第26話 うわ、最悪
――軽井沢恵視点
無人島での試験が終わって、ようやく普通の夏休みに戻れる。
少なくとも、あたしはそう思っていた。
シャワーを浴びて、ベッドで寝て、船の中で適当に友達と喋って、ちょっとくらい遊んで。
あの暑くて、汚くて、最悪だった無人島のことなんて早く忘れたい。
そう思っていたのに。
『これより、新たな特別試験について連絡する』
船内放送を聞いた瞬間、周りの空気が一気に沈んだ。
「は? また?」
篠原が思いきり嫌そうな声を出す。
「嘘でしょ……」
佐藤も顔をしかめた。
分かる。
あたしも同じ気持ちだった。
もう十分でしょ。
あんな島で一週間も過ごしたんだから、少しくらい普通に休ませてよ。
そう思っても、この学校がそんな優しいわけない。
『各自、端末に送信されたメールを確認し、指定された時間に指定された部屋へ集合すること。なお、集合時間および集合場所は生徒ごとに異なる。遅刻は認められない』
放送が終わるより少し早く、端末が短く震えた。
周りでも、同じように電子音が鳴る。
軽い音。
画面を開く音。
誰かの小さなため息。
あたしも、自分の端末を開いた。
メールの件名は、特別試験開始の連絡。
そこには、自分が所属するグループ名と、集合時間、集合場所、いくつかの注意事項が並んでいた。
卯グループ。
集合時間、十七時二十分。
集合場所、船内第三談話室。
指定された時間に入室すること。
他グループの集合場所、集合時間を詮索しないこと。
説明開始まで、担当教員の指示に従うこと。
それだけ読んで、胸の奥が少しだけ重くなった。
「え、軽井沢さん何時?」
佐藤が画面を覗き込むように聞いてくる。
「十七時二十分。第三談話室だって」
「えー、私十六時五十分なんだけど。部屋も違う」
「私も違う。第二談話室」
篠原が面倒くさそうに端末を振る。
「何これ、バラバラじゃん」
松下も自分の画面を確認して、少し眉を寄せた。
「私は十七時十分。軽井沢さんとも違うね」
「ほんと、めんど」
あたしは軽く笑って返した。
笑っておけばいい。
こういう時は、文句を言いながらでも、いつもの空気に乗っていればいい。
でも、心の中では少しだけ引っかかっていた。
時間が違う。
部屋も違う。
つまり、いつもの女子たちと一緒には行けない。
佐藤も、篠原も、松下も近くにいない。
平田くんもいない。
それだけで、足元が急に不安定になった気がした。
「まあ、説明だけでしょ? 終わったら合流すればいいし」
佐藤が言う。
「そうそう。終わったら連絡してよ」
篠原が続ける。
「うん。分かった」
あたしは普通に返した。
普通に返せた。
大丈夫。
まだ何も始まっていない。
たかが説明を聞くだけ。
そう思おうとした。
でも、この学校がわざわざ集合時間と部屋を分ける理由を考えると、嫌な予感しかしなかった。
無人島みたいに体力を削る試験じゃない。
たぶん、今度はもっと別のものを削る試験だ。
人の目。
探る声。
何気ない質問。
笑っていても、笑っていない感じ。
そういうものが、頭の中に浮かぶ。
最悪。
本当に、最悪。
あたしは、こういう空気が一番嫌いだ。
十七時二十分の少し前。
あたしは第三談話室の前に立っていた。
廊下には同じように指定された部屋へ向かう生徒が何人かいる。
みんな、少し浮ついている。
でも無人島の時とは違う。
笑っていても、その奥に探る感じがある。
誰が同じグループなのか。
どんな試験なのか。
誰と組めば得なのか。
そんなことを考えている声が、廊下のあちこちに混ざっていた。
あたしは扉の前で一度だけ息を吸う。
大丈夫。
あたしは大丈夫。
中に入ると、すでに何人かが席についていた。
最初にこちらを見たのは、一之瀬だった。
「軽井沢さん、こんにちは。同じグループだね」
「あ、うん。よろしくね、一之瀬さん」
柔らかい声。
それだけで少し助かった気がした。
一之瀬はBクラスの中心みたいな人だし、場を荒らすタイプじゃない。
むしろ、こういう話し合いでは頼りになりそう。
その近くには浜口と別府が座っていた。
浜口は軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします、軽井沢さん」
「うん、よろしく」
Bクラスはやっぱり雰囲気が柔らかい。
それだけなら、まだよかった。
