尾道の斜面にへばりつくように建つ古い借家には、今日も容赦なく乾いた風が吹き付けていた。
地軸の変動による気候激変で、日本から梅雨という言葉が消えて久しい。眼下に広がる瀬戸内海は、夕日を反射してギラギラと眩しいが、空には雨雲ひとつなかった。
今日も勝手知ったる浅層ダンジョンで日課の労働と運試しをこなし、何事もなく終わるはずだった。しかし、今日の陽太はいつものルーティンを崩して一時間長く潜っていた。そのせいで集中力を欠き、最後の最後に手痛い反撃を喰らってしまったのだ。
「まさか泥スライムに反撃されるとは……。疲れてるとはいえ、ミスったな 」
陽太はそう呟くと、ゆっくり息を吐き出して気持ちを切り替え、家の中に入っていく。
泥スライムの体当たりを喰らった鈍痛と長時間労働の疲れ、そして喉の渇きから、ついリュックの中にある水に手を伸ばしそうになる。
(──これを飲んでしまうと、今日頑張った意味がなくなるからな)
自分にそう言い聞かせると、陽太はできるだけ自然な笑顔を作り、妹の部屋のふすまを開けた。
「
「あ、お兄ちゃん。おかえりなさい」
万年床に身を起こした小春が、青白い顔でふわりと微笑む。
「寝なくていいのか? 朝は随分辛そうだったが」
「うん。今は平気だよ。心配かけてごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げる小春が患っているのは、
水道インフラは3年半経った今でも復旧の目処が立っていない。今、世間一般に流通している水は、青魔法アビリティ由来の
一般人は問題なく飲めるそれを小春が口にすれば、たちまち高熱を出して寝込んでしまう。
根本的な治療法はなく、魔素を含まない水を定期的に飲み続けることだけが、彼女に残された唯一の対症療法だった。
「ほら、今週分の水だ。前渡した分はちゃんと飲んでるか?」
陽太がリュックから取り出したのは、500ミリリットルのペットボトル。何の変哲もない無色透明な水だが、魔素を一切含まない正真正銘の純水だ。
日本が水資源豊富だったのは過去の話。今やこの一本で、数日分の食費が飛ぶほどの値段がする。
ダンジョンのモンスターを倒すことで万人が目覚めるアビリティの中でも、水を生成できる青魔法アビリティは需要が高く、大当たりの部類である。公表されている情報によれば、青魔法アビリティレベル5で使用可能なスキル“
結局のところ、陽太には高い金を払って純水を買うしか道はないのだ。
「うん、ありがとう……。でも、お兄ちゃん、また無理してない? このお水、すごく高いんでしょ」
「お金のことは気にするな。言っただろ、最近株の調子がいいんだよ。四菱重工のチャートが予想通りに動いてさ、軽くひと稼ぎしてきたところだ」
陽太は開け放たれたふすま越しに、隣の部屋にあるノートパソコンが置かれたちゃぶ台を指差し、努めて明るい声で笑ってみせた。有線ケーブルで繋がれた画面には、確かに複雑な株価チャートや企業のIR情報が並んでいる。
だが、それは優しい妹を安心させるための真っ赤な嘘だ。
(……かつて相場の理不尽に呑み込まれ、両親が遺してくれた全財産を空売りで溶かしたこの俺が、いけしゃあしゃあと株で儲けているなんてな。我ながら、笑えない冗談だ)
胸の奥を焼くような自嘲と罪悪感を強引に呑み込み、陽太は微塵も表情には出さない。
実際のところ、全損の憂き目に遭った陽太に、まともな投資に回せるタネ銭など残っていない。この純水を買うための金は、涼しい顔でキーボードを叩いて得たものではない。
大学を休学し、毎日泥まみれになりながら、対岸の
「……そっか。お兄ちゃんは昔から頭いいもんね」
「だろ? だからお前は何も心配しないで、しっかり水飲んで治すことだけ考えろ」
小春が申し訳なさそうに、それでも美味しそうに水を喉に流し込むのを見届けながら、陽太は心中で小さく息を吐いた。
──限界は近い。
小春の症状は徐々に、だが確実に悪化している。
これまでは陽太が買ってくる純水に加え、魔素の影響が比較的軽微な借家の井戸水を併用して凌いできた。だが、今朝蛇口から出たのは、微かに砂が混じった濁り水だった。ついに井戸が枯れ始めたのだ。
小春の症状を抑え込むためには、全ての飲み水を高価な純水に切り替える必要がある。だが、
稼がなければ。それも、素早く安全に、かつ莫大に。
「……悪い小春、少し調べものがあるんだ」
陽太は隣の部屋に戻り、古びたちゃぶ台の前へあぐらをかいた。
そこには、泥まみれの生活には不釣り合いなほど手入れされたノートパソコンが置かれている。
陽太がキーボードを叩き、画面に映し出すのはモンスターの弱点ではない。
企業の決算短信、有価証券報告書、そして将来の収益性を左右する中期経営計画。
陽太は、行政文書や規程の隙間を読み解くような精密さで、画面上のテキストを走査していく。彼が探しているのは、異常なスピードで成長し続けるダンジョン経済に潜むバグ──すなわち、莫大な利益を生む
(公開されているIR情報だけで、市場に潜むバケモノどもを出し抜くことは不可能だ。今はとにかく情報のインプットを……)
文字の海を滑っていた陽太の視線が、ある一点でピタリと止まった。
画面に映し出されたのは、大手精密機器メーカー
そこには、妹の命を繋ぐためのキーワードである“次世代型・高効率純水プラント”の開発という文字が、確かな存在感をもって記されていた。
こんな木っ端小説を閲覧いただきありがとうございます。
とりあえず、区切りのよいところまでは書いてある(17話)ので、そこまでは毎日投稿する予定です。
よろしくお願いいたします。