「──では、その線で。よろしいですね、野村様」
男の声には、飼い慣らされた犬の従順さがあった。差し出された書類の束を、私は見もしない。窓の外では、庭師が丹念に松の枝を透かしている。その鋏の音が、やけに遠い。
私は湯呑みに口をつけ、それから男を見た。少しだけ、睨むように。
「これは、失礼しました」
肩をすくめ、彼は言い直した。
「今は……高城様、でしたね」
「……そうだな」
その名なら、まだ使い道がある。野村という名は、あの村と共に土に還った。もう掘り返す必要のない名を、軽々しく口に乗せる者は好かない。私が何も言わずにいると、男は察したらしく、深く頭を下げて座を立った。襖が音もなく閉じる。
一人になった座敷で、私は冷めかけた茶をもう一口含んだ。
野村。高城。舞沢。数えるのも億劫になるほど、私はいくつもの名を着ては脱いできた。名など、その場に合わせて羽織る上着に過ぎない。どれが本物かと問われれば、どれも本物で、どれも偽物だと答えるだろう。人は名で相手を掴んだ気になるが、掴めているのは上着の袖だけ。中身はとうに、別の巣へ飛んでいる。
ただ一つ、私という人間をいちばん正しく言い表す名があるとすれば。
郭公。
あの鳥のことを、どれだけの人間が知っているだろう。
郭公は自分で巣を作らない。他の鳥の巣にそっと卵を一つ産み落として、あとは知らぬ顔で飛び去る。やがて孵った郭公の雛は、まだ目も開かぬうちから、背中で仮親の卵を——本来そこにいるはずだった子を、一つずつ巣の外へ押し出していく。仮親は気づかない。自分の子を殺した雛を、我が子と信じて、せっせと餌を運び続ける。雛はぬくぬくと肥え太り、いつしか巣は、まるごと郭公のものになっている。
美しい話だとは言わないが、無駄がない。
私のやり方も、つまるところ、それと似ている。
どこの巣にも帰属しない。誰の子でもない。ただ空の高みから流れを見下ろして、機が熟した巣に、卵を一つ置く。あとは巣の側が勝手にやってくれる。勝手に我が子を落とし、勝手に他人の雛を育て、勝手に乗っ取られていく。私はこの手を汚した罪悪感もない。
郭公は、巣を選ぶ。むやみにどこへでも卵を置くわけではない。産み落とすに値する巣を、じっと見定める。
そして私は、この国の裏側に、格好の巣を一つ見つけていた。
とうに滅んだはずの亡霊が、いまだ後生大事に守り続けている、古い古い巣を。
東京。
もちろん、あの雑踏の都のことではない。表の日本地図には決して載らない、もう一つの“国”のことだ。旧七帝大の学閥を背骨に、政財官のあらゆる名士がその血脈に連なる。表の議事堂で代議士が声を嗄らして吠えているとき、この国の本当の流れは、とうにこちらの座敷で決まっている。壇上の芝居は、民草を安心させるための人形劇に過ぎない。
私自身も、この東京に名を連ねる一人ではある。ただ、その“国”に帰属しているわけではない。どの巣の匂いも身にまといながら、どの巣の子でもない。血の繋がった身内には決して振るえない鎌が、私になら振るえる。その重宝さで、ここに置かれている。
その東京も、内側を覗けば、決して一枚岩ではない。様々な派閥が、己が利権と欲望のために、時に手を組み、時に裏切りとライアーゲームを続けている。
だが、その中でも明確に燻り続けていた対立構図があった。旧体制派と新体制派。創設に関わり、戦前から力を持っていたメンバーたちを中心とした体制と、高度経済成長期に力をつけてきたメンバーたちを中心とした体制だ。思想や主義が根本的に異なる両派は、どのような環境になったとしても、決して相入れることのない水と油。
だが、私から言わせれば、旧派の連中は骨の髄まで腐りかけていた。
彼らはまだ、夢を見ている。かつてこの国が、地図の上で大きく手を広げていた頃の夢を。あの栄光をもう一度、と本気で信じている老いた男たち。時代を動かした重鎮が一人、また一人と土に還り、その勢いはとうに黄昏へ傾いているというのに、亡霊は自分が死んだことにも気づかない。往時の権勢の残り火にしがみつき、いまだこの国の中枢に、腐った根を張り続けている。
その旧派の、さらに芯にあったのが、ABC理事会と名乗る連中だった。
Aは原子、Bは細菌、Cは化学。並べてみれば、彼らが何に焦がれていたのか、名がすべてを語っている。この国にもう一度、他国を震え上がらせる牙を持たせる。それが彼らの悲願だった。
だが、旧態依然とした思想しか持たない連中にはその資格はない。
良い武器も、扱う人間が愚かであれば、己の身を滅ぼす足枷にしかならない。
