ひぐらしのなく頃に─後祭─   作:通行人A'

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鷹野三四

 

 雨が、降っていた。

 

 叩きつけるような、土砂降りだった。綿流しの夜だっていうのに、空はどす黒い雲に覆われて、提灯の灯りもとうに霞んでいる。俺は、その雨の中を、一人で歩いていた。

 

 全身が、泥だらけだった。手のひらには、まだ、あの感触が残っている。金属バットを振り下ろした、あの、鈍い重さ。北条鉄平を、この手で殺した。そして、山の中に埋めてきた。ぬかるんだ土を、シャベルで掘って掘って。

 

 頭が、うまく働かなかった。雨に打たれながら、俺はただ、ふらふらと、家路とも言えない道を自転車を押しながら歩いていた。何も考えたくなかった。考えたら、たぶん、立っていられなくなる。

 

 そのとき、背後から、車のヘッドライトが、俺を照らした。

 

 車か?

 慌てて横に避けようとして、しかしもつれた足の先で転んでしまった。水しぶきを上げて、一台の車が、すぐ横に停まる。窓が、するすると下りた。

 

「あらあら。誰かと思えば」

 

 その声に、俺は、のろのろと顔を上げた。

 

「た……鷹野さん?」

「こんばんわ。月の綺麗な夜ね」

 

 鷹野さんだった。入江診療所の、看護師さん。いつも、にこにこと優しげに笑う、あの人。運転席から、こちらを覗き込んでいる。見知った顔に、俺は、ほんの少しだけ、強張っていた肩の力を抜きかけて──いや、

 

「こんな時間にどうしたの?傘もささずに、全身泥まみれで」

「……」

「それはなに?シャベル?」

 

 まずい。自分の格好を、俺は全く意識してなかった。まずい。

 

「レナと……ダム現場に宝探しに行った時に、忘れてきたんで」

「あらぁ、ダムは君が来た方向と反対方向だけど?」

 

 咄嗟に嘘をつくが、鷹野さんの目は全く笑っていなかった。まるで、何もかも見透かしているかのように。その目から逃げるように、背を向けようとして、足に走った激痛に顔を歪める。

 くそっ、転んだ時に捻ったか。

 

「家まで送ってあげる……私が怪我させちゃったみたいだし」

 

 まずい。この女とこれ以上一緒にいるのは、とてもまずい。そう思いながらも、歩くこともままならない俺は、断る気力もなくて、促されるまま、助手席に乗り込んだ。

 

 自転車も、後部座席に積んでもらって。

 

 濡れた体に、車内の空気が、やけに冷たい。

 鷹野さんは、車を出した。ワイパーが、忙しなく雨を払っている。しばらく、無言だった。エンジンの音と、雨の音だけ。俺は、窓の外の暗闇を、ぼんやりと眺めていた。

 

 と。

 

「……死体は」

 

 鷹野さんが、前を向いたまま、言った。

 

「上手に、埋められた?」

 

 心臓が、止まるかと思った。

 

 全身の血が、一気に引いていく。今、この人は何て言った。死体。埋める。なんで。なんで、それを。俺は、弾かれたように、鷹野さんの横顔を見た。うまく、声が出ない。口が、ぱくぱくと、無様に動くだけ。

 

「な、にを」

「こういう山奥に埋める時はね……結構深く掘らないと野犬とかが掘り返しちゃうことも多いのよ。そのせいで事件が明るみに、とかね」

 

 くすくすと無邪気に笑う鷹野さんが、ただただ恐ろしくて。どうして知っている、なぜこの女が……俺が殺したと?ずっと見ていた?バカな、そんなわけが無い……ならどうして?

