしのカップルも道連れで沈む気がして……!」
どんなジンクスだ。
因みに、別に隠してたつもりもないが、俺たちが付き合っていることは、もうクラスでは周知らしい。真田さん曰く、「二人で一冊の赤本を、肩くっつけて覗き込んだらしてれば……流石にね」とのことだ。確かに、意識してなかったが、そのくらいは普通にしてしまっていた。
「いや、応援していただけるのはありがたいですけど……道連れってまた縁起でもない」
詩音が困ったように眉を下げてみせる。だがその口元は、まんざらでもなさそうに緩んでいた。人前でこうして冷やかされるのが、こいつは案外、嫌いじゃないらしい。
そうこうしているうちに、日が傾いてきた。一人、また一人と、クラスメートが鞄を背負って教室を出ていく。
「私もそろそろ行くね」
真田さんが立ち上がり、鞄を肩にかけた。それから、ふと思い出したみたいに振り返る。
「二人とも、あんまり遅くならないようにね?……ふふ、なんてね。野暮なこと言っちゃった」
最後にそんな、絶妙に含みのある一言を残して。真田さんはおっとり手を振り、教室を出ていった。相変わらず、あの人は。おっとりした顔で、いちばん鋭いところを突いてくる。
気づけば、教室に残っているのは俺と詩音の二人きりだった。
さっきまでの賑わいが嘘みたいに、しんと静まり返っている。雨はいつの間にか完全に上がって、窓の外には、洗ったような夕焼けが広がっていた。オレンジ色の光が、誰もいなくなった机や椅子を、長い影とともに照らしている。
「……なんか、静かだな」
「そうですねぇ」
詩音は頬杖をついて、窓の外の夕焼けをぼんやり眺めていた。その横顔を、茜色の光が縁取っている。まつ毛の影が、白い頬に淡く落ちて。息を呑むくらい、綺麗だった。
「ねえ、圭ちゃん」
夕陽を見つめたまま、詩音がぽつりと口を開いた。
「私たち、ちゃんと同じ大学に受かって。それで一緒に卒業して。……その後も、ずっと二人で暮らしていくんですよね」
問いかけっていうより、確かめるような、静かな声だった。
どきり、とした。
その先に続く言葉を、俺は勝手に想像してしまう。ずっと二人で。その「ずっと」の意味を。俺が心の底で、大事に大事に温めている、あの言葉を。
喉の奥まで、出かかった言葉。
なら、いっそ。大人になったら、俺と──
俺はそれを、ぐっと飲み込んだ。最近はこんな事ばっかりだな。
「……ああ。そうだな」
溢れそうになるものを全部胸に押し込めて、精一杯、平静を装って。
「当たり前だろ」
詩音が、こっちを向いた。夕陽の中で、その目が少し丸くなって。それから、ふわりと、花がほころぶみたいに笑った。
「ん、当たり前ですね」
その笑顔を見た瞬間、堪えたはずの言葉が、また喉元までせり上がってきた。もう、危ない。あんな顔をされたら、決意も何も、崩れちまいそうになる。
俺は慌てて視線を逸らして、鞄に教科書を突っ込む作業に逃げた。据わりが悪いったらない。頬が熱いのは、たぶん夕焼けのせいってことにしておく。
「で?今何を言いかけたんです?」
「何もねーよ、帰るぞ。腹減ってきたし」
「はぐらかすの、やっぱり下手ですねぇ、圭ちゃんは」
全部見透かした顔で、詩音がくすくす笑う。
二人で並んで、誰もいない廊下を歩いた。夕焼けが、窓から差し込んで、俺たちの影を長く長く伸ばしていた。
その夜のことだ。夕飯を終えて、俺と詩音が居間でそれぞれ参考書を広げていたとき。廊下の電話が、りりりん、と鳴った。夜の静寂に、やけに音が大きく響く。
「はいはい、俺が出るよ」
立ち上がって廊下へ出て、受話器を取る。
「もしもし……岡崎です」
「ああ、圭一くん。夜分にすみません」
耳に馴染んだ、落ち着いた声。葛西さんだ。相変わらず、余計な力の抜けた、それでいて芯のある話し方だ。
「珍しいっすね、葛西さん。どうかしましたか?」
「ええ、少し伝えておきたいことがありまして。……以前お話しした、赤坂さんの件なんですが」
赤坂さん。
その名前を聞いて、俺の意識が、すっと一年以上前へ引き戻された。