でも、反対側の席に座っているCクラスの女子たちを見て、その気持ちはすぐに萎んだ。
真鍋。
藪。
山下。
名前を知っているだけで、胸の奥が少し嫌な感じになる。
別に何かされたわけじゃない。
でも、真鍋たちとは相性が良くない。
ああいうタイプは、こっちが笑って流している部分を勝手に気に入らないと言ってくる。
女同士の面倒な空気を作るのが上手い。
真鍋が、あたしを見ていた。
にこりともしていない。
ただ、値踏みするみたいな目。
藪と山下も、何か小さく話しながらこちらを見ている。
嫌な感じ。
すぐに目を逸らすのも変だから、あたしは軽く笑っておいた。
「よろしくね」
「……よろしく」
真鍋の返事は短かった。
声が硬い。
やっぱり合わない。
少し離れた席には伊吹もいた。
真鍋たちと同じCクラス。
でも、そこに混ざっている感じではない。
壁に背を預けるように座り、腕を組んで、面倒くさそうに周りを見ている。
馴れ合う感じではないし、陰でこそこそ笑うタイプにも見えない。
でも、だから安心できるかと言われたら、それも違う。
ぶっきらぼうで、何を考えているか分からないCクラスの女子。
それはそれで、十分にやりづらい。
後ろから扉が開いた。
綾小路、幸村、外村が入ってくる。
「軽井沢も同じグループか」
幸村が少しだけ意外そうに言う。
「そうみたい。よろしく、幸村くん」
「ああ。よろしく頼む」
幸村は同じDクラスだから、敵ではない。
ただ、こういう試験では絶対に面倒な理屈を言いそうだ。
綾小路はいつも通り、特に表情を変えない。
「軽井沢もいたのか」
「いたら悪い?」
「いや。別に」
何なの、その反応。
まあ、綾小路らしいと言えばそうだけど。
外村は資料もないのに、すでに何かを読み解いたような顔で頷いていた。
「卯グループ……つまり、これは兎の巣穴に集いし者たちによる心理戦というわけでござるな」
「……外村くん、最初から飛ばさないで」
「む、失敬」
悪い人ではない。
たぶん。
ただ、今は頼りになるかどうか分からない。
最後に入ってきたのは、Aクラスの三人だった。
先頭に町田。
その後ろに森重。
そして、少し遅れて白峰。
町田は部屋に入るなり、空いている席を確認してから、Aクラス同士で固まるように座った。
森重はほとんど喋らない。
白峰だけが、部屋全体を軽く見渡していた。
その視線が、あたしのところで止まる。
目が合った。
心臓が、一拍だけ遅れた。
「軽井沢さん」
白峰が静かに言った。
「……久しぶり」
ただの挨拶。
本当に、それだけ。
なのに、あたしの息は少しだけ浅くなる。
「久しぶり、白峰くん」
笑って返す。
ちゃんと笑えた。
大丈夫。
大丈夫なはず。
白峰はそれ以上何も言わず、町田の隣に座った。
その沈黙が、逆に嫌だった。
何も言わない。
踏み込んでもこない。
でも、さっき一瞬だけ合った目が、まだ残っている気がする。
あたしは白峰のことを、最初から嫌いだったわけじゃない。
そもそも、嫌いになるほど知らない。
Aクラスの男子。
中庭で時々ピアノを弾いている人。
たまに女子の間で話題になる人。
それくらい。
それくらいの認識で終わるはずだった。
でも、終わらなかった。
『軽井沢さんは、空気を止めないんだね』
前に中庭で言われた言葉が、耳の奥でふっと鳴る。
褒められたのかもしれない。
普通に聞けば、悪い言葉ではなかった。
場を明るくできる。
会話を止めない。
そういう意味なら、別に嫌がる必要なんてない。
なのに、あたしには引っかかった。
笑って流したところだけを拾われたようで。
無理に合わせている息だけ、聞かれていたようで。
その感じが、今も少しだけ残っている。
そして今、この部屋にはいつもの女子たちがいない。
平田くんもいない。
代わりにいるのは、真鍋たち。
伊吹。
白峰。
……うわ。
やっぱり最悪。
全員が揃ったところで、真嶋先生が入ってきた。
談話室の空気が少し引き締まる。
先生は教卓代わりの机の前に立ち、手元の資料を開いた。
「これより、卯グループに対して特別試験の説明を行う」
全員の視線が前へ向く。
「今回の特別試験は、十二のグループに分かれて行われる。各グループは十二支の名称で区別される。君たちは卯グループだ」
説明は淡々としていた。
グループごとに指定された時間に集まり、討議を行うこと。
討議は決められた時間と場所で行われること。
グループ内には一人だけ“優待者”が存在すること。