 答えのない問いがぐるぐると回り続けて、やがて最も恐ろしい結論に達する。この女は……殺すしか、ない。

 

「ボケもツッコミもなし?」

「……え」

 

 鷹野さんは、こちらを見なかった。ただ、前を向いて、運転を続けている。その横顔は、いつもの、優しげな看護師さんのもので。なのに。

 

「私たち、あんまり相性は良くないみたいねぇ」

 

 くすり、と、鷹野さんが笑った。全く笑っていない目で。

 

 ……冗談、だったのか?

 冗談。冗談なわけが。だって、この人は今、確かに。混乱で、頭がぐちゃぐちゃになる。心臓が、痛いくらいに脈打っている。俺は、なんて人に会ってしまったんだ。そんな後悔でいっぱいだった。

 

 やがて、自宅の前で車が停まる。

 

「ここで、いいです。もう一人で歩けます、から」

「あらあら、さっきは立てそうもなかったのに……大丈夫?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 

 俺は、逃げるように、助手席を降りた。そして後部座席の自転車を降ろそうと……

 

「あれ?」

 

 そこには、折りたたみ式の自転車が、積んであった。

 見覚えの、ある。あれは……富竹さんの。いつも、写真を撮りに、村を回っている。あの、富竹さんの自転車じゃないか。なんで、それが、この車に。

 

「……あの、その自転車。富竹さんのですよね?」

「え?」

「見覚えがあります。特徴的なフレームだったから……富竹さんも、さっきまで乗ってたんですか?」

 

 空気が変わった……気がした。さっきまでの、なんというかこの人に纏っていた余裕な空気が一瞬で引いて。

 

「この自転車がジロウさんのものだなんて、あり得ると思う?」

「は?」

「だって、この村に民宿なんてないのよ?ならジロウさんは町に泊まってることになるわねぇ」

 

 やけに冷たい声だ。いや、だからなんだというんだ。そうなら、それで別に何もおかしいことなんて。

 

「町から雛見沢までは、歩いてとても行き来出来る距離じゃないわよねぇ。バスだってろくに走ってないし……せめて自転車くらいは、なきゃね」

「……」

「そのジロウさんの自転車が私の車にあって、なのにジロウさんは車に乗ってない……それって変じゃない?」

「それは……」

 

 確かにおかしい。富竹さんは雛見沢に自転車なしで取り残されたことになる。そんな不便なことをするとは思えない。だが……しかし、この人の言い方はまるで。

 

「だから、あれは私の自転車なのよ」

 

 ぴしゃり、と。

 さっきまでの、笑みを含んだ声とは、まるで違った。氷みたいに、冷たい声。取りつく島もない、拒絶の響き。

 

「ジロウさんに選んでもらったから、センスは一緒かもしれないけどね」

「そうだったんですか、通りで似てると」

 

 俺は、それ以上何も訊けなくなった。曖昧に頷いて、自転車を降ろす。

 土砂降りの雨が、また、全身を打つ。ドアを閉めようとした俺に、鷹野さんが、最後にこう言った。

 

「私たちは、今夜、出会わなかった」

 

 窓越しに、その目が、俺を見ていた。笑っているのに、少しも、笑っていない目。

 ……何を言っている?この女は、何を?背筋を冷たいものが駆け上がる。

 

「そのほうが、お互いのため。……そう思わない?」

「……なにを、」 

 

 見透かされている。俺が何をしていたのか……こいつは“分かって”いる?その上でこの人は……なんだ?まるで慈悲を与えるかのように。或いは、情けをかけられているように。

 

「どうかしら、前原くん?」

「……構いません」

 

 俺の返事に満足したのか、するすると窓が閉まり、車は、水しぶきを上げて、走り去っていった。

 俺は、その場に、立ち尽くしていた。

 

 雨の中で、震えていた。寒さのせいじゃない。あの人だ。あの、鷹野さんだ。いつも、診療所で、優しく笑っていた、あの看護師さんが。今夜は、まるで、別人みたいだった。底の見えない、得体の知れない、何か。

 