赤坂衛さん。警視庁公安部の、あの人だ。忘れるわけがない。梨花ちゃんの死の真相を、たった一人で追いかけていた。俺と詩音に手を貸してくれて、悟史の消えた足取りを、あの入江診療所まで、一緒に手繰り寄せてくれた人だ。
あの頃の記憶が、ざらりと胸の底で蘇る。大石さんのノート。監督のカルテ。息が詰まるような、あの調査の日々。……そういえば、この前の悟史の件でも、あの人は陰で力を貸してくれたって、葛西さんが言ってたっけな。
そういえば──それこそ一年近く前に、葛西さんから聞かされていた。近いうちに赤坂さんが興宮に来る、俺たちに話があるらしい、と。
……すっかり忘れてた。
あのときは悟史のことで頭がいっぱいで、その後も何だと慌ただしくて、いつの間にか記憶の隅っこに追いやっちまっていた。赤坂さんと直に顔を合わせたのは、あの鵜飼の一件が最後だ。あの後すぐ東京へ戻って、それきり音沙汰もなかったしな。
「すみません、すっかり頭から抜けてました」
「無理もありません。もう一年も前のことですから」
電話の向こうで、葛西さんがふっと小さく笑った気配がした。だが、次の言葉は、その笑いを畳んで、少しだけ声のトーンが低くなる。
「その赤坂さんが、来週、こちらへ来られます。今度こそ、圭一くんに直接、話がしたいと」
「俺に……ですか。赤坂さんが」
「ええ。日取りが決まりましたら、また改めて連絡します。……当日は、できれば時間を空けておいてください」
もしかして、梨花ちゃんの事件に大きな進展が……もしくは真相が明らかになった、とか?
「わかりました。……えっと、何の話か、葛西さんは聞いてます?」
少しの間があって。
「いえ。私も、詳しくは聞かされていません。ただ」
葛西さんは、そこで一度、言葉を切った。
「赤坂さんが、わざわざ東京から足を運んでまで伝えたいことです。……軽い話では、ないのでしょうね」
その一言が、なぜだか、胸の奥にちくりと引っかかった。
二言三言かわして、通話を終える。受話器を戻して居間へ戻ると、詩音がこっちを見ていた。
「赤坂さんって、聞こえましたけど」
もう、名前は届いていたらしい。だよな。あの人の名前を、こいつが忘れるはずもない。
「ああ。覚えてるよな、当然」
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
参考書に落としていた視線を上げて、詩音が小さく息をついた。その横顔から、さっきまでの柔らかさが、ほんの少しだけ引いている。
「……悟史くんの行方を、あそこまで手繰り寄せてくれたんですから」
あの調査のことは、俺たちにとって、ただの思い出じゃない。詩音にとっては、悟史の消息をたどる、いちばん苦しい道行きでもあった。あの人の名前は、否応なく、その全部を連れて戻ってくる。
「その赤坂さんが、近いうちにこっちに来るってさ。直接話があるらしい」
「……何の話でしょうね」
「わからん、葛西さんも聞いてないみたいだけど……」
悟史の件なら、もう片がついている。あいつは生きていて、今は施設で穏やかにやっている。詩音も、あいつとのことに、ちゃんと区切りをつけた。だとしたら、考えられる可能性は梨花ちゃんの真相が明らかになった、とか。
──赤坂さんのことだ。一年越しに、わざわざ東京から。それが、ただの近況報告や世間話でないことくらいは、なんとなく察しがつく。
「……梨花ちゃまの事件、犯人が分かった、とか」
「ん」
詩音も同じ事を考えてたらしい。
「まあ、会ってみりゃわかることだ」
俺は無理やり、そう結論づけた。あんまり考え込んでも仕方ない。
「そうですね。……あの人が来るなら、悪い話ばかりでもないでしょう」
詩音はそう言って、参考書に視線を戻した。けれど、その指先が、しばらくページをめくらなかったのを、俺は見ていた。
窓の外で、雨がまた降り出したらしい。しとしとと、屋根を叩く音がする。
どうも落ち着かない。どこかソワソワとする。小さな、しかしどこか確かな胸騒ぎとして、それは俺の胸にささくれ立たせている気がする……けれど俺は、あえて見えないフリをするのだった。