日の出前の薄暗い尾道特区。
向島ダンジョンの入り口である採石場跡地に、一台の年季の入った軽トラックが停まった。
運転席から降りた一鉄は、咥え煙草に火をつけると、荷台から一つの機材を下ろした。
それは、元はホームセンターで売られている市販のオフロード用キャリーワゴンだった何かだ。
かつて造船所で神の手と呼ばれた特級溶接工の手によって、原形をとどめないほどの魔改造が施されている。
市販品の貧弱なフレームには、造船所の廃材から拾ってきた堅牢なステンレスパイプが縦横に溶接され、完璧な剛性が与えられていた。接合部に走る均一で美しい鱗状の
荷台の内部には、ポータブル電源、真空パック機、そして保存液の入った重いポリタンクがミリ単位の狂いもなく収まる専用のケージが組まれており、ダンジョンの悪路をどれだけ乱暴に引いても機材が一切ガタつかない。
さらに、牽引用のハンドルは、一鉄が左手一本で最も効率よく重心移動を使えるよう、長さと角度が
「我ながら良い出来だぜ」
一鉄は自画自賛しながら、左手一本で特製のハンドルを握り込んだ。
右腕の重い真鍮の義手をカウンターウェイトにして体を前傾させると、総重量40キロを超える機材を乗せた鉄塊のようなワゴンが、まるで小枝を引くような軽やかさで進み始める。
だが──一鉄の歩みは、ダンジョンのゲート数十メートル手前でピタリと止まった。
「……何の真似だ、こりゃ」
入り口には、物々しい
そして、その前に立ち塞がるように、黒スーツの男たちが腕を組んで並んでいる。先頭に立っているのは、特区ギルド監査部の鮫島だった。
「おや。ウォーター・ベイン社の作業員じゃあないか。朝早くからご苦労なこって」
鮫島は銀縁眼鏡の奥で、ねっとりとした嘲笑を浮かべた。
「悪いが、今日からこの向島ダンジョンは無期限の立ち入り禁止だ。ギルドの生態系調査局が、魔素溜まりの異常数値を確認してね。安全が確認されるまで、誰一人入れるわけにはいかない」
「……安全確認たぁ、随分と白々しい口実だな。ただの嫌がらせだろうが」
「人聞きの悪いことを言うな。俺たちは特区の安全を守るために、適正な行政手続きを踏んでいるだけだ」
鮫島は薄ら笑いを崩さない。
法律の定義で工業製品と言い張るなら、それでもいい。ならば、その
兵糧攻め。それが、法律の壁を迂回するために鮫島が思いついた、シンプルかつ暴力的な対抗策だった。
「さあ、帰った帰った。お前らの在庫がいつまで持つか、見物させてもらうぜ」
一鉄はチッと舌打ちをすると、それ以上は何も言わず、ワゴンの向きを変えて軽トラへと引き返した。
運転席に乗り込み、エンジンをかけると同時に、スマホをハンズフリー通話に切り替える。
『──どうしました、一鉄さん』
「社長。想定通りだ。クソギルドの連中が生態系調査とかいう名目で、向島ダンジョンを封鎖しやがった。監査部の鮫島の野郎がゲート前で張ってる」
『……了解しました。一鉄さんはそのまま、怪しまれないように一度第二工場に引き返してください。ご苦労様でした』
「おう。反撃の準備はできてるんだろうな?」
『ええ。こちらから仕掛ける手間が省けました。……あいつらを、すり潰します』
スピーカー越しに聞こえる若き相場師の声は、怒るどころか、獲物が罠にかかったことを喜ぶように冷たく透き通っていた。
◇ ◇ ◇
同時刻。第二工場の事務所。
陽太から視線で合図を受け取った凪が、極上の笑みを浮かべて手元のタブレットを叩いた。
「生態系調査を理由にした無期限封鎖ね。強権的な組織がやりがちな、最も古臭くて愚かな手だわ。……それじゃあ、私たちの盾の性能テストと行きましょうか」
凪が、事前に用意していた二つの連絡網に
──最初に行動を起こしたのは、特区の医療を司る政治的な盾だった。
尾道特区総合病院。
連絡を受けた小児科医の篠田は、即座に院長と特区の地元メディア数社を会議室に呼び集め、緊急の記者会見を開いた。
「特区ギルドの横暴により、現在、当病院の小児病棟に入院している魔素不適応症の子供たちの命が、深刻な危機に瀕しています」
フラッシュが焚かれる中、篠田は悲痛、かつ烈火の如き怒りを込めて訴えかけた。
