夏油傑
──つい先程まで肉体を苛んでいたはずの、右腕を失った断面からの灼熱の激痛も。
喉の奥にこびりついて離れなかった、吐潟物を処理した雑巾のような呪霊の不快な味も。
そして、この十年間、自身の胸を焦がし、惑わせ、狂わせ続けてきた非術師への重苦しい憎悪さえも。すべてが、遥か遠くの霧の彼方へと霞んで消えていくようだった。
夏油傑の最期の記憶は、薄暗く、ひび割れた新宿の路地裏のコンクリート の上で終わっている。
自身の持てるすべてを注ぎ込んだ百鬼夜行の果て、乙骨憂太というあまりにも規格外で、あまりにも残酷な輝きを放つ原石の前に、夏油傑は敗北した。
呪霊の大半を失い、右腕をもがれ、満身創痍の体を引き摺るようにして逃げ延びた先。
そこで待っていたのは、他でもないこの世で唯一、心から信頼し、魂の片割れだとさえ思い、そして決定的に道を違えてしまった親友、五条悟だった。
そんな親友、五条悟の手によって夏油傑の命は断たれた。
「一人は寂しいよ」
親友が絞り出すように落としたその言葉が、夏油の胸を深く、深く抉り、貫く。
「はっ、最期くらい、呪いの言葉を吐けよ────」
血を吐きながら、夏油は目の前に立つ親友を見上げ、驚きながらも、微笑み、残された力を振り絞って放った言葉。
致命傷を与えた五条の顔は、平静を装ってはいる。が、夏油には分かってしまった。
世界を文字通りひっくり返してしまえるほどの人物。『最強』であるその顔の奥底は、世界を単独でひっくり返せる最強の呪術師などではなく、ただの不器用で、今にも泣き出しそうな、置き去りにされた子供のようだったと。
だから夏油は笑った。笑うしかなかった。呪いの言葉など、吐けるはずがなかった。彼がどれほど非術師を猿と見下し、呪術界そのものを憎悪し、己の魂を泥で塗り固めようとも、夏油の世界の中心には、常にあの『青い春』の記憶が居座り続けていたのだから。
五条悟、家入硝子。あの広い高専の教室で、たった3人だけの同級生。くだらないことで言い争い、任務帰りに自販機のアイスを分け合った、あの三人での日々。天内理子の任務があり、灰原雄の凄惨な死があり、夏油の心がじわじわと摩耗して、ついには取り返しのつかない境界線を越えてしまったあの日まで、『夏油傑』は確かに幸福だったのだ。
夏油の魂は、五条のその不器用な弱音によって、そして彼自身の手で引導を渡されたことによって、確かに救済された。独りよがりの狂気に満ちた大義は、ここで潰える。彼の手で終わらせてもらえるのなら、この十年に積み上げた罪の山も、実の親を手にかけてまで背負った業も、すべて帳消しにして、静かな暗闇に溶けていけると、夏油はそう信じていた。瞳が光を失い、意識が永遠の暗淵へと沈み込んでいく。
──そう、思っていた。
「……随分と、風通しのいい。情緒に欠けた地獄だね。閻魔大王もいなければ、三途の川も見当たらない。あるのはただ、骨の髄まで冷え切るような静寂だけ、か」
生温い風に包まれた灰の地面から身を起こすと、ひび割れた新宿の路地裏のコンクリートは跡形もなく消え去っていた。乙骨憂太の純愛の砲撃によって失われたはずの右腕も、何事もなかったかのように元通りに繋がっている。
視界を覆うのは、肌にまとわりつくような白い霧と、見上げれば不気味に口を開く光を持たない暗黒の太陽だけだった。
そして夏油の目の前で、パチパチと音を立てる焚き火を囲んでいる一人の男。
細身の長身に、金髪の長髪。現代風の衣を身に纏い、知的さを思わせるサングラスをかけている。だが、その洗練された外見とは裏腹に、男の周囲には濃密で血生臭い、圧倒的な『死』の気配が漂っている。
「地獄じゃない。ここは冥界ミクトランパだ。歓迎するぜ?
