十月に入り、生徒会室の空気は落ち着きを取り戻していた。
「会長。予算の繰越分、この計上が二重になっています」
四宮が指した箇所を、白銀が覗き込む。二人の距離は、以前なら不自然に空けられていたはずのものだ。今は書類を挟んで、肩が触れる位置にある。
「……本当だな。悪い、俺の確認漏れだ」
「気づかないまま提出していたら、面倒なことになっていました」
咎める言葉のはずが、その声に棘はない。白銀も気にした様子はなく、赤ペンで訂正を入れていく。
余計な駆け引きが消えた分、二人の作業速度は上がっていた。以前なら三往復を要したやり取りが、今は一往復で終わる。
「なんか最近、会議が早く終わりますよね」
石上が、議事録から顔も上げずに言った。
「いいことじゃない。石上くんも早く帰れるでしょ」
「……その分、別の仕事が回ってくるんですけど」
「文句が多いなあ。ねえかぐやさん、石上くんに何か言ってあげてください」
「石上くんの言い分にも、一理あると思いますけど」
「かぐやさんまで!」
藤原が大げさに机に突っ伏す。四宮の口元が、僅かに緩んだ。
半年前、この部屋にこの種の空気はなかった。四宮かぐやは常に姿勢を正し、隙のない受け答えだけを返していた。緩んだのは緊張であって、能力ではない。書類を捌く速度も、誤りを見つける精度も、以前より上がっている。
オレは配布資料の枚数を数えながら、部屋の状態を確認する。想定通りだ。四宮かぐやは、白銀御行という支柱を得て安定した。
残る問題は、その安定を四宮家がどう評価するかだけだ。
放課後。旧校舎裏の自販機の前で、オレは早坂を待った。
現れた彼女は周囲を一瞥してから、隣に並ぶ。
「呼び出しなんて、珍しいですね」
「報告の方針を変えてもらう」
「……というと」
「これまでは、変化はないと報告してきた。今後は、変化があると報告しろ」
早坂の眉が、僅かに寄る。
「本気で言っていますか。今まで隠してきたことを、自分から差し出すんですか」
「隠し続けられる嘘には限界がある。先日の訪問が、その証拠だ」
家令が直接足を運んだ時点で、本家は報告書と実物の間にずれがあることを察している。同じ手を続ければ、次に疑われるのは早坂自身だ。
「だから、報告の中身を組み替える。かぐやは変わった。理由は生徒会長との協働にある。白銀御行は学年首位の成績を維持し、生徒会長として学園内の実務を握っている。四宮家にとって、繋がりを持って損のない相手だ。そう報告しろ」
「……嘘は、ついていませんね」
「一つもついていない。並べる順番を変えただけだ」
事実の取捨選択は、嘘よりも強い。検証されても崩れないからだ。
「本家は、かぐや様が誰かに影響されること自体を嫌います」
「影響された結果が家の利益になるなら、話は別だ。四宮家の判断基準は感情じゃない」
早坂はしばらく黙り込み、それから小さく息を吐いた。
「あなたは、人の気持ちをそういう形でしか見ないんですね」
「事実として処理しているだけだ」
「……わかりました。やってみます」
彼女は背を向けかけて、足を止めた。
「一つだけ。かぐや様が会長を好きなのは、家の利益になるからじゃありません」
「知っている」
「知っているなら、いいです」
早坂は今度こそ歩き去った。
反論する必要はなかった。四宮かぐやの感情が本物であることは、オレの計算の前提そのものだ。本物でなければ、家に対する盾として機能しない。
翌日、オレは白銀を昇降口で捕まえた。
「来月の対外行事の件だが、会長挨拶の原稿は誰が書く」
「俺だ。毎年そうしている」
「今年は外部の来賓が増えると聞いた。式次第を確認したか」
白銀の表情が引き締まる。
「……見落としていた。確認する」
「もう一つ。挨拶を人任せにしない生徒会長は珍しい。そういう情報は、外に伝わった時に意味を持つ」