 同じ、匂いがした。

 鉄平を殺した、俺と。同じ。人を手にかけることを、なんとも思っていない、あの平然とした目。あの人も、何か、とんでもないものを抱えている。理屈じゃなく、そう確信した。生かして帰すべきでは、なかった。

 

 だから、俺は。走り去る、赤いテールランプを見送りながら、思ったんだ。

 

 ──あんな女、死んでしまえばいい。

 

 心の底から、そう、呪った。

 

 

 

 

 

「……圭ちゃん。圭ちゃんってば」

 

 肩を、とんとん、と叩かれて。はっと我に返った。

 

 いつの間にか、部屋は暗くなっていた。窓の外では、とっぷりと日が暮れている。昼間、あんなに西日が差していたのに。テーブルの上の麦茶のグラスは、もう片付けられていて。赤坂さんの姿もどこにもない。

 

 ……そうか。赤坂さんが帰ったのも気づかないまま、ずっとこうして、抜け殻みたいに座り込んでいたのか。どれくらいの間、そうしていたんだろう。頭の芯がじんと痺れている。

 

「大丈夫ですか?ずーっと、心ここにあらずでしたよ」

 

 隣を見ると、詩音がこちらを覗き込んでいた。その表情は、思ったよりずっと落ち着いている。あんな話を聞かされた後だっていうのに。

 

「……悪い。ぼうっとしてた」

「ちょっと、じゃないですけどねぇ」

 

 詩音は小さく笑って、それから、少しだけ声のトーンを落とした。

 

「……ねえ、圭ちゃん。私のこと、冷たい女って、思いますか」

 

 俺は詩音を見る。

 

「お姉が、村のみんなが……あんな理不尽に殺されてたって。聞かされたばっかりなのに。私、こうしてけろっとしてて」

「……思わねぇよ」

 

 俺は、迷わず答えた。

 

「むしろ逆だ。詩音が、そうやって冷静でいようとしてくれてるから。正直俺一人だったら……今頃どうなってたか」

「あはは。冷静、ねぇ」

 

 詩音は、おかしそうに肩をすくめた。

 

「冷静っていうか……現実味がなさすぎて、ショックを受ける暇もない、ってのが本音なんですけどね。だってそうでしょう?雛見沢症候群だの、女王だの、緊急マニュアルだの……後出しの設定のオンパレード。これが映画だったら、途中で席を立っちゃいますよぅ」

 

 そんないつも通りの軽口に。詰めていた息が、ふっと緩むのを感じた。

 

「……ま、確かに。設定、詰め込みすぎだわな」

「でしょう?せめて、もう少し分かりやすい伏線くらい張っておいてほしいものです」

 

 やれやれと肩を竦める詩音。

 

「これが全部、圭ちゃんが考えた脳内設定ってオチなら、まだ理解も出来るんですけどねぇ」

「……おい。なんだその生温かい目は。そういう痛いのは、とっくに卒業してんだよ……一応」

「くすくす」

 

 詩音が、口元を押さえて笑う。

 いつも通りの馬鹿な軽口を叩いて、俺を落ち着かせようとしてくれてる。抜け殻になっちまった俺を、こっちの世界に引き戻すために。本当は詩音だって。魅音を、みんなを失って。この話の重さは、俺なんかより、ずっと深く刺さってるはずなのに。取り乱したって誰も責めやしないのに。それでも、こいつは、“皆”のために笑ってくれてる。

 

 ……敵わねぇな、本当に。

 

「……サンキュな、詩音」

「なんです、藪から棒に」

「いや。……なんでもねぇよ」

 

 詩音の頭に、ぽんと手を置いた。彼女はくすぐったそうに目を細めて、それから、こてん、と俺の肩に頭を預けてくる。その重みと温もり。それだけで、ぐちゃぐちゃだった頭の中が、少しずつ凪いでいくのがわかった。

 

 

 一つずつ、整理していく。

 昼間、赤坂さんが話してくれたことを。正直半分も理解できちゃいないけど、それでも……俺は目を閉じて、あの重たい話を、ゆっくりと頭の中で辿り始めた。

 