優待者の情報は、試験開始日の午前八時に、該当者本人へだけ通知されること。
各生徒は討議を通じて、協力するか、疑うか、裏切るかを判断すること。
最終的に、優待者を当てるかどうかで結果が分かれること。
正解。
不正解。
黙秘。
裏切り。
協力。
先生の口から出る言葉の一つ一つが、耳に入るたびに重くなっていく。
まだ誰が優待者かは分からない。
明日の午前八時にならないと、本人にすら分からない。
でも、それは逆に嫌だった。
誰か一人だけが、明日の朝から違う立場になる。
その一人を、全員で探る。
隠しているのか。
嘘をついているのか。
誰が普通で、誰が普通じゃないのか。
話し合いという名前で、そういうものを見る試験。
最悪。
本当に、最悪。
「質問がある者はいるか」
先生が言った。
町田がすぐに手を挙げる。
「討議時間外の接触は禁止ですか」
「禁止ではない。ただし、全て自己責任だ。どのような接触が結果に影響するかは各自で判断しろ」
幸村も手を挙げる。
「優待者本人が、自分から名乗り出ることはルール違反になりますか」
「ならない。だが、それが利益になるかどうかは別問題だ」
幸村は少し眉を寄せた。
たぶん、頭の中で条件を整理している。
浜口が丁寧に続ける。
「討議で話した内容を、他グループの生徒へ伝えることは認められていますか」
「制限はしない。ただし、他グループへの干渉が自分たちの結果にどう影響するかは考えるように」
「分かりました。ありがとうございます」
真鍋は手を挙げず、隣の藪と山下に何か小さく耳打ちしていた。
視線だけが、時々こちらへ向く。
伊吹は質問しない。
でも、説明を聞いていないわけじゃない。
目つきはだるそうなのに、必要な言葉だけ拾っているように見えた。
綾小路は黙っている。
外村は何か言いたそうだったけど、幸村に横目で睨まれて大人しくなった。
白峰は、ほとんど喋らない。
ただ、静かに座っている。
何もしていない。
何も言っていない。
なのに、部屋のどこかに白峰の雰囲気が残っている気がした。
先生が一通り説明を終える。
「本日は説明のみとする。正式な試験開始は明日だ。午前八時に通知が送られる。以降、指定された時間に討議を行うこと。以上だ」
教員が部屋を出ていく。
扉が閉まる音がして、談話室に微妙な沈黙が残った。
説明は終わった。
でも、誰もすぐには立たない。
変な空気だった。
ここで何か言うべきなのか。
黙って帰るべきなのか。
最初から疑うのは感じが悪い。
でも、仲良くしすぎても変。
そういう探り合いが、まだ始まってもいないのに空気の中に混ざっている。
最初に口を開いたのは、一之瀬だった。
「明日からよろしくね!せっかく同じグループになったんだし、最初から疑い合うより、ちゃんと話せるようにしていきたいな!」
さすが一之瀬。
こういう時、本当に場を整えるのが上手い。
声が柔らかい。
押しつけがましくない。
それでいて、全員が頷きやすい空気を作る。
浜口がすぐに頷いた。
「僕も一之瀬さんに賛成です。最初から警戒しすぎても、話し合いになりませんから」
別府も「そうだね」と続ける。
Dクラスの幸村は少し腕を組みながらも、反対はしなかった。
「自己紹介程度なら問題ないだろう」
外村も頷く。
「まずは互いの名を刻むところからでござるな」
幸村が横目で外村を見る。
「普通に自己紹介と言えばいい」
「む、確かに」
少しだけ空気が緩んだ。
町田は一瞬だけ考えてから言う。
「Aクラスとしても異論はない。ただし、馴れ合いと情報交換は分けるべきだと思うがな」
固い。
いかにもAクラスって感じ。
真鍋が小さく息を漏らした。
笑ったのか、呆れたのか分からないくらいの短い音。
「別に、自己紹介くらいで情報も何もないでしょ」
「そうとも限らない」
「へえ。Aクラスは大変だね」
空気が少しだけ尖る。
早い。
まだ説明が終わったばかりなのに、もう面倒な感じになっている。
一之瀬がすぐに間へ入った。
「まあまあ。最初は本当に簡単でいいと思うよ。名前と、明日からどうしたいかくらい」
柔らかく、でも流れを戻す声。
すごいな、と思う。
あたしなら、今の空気は笑って誤魔化す。
一之瀬は、笑って戻せる。
似ているようで、全然違う。
自己紹介が順番に進んでいく。
Bクラスは協力重視。
Cクラスは様子見。
伊吹は「伊吹澪。別に話すことない」と短く終わらせた。