男は、口に咥えていた煙草をゆっくりと外し、煙を白い霧の中に吐き出した。その煙に包まれた男の、眼鏡の奥の赤い瞳が、淡々と夏油を観察しているようだった。
「オレはテスカトリポカ。しがない冥界の神って奴だ。お前がいつまでもそこの地面の上で、死んだ魚のような顔をして突っ伏しているから、わざわざ声をかけてやったんだがね」
「……冥界の、神。非術師を猿と呼び、大虐殺を企てた最悪の呪詛師の末路にしては、随分と上等な出迎えじゃないか」
「それで?私をどうするつもりだい。私の魂を切り刻んで、永遠の苦痛でも与えるのかな」
夏油が皮肉げに笑うと、テスカトリポカは眉をひそめ、それに反論する。
「笑わせるな。人間が人間を間引きしようが、オレから見ればよくある生存競争の為の小競り合いだ」
「善人だろうが悪人だろうが関係ない。お前が何人殺したか、どんな狂った理屈を捏ね回したかなんてのは、死後の世界であるこの地、ミクトランパにとっては便所の落書き以下の価値もない」
「オレの評価基準はただ一つ、『戦士』として己のすべてを懸けて戦い抜いたのか、そして敗北したかどうか。それだけだ」
テスカトリポカは手元の木の枝で、焚き火の薪を突いた。火の粉が空へと舞い上がり、霧の中に溶けて消えていく。
「現世の人間という生き物は、どうにも死を忌み嫌う。死を悲劇だの、罰だの、終わりだのと喚き散らす。だがな、夏油。死というのはただの『結果』であり、戦士がその命を、存在を、有様を、全てを燃やし尽くした後に支払う正当な『対価』に過ぎん」
「お前は自分の信じたその『大義』のために、親友も、親も、己の誇りすらも天秤にかけて泥を被った。そして最後は、世界を相手に大立ち回りを演じて、綺麗に負けた」
「……買い被りはよしてくれないか。私はただの理想主義者で、己の限界に潰れたただの間抜けだよ」
「自嘲はよせ。その泥臭い執念、私欲ではなく一つの信念のために魂をすり減らしたその生き様は、立派な戦士のそれだ。だからこそ、ミクトランパは戦い抜いたお前を迎え入れた。……さあ、顔を上げろ。お前の闘争は終わった。戦士の休息の時間だ」
テスカトリポカが顎で指し示したその先。霧が晴れたその向こうに、深く、静謐な緑の森が広がっていた。一切の苦痛も、現世の血生臭い闘争も届かない、絶対的な安息の地。
「あの森へ行け。実のところ此処は冥界の入口、この先こそが真のミクトランパだ。あそこなら、呪霊を取り込む時の吐瀉物の味も、現世の不条理も、お前を縛り付けていた憎悪も、何一つ感じなくて済む。何も考えず、ただゆっくりと、静かに眠り、次の戦いへと備えることができる。働き詰めで心が壊れた敗残兵には、これ以上ないご褒美だろう」
──森から吹く風は、驚くほど甘く、穏やかだった。
あの森へ足を踏み入れれば、完全に『
その誘惑は実に甘美で、魅力的で、心を惑わせる。
夏油の足は、自然とその森へ向けて一歩、前へと出そうになった。
だが、
「……」
夏油は、その足を空中で止め、そして、静かに灰の地面へと下ろした。