彼らの見ている強さは、四十年前の強さだ。世界はもう、まるで別の盤で戦を始めている。順序というものが、まるで見えていない。もし彼らが、今その焦がれたものに本当に手をかけたなら、あの焼け跡を、もう一度この目で見ることになる。
この国を、二度とあの惨めさに戻させはしない。焼け跡の匂い。頭上を我が物顔で行き交った外つ国の翼。敗戦国という、拭っても拭っても消えない烙印。あの屈辱を、私はこの国にもう一度味わわせるつもりはない。
その私から見れば、旧派ほど危うい存在はなかった。この国を強くするのだと吠えながら、その実、国を再び焼け野原へ引きずり戻しかねない者ども。味方の顔をした、この国最大の破滅の芽。ならば摘むしかない。私が狩ると定めた獲物は、外敵ではなく、この亡霊たちだった。
もっとも、こうして役目を与えられ、この手で卵を運ぶ私の頭上にも、さらに高いところから流れを見下ろす目がある。私が郭公なら、そのクライアントは空そのものだ。私はただ、その方の描いた線に沿って、然るべき巣を探しているに過ぎない訳だが。
新派も、旧派の企てを危険視してはいた。露見すれば国際社会で立つ瀬を失う時限の爆弾だと。
その火種は、雛見沢という、東海地方の田舎の村にあった。
村には、古くから土地に根づいた奇妙な風土病が眠っていた。旧派が焦がれた牙、その種を、彼らはこの病の中に見ていたのだ。
人を意のままに狂わせ、あるいは薬で御することができるなら、それは砲弾よりも静かに、国境の内側から敵を崩す武器になる。表向きは村の診療所、その地の底に、彼らは秘かな研究の巣を築いていた。旧体制が最後の望みを賭けた企ての中心は、この地図にも載らぬ小さな村の、さらに地の底にあったということになる。
だが、夢は一向に形を結ばなかった。
幾年もの歳月を注ぎ、金を注ぎ、人を注いでも、彼らの欲した牙は牙にならない。研究は行き詰まり、成果と呼べるものはついに卓上に載らなかった。旧体制の内でさえ、もう見切りをつけるべきだという声が上がり始めていた。あれほど執着した企ても、そろそろ畳む——その計が、彼ら自身の手で立てられつつあった。
畳まれかけた火種。普通の目には、消えゆく灰にしか見えなかっただろう。
だが、私の目には、これ以上ない好機と映った。
ただ研究を潰したところで、根は残る。亡霊はまた別の夢を見る。それでは意味がない。ならば、彼らが最後の未練でしがみついている、この企てそのものを使えばいい。畳まれる寸前の火に、こちらから油を注ぐ。ひとたび大きく燃え上がらせ、破局を起こさせ、その業火で旧体制もろとも焼き払う。自らの企てで自らを滅ぼした——そういう筋書きにしてしまえば、誰の手も汚れない。郭公は、ただ卵を置くだけでいい。
あとは、その巣の中に、こちらの思惑どおりに動いてくれる駒が一つあればいい。畳まれかけた研究に、自ら進んで油を注いでくれる、都合のいい雛が。
私は、その卵を探しに、そこへ降りた。
そこには、いた。これ以上ないほど、おあつらえ向きの雛が。
入江機関。
表向きはどこにでもある村の診療所、しかし一枚床を剥がせば、その白い建物の地の底に、旧体制が最後の望みを埋めた研究の巣があった。国家の暗部とも言える場所が。
巣には、代表者として一人の男が据えられていた。所長の肩書きを持つ、物腰の柔らかな男。だが私の関心は、初めから彼には向かなかった。組織の背骨を、研究への底知れぬ熱を、実のところ握っていたのは、その男の下にいた一人の女だったからだ。
鷹野三四。
初めてその姿を見たとき、私は拍子抜けした。看護師の白衣をまとった、どこの町にもいそうな女。すれ違えば、翌日には顔も忘れているだろう。
だが、目だけは違った。
その奥に、常人にはない熱が灯っていた。何かに取り憑かれた者だけが宿す、乾いて、それでいて煮え立つような光。ひと目で分かった。この女は、使える。
調べてみれば、なるほどと得心がいった。
彼女は、己の血で研究を継いでいた。育ての祖父にあたる老人が、かつて在野でこの風土病を追い続けた研究者だった。世に容れられず、まともに耳を貸されぬまま、志半ばで土に還った男。その孫娘は、祖父の無念を晴らすことだけを、生きる支柱にしていた。祖父の学説を世界に認めさせる。その一心のために、彼女は自らの名すら、祖父の後を継ぐ形に改めていたという。
執念、と呼ぶには、あまりに純粋だった。彼女にとって研究は、仕事でも野心でもない。死んだ祖父と自分の生涯、その両方の存在証明そのものだったのだ。
だが、その支柱が、今まさに折られようとしていた。
