IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第12話:クジラの胃袋と、匿名の寄付

 新たな従業員を雇ってから数日後。

 

 潮風が吹き抜ける、尾道特区外れの倉庫。そこは突貫工事で最低限の設備を備えた第二工場に生まれ変わっていた。

 

 東朋マテリアルの木崎は、ずらりと並んだ長机と、そこで行われている作業工程を見つめ、感嘆の息を漏らしていた。

 

「以前、我々の工場を見学したいとおっしゃっていましたね、木崎さん。歓迎しますよ。ここが新設したウォーター・ベイン・フィルターV1改め“ウォーター・ベイン・カートリッジV1”の組み立てラインです」

 

「ああ。まさか本当に見せてもらえるとは思っていなかったが……なるほど、そういうことか」

 

 木崎が納得したように頷く。彼の視線の先では、一鉄の指示のもと、職人たちが手際よく溶液に浸されたパッケージを、東朋から持ち込まれたプラスチック製の専用カートリッジに組み込んでいた。

 

「見事な手際だ。試験用のカートリッジ100個が、あっという間に製品化されていく」

 

 木崎は苦笑し、やがて視線を職人たちから外し、声を一段低くした。

 

「……さて、湊社長。わざわざ工場見学を口実に呼び出してもらってすまないね。早速だが本題に入ろう。無事に社内のネズミは駆除できたよ」

 

 木崎の声音から、先ほどまでの穏やかな響きが消え、大企業の現場責任者としての冷徹な響きが混ざる。

 

「監査部への無断接触という前代未聞のコンプライアンス違反だ。本来であれば一発で懲戒解雇かつ損害賠償請求ものだが……なにせ極秘プロジェクトだからね。これ以上、外に表沙汰にはできない」

 

「……では、穏便に済ませたと?」

 

 陽太が尋ねると、木崎はフッと低く笑い、首を横に振った。

 

「まさか。二度と表舞台に戻れない僻地の系列施設へ、片道切符で出向させた。二十四時間の監視付きだ。事実上の終身監禁処分だよ。……あのネズミは、最後まで自分は悪くないとこちらに責任転嫁し、被害者面していたがね」

 

 エリート研究員だった男の、あまりに容赦のない社会的な抹殺。大企業の持つ強大な、そして暗い力の一端を目の当たりにし、陽太は内心で冷や汗を覚えた。だが、表情には一切出さずに淡々と返す。

 

「皮肉なものですね。彼はやり返されるとは思っていなかったのでしょうか?」

 

「大企業に所属していると、会社の力を自分の力と勘違いする輩が一定数いるんだよ」

 

木崎は最近の癖になっている深く沈むようなため息を吐くと、一転して、真っ直ぐに陽太の目を見つめた。

 

 木崎にとって、陽太たちのフィルターは自らの出世とプロジェクトの命運を握る唯一の命綱だ。それを危険に晒した高橋は、木崎の逆鱗に触れたのだ。

 

「湊社長、改めて謝らせてくれ。本当にすまなかった」

 

 木崎は真摯な態度で深々と頭を下げた。

 

「……頭を上げてください、木崎さん。今回は上手く乗り切ることができました。それに、私達はあなたに感謝こそすれ、怒ってはいないですよ」

 

 陽太が穏やかに、しかし対等なビジネスパートナーとしてのトーンで告げると、木崎はゆっくりと顔を上げた。その表情には、明らかな安堵の色が浮かんでいる。

 

「それでもだ。我々は一蓮托生……ビジネスパートナーを危険に晒してしまったのはこちらの落ち度だ。今回の件は、私への貸し一つとしてもらって良い」

 

「分かりました。今回の件はそれで手打ちにしましょう」

 

「……ありがとう。今後ともよろしく頼む」

 

 二人は固い握手を交わした。

 

 これで東朋からのカートリッジ供給は確定し、当面の間は木崎が自分たちを守るために動く強固な盾となることが決まったのだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その日の夜。

 

 職人たちが帰り、静まり返った工場に併設された小さな事務所で、陽太と凪はタンポポコーヒーを飲んでいた。

 

「木崎さんの反応、予想通りだったわね。これで東朋内部の獅子身中の虫は駆除されたわ」

 

「ああ。だが、ギルドに目をつけられた事実は変わらない。いざという時のために東朋以外の備えを考えないとな」

 

 陽太は部屋の隅に積まれた、黒いコンテナを見つめた。

 

 東朋に納品するルートとは完全に切り離された、陽太一人の夜の残業によって積み上げられた純水フィルターの裏在庫。

 

「……凪。東朋以外の備えについては今後も考えるとして、別の話をしていいか?この裏在庫の核を使って純水を精製し、小春が世話になっている特区の総合病院に匿名で寄付しようと思うんだ」

 

「寄付?」

 

 コーヒーカップを口元へ運ぼうとしていた凪の手が、ぴたりと止まった。

 

「ああ。魔素不適応症に苦しんでる子供は、小春だけじゃない。俺たちの精製した純水があれば、救える命があるはずだ」

 

 金にもならない純粋な善意。

 

 相場師らしからぬその提案に、凪は一瞬目を丸くしたが……すぐに、その端正な唇を釣り上げ、極上の笑みを浮かべた。

 

「……別の話じゃないわ。素晴らしい案よ。まさに完璧な一手だわ」

 

「え?」

 

「特区の医療機関に無償の命綱として恩を売っておくのよ。もしギルドが私たちを本気で潰しに来た時、ウォーター・ベイン社を潰せば、特区の子供たちに純水が供給されなくなるという事実を突きつければいい」

 

 凪の冷徹な法務顧問としての瞳が、妖しく光る。

 

「世論を味方につけ、病院という絶対的な権威を私たちの政治的な盾にするのね。慈善事業の皮を被った、最高の防衛戦略だわ。……でも、素性が完全に謎の水なんて、病院側も怖くて使えないわ。ここは私に任せて」

 

「どうする気だ?」

 

「特区外にダミーの慈善団体*1を立ち上げるわ。そこを経由して、水質検査の成分証明書を偽造……いえ、実物が本物の純水なんだから堂々と公的機関で検査を通して、正式な支援物資として病院にねじ込むのよ」

 

「……おいおい、初手偽造かよ。お前、本当に弁護士か?」

 

「もちろん。あなたの優秀な法務顧問よ。……ただ、私だけでは絶対に思いつかなかったわ。あなた、本当に恐ろしい相場師になったのね」

 

 凪の絶賛を聞きながら、陽太は思わず苦笑した。

 

 陽太の本心は、ただ純粋に小春のような子供たちを助けたいというだけだった。だが、この頭の切れる美しき相棒の脳内では、それが即座にギルドに対抗するための最強のカードとして変換されてしまうらしい。

 

「……まあ、そういうことにしておいてくれ。俺はただの悪党だからな」

 

「ええ。頼りにしてるわよ、悪党さん」

 

 打算的な凪の笑顔と、純粋な陽太の決意。

 

 動機は違えど、二人の歩む道は完全に重なっていた。

 

 深夜の工場で、匿名の純水の精製が、静かに始まった。

*1
NPO法人のペーパーカンパニー




マクロススキー 様
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