 鷹野三四が実行犯。あの鷹野さんが、村を殺した張本人だと。

 

 そもそも、おかしい話だ。

 鷹野さんは死んだはずだった。あの綿流しの祭りのあと。隣県の山の中で、焼死体になって見つかった。検死の結果、死んだのは綿流しの前日だった、なんて話までついていた。俺は、あの雨の夜、鷹野さんを呪った。死んでしまえ、と。だからこそ、彼女が死んだと聞いたとき、足先から言い知らぬ寒気が込み上げてきたのを覚えている。

 

 なのに。その彼女が、村を焼いた張本人?死んだ人間がどうやって?

 

 赤坂さん曰く、あの焼死体は偽装だったらしい。別の誰かの死体を、鷹野さんに仕立て上げたまやかし。あの人は死んでなんかいなかった。自分は死んだことにして、裏で着々と準備を進めていたんだ……村を終末に導く準備を。

 

 ……ぞっとした。あの雨の夜。俺の隣で平然とハンドルを握っていた時。すでに、自分の死を偽装して、村を焼く算段を進めていたのか。俺が、死体の埋めたばかりで怯えていた、まさにその隣で。

 

 背筋を、冷たいものが這い上がる。

 そもそも、鷹野さん──いや、鷹野三四とは、何者だったのか。

 

 村の年寄りたちに慕われて、子供たちにも優しかった、入江診療所の看護師さん。いつだって、穏やかに笑っていた。

 

 だが、それは貼りつけた仮面に過ぎなかったという事だ。

 

 言わずもがな。鷹野はただの看護師じゃない。監督と同じ、入江機関の一員だったのだ。診療所の看護師ってのは、村を欺くための表の顔。その裏で、あいつは監督とともに、雛見沢症候群の研究を進めていた。

 

 研究にのめり込んでいたのは、監督よりも、むしろ鷹野のほうだったという。あの緊急マニュアル34号──村を丸ごと消し去る、あの作戦を書き上げたのも、鷹野自身だ。あいつは自らの手で、村の終末の段取りを、一から作り上げ……そして実行した。

 

 あの、優しげな白衣の下に。そんな化け物が潜んでいたなんて。

 

「……研究にすがる理由、か」

 

 詩音が、赤坂さんの言葉を噛みしめるように呟く。赤坂さんが独自に調査を進めた結果、鷹野とその研究に、一つの接点を見つけた。

 

 それが、高野一二三という軍医だ。彼は、鷹野の、養祖父に当たる人物だそうだ。その男が、生涯を捧げた研究というのが──雛見沢症候群だった。

 

 しかしその研究は、当然世間からまともに相手にされなかった。オカルトだと嗤われ、日の目を見ないまま、一二三は死んでいったという。無理もない。事ここに及んで、今この状況で聞いた俺たちでさえ、まだ半信半疑なんだから。

 

 ともかく、鷹野は、その養祖父の研究を引き継いだ。何がなんでも、この研究を世に認めさせる。祖父の名を歴史に刻む。それが、あいつの、悲願だった、と。研究への常軌を逸した執着。その根っこにあったのは、そういう身勝手な妄執で。

 

 ──ふざけるな。

 

 祖父の研究を認めさせたい?名を残したい?たったそれだけのために。あいつは、レナを、魅音を、沙都子を、梨花ちゃんを。村のみんなを。俺と、詩音の何もかもを。まるで実験の材料みたいに、消し去ったっていうのか。

 

 そんな……そんな身勝手な理由が、あってたまるか。

 

 腹の底で、どろりとした熱が煮え立っていく。憎い。あの女が、心の底から憎い。

 

「……身勝手にも、ほどがあります」

 

 詩音の声は冷静に……いや、低く凍えていた。その膝の上で、握りしめた拳が白くなっている。当たり前だ。俺と同じだ。魅音を、彼女のたった一人の姉を……いや、妹を。そんなくだらない理由で奪われて。同情の余地なんて、ありはしない。