「どうした? 歩き方も忘れたか」
「……すまない、テスカトリポカ。神の厚意を無下にするようで申し訳ないが、私には、まだあの森で休む資格がないようだ」
「資格、だと? 敗者の分際で何を寝言を言っているんだ。お前の魂はボロボロだ。もう現世に帰る切符はないんだぜ?」
「わかっている。だが……私には、現世に置いてきてしまった『家族』がいるんだ」
夏油の脳裏に、鮮明に蘇る顔があった。
菜々子と、美々子。夏油にとっての『訣別の日』。あの鄙びた忌まわしい村で、非術師の大人たちに座敷牢に閉じ込められ、汚物に塗れながら身を寄せ合っていた幼い双子。彼が村民を皆殺しにし、彼女たちを血溜まりの中から抱き上げたあの日から、彼らは家族になった。
クレープの味に目を輝かせ、「夏油様」と呼んで無邪気に笑う彼女たちの姿。
そして、己の狂った思想に共鳴し、不完全な神輿を命懸けで担いでくれたラルゥ、ミゲル、菅田、真奈美、祢木。
彼らは皆、呪術界という巨大な組織から弾き出され、居場所を失ったはぐれ者たちだった。夏油が彼らに居場所を与え、そして同時に、「非術師を憎む」という呪いを背負わせてしまった。
「……私は、彼らに何も残せなかった。ただ修羅の道に引きずり込み、手を血に染めさせ、呪術界という強大な敵を作っただけだ。私がここで勝手に死を受け入れ、安息の森で眠りにつけば、残された彼らはどうなる?」
夏油は、自分の胸を強く握りしめた。
「彼らはきっと、私の死を嘆き、居場所を失い、途方に暮れるだろう。あるいは、私を殺した高専に、勝ち目のない復讐を挑むかもしれない」
「……私は親として、彼らの王として、常に強く気高く、完璧な『夏油様』でいなければならなかった。私の命は、とうの昔に私一人のものじゃなかったんだ。可愛い可愛い家族の皆を現世の地獄に置き去りにしたまま、自分だけが安息を得るなど……それこそ、死んでも御免だね」
夏油がそう言い切ると、テスカトリポカは煙草の火を指先で揉み消し、ゆっくりと立ち上がった。
眼鏡の奥の瞳が、僅かに興味深げに細められる。
「なるほど。綺麗事ではなく、意地と見栄と、底なしの執着か。己の無様さを自覚しながらも、なお親を、王を気取ろうとするその傲慢さ。良いな、嫌いじゃないぜ?」
テスカトリポカは静かに口角を吊り上げる。
「死してなお、その重苦しい執念を抱えている。お前のその感情には『価値』がある。いいだろう、夏油傑。お前がただの諦めた敗者じゃないと言うなら、ミクトランパの神であるオレが、特別な
「取引……?」
「そうだ。神は無慈悲だが公平だ。代償さえ払えば、なんだって叶えてやる。お前が死を望まないと言うんなら、選択肢は二つに絞られた」
「一つは、代償を払って現世に蘇る。ボロボロの身体を修復し、もう一度拳を握って戦場に舞い戻り、家族とやらの上に立つ。そしてもう一つは、代償を払って、時間を遡って一からやり直す。お前が望む過去の分岐点から、もう一度人生のサイコロを振り直す。……さあ、どうするつもりだ?
