扉を抜けて、廊下を戻り、外へ続く階段を上る。一段ごとに、あの澱んだ地下の匂いが薄れていく。
施設の外へ出た瞬間、夏の光が、目を焼いた。
むせ返るような緑の匂い。じりじりと肌を刺す陽射し。あちこちで、蝉が、ひぐらしが、競うように鳴いている。ついさっきまで、あの時の止まった部屋にいたのが、まるで嘘みたいだ。世界は、こんなにも、うるさいくらいに生きている。
なのに、俺の足取りは、鉛みたいに重かった。
撃った。だが、殺さなかった。それが正しかったのかどうか、自分でも、まだ分からない。腹の底には、あの名前のつかない虚しさが、どろりと居座ったままだ。晴れやかな気分なんて、これっぽっちも湧いてこない。
顔を上げると、少し離れた木陰に、詩音が立っていた。その少し後ろに、赤坂さんも。
詩音は、静かにこちらを見ていた。
あの一発の銃声を、こいつも聞いたはずだ。あれから、俺が出てくるまでの間、何を思って、どんな気持ちで、ここに立っていたんだろう。その顔には、いつもの飄々とした余裕はなかった。ただ、じっと、俺の姿を見つめている。俺の全部を、確かめるみたいに。
俺が、何をして、何をしなかったのか。俺が、俺のままで戻ってきたのか。
こいつは、たぶん、俺の顔を見ただけで、その全部を読み取っている。言葉なんて、いらないんだ。俺たちには。
詩音の、強張っていた肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。
そして、ゆっくりと、やわらかく、微笑む。
「……おかえりなさい、圭ちゃん」
その一言が。その笑顔が。俺の中で張り詰めていた何かを、静かにほどいていく。
……帰ってきたんだ。あの、時の止まった地獄から。こいつのいる、この場所へ。
「ただいま」
精一杯の笑顔、そう返す。
たったそれだけのことが、今は、どうしようもなく尊いものに思えた。
生きて、帰ってこられた。この場所へ。あの地獄みたいな部屋で、俺は確かに、一線の手前で踏みとどまった。血に汚れた手を、これ以上は汚さずに済んだ。
全部、この場所へ帰りたかったからだ。彼女の隣に、胸を張って立ちたかったからだ。
詩音の、ほっとしたような顔を見ていると。
腹の底に居座っていたはずの、あの重い虚しさが。ほんの少しだけ、やわらいでいく気がした。
……今しかない、な。
唐突に、そう思った。理屈じゃない。生きて帰れた今、この瞬間を逃したら、俺はまた、ぐずぐずと言いそびれる。そんな気がした。
俺は、ズボンのポケットに手を入れた。指先が、ずっとそこに忍ばせていた、小さな箱に触れる。
……本当は、もっと洒落た場所で、格好つけて渡すつもりだった。こんな、山奥のボロ家の前なんかじゃなくて。だが、まあ、いい。柄にもなく格好なんてつけようとするから、この前みたいに、盛大にしくじるんだ。
いつだったか、告白の勢いに任せて「結婚してくれ」まで口走って、「なんでいきなり結婚だ」と、こっぴどく振られた?ことがある。あの時の二の舞は踏んでなるものか。
今度こそ、ちゃんと言わなくてはならない。
俺は、箱を握りしめて、詩音の前に立った。
「あー、詩音」
「……はい?」
いきなり改まった俺に、詩音が、きょとんと目を瞬く。
俺は、箱を開けた。中で、小さな石が、夏の光を弾いて、きらりと光る。
詩音の目が、まんまるに見開かれた。
……この指輪を選ぶのに、赤坂さんに付き添ってもらった。学生の分際で、何を生意気な、と笑われるかと思った。だが、あの人は何も言わず、ただ、真剣に一緒に選んでくれた。後からサイズを直せる、ちゃんとした店の、ちゃんとしたやつを。
その赤坂さんは、今は少し離れたところで、そっぽを向いている。空気を読んでくれているんだろう。無粋なことは、何ひとつ言わずに。
「この前は、勢いだけで、しくじったからな」
声が、緊張で掠れる気がした。だが、そんなことはどうでもいい。今は──
「今度は、ちゃんと言うぞ……詩音。俺と、結婚してくれ」
勢い任せなんかじゃない。あの地獄をくぐって、それでも隣にいたいと、心の底から思える、たった一人に。
心の底からの想いを、はっきりと、しっかりと……
「……」
詩音は、しばらく、動かなかった。
やがて、その大きな瞳の、目尻に、じわりと涙が盛り上がってくる。頬が、ほんのりと朱に染まって。俺を見つめるその目は潤んでいた。
「……圭ちゃん」
詩音が、濡れた瞳のまま、うっとりと微笑んで——
「お断りします」
…………
………
……
ん?