「なんだそれは。俺に売り込めとでも言うのか」
「事実を隠す必要はない、と言っている」
白銀は少し考えてから、苦笑した。
「お前は時々、商談みたいな言い方をするな」
「効率の話をしているだけだ」
「まあいい。式次第の件は助かった」
白銀は鞄を持ち直し、思い出したように付け加える。
「一つ聞いていいか。お前、四宮のことをどう見ている」
想定の範囲内の質問だった。交際を始めた人間は、周囲の評価を確認したくなる。
「優秀だ。生徒会の実務の半分は、彼女が回している」
「そうじゃない。……いや、いい。忘れてくれ」
白銀は自分から話を打ち切った。踏み込んだ答えを求めていたわけではなく、口に出して確かめたかっただけだろう。
短いやり取りだったが、目的は果たした。白銀が来賓の前に立つ機会が増えれば、その評判は自然と外部に流れる。早坂の報告に、後から裏づけが加わる形になる。
四宮家に対して、白銀御行という人間の価値を証明する。そのための材料は、白銀自身が勝手に積み上げてくれる。
その日の放課後、オレは石上を捕まえた。
「少し聞きたい。最近の副会長の様子で、気になったことはあるか」
石上は露骨に警戒した顔をした。
「なんですかそれ。怖いんですけど」
「業務上の確認だ。副会長の負荷が上がっているなら、割り振りを見直す」
半分は本当だ。石上は他人の感情の起伏に対して過敏で、本人が意識するより先に、空気の変化を拾う。目としては悪くない。
「……前より、ずっと落ち着いてますよ。前は、こう、部屋の温度が下がる瞬間があったんです。会長と目が合った時とか」
「今はないのか」
「ないです。代わりに、たまに何か考え込んでますね。悪い感じじゃないですけど」
「わかった。助かった」
「あの、それだけですか」
「それだけだ」
石上を解放し、オレは廊下を歩き出す。
考え込む時間が増えている。脅威が去った人間は、空いた頭を別のことに使い始める。四宮かぐやの場合、それが何に向かうのかは、まだ見えていない。
寮への道は、いつもより人が少なかった。
校門を出て五十メートル。歩道の反対側に停まった黒い車に、オレは視線を向けなかった。
エンジンは切られている。運転席に人影が一つ。この道は生徒の通行が多く、路上駐車が長時間見過ごされる場所ではない。
歩調を変えずに通り過ぎた。三十メートル進んだところで、背後の車が動き出す音がした。追ってはこない。そこにいたことを示すためだけの停車だ。
(見せている)
隠れる気がないなら、目的は監視ではなく通告だ。留守番電話と同じ型だった。お前の所在は把握している、と伝えるためだけの動作。
部屋に戻り、松尾に連絡を入れた。
「車の番号は控えました。ただ、名義は法人です。実体のない会社ですね」
「父の関係か」
「そう単純なら助かるんですが。あの人のやり方にしては、雑すぎます」
松尾の指摘は的を射ていた。父であれば、こちらに気取られる形で圧力をかける意味がない。必要なら、正面から動かせる力を持っている。
「では、誰だ」
「あなたを連れ戻したい人間と、連れ戻させたくない人間。どちらもいる、ということでしょう」
「四宮家か」
「断定はしません。ですが、あなたがあの学園にいることで得をする人間も、確かに存在します」
通話を切り、オレは机に向かった。
構図が一つ増えた。父の勢力、四宮家、そしてどちらとも言い切れない第三の手。オレの立ち位置は、その綱引きの中心にある。
好ましい状況ではない。だが、絶望的でもない。三つの力が拮抗している限り、誰も強引には動けない。
問題は、その均衡が崩れる時期を、オレが選べないことだ。
窓の外に目をやる。街灯の下を、寮に戻る生徒が歩いていく。黒い車はもういない。
明日も同じ場所に停まっているようなら、意味が変わる。一度なら通告だが、二度なら催促だ。