 

 

 だが──話はそれだけじゃ終わらない。

 

「……東京、か」

 

 それが、鷹野の背後にいたモノの正体。

 

 あいつ一人の妄執だけじゃ、あんな大がかりな研究も、作戦も動きゃしない。莫大な金と、人と、国すら欺く力。それを鷹野に与えて、研究をさせていた、後ろ盾がいたんだ。

 

 ──それが、赤坂さんの言う、東京だ。

 

 地名じゃない。政治家も、役人も、裏で糸を引く連中たちが名を連ねるという、表の仕組みの奥に巣食う、亡霊組織(シャドーガバメント)。「さながら、国の癌だ」と赤坂さんは吐き捨てるように口にしていた。

 

 公安部の刑事として長いこと、様々な時間でその気配にぶつかってきたという。その度に上から蓋をされるようにして、ある時は捜査が打ち切られ、またある時は事件そのものがかき消されたこともあったそうだ。そんな感想が溢れるのも無理はない……そして、今度は梨花ちゃんの事件で、“東京”が浮上したのだから、最早因縁めいたものを感じているようだった。

 

 そいつらが、鷹野の研究に金を出していた。症候群を、兵器か何かに使えないか。そういう、薄汚い思惑で。

 

「……妖怪、みたいな話ですよね」

 

 詩音が、静かに言った。

 

「そんなのが、本当にいるなら。私たちみたいなの、指先ひとつで、捻り潰せちゃうんでしょうねぇ」

「まぁ、詩音ならそんな連中でも返り討ちにしそうだけどな」

「……何です?か弱い乙女に向かって、その言い草は」

 

 痛たたたっ!

 

 思い切り頬をつねられて思わず身を捩る。

 「私のことなんだと思ってんですか」と口を尖らせる詩音に俺は曖昧に言葉を濁す。まぁ割と本気で言ってる節もあるんだけどな。

 

 

 ただ、その東京ってやつも、一枚岩じゃなかったらしい。中で、古い体制と、新しい体制が、対立していたらしい。そして──赤坂さんが、独自に掴んだ、もう一つの事実。

 

 あの人は、その、古いほうの体制。旧体制の、中枢にいた人物に接触していた。もう長くない、という病の床で。その人物は、赤坂さんにこう訴えたんだそうだ。

 

 自分たちは、あの研究を、打ち切るつもりだった、と。

 

「……打ち切ろうと、してた。それなのに、あんなことに」

 

 詩音が、赤坂さんの話を、辿り直すように言う。

 

 旧体制派は、鷹野の研究に見切りをつけかけていた。金ばかり食って、成果も出ない。そんな危ういものは、そろそろ手仕舞いにしよう、と。だから、村を丸ごと消すなんていう惨劇。あれは、自分たちの望んだことじゃない。旧体制の総意じゃない。その人物は、死の間際に、そう弁明していたという。

 

 もっとも、それがどこまで本当かは、わからない。死にかけの人間の、命乞いみたいな言い分だ。鵜呑みにする気にはなれない。

 

 だが、仮にそれが本当なら。旧体制が手を引こうとしていた研究を、無理やり最後まで走らせ、あの作戦を実行させた、別の誰かがいることになる。

 

 そこから先は、証拠がない。だから赤坂さんは、これまで集めた断片を並べて、一つの推測を立てていた。

 

『派閥争いに巻き込まれた。そう見るのが、今のところは一番可能性があるんじゃないかと思っているんだ』

 

 鷹野の妄執を煽り、あの終末作戦を実行させた、何者かがいる。そいつは、その結果、東京の中で、旧体制を追い落とした。鷹野は、その内輪の権力争いに、利用されたんじゃないか──と。

 

 あくまで、赤坂さんの推測だ。証拠はない。

 