────蘇るか、やり直すか。
夏油は苦笑し、首を振った。
「そのまま蘇るというのは、無理な話だ。今の私は、百鬼夜行で呪霊のストックを使い果たしたただの空っぽの的だ。そんな無力な姿で現世に戻ったところで、呪術界の刺客から家族を守ることなどできはしない。残るは『やり直す』だが……神様、取引の前に一つ、頼みを聞いてくれないか」
「何だ? 言ってみろ」
「私が死んだ後、世界はどうなった? 悟は……私の遺体をどうしたんだ? 私は、私が遺したものがどうなったのかを知りたい」
テスカトリポカは、しばらく夏油を見下ろしていたが、やがて短く息を吐いた。
「真実を知れば、お前は今の何倍も絶望するぞ。それでも見たいか」
「……まあいい。オレの権能の一つ、『先』と『後』を入れ替えて、現世の行く末をここに映し出してやる。特等席で、己の遺した火種がどう燃え上がるか、その目に焼き付けるといい」
テスカトリポカが斧付きのワルサーを虚空に向けて振るうと、周囲の白い霧が巨大なスクリーンとなり、現世の光景を鮮明に映し出した。
「これは……渋谷、か?」
映し出されたのは、数多の異形の呪霊が一般人を引き裂き、貪り食う地獄絵図。
そして地下のプラットホームで、無数の改造人間たちに囲まれながらも、圧倒的な力でそれらを蹂躙する親友──五条悟の姿があった。
「悟……やはり、君は一人でも……」
安堵したのも束の間、一般人を守るために領域展開を放ち、疲弊した五条の前に、一つの奇妙な立方体が投げ出された。
『獄門疆 開門』
そして、動揺する五条の前に歩み出てきた人物を見て、夏油の心臓は完全に凍りついた。
『や、悟』
『久しいね』
──袈裟を纏った、夏油傑の肉体がそこに立っていた。
「な…んだ、これは…!?私は、死んだはずだ……!悟が、この手で私を……!」
「よくその顔を見てみろ。額に不気味な縫い目があるだろう?」
テスカトリポカの冷徹な声が響く。
「別の、千年も昔から生き延びている薄汚い化け物が、お前の脳髄を捨てて、自分の脳ミソと入れ替えた。お前の肉体は今、ただの乗り物として泥棒に乗っ取られているってワケだ」
「ふざけるな……!!」
夏油の怒号が霧を震わせる。映像の中の五条は、あり得ない親友の姿に脳の処理が追いつかず、完全に硬直していた。
『俺の魂がそれを否定してんだよ、さっさと答えろ!オマエは誰だ!!』
悲鳴のような五条の叫び。その致命的な隙を突かれ、世界を支える最強の存在は、獄門疆の中へと封印され、引きずり込まれていった。
「私の、私の身体で、悟に何をしている…!あの気色悪い寄生虫は、私の肉体を使って、悟を……!!」
夏油が激しい怒りと絶望に顔を歪めたその直後。
息をつく暇すら与えず、映像はすぐさま次の光景を映し出した。
五条悟が封印された直後。未だ混乱の渦中にある、血生臭い新宿のとあるビルの中。
そこにいたのは、菜々子と美々子だった。彼女たちは息を荒く、絶望と恐怖に満ちた顔で、たった今虎杖悠仁の体を奪ったばかりの『呪いの王』──両面宿儺の前に跪き、冷たいコンクリートに額を擦り付けていた。
夏油の肉体を奪った偽物を殺害してもらうため。ただそれだけのために、少女たちは絶対的な死の象徴にすがりついていたのだ。
『…お願い、します。額に縫い目のある袈裟の男を殺して下さい。夏油様を解放して下さい───』
菜々子が恐怖を押し殺しながらに懇願する。美々子は頭を下げ続け、震えながら宿儺に見下されている。
だが、
『面を上げろ』
宿儺の冷酷な声。
次の瞬間、何の慈悲もなく、何の前触れもなく。
美々子の身体は、見えない斬撃によって頭蓋を断ち切られ、頭を失った身体がゴトンと音を立てて崩れ落ちる。
それに絶叫し、咄嗟に宿儺にスマホを向けた菜々子も、斬撃により文字通り細かく切り刻まれ、大量の血飛沫と共に、ただの肉塊へと変わった。
「あ…………ぁ…………」
夏油の喉から、声にならない空気が漏れ、心の声が世界へと滲み出す。
「菜々子…!美々子…!ああぁぁぁぁぁああああっ!!!」