そこまで考えて、オレは思考を止めた。相手の意図を推測し続けても、材料が増えるわけではない。今できるのは、次の接触まで日常を崩さないことだけだ。
四宮家、父、そして名前のない第三者。誰が最初に痺れを切らすか。それが分かるまでは、待つ以外にできることはない。
三日後、早坂から短い連絡が入った。
指定された場所は、校舎裏の使われていない用具倉庫の前だった。人目を避ける場所の選び方が、以前より的確になっている。
「報告を出しました。書き方は、言われた通りに」
「反応は」
「早いですよ。翌日には返信が来ました」
早坂は封筒も端末も出さない。記録を残さない伝え方を選んでいる。
「本家は、白銀御行という名前を照会したそうです。家柄、成績、進学先の見込み。ひと通り調べた上で、こう返ってきました。『当面、静観する』と」
想定していた回答の一つだった。悪くない。
「否定でも肯定でもないな」
「ええ。ただ、私の感覚では、悪い方向ではありません。あの家が静観と言う時は、利用価値の判断を保留しているという意味です」
「切り捨てる価値もないと判断したなら、監視の頻度は下がる」
「そこまで甘くはないと思いますけど。……でも、家令がもう一度来るという話は、今のところ出ていません」
七日間の防壁が、次の期間まで持ち越された。それだけのことだが、時間を買えたのは事実だ。
「一つ、確認したいことがあります」
早坂の声のトーンが変わった。
「あなたは、かぐや様を四宮家から引き離したいんですよね」
「そう言ったつもりはない」
「言われなくても分かります。ずっとそう動いてきましたから」
彼女はオレの目を見たまま続けた。
「引き離した後、かぐや様をどうするつもりですか」
答えは決まっている。ホワイトルームを壊すための刃にする。だが、それを口にすれば、早坂は今度こそ敵に回る。
「本人が選べるようにする。それだけだ」
嘘ではない。選択肢を持った人間の方が、駒として精度が高い。
早坂はしばらくオレを見つめ、それから視線を外した。
「……その答えで、今は納得しておきます」
彼女は納得していない。だが、追及しないと決めた。四宮かぐやが今のところ幸福である以上、それを壊す動機が彼女にはない。
利害が一致している間は、疑いは棚上げされる。人間の関係の大半は、それで足りてしまう。
翌日の昼休み、生徒会室で四宮がスマートフォンを見つめていた。
「珍しいな。返事を待っているのか」
「……別に。ただ、少し」
言い淀んだ彼女の耳が、僅かに赤い。相手が誰かは、確認するまでもなかった。
以前の四宮であれば、この程度の反応も完璧に押し隠しただろう。隠す必要を感じなくなった、ということだ。
「綾小路くん」
「なんだ」
「あなたは、誰かからの連絡を待つことがありますか」
想定していない質問だった。
「必要な情報が来るのを待つことはある」
「そういうことではなくて」
四宮はスマートフォンを机に伏せ、オレを見た。
「相手が何を考えているか、想像しながら待つことです。返事が遅いと、何かあったんじゃないかと考えて、それが的外れだと分かっていても、考えるのをやめられない」
「非効率だな」
「ええ。とても」
そう言って、彼女は少し笑った。
「でも、悪くないんです」
その言葉に、オレはすぐ答えを返せなかった。
非効率だと理解した上で、手放さない。損得の計算が働いていないのではない。計算した上で、損の側を選んでいる。
四宮かぐやは、オレが与えた依存の中で、オレが想定しなかった形に育ちつつあった。
胸の奥の違和感が、また輪郭を持ちかける。
(……後で処理する)
予鈴が鳴った。四宮はスマートフォンを鞄にしまい、立ち上がる。
「行きましょう。午後の授業に遅れます」
オレは頷き、後に続いた。
秤は、まだどちらにも傾いていない。