 ……だからって。俺の中で、鷹野への憎しみが、薄れることは、微塵もなかった。利用された?だからなんだ。そそのかされようが、踊らされようが。実際に、その手で作戦を書き、村を焼いたのは、鷹野本人だ。梨花ちゃんを殺す段取りを立て、みんなを死に追い込んだのは、あいつ自身だ。その事実は、何があろうと揺るがない。

 

 

 けど──憎もうとしても。

 

 

 鷹野は、もうどこにいるかも分からない。大災害という名の虐殺を行い、まさかのうのうと生きているわけがないだろう、そのくらいは俺でもわかる。口封じで消されてても、何もおかしくはない。大災害に巻き込まれた、という設定で。もしくは、どこかで逃げ延びて隠れているのかも知らないが、表の社会出てくることは二度とないのだろう。それはもう、死んでいるのと大差がないのではないか。

 

 

 いずれにせよ、だ。鷹野の悲願は、何一つ成し遂げられていないことになる。雛見沢症候群という病の名前すら、世間には少しも浸透はしていない。鷹野の名は勿論、高野一二三の名前すら、闇に葬られたままだ。それどころか、雛見沢大災害自体のことすら、少しずつ風化し始めている……たった四年、いや、もう四年も経つんだ。

 どれだけ悲惨な大事件でも、大事故でも、災害でも、時間と共に人々の頭からは忘れ去られていく。

 

 この現状を、鷹野が知ったらどう思うのだろうか。隠れて生きているのだとしたら、ことの顛末を告発して、世間に知らしめようとするのではないか。それは、“東京”にとって最悪に近い形だろう。

 と、すれば……やはりヤツはもうこの世には……

 

「死んでる……って、考えた方が自然、だよな」

「……」

 

 この手で、同じ目に遭わせてやることもできない。煮えたぎる憎しみを。一体、どこへぶつければいい。

 行き場のない怒りが、腹の中でぐるぐると渦を巻いて、俺を内側から灼いた。

 

 「結局、私たちが今、真実を知ったところで」

 

 詩音が、沈んだ声で言った。

 

「どうにも、ならないんですよね」

「……ああ」

 

 それだけは、疑いようのない事実だ。今の話を全て信じて、じゃあ仮に俺たちが告発したとして……そんな話を誰が信じるのか。頭のおかしいガキとしか思われないに決まっている。せいぜい、ネタに飢えた三流ゴシップ雑誌のページ埋めに使われるのが関の山だろう。

 

 

 赤坂さんは、数年をかけてここまで辿り着いた。それでも、いよいよその先がない。物証らしい証拠は、監督の残した告発文たった一枚。証言者や鷹野の個人情報の記録などはあっても、結局国ぐるみで蓋をされたものを、こじ開ける術など、どこにも残っちゃいないんだ。

 

 

 これ以上は、物理的に追えない。それが、赤坂さんの結論だった。

 

 俺は、天井を見上げて詰めていた息を、長く吐いた。真実と言われたモノだけが、手のひらに、ぽつんと残る。だが、その真実でできることは、何一つない。

 

 ふいに、赤坂さんが帰り際に残した、あの言葉が蘇った。

 あの人は、玄関で靴を履き終えてから、少しためらうように、こちらを振り返って、言ったんだ。

 

『もう一つ、伝えたいことがある』

 

 それは、今日の話より、なお。俺たちの人生を、大きく変えてしまうかもしれない。だから、ここで立ち止まるなら、それでいい。無理に、その先を知る必要はない。だが、もし──先へ進む覚悟があるなら。そのときは、教えてほしい、と。

 

『私は、これから一週間、興宮に留まる。けど、一週間が過ぎたら、東京へ帰り、この件からは、足を洗うつもりだ』

 

 そう言い残して、赤坂さんは、静かに帰っていった。

 

「……もう一つ」

 

