その部屋は、存外狭かった。
鉄格子の窓から差す光は、埃の匂いのする薄闇をわずかに白ませるだけで、隅々までは届かない。簡素な寝台がひとつ。小さな机。壁際に、場違いなほど無骨な金庫がひとつ。それきりだ。人が暮らす部屋というより、忘れられた物置に近い。ここに人ひとりが置かれているという事実そのものが、うすら寒かった。
乏しい光の淵に、女がひとり、座っていた。
寝台の端に腰かけ、背を丸めて、俯いている。ほつれた髪が、頬の輪郭に幾筋も垂れかかっていた。着ているものは色の褪せた寝間着のようなもので、その肩は、笑ってしまうくらいに薄い。骨の上に、かろうじて皮が張りついているだけみたいだ。
片方の足首に、鈍く光る枷が嵌まっていた。そこから伸びた鎖が、寝台の脚に繋がれている。まるで、繋がれた獣だ。逃げられないように。あるいは——自分で命を絶てないように。
この期に及んで、それでもまだ、逃がしも殺しもせず、ただ繋いで生かしておく。そのやり口に、ぞっとするものを感じた。
鷹野三四。
……のはずだ。
だが、俺の記憶にあるあの女とは、何もかもが違っていた。あの車の中で、こちらの腹の底まで見透かすみたいに俺に向けられていた、あの底知れない笑みも。土砂降りの闇の中で、俺に殺人者の匂いを嗅ぎ当てた、あの恐ろしいくらい勘も。それらの面影は、どこを探しても見当たらない。目の前の女は……言うなれば、単なるもぬけの殻。
俺は、動けなかった。
別に、何かを言ってやろうと考えていた訳ではない。問い詰めるのか、憎しみをぶつけるのか、何か考えていた訳じゃなかった。けれど、何かはあるだろうと、そんなぼやけた感覚はあったんだ。
しかし、いざこうして向かい合ってみると、喉の奥で全部が固まって、ひとことも出てこない。
あんまりにも、変わり果てていた。
俺はただ、黙って、その女を見ていた。
どれくらい、そうしていただろう。
扉が立てた軋みが、まだ耳の奥に残っていたのかもしれない。
その音に引かれるみたいに、ヤツの視線が、のろのろとこちらへ向いた。何かを見ようという意思があるわけじゃない。ただ、音がしたから、そちらを向いた。それだけの、力ない動きで。
虚ろな瞳が、俺の姿を捉える。
女は、動かなかった。俺を見ているのか、俺の向こうの何かを見ているのか、それすら分からない。焦点の定まらない目が、ただ、俺のいるあたりに留まっている。長い、長い時間。
やがて——その濁った瞳の奥で、ほんのわずかに、何かが揺れた気がした。
澱んだ水の底に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がってくるみたいに。女の目が、じわじわと、俺の輪郭をなぞりはじめる。見知らぬものを見る目から、何かを——たぶん、見覚えのある何かを、たどたどしく探る目へ。
そうして、その乾いた唇が、かすかに動いた。声にはならないような、か細い音が。しかし、それはやけにハッキリと、部屋中に響き渡った。
「……前原、圭一」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
俺が雛見沢にいたのは、ほんのひと月ばかり。顔も名前も、とうに忘れられていておかしくない。なのにこの女は、その濁りきった頭から、俺の姓名を、寸分たがわず掘り起こしてみせた。
あの夜のことが、それだけ深く刻まれているのか。土砂降りの車の中で、互いに同じ匂いを嗅ぎ取った……あの夜が。
その瞬間、目の前の抜け殻と、俺の記憶の中の女が、ぴたりと像を結ぶ。ああ、間違いない。こいつが——鷹野三四だ。
喉の奥で固まっていたものが、その一言で、堰を切る。
「……なんで、だ」
自分でも、震えているのが分かる声だった。
「なんで、皆は……なんで、あんたなんかの為に……死ななきゃならなかったッ」
腹の底から、勝手にせり上がってきた思いを、抑えきれない。
鷹野は、すぐには答えなかった。宙の一点へ、ゆらりと目を漂わせる。だが、その「なぜ」という響きが、澱の底の何かに触れたらしい。
「……おじいちゃん、の」
ぽつり、と。掠れた声が、途切れながら、少しずつ言葉を継いでいく。
「わたしの、おじいちゃんは……誰にも、信じてもらえなかった。狂人だと、嗤われて。論文を、踏みにじられて……なんにも、報われないまま、死んでいったの。……可哀想な、可哀想な、おじいちゃん」
可哀想……だと?
赤坂さんから、その身勝手な言い分は聞かされていた。だが、こうして本人の口から垂れ流されると、腹の底が、ぐらりと煮えたぎる。
じゃあ、その論文ごときの為に未来を奪われたレナは、魅音は、沙都子は……梨花ちゃんはどうなる?