んん?
あれ?
「……」
時が、止まっている?
あれ?なんか止まってね?デジャヴか?覚えあるぞこの感覚。
おかしいな、あれ、視界がモノクロになってる気がするんだが。さっきまでキラキラと色づいてなかったか?あれ?
……えー、そうだな。うん、クールになれ、前原圭一。ひとまずクールになれ。冷静に、今の状況を分析しよう。えー、俺は、うん、アレだな。今プロポーズをしたな。渾身の力を込めて、全てを出し切って、プロポーズしたな、うん。
で、その返答は……「お断りします」
背後で、赤坂さんが、派手に体勢を崩す音がした。その瞬間、モノクロだった視界に一気に色が飛び込んでくる。
そして、止まっていた呼吸が再開し、肺に新鮮な空気が飛び込んでくる。あっぶね、危うく窒息死するところだった。
「……」
けど、まぁ、うん。俺は箱を開けたまま、口を半開きにして、固まっていた。固まらざるを得なかった。
暫くそんな調子で固まっていると──
「ふふっ。圭ちゃんったら、そんな、今にも死にそうな顔して」
詩音が、こらえきれない、というふうに、くすくすと笑いだした。涙を溜めたまま、いたずらっぽく。
「あのですねぇ、圭ちゃん。よーく、考えてみてください」
詩音は、人差し指を、ぴ、と立てる。
「告白は、圭ちゃんからしてくれました。それはもう、とびきり情けない形で、ですけど」
「う゛っ」
「だから、プロポーズくらいは。……私から、したいんですよ」
……な、なんだ。そういうことか。
全身にみなぎっていた緊張やら決意やら、そういう大層なものが、一気にどこかへ流れ出ていく。俺は、その場に、へなへなと尻もちをつくみたいに、座り込んでしまった。
「……脅かすなよ、マジで。心臓、止まるかと思っただろ」
「あはは。ごめんなさい、ごめんなさいって」
ちっとも悪いと思ってなさそうな顔で、詩音がくすくす笑う。涙の粒を目尻に残したまま、頬を上気させて、それはもう、楽しくてたまらない、という顔で。小悪魔、という言葉が、これほど似合う女もいないだろう。
背後では、赤坂さんが、やれやれというふうに肩をすくめつつ、それでも口元は、どこか微笑ましげに緩んでいる。茶番もいいところだ。だが、まあ、誰も止めやしない。
詩音が、座り込んだ俺の前に、すっとしゃがみ込んだ。
目の高さが、同じになる。
潤んだ瞳が、まっすぐに、俺を覗き込んでくる。さっきまでのいたずらっぽい光とは、少し違った。その奥に、まっすぐな、熱いものが宿っている。
「圭ちゃん」
詩音が、俺の手を、両手で、そっと包んだ。
「私と、結婚してください。……ずっと、ずっと、あなたのそばにいさせてください」
まっすぐな、まっすぐすぎる言葉だった。
茶化す余裕なんて、どこにもない。その声も、俺の手を包む指先も、かすかに震えていた。こいつも、こいつなりに、精一杯の勇気を振り絞っているんだ。それが、伝わってくる。
俺は、へたり込んだまま。情けない格好のまま。それでも、はっきりと頷いた。
「……ああ。こちらこそ。よろしく、頼むよ」
箱から指輪を取り出して、震える詩音の左手を取る。その薬指に、そっと、滑り込ませた。サイズは、まだ合わせちゃいない。だから、少しだけ、ぶかぶかで。それでも詩音は、その指輪を、大事そうに、宝物でも見るみたいに、じっと見つめていた。
夏の光の中で、小さな石が、きらきらと光る。
その横顔が、あんまりにも幸せそうで。俺は、なんだか、胸がいっぱいになってしまった。
……だが。
改めて、今の状況を見返してみる。俺は、地べたに尻もちをついて。女のほうからプロポーズされて。情けないったら、ありゃしない。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「やっぱり、今の、もう一回やり直させてくれねぇか。今度こそ、ちゃんとした格好でだな——」
「だーめ」
詩音が、即座に、きっぱりと却下した。
「この方が、よっぽど、私たちらしいじゃないですか」
「どこがだよ!?」
思わず声を張り上げると、詩音は、おかしくてたまらない、というふうに、声をあげて笑った。
