六月の空は、朝から鈍色の雲に覆われていた。
梅雨の晴れ間というには、どこか湿った風が、小高い丘を撫でていく。その風が、青々と茂った夏草を揺らし、幾百もの墓石の間を、縫うように抜けていった。
その一つの前に、男がひとり、しゃがみ込んでいた。
花立てに挿した白い花を、丁寧に整える。それから、静かに手を合わせ、目を閉じた。長い、長い黙祷だった。
墓石には、いくつもの名が刻まれている。
園崎魅音。
竜宮レナ。
北条沙都子。
ほかにも、数えきれないほどの名前が、一つの丘を埋め尽くすように、並んでいた。小さな子どもの名も。老人の名も。家族まるごと、同じ石に刻まれた名も。それは、かつてこの地にあった、一つの村の——ある夏の夜、忽然と地上から消えた、千二百の人々の、墓標だった。
男は、ゆっくりと目を開けた。
二十代の、後半だろうか。精悍な顔立ちに、どこか懐かしむような、穏やかな光を湛えている。その瞳が、墓石に刻まれた一つ一つの名を、慈しむように、なぞっていった。
——と。
「パパーっ!」
丘の下から、甲高い声が駆け上がってくる。
振り返ると、小さな影が草を蹴立てて、こちらへ一直線に走ってきていた。緑の髪を、頭の後ろで小さくハーフアップに結った、五つかそこらの女の子だ。
「おっと」
勢い余って、女の子の足が、草の根につまずく。たたらを踏んで、前のめりに倒れかけたその体を、男がすっと腕を伸ばして、優しく抱きとめた。
「気をつけなきゃな、
男が笑いかける。慧音と呼ばれた女の子は、こてんと首をかしげて、それから、場所には似つかわしくない、花のような笑顔で、こくんと頷いた。
そして、きょろきょろと、あたりを見回す。
「ここ、四角いお石が、いーっぱいだね」
無邪気な声だった。悪気なんて、どこにもない。ただ、見たままを口にしただけの。
男は、娘の頭に、そっと手を置いた。
「ここはな。お父さんの、大切な人たちが、眠ってるところなんだ」
静かな声で、言い聞かせる。
「みんなが、ゆっくり静かに眠っていられるように……お父さんは、お祈りをしに来てるんだよ」
慧音は、はっとしたように、小さな口をきゅっとつぐんだ。それから、背伸びをして、男の耳元にひそひそと囁く。
「じゃあ、けーちゃんも……静かにしなきゃ、だね」
その健気な気遣いに。男の口元が、ふっとほころんだ。
慧音は、ひとつ、またひとつと、墓石を見て回る。やがて、その足が、丘の一角で、ぴたりと止まった。一つの墓石を、じっと、見上げている。
まるで、そこに、何かを見つけたみたいに。
——その、小さな背中を追うように。
「こら、けーちゃん」
丘の下から、今度は、やわらかな女性の声がした。
「あんまり走り回らないの。転んだら、大変でしょう?」
ゆっくりと歩いてくるのは、白いワンピースを着た女性だった。
男と、同じ年頃だろうか。緑色の長い髪を、娘とおそろいのように、ハーフアップにまとめている。たおやかな立ち姿の中に、どこか、芯の強さをうかがわせている。
女性は、男の隣に並ぶと、ふう、と一息ついて、一面の墓石を見渡した。
二人の視線が、交わる。どちらからともなく、やわらかく微笑み合った。
「一年ぶりに来たけどさ」
男が、ぽつりと言う。
「周りの木が、だいぶ取り払われたんだな。見晴らしが随分よくなった」
「ええ」
女性が頷く。
「これなら、お姉たちも……退屈せずに、走り回れそうですねぇ」
「おいおい、詩音」
男が苦笑する。
「こんなときまで、部活かよ」
「ふふっ」
詩音と呼ばれた女性は、いたずらっぽく笑った。
「圭ちゃんも、混ざってきたらどうですか?」
前原圭一は、やれやれと肩をすくめて、それでもどこか楽しげに笑った。
彼の妻である詩音は、手にしていたいくつもの花束を、ゆっくりとほどいていく。そして、魅音の、レナの、沙都子の墓前に、色とりどりの花を、一輪、また一輪と、そっと供えはじめた。
圭一も、その隣で、残りの花を手に取り、ほかの墓石にも、一つずつ、丁寧に手向けていく。
穏やかな、静かな時間が流れていた。
一方。慧音は、両親から少し離れた場所で、ひとつの墓石の前に、ちょこんと立っていた。
その、小さな石に刻まれているのは——古手梨花、という名。
けれど、慧音が見上げていたのは、墓石じゃなかった。そのすぐ上。お墓に座るようにして浮かぶ、ひとりの少女の姿だった。
夏の淡い光を透かして、その姿は、うっすらと向こう側が見えるほどに、儚い。薄紫色の髪。古めかしい、巫女の装束。そして、頭の左右には、小さな角が、ちょこんと二本、生えていた。
ふつうの子どもなら、怖がるか、泣きだすところだろう。
だが慧音は、きょとんと目を丸くして、首を傾げただけだった。
「おねーちゃん、だぁれ?」
無邪気な問いかけに、少女のほうが驚いたように、その目をまんまるにする。
「……ボクが、見えるのですか」
おずおずと、そう返す声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「うん!」