「でも、おじいちゃんは、正しかった。証明して、みせるはずだったの。あの村の病には、女王がいる。女王が死ねば、残された者はみんな、壊れて死んでいく。……それを、この世に見せつけさえすれば、おじいちゃんの名も、わたしの名も、永遠に——」
「梨花ちゃんを」
俺は、掠れた声を、被せるように押し出した。
「梨花ちゃんを、その“女王”だから、殺したのか」
鷹野は、答えない。ただ、その目が、す、と俺に据えられる。頭のてっぺんから爪先まで、確かめるみたいに。
やがて、その顔から、みるみる血の気が引いていく。
灯りかけていた光が、揺れる。据えたはずの目が、俺の全身を、もう一度、なぞりはじめた。信じられないものでも見るみたいに。
ついさっきまで、あれだけ熱っぽく喋っていた女が。俺の顔を見たきり、まるで幽霊にでも出くわしたみたいな面になっていやがる。
「……なぜ」
鷹野の唇が、わなないた。さっきまでの熱を、内側から食い破るみたいに、掠れた声が漏れる。
「なぜ……あなたが、生きて、いるの」
その問いが、俺の中の、どこか冷えた場所に触れる。
「……逆だろ」
気づけば、そう口にしていた。
「なんで、死んでなきゃならねぇんだよ」
鷹野の落ち窪んだ目が、俺を見上げる。
「あんたらの言う通りなら、そうなんだろう。女王が死ねば、残った奴はみんな壊れて死ぬ。だから村を焼いて、それを阻止するはずだった。そしてその訳の分からない病の存在を証明するはずだった。……そうだろ」
俺は、一歩、近づいた。
「けどな。俺は生きてる。こうして、ぴんぴんしてる。ちゃんと生きてきたんだよ」
声が、震えるのが分かった。怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない。
「俺だけじゃない。詩音も生きてる。故郷も家族も、何もかも奪われて。それでも、笑って生きてる。……悟史だってそうだ」
悟史の名を出すと、鷹野の眉が、ぴくりと動いた。
「記憶は失くしちまった。村のことも、皆のことも、何にも覚えちゃいない。それでもあいつは生きてる。ちゃんと生きてるんだ」
梨花ちゃんは、殺された。なのに、俺たちはこうして、生きている。壊れて死んじゃいない。
「あんたのやったことを、今この状況は何ひとつ証明しちゃいない。あんたのじいさんの説は……間違いだったんだ」
鷹野の口が、半分開いたまま、固まっていた。
「それに、だ」
「……」
「確かにあんたは、村を、皆を殺した。……だけど村は、まだ死んじゃいねぇ。皆の想いも、俺たちの中で、ちゃんと生きてる。あんたは、何も消せちゃいない。何ひとつだ」
言い切って。荒くなった息を飲み下した。
鷹野は、動かない。
いや——動けない、みたいだった。俺の言葉が、一つ、また一つと、あの女の中に降り積もっていくように。その顔から、表情という表情が、抜け落ちていく。
やがて、その乾いた唇から、掠れた笑いのような、泣き声のような、形にならない音が漏れた。
「……うそ」
ほとんど、声になっていなかった。
「うそよ。そんな……だって、それじゃあ。それじゃあ、わたしは……おじいちゃんは……」
最後まで、その言葉は続かない。だが、俺には、はっきりと聞こえた気がした。
一体、何のために。
鷹野は、それきり、動かなくなった。
うつろな目が、宙の一点に据えられたまま、微動だにしない。さっきまで必死に何かを探して泳いでいた視線が、今は、ぴたりと止まっている。探すのを、やめたんだろう。縋ろうとしていたものが、もうどこにもないと、悟ってしまったみたいに。
俺は、何も言えなかった。かける言葉なんて、あるはずもない。
部屋に、沈黙が満ちていく。
鉄格子の窓の外で、ひぐらしが、細く鳴いている。それ以外は、物音ひとつしない。埃の匂いのする薄闇の中で、俺とこの女は、ただ、向かい合っていた。時間が、止まってしまったみたいだった。
その頬を、つう、と一筋の涙が伝う。
だが、鷹野は、泣いているようには見えなかった。嗚咽も、歪みもない。ただ、乾いた頬の上を、涙だけが、意思もなく流れ落ちていく。感情がとうに麻痺して、体だけが、勝手に反応しているみたいだった。
どれくらい、そうしていただろう。
一分か、十分か、あるいは、もっと長く。俺には、見当もつかなかった。ただ、この女が、すべてを失った底の底で、静かに沈んでいくのを、見ていることしかできなかった。
やがて。
その、微動だにしなかった肩が、ふ、と、かすかに動いた。