その笑い声が、夏の空へ、抜けていく。
蝉の声も、ひぐらしの声も。さっきまであんなに重かった何もかもが。こいつの笑い声の前では、ずいぶんと遠い、些細なことに思えた。
山を下り、興宮の街まで戻ってくる頃には、空が茜色に染まりはじめていた。
あの時の止まった山奥の施設が、まるで別の世界の出来事だったみたいに思える。行き交う車。買い物帰りの主婦。下校途中の子どもたち。当たり前の日常が、当たり前の顔でそこにある。
俺たちは駅前の小さな喫茶店に入った。
冷房のきいた店内で、運ばれてきたアイスコーヒーに、しばらく誰も手をつけなかった。重い一日だった。言葉にしきれないものが、詩音や赤坂さんの中にまだズシリと残っているに違いない。
……けど。ここで言わなきゃならない。
俺はグラスの水滴を指でなぞりながら、意を決した。
隣の詩音に目をやると、ちょうど彼女もこちらを見ていた。小さく頷く。……彼女とはもう決めてきたことだ。
俺は正面の赤坂さんへ向き直った。
「赤坂さん。もう一つ、聞いてほしいことがあるんです」
改まった俺の声に、赤坂さんがグラスから顔を上げる。
「……俺、警察に自首します」
赤坂さんの眉が、ぴくりと動いた。
「あの綿流しの夜。俺は沙都子を守るために、北条鉄平をこの手で殺しました。殺して、山に埋めたんです。そのこと全部を警察に話して、ちゃんと罪を償おうと思います」
店内の穏やかなざわめきの中でも、その一言だけがやけにくっきりと響いた気がした。
赤坂さんはすぐには何も言わなかった。アイスコーヒーのグラスを、じっと見つめている。
何となく、だが。
たぶんこの人は、薄々感づいていたんだと思う。俺があの村で、ただの被害者ってだけじゃない何かを抱えていることを。だが、それをはっきり口にしたことは一度もなかった。俺も言わなかった。今初めて、俺はそれをこの人の前で言葉にしたんだ。
「……前原くん」
赤坂さんがゆっくりと口を開く。慎重に言葉を選ぶように。
「本気で言っているのかい……最悪の場合、彼女と長いこと引き離されることになるかもしれない。そうでなくとも、君の経歴には取り返しのつかない傷が付く。せっかく今、二人の未来を誓ったばかりだろう」
その通りだ。自首なんてすれば、何もかも台無しになるかもしれない。詩音と所帯を持つどころか、下手をすれば長い間、こいつと離れ離れになっちまう。……怖くないわけがない。
それでも。
「だからこそ、なんです」
俺は絞り出すように言った。
「罪を隠したまま、偽名の陰で二人の幸せを築く。そんなもの、砂の上に家を建てるようなもんだ。いつ過去がばれるか、いつ全部が崩れるかと怯えながら生きていくなんて、俺は嫌なんです。詩音を、そんな嘘の上に成り立つ暮らしに縛りつけたくない」
グラスを握る手に力がこもる。
「俺はあの女に言ったんです。殺しは殺しだ、その罪からは逃げられないって。……なら、俺だって同じだ。自分の罪にだけ頬っかむりして、知らん顔で幸せになるなんてできやしない。筋が通らないんですよ」
どんな罰を受けることになっても。離れる時間ができてしまっても。一度きちんと過去にけじめをつける。全部を清算して、後ろ暗いものを何ひとつ抱えないで……いや、そんな格好良いもんじゃないな。
殺しは殺しだ。清算なんて、償いきることなんて出来やしない。過去は消せない。それを背負ったまま、生きていくしかないんだ。でも、その背負い方は俺が決めることが出来る。
背を向けたまま引き摺るんじゃなくて、向き合って、しっかりこの両肩にかついで歩いていく。
その上で、こいつの隣に立ちたいんだ。これは、偽善だ、単なる自己満足だ。それでも……俺は。
「遠回りになるかもしれません。それでも、本当に二人で生きていくためには、これがどうしても必要なことだと思うんです」
言い終えて、俺は長く息を吐いた。
赤坂さんは俺の目を、しばらくじっと見ていた。やがて、ふっとその肩から力が抜ける。それ以上、本心かどうかを確かめようとはしなかった。
そして、あの人は視線を俺の隣へ——詩音へ移した。
「……園崎さん。君は本当に、それでいいのかい」