夏油は地面に膝をつき、両手の指が白い地面に深く食い込むほど力強く土を握りしめた。喉の血管が破れんばかりの絶叫を上げる。
自分が非術師を殺すのはいい。地獄に落ちるのも構わない。だが、己が守りたかった、己を慕ってくれたあの子たちが、己の肉体を奪った偽物のせいで、あんなにも無惨に、ゴミ屑のように屠られるなど。
───絶望は、さらにその先へ。
映像は無慈悲に加速し、封印された五条悟という抑止力を欠いた世界が崩壊していく様を映し出す。偽夏油──羂索と名乗る化け物は、夏油の肉体と呪霊操術を悪用し、『死滅回游』という未曾有の殺し合いの儀式を開始した。
そして行き着く果ては、獄門疆から復活した五条悟と、両面宿儺による決戦。神話のような死闘の末、宿儺の放った『世界を断つ斬撃』によって、五条悟の身体は真っ二つに両断され、事切れた。
「ぁ………………」
全てが終わり、夏油傑を構成する全てがゴミ箱にぶち込まれたように。様々な感情が混じり合い、どろどろに溶け合い、汚されたように。
その結果、親友の死に声の一つも出すことが出来なかった。
映像が消え、再び白い霧と静寂が訪れる。
「これが結末だ」
テスカトリポカの声が、冷淡に宣告する。
「お前の身体を利用した寄生虫が火種を撒き散らし、お前を慕った家族は新宿の土地で無惨に挽肉にされ、ただ一人の親友は真っ二つになって死んだ。……自分が遺した現実の味はどうだ?」
「…………私が、愚かだったんだ!」
ようやく声を絞り出すことができた夏油は、両手から滴る血も気にせず、地面を強く殴りつけた。
「私が道を間違え、あそこで悟に処理を任せて死んだから。一人は寂しいと、あいつの心を泣かせたまま逝ったから……あいつは私の遺体を高専に渡せなかった! 私の『大義』が!非術師を殺すという独りよがりの狂気が!結果として私の愛したすべてを、地獄の底に突き落としたんだ!!」
あの時、悟はずっと孤独だったのだ。最強という名の絶対的な孤独。夏油が大義に逃げず、あの狂った世界で共に呪術師として立ち続けていれば、彼はあんな結末を迎えなかった。菜々子も美々子も死ななかった。
「……テスカトリポカ」
夏油はゆっくりと顔を上げた。涙で視界はぼやけていたが、その瞳からは、呪詛師としての濁った狂気は完全に消え失せていた。あるのはただ、どす黒く、冷たく燃え盛る決意の炎だけだった。
「一からやり直す。あの決定的な分岐点へと至る前──高専時代に戻してくれ」
「いいだろう。だが、タダではない。お前にとっての『最大の武器』を置いていけ。お前を戦士たらしめていた、その全てを差し出せ」
夏油はためらうことなく口を開いた。
「私の最大の武器。それは私を狂わせ、十年間私を支え続け、心を保護していた強固な鎧、『大義』だ。非術師を憎み、淘汰し、呪術師だけの世界を創るという信念。それと……私の核たる力、『呪霊操術』も渡そう。術式と信念、この二つで、私の人生を買い戻す」
テスカトリポカは眼鏡の奥の目を細め、静かに夏油を見据えた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「いや、術式は必要ないな。対価としては、その『大義』とやらだけで十分に足りている」
「何……?しかし、それでは……」
「おいおい、神が足りていると言っているんだ。余計な気遣いはしないで受け取っておくのが取引のコツだぜ?覚えとくと良い」
「己の存在意義そのものだった大義を置いていくというのなら、それを受領しよう。それを失えば、お前の行動原理は崩壊する。現世に戻った瞬間、自分が何のために生きているのかすら見失うかもしれないぞ?」
「──構わない」
夏油は、憑き物が落ちたように穏やかに笑う。
「あんな寄生虫に私の肉体を汚され、家族や悟を死に追いやるくらいなら、私は何度でも私自身の信念を殺してやる。大義など、あいつらの命に比べればただの安いゴミ屑だ。私は、あいつらを生かすためだけに、過去を書き換える」