俯いていた顔が、ゆっくりと、持ち上がる。
その瞬間、俺は、息を呑んだ。
鷹野の顔から、涙が、消えていた。いや、涙の痕はある。だが、その奥にあった、打ちのめされた哀れな女の色が——すっと、引いていく。かわりに、その落ち窪んだ目の底に、見覚えのある何かが、ゆらりと立ち上がってきた。
……これは。
抜け殻でも、絶望に泣き崩れる女でもない。あの夜だ。土砂降りの車の中で、俺の嘘を、殺人を、何もかも見透かして、くすくすと笑っていた——あの、底の知れない鷹野三四。あの女が、今、この痩せさらばえた体の奥から、静かに、戻ってこようとしている。
全部を失って、もう何も残っちゃいないはずなのに。だからこそ、なのか。恐れるものが、何ひとつなくなった女の。凪いだ、昏い目が、まっすぐに俺を捉えた。
「……ねえ」
掠れた声が、ゆっくりと、形を取る。
「ねえ、前原くん」
その呼び方に、俺は、あの雨の夜へ、一息に引き戻される心地がした。
「お願いが、あるの」
……お願い、だと。
こんな女の頼みを聞いてやる義理なんて、これっぽっちもない。だが、その凪いだ目に射すくめられて、俺は動けずにいた。
「そこに、金庫があるでしょう」
鷹野の視線が、壁際へすっと流れる。あの、場違いに無骨な金庫へ。
「番号を、教えるわ。……開けて、みてくれる?」
なぜ、そんなことを。訝しみながらも、俺の足は、鷹野の告げる数字に導かれるまま、金庫の前へ歩いていた。
しゃがんで、ダイヤルを回す。右へ、左へ。告げられた通りに。かちり、と最後の数字で、内側の金具が外れる手応えがあった。
重い扉を引き開けると……中には、一挺の拳銃が収まっていた。
「え」
黒く、鈍い光を放つそれ。何のための知識でもなかったが、それが本物だということくらい、見れば分かる。ぞっとするような重さを、そこに感じた。
弾かれたように、鷹野を振り返る。
「な……なんで、こんなもんが」
「さあ。連中が、置いていったのかしらね」
鷹野は、こともなげに言った。あの人たち——こいつを繋いで生かしてきた連中。いざとなれば、こいつを始末するために。あるいは、こいつに、始末を選ばせるために。
「ねえ、前原くん」
鷹野の声が、そっと俺の背に触れる。甘く、先程までの廃人のような声色からは想像も付かないほど。
「それで、わたしを撃って」
心臓が跳ねた。
「……あなたには、その権利があるわ。あなたにこそ」
ゆっくりと、諭すように。あの夜、口裏合わせを持ちかけてきたときと、同じ声の色で。
「わたしは、あなたの村を焼いた。レナちゃんも、魅音ちゃんも、沙都子ちゃんも……梨花ちゃんも。あなたの大切なものを、何もかも」
その名を並べられた瞬間、腹の底で憎悪がぐらりと煮え立った。
「憎いでしょう。殺してやりたいでしょう。……いいのよ。あなたのその手で、皆の仇を討つの」
仇を。
その言葉が、耳の奥で甘く反響した。
気づけば俺は、その拳銃を握りしめていた。
ずしり、と手のひらに冷たい重みが乗る。思っていたよりずっと重い。この鉄の塊ひとつで、人ひとりの命が簡単に消えてしまう。その事実の重さそのものみたいに感じた。
両手で支え、銃口を鷹野へ向ける。
痩せさらばえた、その胸元へ。狙いを定めるまでもない。こんな至近距離だ、外しようがない。
鷹野は逃げる素振りもない。落ち窪んだ眼で、まっすぐに俺を見上げている。その唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。……笑ったのか。この期に及んで、こいつは。
指が引き金にかかる。
あと少し。ほんの少し力を込めれば、それで終わる。終わらせられる。頭ではわかっている。わかっているのに、俺の指はそこで凍りついたように動かなくなった。
──殺人だ。
どこまでいっても、これは殺人だ。人が人を殺す。それ以上でも、以下でもない。そして俺は、その禁忌に、一度手を染めている。手のひらの奥に、今も焼きついて消えない感触がある。金属バットの、あの鈍い重さ。思い出すたび胃の底が冷える。
俺は……また、繰り返すのか。
ここで引き金を引けば、俺はまたあっち側へ落ちる。人殺し。あの日から何ひとつ変わっちゃいない、血に汚れた手のままの俺に、逆戻りだ。
──圭ちゃん
ふと。声が、耳の奥をよぎった気がした。
この扉のすぐ外で、待っている。俺の帰りを。どんな選択をしても構わないと、送り出してくれた。
