IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第1章:ハズレアビリティとゴミ素材で妹の日常を守り抜く
第1話:最愛の妹と、魔素不適応症


 湊 陽太(みなと ようた)は、借家の玄関先で服についた泥と血の匂いを念入りに払い落としていた。

 

 乾いた風が容赦なく吹きつけてくる。眼下の瀬戸内海は夕日を反射してギラギラと眩しいが、空には雨雲ひとつなかった。地軸の変動が気候を狂わせて以来、この国から梅雨という言葉が消えて久しい。

 

「まさか泥スライムに反撃されるとは……。疲れてるとはいえ、ミスったな」

 

 陽太はそう呟くと、ゆっくり息を吐き出して気持ちを切り替え、家の中に入っていく。

 

 泥スライムの体当たりを喰らった鈍痛と長時間労働の疲れ、そして喉の渇きから、ついリュックの中にある水に手を伸ばしそうになる。

 

(──これを飲んでしまうと、今日頑張った意味がなくなるからな)

 

 自分にそう言い聞かせると、陽太はできるだけ自然な笑顔を作り、妹の部屋のふすまを開けた。

 

小春(こはる)、入るぞ」

 

「あ、お兄ちゃん。おかえりなさい」

 

 万年床に身を起こした小春が、青白い顔でふわりと微笑む。

 

「寝なくていいのか? 朝は随分辛そうだったが」

 

「うん。今は平気だよ。心配かけてごめんなさい」

 

 申し訳なさそうに眉を下げる小春の顔は、今日も青白い。

 

 陽太は無言でリュックに手を入れ、ペットボトルを取り出した。魔素を含まない純水。この一本で、数日分の食費が飛ぶ。

 

「ほら、今週分の水だ。前渡した分はちゃんと飲んでるか?」

 

「うん、ありがとう……。でも、お兄ちゃん、また無理してない? このお水、すごく高いんでしょ」

 

「お金のことは気にするな。言っただろ、最近株の調子がいいんだよ。四菱重工のチャートが予想通りに動いてさ、軽くひと稼ぎしてきたところだ」

 

 陽太は開け放たれたふすま越しに、隣の部屋にあるノートパソコンが置かれたちゃぶ台を指差し、努めて明るい声で笑ってみせた。有線ケーブルで繋がれた画面には、確かに複雑な株価チャートや企業のIR情報が並んでいる。

 

 だが、それは優しい妹を安心させるための真っ赤な嘘だ。

 

(……かつて相場の理不尽に呑み込まれ、両親が遺してくれた全財産を空売りで溶かしたこの俺が、いけしゃあしゃあと株で儲けているなんてな。我ながら、笑えない冗談だ)

 

 胸の奥を焼くような自嘲と罪悪感を強引に呑み込み、陽太は微塵も表情には出さない。

 

 実際のところ、全損の憂き目に遭った陽太に、まともな投資に回せるタネ銭など残っていない。この純水を買うための金は、涼しい顔でキーボードを叩いて得たものではない。

 

 大学を休学し、毎日泥まみれになりながら、対岸の向島(むかいしま)に口を開けたダンジョンでモンスターを狩り、その素材をギルドに引き渡すことで得た、血と汗の結晶だ。

 

「……そっか。お兄ちゃんは昔から頭いいもんね」

 

「だろ? だからお前は何も心配しないで、しっかり水飲んで治すことだけ考えろ」

 

 小春が申し訳なさそうに、それでも美味しそうに水を喉に流し込むのを見届けながら、陽太は心中で小さく息を吐いた。

 

 ──限界は近い。

 

 小春が患っているのは、魔素不適応症(まそふてきおうしょう)だ。三年半前の大災害"12.11"以降、大気に混じり始めた魔素に免疫が過剰に反応してしまう難病で、根本的な治療法はない。魔素を含まない水を定期的に飲み続けることだけが、唯一の対症療法だった。

 

 そして今朝、蛇口から出たのは微かに砂が混じった濁り水だった。長い間しのいできた借家の井戸が、ついに枯れ始めたのだ。

 

 これ以上の悪化を止めるには、全ての飲み水を純水に切り替えるしかない。だが純水は特権階級と巨大企業に独占され、底辺探索者の手には到底届かない超高級品だ。

 

 稼がなければ。素早く、安全に、かつ莫大に。

 

「……悪い小春、少し調べものがあるんだ」

 

 陽太は隣の部屋に戻り、古びたちゃぶ台の前へあぐらをかいた。

 

 そこには、泥まみれの生活には不釣り合いなほど手入れされたノートパソコンが置かれている。

 

 陽太がキーボードを叩き、画面に映し出すのはモンスターの弱点ではない。

 

 企業の決算短信、有価証券報告書、そして将来の収益性を左右する中期経営計画。

 

 陽太は、行政文書や規程の隙間を読み解くような精密さで、画面上のテキストを走査していく。彼が探しているのは、異常なスピードで成長し続けるダンジョン経済に潜むバグ──すなわち、莫大な利益を生む裁定取引(アービトラージ)の機会だ。

 

(公開されているIR情報だけで、市場に潜むバケモノどもを出し抜くことは不可能だ。今はとにかく情報のインプットを……)

 

 文字の海を滑っていた陽太の視線が、ある一点でピタリと止まった。

 

 画面に映し出されたのは、大手精密機器メーカー東朋(とうほう)マテリアルが先日発表した中期経営計画の資料。

 

 そこには、妹の命を繋ぐためのキーワードである“次世代型・高効率純水プラント”の開発という文字が、確かな存在感をもって記されていた。




1話のリライト完了です。
話の流れは旧バージョンと変えていませんが、テンポを意識して、読みやすくなったのではないかと思います。

今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。
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