 俺は、その言葉を口の中で転がした。今日、これだけのものを聞かされて。それでも、まだ先があるっていうのか。俺たちの人生を、これ以上揺さぶるような、何かが。

 

「どうします、圭ちゃん」

 

 詩音が、肩からそっと頭を上げた。俺の目を、まっすぐに覗き込んでくる。その瞳は、もう揺れていなかった。

 

「聞きますか。……それとも、ここでやめておきますか」

 

 俺は、すぐには答えられなかった。

 

 知ったところで、どうにもならない。それは、もう嫌というほど、思い知らされた。ならこれ以上、寝た子を起こすような真似は、しないほうがいいのかもしれない。何もかも忘れて、二人で静かに生きていく。それも一つの答えだ。

 

 だけど。俺の中のどこかが。もう目を逸らすことは、できないと、告げていた。

 あの煮えたぎる憎しみが、行き場を求めて、暴れている。もし──その、さらに先に。憎むべき相手へ、少しでも近づく何かがあるのなら。

 

「……今夜は、やめとこう」

 

 俺は、ようやくそれだけを口にした。

 

「一週間、あるんだ。ちゃんと、二人で考えて、決めたい。……こういうことは、勢いだけで決めちゃいけねぇ気がする」

「……そうですね」

 

 詩音が、ふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。それから、また俺の肩に、こてん、と頭を戻す。

 

 窓の外は、とっぷりと夜だった。あれだけうるさかった蝉の声も、もう、聞こえない。かわりにどこか遠くで、ひぐらしが、細く鳴いている。俺は、肩に伝わる詩音の温もりだけを、感じていた。

 

 答えは、出ない。

 

 だけど、たった一つ確かなことがある。何があろうと、こいつが、この温もりが、隣にいてくれる。それだけが、めちゃくちゃに壊れたこの世界で、唯一、揺るがない俺の拠りどころだった。

 

 

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 しんみりとした空気が、部屋に満ちていた。俺も詩音も、しばらく何も言わずに、ただ寄り添っていた。

 

 と。ふいに、詩音が、ぱっと顔を上げる。

 

「……よし。しんみりするのは、一旦おしまいっ」

「お、おう?」

 

 いきなりどうした。切り替えの早さについていけず、俺はぱちくりと目を瞬く。

 

「圭ちゃん、今日はもう、頭も心もへとへとでしょう?こういう日はねぇ、無理に考え込まないのが一番なんですよぅ」

 

 詩音は、にっこり笑ってすっと立ち上がった。

 

「というわけで。私が、と〜っておきのマッサージで、圭ちゃんの疲れ、ぜ〜んぶ、とってあげます」

「マッサージ?お、なんだ、気が利くじゃねぇか。じゃあ、肩でも……」

 

 ありがたく揉んでもらおうと、俺は首を回した。実際、肩も背中も、鉛みたいに凝り固まっている。

 

 ──が。

 

 俺のほうへ向き直った詩音の、その両手に。

 なにやら、黒い、四角い機械が握られていた。二つ。左右の手に、一つずつ。

 

「……おい」

 

 いやな予感がする。

 

「詩音さん。その両手に持ってる、物騒なブツはなんですかね」

「あら。ご存知ないんですか?スタンガンですよぅ」

 

 しれっと言い放つ詩音。知ってるわ! 知ってるから聞いてんだよ!

 

「なんでマッサージにスタンガンが出てくるんだよ!?それのどこがマッサージだ!」

「やだなぁ、圭ちゃん。低周波、って知りません?微弱な電気を、ぴりぴり〜って流して、凝った筋肉をほぐすんです。今どきの最先端マッサージですよ」

「その二丁拳銃で流れんのは、微弱な電気じゃねぇ!んなもん当てられたら、マッサージどころか、俺、白目剥いて意識飛ぶわ!」

 

 だいたい、なんで両手に一つずつ二刀流なんだ。フルコースで昇天させる気か。

 

「お前、俺のこと、どうする気だ!?」

「なっ……失礼な!」

 