静かな問いだった。
詩音は一瞬、言葉に詰まる。それから、へらっといつもの調子で笑ってみせた。
「もー。しょうがないんですよ、この人。一度こうと決めたら、てこでも動かないんですから。私がどれだけやめときましょうよって止めても、全然聞きゃしないんです」
やれやれと肩をすくめる。まるで聞き分けのない子どもの世話を焼く、姉さんみたいに。
けど。
テーブルの下で、俺の服の裾をきゅっと握りしめている、その手に。俺は気づいていた。
あっけらかんと笑ってみせて、本当は、こいつが誰よりも怖いんだ。俺がどうなっちまうのか。また、あの時みたいに引き離されるんじゃないか。そう思えば、不安でたまらないに決まってる。
なのに、こいつは俺の覚悟を否定しない。笑って、隣にいてくれる。
……赤坂さんも気づいているんだろう。詩音のその強がりに。俺たちを見るその目に、どこか痛ましげな、優しい色を滲ませた気がした。
「君たちの覚悟が中途半端なら、間違いなく僕は止めていただろうけど……いや、立場上それもマズイんだけどね」
頬を掻いてから、赤坂さんは優しく、その口元を緩めてくれた。
「でも、二人の思いはよく分かった。ここまで戦ってきた間柄だ、最後まで私なりの方法で、見届けさせてもらおう……圭一くん」
興宮署での取り調べは、思っていたような、厳しいものじゃなかった。
俺は、何もかも包み隠さずに話した。沙都子が、叔父の鉄平から受けていた、むごたらしい虐待のこと。誰も助けてくれなかったこと。あの綿流しの夜、金属バットで鉄平を手にかけ、山に埋めたこと。一つも嘘をつかなかった。都合の悪いことも、全部だ。
取り調べにあたった刑事は、歳のいった、物静かそうな人だった。俺の話を、途中で遮ることもなく、最後までじっと聞いてくれた。時おり、眉間に深い皺を寄せて。沙都子の受けていた仕打ちのくだりでは、机の上で、拳を固く握りしめてくれた。
罪は、罪だ。覚悟はしていた。有罪になることも。最悪、少年院へ送られて、長いこと詩音と引き離されることも。全部、呑み込んだ上での自首だった。
だが——下された判断は、俺の覚悟とは違うものだった。
逮捕はもちろん、送致すら見送られたのだ。
呆気ないくらい、あっさりと。俺は、罪に問われなかった。
理由については、赤坂さんにそれとなく教えてもらった。
あの大災害で、そもそも鉄平の遺体も、何もかもがとうに失われていて、事件を立証するもの自体が、もう存在しないこと。沙都子が置かれていた、あまりに凄惨な状況。そして——その虐待を、周りの大人も、警察も、誰ひとり救えなかったという、拭いきれない負い目。
だいぶ後になって、知ったことだが。
今回の件、赤坂さんが、陰で色々と動いてくれていたらしい。あの人が、どこまで骨を折ってくれたのか分からない。だが、俺の処遇がこんな形に落ち着いたことの裏には、あの人の尽力もあったことは間違いない。「私なりの方法で見届ける」。あの言葉は、文字通りの意味だったのだ。
だが——お咎めなし、で。それで、終わりじゃなかった。
処遇は一通り済んだ最後の日に。あの物静かな刑事が、俺を、まっすぐに見据えて、言った。
「いいか、少年」
聴取の時の、穏やかな声とは違った。腹の底に、ずしりと響く、重い声だった。
「お前さんの事情は、分かっている。同情もする。守りたいものがあった、その気持ちも、痛いほど分かる。……だがな。それでも、人を殺していい理由には、絶対にならんのだ」
俺は、黙って頷いた。
「どんな事情があろうと。どれだけやむを得なかろうと。人が人を殺めるってことは、この国では決して許されない。そしてそれは、お前さんが、一生、背負っていかなきゃならん罪だ。それだけは、忘れないでくれ」
怒っているようで。そのくせどこか、泣いているようにも、聞こえる声だった。
……その通りだ。
俺が、あの女に突きつけた言葉。殺しは殺しだ。その言葉が、そっくりそのまま、今度は、俺自身に返ってくる。当たり前だ。俺だって、人を殺したんだから。
この罪は、消えない。償いきれもしない。だが、だからこそ。俺は、それを、一生、この肩にかついで、生きていく。この刑事さんの言葉を、忘れずに。