テスカトリポカは静かに頷き、手にしたワルサーの銃口を夏油の胸へと向けた。
「その重苦しい憎悪、確かにオレが取引として受領した。行け、
引き金が引かれた。
放たれた純白の光が、夏油傑のすべてを呑み込んでいった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「──傑!おーい、傑ってば!聞いてるか?」
耳をつんざくような蝉時雨。肌を焦がす真夏の太陽。鼻を突くアスファルトの匂い。
夏油が目を開けると、そこには丸いサングラスを少しずらし、不満そうに口を尖らせている十代の少年の姿があった。
五条悟。まだ『最強』の座に一人で座る前の、傲慢で口の悪い、二人で最強だった頃の親友。
時系列は、あの星漿体護衛任務よりも前。夏油の心が決定的に壊れる、その少し前の夏だった。
「……ああ。うるさいな、悟。そんな大声を出さなくても聞こえているよ」
夏油は自分の声の若さと、喉の渇きに驚きながら、周囲を見渡した。高専の古い木造校舎へ続くグラウンド。自販機の赤いランプ。
「嘘つけ、絶対聞いてなかったろ。さっきから魂抜けたみたいなツラしてさ。もしかして昨日の任務の呪霊、よっぽど不味かったわけ?」
「いや……そういうわけじゃないさ」
夏油は己の胸に手を当てた。
驚くべきことに、あれほど己を苛んでいた『非術師への激しい憎悪』が、嘘のように消え去っていた。猿と呼ぶ理由も、皆殺しにするという強迫観念もない。
大義という屋台骨が消え、胸の奥にはぽっかりと巨大な穴が空いている。だが、その空白を埋めるように、黒く、重く、そして甘い感情が急速に渦巻き始めていた。
それは、「今度こそ、大切な者は誰も理不尽に死なせない」という、狂気的なまでの『愛執』だった。
「おいおい、何だよその顔。泣きそうなの? 傑がそんな顔すると気色悪いんだけど」
「誰が気色悪いだ。少し、長い夢を見ていただけさ」
「何やってんの、あんたら。また不毛な喧嘩?」
校舎の影から、缶コーヒーを片手にした家入硝子が歩いてきた。
「硝子……」
「何、夏油。そんな私の顔を珍しいもんみたいに見て」
「違うぞ、硝子。傑が急にバグったんだ。俺達で最強なのに、こいつ一人で深刻ぶっててさ」
五条が己を指差し、悪びれずに笑う。『俺達』最強。そうだ、この頃の悟は、まだ夏油を隣に並び立つ存在として認めてくれていた。
硝子は鼻で笑い、夏油の額にひんやりとした手を当てる。
「熱はない。呪力も安定してる……。なのに、何だろうね。変なものでも食べた?って、いつも
「手厳しいな。私はただ、少し自分の『責任』について考えていただけだよ」
「責任? 出た出た、傑の得意な『弱者生存』の綺麗事」
五条が退屈そうに頭の後ろで手を組む。
「呪術は非術師を守るためにある、だっけ? ほんっと耳が腐りそうになるわ。強い奴が弱い奴に合わせる必要なんてないだろ」
「私はどっちでもいい。呪術師が怪我して、医務室に運ばれて私の仕事が増えなきゃそれでいいよ。特に夏油は考えすぎる癖があるんだから、たまには悟みたいに脳みそのネジ外して生きたら?」
未来の彼女は、勝つために仲間たちの遺体を解剖し、ただ宿儺を倒すために五条の遺体を修復する。同級生の死体を。ただそれを受け入れるだけの役割を押し付けられていた。
その事実が夏油の胸を締め付ける。夏油は、二人の肩を左右の手でガシッと強く掴んだ。
「わっ!? 何だよ急に熱苦しいな傑!ホントにどうした!?」
「ちょっと、制服シワになるんだけどー」
二人が声を上げるが、夏油は手を離さなかった。
「悟、硝子。よく聞いてくれ」
夏油の声は、ひどく真剣で、重かった。
「私は、弱者を守るために呪術があるという考えを、捨てることにした」
「え?マジで?」
五条がサングラスを外して目を丸くする。
「じゃあ俺の意見に賛成するわけ?」
「違う。強いだの弱いだの、非術師だの術師だの、そんな下らない枠組みはどうでもいいんだ。私は──」
二人を真っ直ぐに見つめ、一文字一文字を噛み締めるように告げる。