真鍋たちとは違う刺々しさ。
短いのに、空気が少し硬くなる。
Aクラスは利益重視。
Dクラスは、幸村が理屈っぽく「拙速な結論は避けるべきだ」と言い、外村がよく分からない比喩を挟み、綾小路は短く「特にない」と言った。
「特にないって……綾小路くん」
あたしは思わず突っ込む。
「何かあるでしょ、普通」
「そう言われてもな」
「やる気ないみたいに見えるんだけど」
「やる気がないわけじゃない」
「ほんとに?」
「多分」
「多分って」
周りから小さく笑いが漏れた。
よし。
空気が少し軽くなった。
いつもの感じ。
会話が止まりそうになったら、少し茶化す。
重くなりそうなら、笑いに変える。
こうしていれば、誰も深く見ない。
誰も、あたしが何を隠しているかなんて考えない。
まだ優待者が誰かも分からない。
あたし自身だって、まだ何も知らない。
だから、普通にしていればいい。
そのはずだった。
「軽井沢さんが返すと、間が空かないね」
白峰の声がした。
部屋の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
褒めているようにも聞こえる。
実際、周りも変には受け取っていない。
ただの感想。
白峰らしい、少し変な褒め方。
でも、あたしには違って聞こえた。
笑って流したところだけを、指でそっと押されたみたいだった。
「……何それ。褒めてるの?」
あたしは笑った。
笑って返せた。
声も、たぶん普通。
でも、返事までの間が少しだけ遅れた。
自分で分かった。
ほんの少し。
普通なら誰も気づかないくらいの間。
でも。
白峰は、何も言わなかった。
綾小路が、こちらを一度だけ見た気がした。
真鍋も。
嫌な汗が、背中に滲む。
「褒めてるよ」
白峰は穏やかに言った。
「話が止まりそうなところで、ちゃんと転がるから」
「はいはい、ありがと」
軽く流す。
それ以上は広げない。
広げたくない。
一之瀬が少し微笑んで、話を戻した。
「じゃあ、軽井沢さんもお願いしていいかな?」
「あ、うん」
あたしは姿勢を整える。
大丈夫。
まだ大丈夫。
「Dクラスの軽井沢恵。こういう試験は正直よく分かんないけど、同じグループになった以上、変に揉めずにやれたらいいなって思ってます。よろしく」
無難。
ちゃんと言えた。
誰かに怪しまれるようなことは何も言っていない。
なのに、言い終えた後、真鍋の視線がまだこちらに残っている気がした。
藪と山下が小さく顔を寄せる。
何を話しているのかは聞こえない。
伊吹は何も言わずにこちらを見て、それからすぐ視線を外した。
聞こえないけど、嫌な感じだけは分かる。
あたしは笑顔を崩さなかった。
崩せない。
崩したら、何かが見えてしまう気がした。
簡単な自己紹介が終わると、その場は解散になった。
まだ正式な試験は始まっていない。
優待者の通知も来ていない。
なのに、あたしはもう少し疲れていた。
「今日はこのくらいかな。みんな、明日からよろしくね」
一之瀬が締める。
全員が席を立ち始める。
あたしも荷物を持って、早く部屋を出ようとした。
でも、その前に、白峰が近くを通った。
ほんの一瞬。
すれ違うだけ。
それなのに、足が止まりそうになる。
「軽井沢さん」
「……何?」
白峰は少しだけ首を傾げた。
「ああいう間は、置いても大丈夫だと思う」
それだけ。
それだけ言って、白峰は廊下へ出て行った。
意味が分からない。
分からないことにしたい。
あたしは笑って、何も返さなかった。
でも。
胸の奥の息が、また少しだけ浅くなる。
廊下へ出ると、船の壁越しに波の音が聞こえた。
一定で、静かで、逃げ場がない音。
あたしはスマホを握りしめる。
卯グループ。
白峰奏。
真鍋志保。
伊吹澪。
綾小路清隆。
いくつもの名前が頭の中でぐるぐる回る。
明日の午前八時。
この中の誰か一人に、優待者の通知が届く。
それだけは分かっている。
誰に届くのかは、まだ分からない。
分からないのに、なぜか胸の奥だけが落ち着かなかった。
大丈夫。
いつも通りにしていればいい。
笑っていればいい。
軽くしていればいい。
そう思うほど、さっきの白峰の声が耳に残った。
『軽井沢さんが返すと、間が空かないね』
褒めているみたいな言葉。
でも、あたしには少し痛かった。
ほんの少しだけ。
笑顔の奥に置いていたものが、音を立てた気がした。