「……はい。肝に、銘じます」
興宮署の前で。俺は、深々と頭を下げた。
その数日後。
俺と詩音は、名古屋駅の、新幹線のホームに来ていた。
赤坂さんが、東京へ帰る日。彼の見送りに。
夏の盛りの昼下がり。ホームには、むっとした熱気と、人のざわめきが満ちている。発車までのわずかな時間。俺たちは、売店の脇で向かい合っていた。
「本当に……何から何まで、お世話になりました」
俺がそう言うと、赤坂さんは、ふっと目を細めた。それから、おもむろに、俺たちに向かって——深々と、頭を下げた。
俺も詩音も、ぎょっとする。
「あ、赤坂さん!? やめてくださいよ、往来で」
「……礼を言うのも、詫びるのも、こっちのほうだ」
頭を下げたまま、赤坂さんは言った。
「私は自分の執念で、君たちを危険な場所へ引きずり込んでしまった。一歩間違えば、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。……それを承知で、頼ってしまった。本当にすまなかったと思っている」
顔を上げた赤坂さんの表情には、いつもの飄々とした余裕の下に、確かな、悔いの色があった。
「そんな、頭を上げてください」
この人が、詫びることなんて何ひとつない。
「赤坂さんがいなかったら、俺たちは、何も知らないままでした。鷹野のことも、村がなんで消えたのかも。……それどころか、俺は自分の罪からも、ずっと目を逸らしたまま、偽名の陰で、びくびく生きてたと思います」
隣で詩音も、こくりと頷く。
「あなたのおかげで、私たちは、ちゃんと過去と向き合えたんです。前に、進めたんです。……この恩は、ちょっとやそっとじゃ、返しきれません」
俺たちは、二人そろって、深く頭を下げた。
赤坂さんは、少し面食らったみたいだったけど。それから、困ったように、しかしどこか嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、おあいこだね」
「はい、おあいこです」
発車のベルが、鳴りはじめる。
「そうだ」と、赤坂さんが思い出したように言った。
「東京に出てくることがあったら、いつでも、訪ねておいで。……うちの、妻と、娘にも。ぜひ、君たちを、紹介したい」
「はい。ぜひ」
詩音が、ぱっと顔を輝かせる。
「絶対に、お邪魔しますね。そのときは、奥さんに赤坂さんの昔話、根掘り葉掘り聞かせてもらいますので!」
「それは……勘弁してほしいな」
赤坂さんが、苦笑いして、それから、俺に右手を差し出した。その手を、しっかりと握り返す。固く、温かい手だった。
「元気で」
「赤坂さんも。お体、大事にしてください」
赤坂さんは、詩音とも握手を交わすと、くるりと背を向けて、電車へ乗り込んでいった。
やがて、扉が閉まる。窓の向こうで、あの人が、小さく手を上げた。俺たちも、手を振り返す。
新幹線が、滑るように、ホームを離れていく。その姿が、人混みと陽炎の向こうに、だんだんと小さくなって。やがて、見えなくなった。
……行っちまったな。
なんだか、胸に、ぽっかりと穴が空いたみたいな。そんな、寂しさが残った。
でも。
俺は、隣に立つ詩音のその手を、そっと取った。
詩音が、小さく息を呑む。それから、俺の手を、きゅっと、握り返してくる。細くて、柔らかくて、温かい手。その薬指に嵌まった指輪が、ホームの照明を受けて、ちかりと光った。
俺には、彼女がいる。
何もかもを失った、あの日から。それでも、こうして、隣で手を握ってくれる、詩音がいる。失ったものは、もう戻らない。背負った罪も、消えやしない。
それでも——俺たちは、生きていく。この手を離さずに。
「……帰るか、詩音。俺たちの、家に」
「……はい。帰りましょう」
俺たちは、どちらからともなく、歩き出した。
手を取り合ったまま。夏の光の満ちる、名古屋駅の、賑やかな雑踏のただ中へ。
二人で、一歩ずつ。前へ。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。次回、最終回になります!