「はい、これ。公的機関の
数日後の夜。第二工場の事務所で、凪は一枚の仰々しい書類を陽太のデスクに滑らせた。
書類のタイトルは水質基準適合証明書。発行元は、特区行政庁が管轄する公衆衛生局だ。
「……随分と早かったな。もう法人の登記と検査が終わったのか」
「ええ。設立したペーパーカンパニーの名前は“NPO法人 セトウチ・アクア・リリーフ”。代表理事には、私が見つけてきた身寄りのないフリーランスの人間を月額5万円で名義貸しさせてるわ。書類上、私たちとは一切無関係の慈善団体よ」
凪は得意げに腕を組み、フッと笑った。
「傑作だったわよ、衛生局の検査官の顔。持ち込んだ水を分析にかけた瞬間、機械の故障を疑って三回も再起動してたわ。あり得ない、不純物も魔素も完全にゼロパーセントだって、最後は拝むように書類にハンコを押してくれたわ」
「これで、この水はダンジョンの未加工素材でも怪しい薬品でもなく、国が認めた最高品質の飲料水になったわけか」
「その通り。これで大手を振って病院に搬入できるわ。……準備はいいわね、社長?」
「ああ。今日からセトウチ・アクア・リリーフからの支援物資として、特区総合病院に週に100リットルの純水を無償で配送する。運送には、当然外部の業者を使う」
陽太の視線の先には、裏在庫の泥スライムの核を使って自ら精製し、医療用の無菌タンクに詰められた眩いほどの純水があった。
「それにしても……」
陽太はほんのり温かい無菌タンクの表面に触れ、額の汗を拭いながら小さく息を吐いた。
「水筒サイズの精製じゃ気づかなかったが、一気に100リットルも連続で水を通すと、スライムの核からかなりの熱が出るみたいだな。途中で何度か水流を止めて休ませてやらないと、熱で核が崩れそうだった」
「あら、そうなの? 魔素や不純物を分解する時の化学反応みたいなものかしら」
「ああ。水を止めてる間、核が微かに脈動して熱を逃がしてるのが分かった。フィルターとして使っているが、やっぱり元は生き物なんだな」
「火傷するほどの高温にはならないのよね。なら、どうでもいいわ」
凪は気にも留めない様子で肩をすくめた。
(病院用は別にいいが、プラント規模で生産するとなれば、この排熱は大きな問題だろう。……まあ、この問題を解決するのは東朋に任せよう)
「それよりも病院の反応が気になるわ。早く来週にならないかしら」
この水によって、小春と同じように魔素不適応症で苦しむ子供たちが救われる。と同時に、陽太の純粋な善意は、凪の暴走と冷徹な手腕によって、ギルドの魔の手から会社を守る政治的な盾へと変貌を遂げていくのであった。
◇ ◇ ◇
数日後。尾道特区総合病院、小児病棟。
小春の主治医でもある小児科医の
連日の当直で、白衣はヨレヨレになり、無精髭が顎を覆っている。だが、彼を最も疲弊させているのは肉体的な疲労ではなく、何も救えないという諦念だった。
気候変動と魔素の蔓延による環境激変以降、魔素に耐性を持たない子供たちの魔素不適応症は激増の一途を辿っている。
魔素不適応症は花粉症のように、免疫が魔素に過剰反応することで引き起こされる病気だ。一定の基準を超えて魔素に晒されると発症し、更に閾値を超えると急激に悪化する。
特効薬はない。唯一の治療法は、不純物を含まない純水を体内に取り込み、血中の魔素濃度を希釈することだけだ。しかし、ダンジョンの深層から産出する水の魔晶石を使った高価な純水は特権階級に独占され、この総合病院に回ってくる配給水は、薬品の臭いがキツい粗悪な濾過水ばかりだった。
「水さえ……綺麗な水さえあれば……ッ」
昨晩も、呼吸器をつけたまま苦しむ子供の手を握ることしかできなかった。己の無力さに、篠田がギリッと奥歯を噛み締めた、その時だった。
「篠田先生! 来てください、すぐに!」
血相を変えた看護師が、医局に飛び込んできた。
「どうした! また急変か!?」
「いえ、逆です! 重症だった
「なんだと!?」
篠田は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、病室へと走った。
そして、信じられない光景を目にした。
ベッドの上で常に息を荒げていた子供たちが、穏やかな寝息を立てている。痛みを訴えていた子供が、起き上がって絵本を読んでいる。
劇的な、あまりにも劇的な回復だった。
「一体何があった……? 投薬のスケジュールは変えていないはずだぞ」
「お、お水です! 今朝、新規のNPOから大量の飲料水が寄付されて……それを飲ませた子たちが、次々と……!」
看護師が震える手で差し出したのは、NPO法人 セトウチ・アクア・リリーフというステッカーが貼られた無菌タンクと、それに添えられた公衆衛生局発行の水質基準適合証明書だった。
篠田は書類をひったくり、その数値に目を剥いた。
「魔素含有率……0.00%!? 馬鹿な、特区の深層でしか採れない特級品の魔晶石でも0.1%より下がらないんだぞ! これを寄付しただと……!?」
篠田はすぐさまタンクの蛇口を捻り、紙コップに注いだ水を口に含んだ。
──本物だ。
喉を通り抜け身体に染み渡る感覚。雑味だらけの配給水に慣らされた舌が、純粋な無味に驚き、歓喜しているのが分かった。
「……奇跡だ。どこの誰かは知らないが、この水があれば……この病棟の子供たちを全員救える!」
篠田の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。諦念で塗りつぶされ、死を待つのみであった小児病棟に、一筋の、だが強烈な希望の光が差し込んだ瞬間だった。
◇ ◇ ◇
それから一週間後。
