東朋マテリアル実証実験センターからの帰り、陽太と凪は尾道特区の裏路地に広がる、非公認の闇市場に来ていた。
「ここは本当に何でもあるわね。ロマネコンティ1億円なんて誰が買うのかしら?」
凪は商品を眺めながら呆れていた。
「凪。わかってると思うが、ここは危ないから俺から離れるなよ」
「はいはい。頼りにしてますよ」
合成肉や配給品ではない本物の食材を求める金持ちは多い。彼らは欲望に忠実で、金に糸目を付けることがないため、闇市場は年々規模を拡大している。
金持ち達の依頼を受け食材の調達を専門とするブローカーや、合法・非合法問わず食材をかき集める裏社会の人間たちが巣くうこの場所で、陽太は鋭い視線を巡らせていた。
懐には、今日振り込まれたばかりの500万円の束がある。闇市場では決済履歴を探られないように現金が主流だ。
予算は潤沢だが、成金のように手当たり次第に買うつもりはない。陽太は視界の端に
「へいそこの兄ちゃん! 本物の和牛だぞ! 100グラム1万円だよ! 隣の可愛い彼女へのプレゼントにどうだい!』
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(……完全にぼったくりの偽物だな)
陽太は声をかけてきた商人を無視し、市場の奥深くにある地味な精肉店へと足を止めた。
氷の上に並べられた、薄桃色の肉。
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「親父さん。この豚ロース、500グラムもらえるかい?」
「おっ、兄ちゃん目利きだね。今日入ったばかりの極上品だ。100グラム8000円、合わせて4万円だ」
「それと、そっちの水菜と大根も全部包んでくれ。どれも魔素を含んでない、綺麗な土で育った本物だ」
「へへっ、まいどあり!」
自分のスキルと相場眼で選んだ、絶対に安全で新鮮な食材。それらを軽トラックに積み込み、二人は尾道の斜面に建つ借家へと向かった。
借家に続く細い階段の入り口に軽トラックを停めると、陽太は助手席の凪に食材の袋を託した。
「悪い、凪。車を少し離れた駐車場に停めてくる。ついでに荷台の片付けもしておくから、先に小春のところに行っててくれ」
「わかったわ。腕によりをかけておくから、早く来なさいよ」
凪が食材を抱えて階段を登っていくのを見送った後。陽太は周囲に誰もいないことを確認し、軽トラックの荷台の陰でリュックの隠しポケットを開けた。
取り出したのは、残業で作ったストック──完璧な泥スライムの核のパッケージだ。
(さあ、小春への最高のプレゼントの準備だ)
陽太は持参した水筒に漏斗とパッケージから取り出した核をセットすると、特区の淀んだ水道水を注ぎこんだ。みるみるうちにフィルターが水を吸込み、世界で最も澄んだ完全な純水が精製されていく。
その様子を陽太は微笑みながら見つめていた。
◇ ◇ ◇
数十分後。陽太の暮らす、古びた借家。
玄関を開けると、台所からは普段の合成肉の薬品臭さとは全く違う、昆布と鰹節の上品な出汁の香りが漂ってきた。そこに、ほんのりと柚子の爽やかな香りが混ざり合い、空腹の胃袋を優しく刺激する。
凪は勝手知ったる元カレの家とばかりに、エプロン姿で料理を作っていた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい……。凪お姉ちゃんがご飯もうすぐできるって言ってたよ。凪お姉ちゃんのご飯久しぶりだね」
万年床の上で薄い毛布を被っていた小春が、パッと顔を輝かせる。魔素不適応症による慢性的な倦怠感で顔色は青白いが、その瞳には年相応の無邪気な光が宿っていた。
「ただいま、小春。今日は特別なお土産がある」
陽太はリュックから、厳重にパッキングされた一つの水筒を取り出した。
中に入っているのは、残業で手に入れたストックの核を使い、陽太自身が濾過したばかりの、世界で最も澄んだ純水だ。
「これを飲んでくれ。一気に飲まなくていい、少しずつだ」
コップに注がれた水は、枯れかけた井戸水のような泥臭さも、配給で配られる水のような薬品の臭いもない。
小春は両手でコップを受け取ると、恐る恐る一口、口に含んだ。
「……あ」
ごくり、と小さな喉が鳴った瞬間。
小春の身体を常に苛んでいた、見えない鉛のような魔素の重圧が、スッと霧散していく。浅かった呼吸が深くなり、青白かった頬に、文字通り血の気がフワッと戻っていくのが分かった。
「おいしい……。冷たくて、すっごく澄んでる。なんだか、身体の奥がポカポカして、息がしやすいの……!」
「そうか。……よかった。本当によかった」
陽太は小春の頭を優しく撫でながら、震えそうになる声を必死に押し殺した。口座に500万円が着金した時よりも、ずっと深く、確かな歓喜が胸を満たしていた。
「さあ、お水で元気が出たら、次はご飯よ。陽太が頑張って良い物を買って来てくれたし、私が腕によりをかけたんだから」
凪が、いつもよりずっと柔らかい、年相応の優しい微笑みを浮かべてテーブルを指差した。
そこには、陽太が闇市で見極めた本物の食材たちが並んでいた。
メインは、丁寧に取った黄金色の昆布出汁にくぐらせる、豚肉と水菜のしゃぶしゃぶ。
たっぷりの大根おろしと特製の柚子ポン酢が添えられ、小春の弱った胃腸にも負担をかけず、良質なタンパク質とビタミンが摂れるように計算し尽くされていた。
「うわぁ……! 本物のお肉だ! お野菜も、すっごく綺麗な色……!」
目を輝かせる小春を見て、陽太は照れくさそうに頬をかいた。
「ああ。合成肉じゃない、本物の豚肉だ」
「小春ちゃんの身体がびっくりしないように、大根おろしでさっぱり食べられるようにしたわ。柔らかくて美味しいわよ」
三人で小さなテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせる。
小春が、出汁にくぐらせてうっすらと桜色になった豚肉に大根おろしを絡め、口に運ぶ。
ほろりと解ける肉の甘みと、ポン酢の爽やかな酸味に、パァッと顔中に花が咲いたような極上の笑顔を浮かべた。
「んんっ、すっごく美味しい! 胃が全然ムカムカしないよ。凪お姉ちゃん、天才かも!」
「ふふっ。陽太がちゃんと新鮮なお肉を選んで買ってくれたからよ。本当に美味しいわね。……毎日カップ麺ばかり食べていた学生時代とは大違い」
凪もまた、シャキシャキの水菜を口に運びながら、心底リラックスした様子で笑い声を立てた。冷徹な法務顧問としての鉄仮面を完全に外し、ただの一人の少女として、この暖かな食卓を楽しんでいる。
(……俺が守りたかったのは、これだ)
美味しそうに本物のご飯を頬張る妹と、それを優しく見守るかつての恋人。
陽太は、自分に課せられた週に500個の納品という重圧も、大企業に狙われる恐怖も、この瞬間だけはすべて忘れられた。
泥にまみれ、手を汚し、嘘を吐いてでも。
この笑顔と、この小さな食卓の灯りだけは、絶対に守り抜く。
若き相場師の胸の奥で、その決意はダイヤモンドよりも硬く、静かに結実していた
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