慧音が、元気よく頷く。それから、少女の頭の角を指さして、きらきらと瞳を輝かせる。
「ねえねえ、その角、かっこいいねっ!」
その一言に。
少女は、一瞬、言葉を失った。それから、ふにゃ、と。泣き笑いみたいに顔をくしゃくしゃにする。目尻には、きらりと光るものが滲んでいた。
少女は、ゆっくりと宙から舞い降りて、慧音と、目の高さを合わせる。そして、その小さな頭に、そっと手を乗せようとした。……透き通った手は、慧音の髪を、すり抜けてしまったけれど。
「前原、慧音」
少女は、慧音の名を呼んだ。まるで、ずっと昔から知っていたみたいに。
「貴女は今……幸せですか」
「しあわせ……?」
慧音が、きょとんとその言葉を繰り返す。
「……毎日は、楽しいですか。お父さんと、お母さんのことは……好き、ですか」
「うん!」
慧音は、迷いもせず、満面の笑みで、大きく頷いた。
「パパもママも、だーいすき!パパね、ときどきママを怒らせちゃって、ボッコボコにされちゃうんだよ?この前なんかね、ママが電気がバリバリってするやつでパパを──」
——無邪気な言葉を聞きながら。無邪気な笑顔を見つめながら。
少女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「え、おねーちゃん、どうしたの?お腹、痛いの?」
少女は、ふるふると、首を横に振った。涙を、ぽろぽろとこぼしながら。それでも、その顔は——とても、とても幸せそうに。
「……ありがとう」
少女の姿が、淡い光の粒になって、少しずつ、宙へ、溶けはじめる。
「慧音。これからも——」
その瞬間だった。
儚い少女の姿に、ふっと、別の面影が重なった気がした。少しだけ、大人びた、凛とした表情で。その唇が、やわらかく弧を描く。
「——圭一と詩音を、よろしくね」
深くて、慈しみに満ちた声に。
「え……?」
慧音が目を瞬く。見る間に、その姿は光に溶けて、薄れていく。
「おねーちゃん、待って!お名前は……っ?」
慧音が、小さな手を宙へ伸ばす。
消えゆく少女は、最後に、くしゃりと、顔じゅうで笑った。涙に濡れた、けれど、どこまでも晴れやかな、笑顔で。
「——にぱ〜☆」
その、無邪気な笑い声を残して。
少女の姿は、六月の光の中へ、跡形もなく、溶けて消えた。
あとには、ただ、「古手梨花」と刻まれた、小さな墓石が、ぽつんと残されているだけだった。
「……パパーっ!ママーっ!」
慧音が、くるりと振り返り、両親のもとへ、ぱたぱたと駆けていく。今、見たものを、伝えたくてたまらない、という顔で。
圭一と詩音が、娘を迎える。何事か、一生懸命に訴える慧音に、二人は、顔を見合わせ、それから、やわらかく、微笑んだ。
娘の目に、何が映ったのか。それを知るすべは、二人には、ない。けれど——きっと、悪いものじゃないはずだ。
丘を、六月の風が吹き抜けていく。
青い草が、さざなみのように揺れた。幾百もの墓標が、その風の中で、静かに、安らかに、佇んでいる。
失われたものは、もう還らない。けれど、残された者たちは、こうして手を取り合って、生きていく。その想いを、その傷を、抱きしめたまま。逝った者たちに見守られて。
めぐる季節の中で。
今年もまた、あの声が、聞こえてくる。梅雨の終わりを告げるように、どこか遠くの梢から、かなかな、かなかな、と。
そう。
——ひぐらしの、なく頃に。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
後祭、これにて完結となります。オリジナルスクリプト、虚崩し編をプレイさせていただき、その熱量と作り込みにまんまと脳を焼かれている身であり、今般つい筆を取ってしまったのが始まりでした。あの祟り殺しアフターのあったかもしれない未来を書いてみたいと、割と見切り発車でしたが、なんとか走り抜けることが出来ました。本当に、ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございました。
圭一と詩音の物語ということで、原作ファンの方々には、すんなりと受け入れていただくのは難しい組み合わせかとは思います。ただ、自分は二人の組み合わせは昔から結構好きで、公式サイトの二次創作掲示板やアンソロジーや個人サイトなどでも少ないながら、読んでいた過去もあります。必ずしもカップリングとかではなく、利害が一致した時には抜群のコンビネーションを見せる相棒感も好きでした。
今回、後祭の本編は完結いたしました。ただ、後祭はもう少しだけ続きます。いや、もう少しというよりも、もう一つ別ルートを考えていて、そちらを書いていこうと思います。
これは、本編から分岐したルートですが、全く新しい物語になる予定です。当初、このルートを書こうと思い構想を練っていたくらいです。なので、やはり長いです。なんなら本編よりも長いかもしれません。
暫く設定を詰めてから書き始めようと思いますので、間が空いてしまうかとは思いますが、引き続き何卒よろしくお願いします!