陽太は、いつもより顔色の良くなった小春を連れ、定期的な検診のために尾道特区総合病院を訪れていた。
一通りの検査を終えて、診察室に入ると主治医の篠田が笑顔で迎えてくれた。
「すごいぞ小春ちゃん。肺の魔素の影が、劇的に薄くなってる。息苦しさも全然ないだろう?」
「はい! お兄ちゃんのご飯とお水のおかげです!」
診察室で、篠田は小春の頭を優しく撫でた。子供に向けるその笑顔だけは、無精髭のむさ苦しさを微塵も感じさせない、本物のお医者さんの顔だった。
「小春ちゃんの経過は極めて順調だ。定期的な純水の摂取はこれからも必要だろうが、寛解もそう遠くないだろう。小学校にも通えるよ」
「本当ですか! ありがとうございます、篠田先生。先生のおかげです」
「いやいや。小春ちゃんと陽太君が頑張ったからだよ。これからも月に一回は検診に来れるかい?」
「大丈夫だと思います」
「それじゃ今日の診察はこれで終わりだ。……小春ちゃんは看護師のお姉さんとプレイルームで待っててくれるかい? 少しお兄ちゃんとお話があるんだ」
篠田は看護師に小春をプレイルームへ連れて行くよう指示し、二人を見送ると、ガチャリ、と診察室の鍵を内側から閉めた。
途端に、部屋の空気が張り詰める。
「時間を取らせてすまないね。これを見てくれないか?」
篠田はダンボールの中から、一つの無菌タンクを取り出した。あのセトウチ・アクア・リリーフのステッカーが貼られている無菌タンクである。
「陽太君。……単刀直入に聞く。この水を送ってきているのは、君だね?」
陽太の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
ダミー法人を立て、配送ルートも完璧に偽装したはずだ。どこで尻尾を掴まれたのか。
「……何の話ですか、先生。俺はただの学生で、今は休学して探索者を──」
「誤魔化さなくていい。NPOの登記や流通経路を調べたわけじゃない。私にしか分からない
篠田は、小春の分厚いカルテを机に置いた。
「この奇跡のような水が病院に届き始めたのは一週間前だ。だが……君の妹である小春ちゃんだけは、それよりもさらに数週間前から症状が改善し、血中の魔素濃度が劇的に低下し始めていた」
「……!」
陽太は沈黙した。
凪が構築した社会的な偽装は完璧だった。だが、篠田は妹を一番近くで診ていた主治医だったが故に、そのタイムラグというたった一つの矛盾に気づいてしまったのだ。
言い逃れはできないと悟った陽太は、ふっと息を吐き、冷徹な相場師の顔へと切り替わった。
「……もし、そうだと答えたら?」
陽太の纏う空気が一変したのを感じ取り、篠田は唾を飲んだ。目の前にいるのは、ただの苦学生ではない。大企業やギルドと対等に渡り合う、篠田の想像の埒外にある怪物だ。
だが、篠田は怯まなかった。彼はゆっくりと立ち上がり、そして──陽太に向かって、深々と頭を下げた。
「頼む。……この水を、絶やさないでくれ」
「……先生?」
「これがギルドの法に触れる裏ビジネスの産物でも、危険な魔物素材から精製されたものでも構わない。私は医者だ。目の前の子供たちが救えるなら、何だってする!」
頭を下げる篠田の白衣はヨレヨレで、肩は震えていた。だが、その声には、子供たちの命を背負い続けてきた男の執念が籠もっていた。
陽太は、その姿に自分自身を重ねていた。
妹を救うために泥にまみれ、大企業を脅し、法をハックしてきた自分と。患者を救うために、倫理も法も投げ捨てて頭を下げるこの男は、本質的に同じ人種なのだ。
「……顔を上げてください、篠田先生」
陽太の静かな声に、篠田が顔を上げる。
「俺も腹を割って話します。まず、この水は合法です。俺たちの会社ウォーター・ベインで作り、セトウチ・アクア・リリーフを通じてこの病院に提供しています。そして、俺たちはこの水を絶やすつもりはありません。ただし……この善意の裏には、俺たちの意図が仕込まれています」
「意図……?」
「この水は、俺たちがギルドから身を守るための政治的な盾です。もう察しがついているかも知れませんが、俺たちはギルドから目を付けられています」
「ギルドか……業突く張りどもめ」
「一度は追い返しましたが、強欲なギルドは再度俺たちの会社に妨害を仕掛けてくるでしょう。ギルドのせいでこの水が提供できないとなれば、先生方は自発的にセトウチ・アクア・リリーフの水がなければ、子供達の命が危ないと、ギルドに抗議するでしょう? それを狙ってました」
「ああ、分かっているとも。陽太君、君も小春ちゃんを見ているから骨身に染みているはずだ。――すでにこの病棟は、君たちの水なしでは一日だって維持できない」
「はい。悪い言い方ですが、俺たちの水に依存してもらおうと思ってました。……篠田先生。俺は全て話しました。行政と特区市民に対して世論を扇動する最前線に立っていただく。……その覚悟はありますか?」
それは、凪が構築した防衛戦略の、最後の一手。
善良な総合病院、そして子供達を特区の行政に突きつける人質にするという悪魔の契約だ。
だが、篠田は微塵も躊躇しなかった。
「……望むところだ。その程度の泥、喜んで被ってやる」
不敵に笑う篠田の目には、陽太と同じ、狂気的なまでの覚悟が宿っていた。
「
「ああ。君たちの会社は、私が全力で守り抜こう」
大企業という経済的な盾に続き、医療機関という絶対的な政治的な盾を手に入れた。
冷徹な若き相場師と、命を救うためなら悪魔にもなる白衣の共犯者。強固な同盟が、ここにまた一つ結ばれたのだった。
ブリの漬茶漬け 様
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