あいつだけは、守りたい。この世界で他の何を失っても、あいつだけは。俺の隣で笑うあいつを見ていられるなら、それだけで俺は生きていける。
こんな血みどろの手で、本当にあいつを守れるのか。人を殺めた手で頭を撫でて、あいつは笑ってくれるのか。俺は、俺のまま、あいつの隣に立ち続けられるのか。
……わからない。指が、震える。
だが——この女が、全部殺した。レナも、魅音も、沙都子も、梨花ちゃんも。どんな時も守ってくれた親父も、心配ばかりしていた母さんも。あの村の皆を、一人残らず。
なんのために。反吐が出るほど自分勝手で、あまりにちっぽけな理由で。こいつは俺たちの居場所を、まるごと消し去った。
そんな女に、今、慈悲をくれてやるのか。皆の無念も晴らさず、しっぽを巻いて帰るのか。詩音から
殺意と、迷いが、何度も入れ替わる。引けと囃す声と、引くなと縋る声。どちらも、まぎれもなく俺の声だ。汗で、銃把が滑る。
「……殺しなさい、前原くん」
血を吐くような、それでいて、どこか安堵にも似た響きで、こいつははっきりとそう言った。乾いた眼で俺を見上げて……死を乞うている。俺の憎しみを煽って、俺の手を使って、楽になろうとしている。
望むところだ。そんなに死にたいのであれば……そんなに、俺に殺されたいのであれば……
「──ッ」
乾いた炸裂音が、耳を突き抜ける。反動で思わずよろめいて、視界は一瞬白く染まった。
そして……鷹野は、目を見開いたまま、動かなかった。
「……」
俺は銃口を、鷹野からわずかに逸らして、引き金を引いていた。
弾は鷹野の頬のすぐ横をかすめ、背後の壁にめり込む。ぱらぱらと、砕けた破片が落ちて。
あとに残ったのは、耳鳴りみたいな、重い静寂だった。
頬をかすめた弾の熱が、まだ信じられないみたいに。据わっていたはずのその眼が、今は、ただ茫然と宙を見つめている。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、その乾いた唇が、わなないた。
「……どう、して」
絞り出すような、掠れた声だった。
「どうして……撃たなかったの。私は、貴方の仇……なの、よ」
俺は、銃を下ろして──鷹野を見据える。
「勘違いするな」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「助けるつもりなんて、これっぽっちもない。あんたのやったことは、地獄に落ちたって償いきれるもんじゃない」
俺は、握った銃を、じっと見下ろした。この鉄の塊の重さが、いやに手に馴染むことが、たまらなく嫌だった。
……人を殺すのが、どういうことか。俺は、知っている。
あの土砂降りの夜。俺はこの手で、一人、殺している。守りたいものがあったからだ。他に道がなかったからだ。
だが、どんな理由をつけたところで、俺のやったことは人殺しだった。その事実は、今も手のひらにこびりついて消えない。ふとした拍子に、あの重さが蘇る。たぶん、死ぬまで消えないんだろう。
だから、分かる。
「あんたを撃つのは、簡単だ。仇討ちっていう、大義名分もあるんだろう……けどな。どんな綺麗事を並べたって、殺しは殺しだ。それで皆が帰ってくるわけでも、俺の罪が……あんたの罪が消えるわけでもない」
俺は、銃を床へ落とした。がしゃりと、鈍い音が鳴る。
「……もう二度と、あっち側へは踏み出さない。あんたなんかのために、そこへ踏み込んでやる義理は、どこにもない」
俺には、待っていてくれる奴がいる。もう汚れた手かもしれない。それでも、これ以上は汚さないと決めた手で、あいつの隣に立ち続ける。あんたなんかのために、それを手放してたまるか。
「生きろよ、鷹野」
俺は、あらん限りの憎しみを込めて、そう言った。
「あんたが焼いた村の人間が、こうしてちゃんと生きてる。あんたのやったことは、何ひとつ実を結ばなかった。その事実を抱えて、朽ちるまで生きろ。それが、俺があんたにくれてやる、たった一つの答えだ」
鷹野は、答えなかった。
ただ、見開かれた眼から、涙が一筋、また一筋と、伝い落ちていく。声もなく。今度こそ本当に、何もかもを失った人間の顔で。
俺は、背を向けた。
もう、振り返らなかった。この部屋にも、この女にも。用は、済んだ。
扉へ向かって、歩き出す。一歩、また一歩。背中に、鷹野の気配が、いつまでも張りついていた。だが、それも、扉を開けて外の空気に触れた瞬間、嘘みたいに剥がれ落ちていった。
何度も書き直していたら、かなり時間がかかってしまいました……ごめんなさい!