「私は、私の大切な仲間を、君たちを、そしてこれから出会う私の家族を、絶対に死なせない」
「誰一人として、この狂った呪術界の都合で理不尽に消費させない」
「私たちを脅かす存在なら、それが特級呪霊だろうと、上層部の老害どもだろうと、星漿体の運命だろうと、私が全部盤面ごと叩き潰す。そのためなら、私はどんな泥だって被るし、どんなルールだって破ってみせる」
「……何それ。プロポーズ?本当にイカれた?」
硝子が呆れたように息を吐きながらも、本気で心配しているのだろう。ちょっと先生呼んでくる。と、校舎へと家入は駆けていった。
「いいじゃん、傑!」
五条が破顔し、夏油の背中をバシバシと叩いた。
「綺麗事やめた傑なんて、最高に面白いって!いいぜ、何する気か知らないけど、俺がお前の隣にいてやるよ。俺達が揃えば、何だってできるだろ?」
「ああ。私たちは、「「最強」」だからね───」
夏油は微笑んだ。
大義は消えた。だが、今の彼には未来の記憶という絶対的なアドバンテージと、この『青い春』の仲間たちがいる。天内も、灰原も、菜々子も美々子も、他の家族たちも、今度は彼が、彼らを全員救い出す。盤面を支配するのは羂索でも宿儺でもない。この夏油傑だ、と。
大義なき、しかし底なしの愛執に満ちた覇道が、今ここから始まる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ミクトランパの白い大地。
テスカトリポカは焚き火の前に座り直し、新しい煙草に火をつけた。
彼の手の中には、ドロドロとした黒黒しい呪いの塊。夏油傑から代償として受け取った『大義』が、不気味な脈動を打っていた。
「試しに今回はアイツと同じ方法で、と思ったが…コレをただの人間が、良くやっていたな。まったく──」
テスカトリポカは静かにそれを見つめ、やがて手の中の『大義』を無造作に口へと放り込み、咀嚼せず飲み込んだ。神の喉を通り抜ける人間の業の味は、極上のスパイスだった。
「己の存在意義だった『大義』を捨てて、ただ親友と家族を救うために過去へ戻った戦士か。牙を抜かれ、丸くなったように見えて、その実、前よりずっとタチの悪い化物に仕上がっている。愛執というのは、時として憎悪よりも深く、残酷に世界を狂わせるからな」
神は、現世の人間たちのその矛盾を何よりも愛していた。己を殺して他を生かそうとする強烈なエゴ。それこそが極上の戦争を生み出すのだ。
彼は手元の斧付きワルサーを撫でた。
「あの男は呪霊操術を対価として差し出そうとしたが……それを受け取ってしまえば、あの頭だけの寄生虫が描いた『死滅回游』という極上の
神の真意はそこにあった。
テスカトリポカは、現世が平和に治まることなど微塵も望んでいない。羂索という狂人が生み出す未曾有の戦争、そしてそれに立ち向かう者たちの血みどろの闘争。それらを引き起こすための『火種』として、夏油に呪霊操術を残したのだ。
交わるはずのなかった運命が交差し、手放されたはずの業が、また別の火種を生む。
だが、テスカトリポカの眼鏡の奥の瞳には、確かな戦士への敬意と、期待の色が浮かんでいた。
「大義を失ったお前が、今度はどんな執着で盤面をひっくり返すか。あの頭だけの化け物をどうやって出し抜き、運命をへし折るか」
「存分に抗え、夏油傑。お前がやり直した先で魅せる『極上の戦争』の成果を、冥界の特等席でじっくり見物させてもらうとしよう」
闘争と血の匂いを愛する神の静かな微笑みが、現世へと波打つように波紋を広げる。
──賽は投げられた。この投げられた小さな小さな一欠片が、彼らにどんな影響与え、どんな結末になるのかは、たとえ神でも想像が付かないのであろう。
今回はアンケートから夏油傑でした。
空港は五条の死亡を見ただけで経由してないので…書けるかはわかりませんが五条編をやる時があれば描写すると思います。
作者はコメントが原動力なのであると嬉しいです(強欲)
次回はコナンのスコッチです。