研究は行き詰まり、旧体制は見切りをつけようとしている。畳まれれば、祖父の生涯も、彼女自身の半生も、まとめて無に帰す。誰にも認められず、何も遺せず、ただ消える。彼女はその淵に立たされ、焦り、渇き、藁でもいいから縋るものを求めていた。
これほど、油を注がれたがっている火種もない。
私は、彼女に近づいた。
絶望に沈みかけた女の耳元に、ただ一言、囁くだけでよかった。
「私なら、教えてあげることができる。貴女の願いを叶え、世界を揺るがす、たった一つの方法を……」
鷹野三四の目の色が、変わった。
私は続けた。このまま研究が畳まれれば、すべては闇に消える。祖父の名も、貴女の名も、この地に埋もれたまま誰にも知られず朽ちていく。だが——もし、村ぐるみの規模で、世界がその存在を否応なく思い知る「何か」を成し遂げたなら。この研究がどれほどのものであったか、後の世が認めざるを得なくなる。祖父の名は蘇り、貴女の名は、歴史に永遠に刻まれる。神話になるのだと。
毒だと、彼女は気づかなかっただろう。救いの顔をして差し出された、たった一滴の毒に。
いや。あるいは、気づいていて、それでも飲み干したのかもしれない。乾ききった者にとっては、毒の一滴すら、喉を潤す甘露に見える。
卵は、置いた。
あとは、この雛が勝手に育つ。私が何をするまでもない。彼女は自らの渇きに突き動かされ、自らの足で、破局へ向かって歩き出していく。
憐れとは思わない。かといって、蔑みもしない。鷹野三四は、道具として、実に優秀だった。それだけのことだ。祖父の亡霊に憑かれ、神になりたがった一人の女。その一途な渇きこそが、旧体制もろとも焼き払う炎の、これ以上なく上等な火口だった。
あの女が、村ごと千の命を焼く引き金を、自らの手で引くまでに──そう長い時間は、かからなかった。
6月22日、未明。
村が、消えた。
まるごと、地上から。ひと晩のうちに、千二百の命が。
私はその夜、現場にはいない。いつものように、遠い空の高みから、巣が焼け落ちていくのを眺めていただけだ。炎も、悲鳴も、そこまでは届かない。届いたところで、私の胸を騒がせるものは何一つなかっただろう。事は、描いた線の通りに運んだ。ただ、それだけのことだった。
世間には、火山性のガスが原因と報道された。地の底から噴き出した毒性のガスが、眠る村を一夜で呑み込んだのだと。誰もそれを疑わない。千二百人という数字だけが、新聞の隅に一度載って、あとは季節が流れるように忘れられていく。千人超もの命とて、時が経てば風化していく。
そして。我々の狙いどおり、旧派は自らの企てによって自滅した。
村を焼いたのは、彼らが育てた研究であり、彼らが送り込んだ人間だった。その始末を、彼ら自身が負うことになった。取り返しのつかない汚点を抱え、連中は瓦解し、旧派は東京の中枢から、掃くように一掃されていっているのが現状だ。
郭公の雛が、仮親の子を巣の外へ押し出すように。自分たちの巣の中から、突き落とされた訳だ。
一歳の手を汚さずに、千二百人を焼いたのだ。私を悪魔と罵るか、人外と軽蔑するか。地獄を約束するか。
好きにすれば良い。
だが、あの村を焼かなければ、亡霊は、いずれこの国そのものを焼いていた。時代錯誤の牙に、愚か者が手をかけたその日、死ぬのは千二百人では済まない。この国は再び世界の敵となり、焼け跡と屈辱の底へ、真っ逆さまだ。壊死した指を落とさねば、毒は腕を伝い、心の臓まで至る。医者がためらいなく指を落とすのと、何が違う。
誇りはしない。悔いもしない。ただ、そうあるべきだった。それだけだ。
──最後に、あの雛のことを、少しだけ。
鷹野三四は、己の末路を知っていた。自分が、旧派を焼くためだけに置かれた、一つの火種に過ぎなかったことを。それでも、行動を起こせば神になれると信じて、その実、巣を焼き払うために使い捨てられた、憐れな一羽。祖父の名も、己の名も、けっきょく歴史のどこにも刻まれず、あの災害の記録の裏にすら、名を残せなかった。
役目を終えた雛が、その後どうなったか。私は、多くを知らない。知る必要もなかった。
ただ、風の噂に聞く。焼け落ちた巣の、そのさらに底で、あの女がまだ、かすかに息をしているらしい、と。
神になりたがった女の、成れの果て。それがどこで、どんな夢の続きを見ているのか、私の与り知るところではない。
郭公は、とうに次の空へ飛び立っている。
巣に何が燃え残っていようと。
それはもう、私の物語ではないのだから。
「野村」については独自設定を色々勝手に付け足してます。というより、原作では結局謎の女のままでしたので、一部勝手な妄想で設定を付け加えました。
ご了承いただけますと幸いです。