 詩音が頬を膨らませる。

 

「まるで私が。圭ちゃんを、び〜りびりって行動不能にしといて。そのスキに【自主規制】をしようとしてる、みたいな言い草じゃないですかっ。私をなんだと……」

 

 と、そこまで勢いよくまくし立てて。

 詩音の動きが、ぴたりと止まった。

 

「……あ」

 

 なんだ、その、「あ」は。

 

「なーるほど」

 

 待て待て。なんだその、良いアイデア思いつきましたみたいな顔は。

 

 詩音が、ゆっくりとこちらを見る。さっきまでの、ぷんすかした表情はどこへやら。頬を、ほんのりと赤く染めて。唇の端を吊り上げた、それはもういい笑顔で。

 

「……その手が、ありましたねぇ」

「ちょ待て。今絶対ろくでもないこと考えてるだろ!?」

 

 じり。

 詩音が、スタンガンを両手ににじり寄ってきた。

 

「あの……詩音、さん?なんで、そんな笑顔で近づいてくるんですかね?」

 

 俺は、じりじりと後ずさる。だが、背中はすぐに壁にぶつかった。逃げ場がない。なんてこった。

 

「なぁ詩音、落ち着け。今日はほら、シリアスな回だっただろ?こう、重い真相とか明かされてさ。……こんなしょうもないオチ、誰も望んじゃいねぇと思うぞ!?なあ!?」

 

 俺の魂の訴えもむなしく。詩音は頬を上気させたまま、笑っている。その瞳は、完全に据わっていた。

 

「……安心してください、圭ちゃん」

 

 最後の一歩。

 

「私が、とびきり優しく……圭ちゃんを、天国に連れてってあげますから」

「どっちの意味の天国ッ!?」

 

 

 結論から言えば、スタンガンは使われなかった。

 

 完全に追い詰められた俺だったが、ぽいと放り出されたそれは、畳の上をからんと転がって。かわりに、詩音の両手は、俺の首にするりと回された。

 

「もう。往生際が、悪いんですからぁ」

 

 くすくすと笑いながら、詩音が俺に体重を預けてくる。柔らかい重みと、風呂上がりの甘い匂い。

 

「……お前な。人が、あれだけ、しんみりしてたのに」

「だって。しんみりした圭ちゃんより。こういう圭ちゃんのほうが、私は、好きですもん」

 

 至近距離で、詩音がとろけるように笑う。その一言で、俺の中の、抵抗する気なんてものは、あっさりと溶けてなくなった。

 

 俺は、詩音の腰を抱き寄せて、その唇を塞いだ。んっ、と、小さく詩音が鼻を鳴らす。さっきまでの、からかうような余裕は、唇を重ねるほどに、少しずつ、ほどけていって。

 

「ん……っ、けい、ちゃん……」

 

 いつもそうだ。仕掛けてくるのは、いつだってこいつのほうなのに。いざ始まると、先に余裕をなくすのも、こいつのほうなんだ。俺の背中に回した手に、きゅっと力がこもる。まるで、離すまいとするみたいに。

 

「……俺たち、生きてるんだよな」

「……っ」

 

 何の為の、誰の為の確認だったのだろう。不意に溢れたその言葉に、詩音がどこか力なく微笑んで。

 

「生きてますね、確かに。ここで」

 

 俺は、そんな詩音を、ぎゅうっと抱きしめて。もう一度、深く唇を重ねた。今度は、さっきよりずっと余裕をなくした声で、詩音が応える。

 

 

 あんなに重かったはずの、心も頭も。気づけば、詩音のことでいっぱいになっていた。悲しいことも、やりきれないことも、憎いことも。全部、こいつの体温が溶かしていく。

 

 

 ──今夜くらいは。何も考えず、こいつのことだけを。

 

 

 窓の外の、ひぐらしの声も。いつしか俺の耳には、まるで届かなくなっていた。

 

 

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