「現在、当院にはNPO法人セトウチ・アクア・リリーフより、子供たちの命綱である最高純度の飲料水が無償で提供されています。しかし、特区ギルドは不透明な理由で水源であるダンジョンを突然封鎖し、この尊い支援活動を力ずくで妨害しているのです!」
用意周到に提示された水質基準適合証明書と、実際に回復に向かっている子供たちの、個人情報を厳重に伏せたカルテのコピーが、メディアに配られる。
清廉潔白な医師による、涙ながらの内部告発。
ギルドの利権争いで、子供たちの命が危険にさらされているという強烈なニュースは、瞬く間にSNSと特区内のローカル電波を駆け巡り、特区行政庁の窓口には市民からの怒りの抗議電話が殺到し始めた。
──そして、世論に火がついたのとほぼ同時刻。
東朋マテリアル実証実験センターの応接室から、経済的な盾が最も重く鋭い一撃を放っていた。
「……どういうつもりか、と聞いているんだ」
木崎は、特区ギルドの理事長へ直接繋いだ電話の向こうに向かって、氷のような低い声を叩きつけていた。
『き、木崎主任。誤解しないでいただきたい。向島ダンジョンの封鎖は、あくまで一時的な安全確認でして……』
「寝言は寝て言え。向島ダンジョンは、我が社の次世代純水プラント計画における心臓部だ。そこを無断で封鎖するということは、我が社──東朋マテリアルへの明確な敵対行為と見なすが、それで相違ないか?」
『て、敵対だなんてとんでもない!』
「ならば今すぐバリケードを退かせろ!!」
木崎の怒声が、受話器越しに理事長の鼓膜を震わせた。
「いいか。ギルド監査部の一介のチンピラが、我が社の数十億のプロジェクトを遅延させているんだ。今から一時間以内に封鎖を解かないのであれば、東朋からギルドへ支払っている年間協賛金を即刻全額停止し、国にギルドの運営体制の是正勧告を叩きつける。……これは脅しではない。決定事項だ!」
◇ ◇ ◇
向島ダンジョン入り口。
鮫島は、1人の探索者もいないゲート前で、勝利の余韻に浸りながら安煙草を吹かしていた。
(ざまぁみやがれ、ガキ共が。どんなに小賢しい理屈をこねようが、特区のダンジョンインフラを握っているのは俺たちギルドなんだよ)
これでしばらくすれば、泣きを入れてくるに違いない。その時、カネと技術を丸ごと吸い上げてやる。
鮫島がそう皮算用をしていた、その時。
──プルルルルルッ!
胸ポケットのスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、着信元はギルドの理事長本人。普段、一介の監査官などに直接電話などかけてこない雲の上のトップだ。
「は、はい! 鮫島です! 理事長、直々にどうされま──」
『この馬鹿野郎ォォォォォォォッ!!』
スマホのスピーカーが割れるほどの怒声が響き、鮫島は思わず端末を耳から離した。
『てめえ、向島ダンジョンで何をやらかした!? たった今、特区行政庁からは子供を見殺しにする気かと怒鳴り込まれ、東朋マテリアルからは協賛金を全額打ち切ると通達が来たぞ!!』
「なっ……え!? い、いや、あれはただの魔物素材の横流しをする底辺探索者の──」
『ふざけるな! 相手は東朋の基幹プロジェクトを担う正規の下請け企業で、おまけに特区の医療を支えるNPOの協賛企業だろうが! てめえのクソみたいな私怨で、ギルド全体を社会的に殺す気か!!』
「NPO……? 医療……!?」
鮫島の脳内が真っ白になる。
塩水に浸したゴミを売り捌いているだけの、世間知らずの学生ベンチャーではなかったのか。
なぜ、そんな底辺の会社が、特区の医療(世論)と超巨大企業(経済)という、特区の権力構造の頂点にいる連中を同時に動かせるのだ。
『何も知らんのか! このボケナスが!! 今すぐ封鎖を解け! そしててめえは監査部から外す! しばらく地下下水道のドブさらいでもやってろ!!』
「り、理事長! お待ちを、私は特区の──!」
ブツッ、と無情に電話が切れる。
鮫島は震える手でスマホを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
「……鮫島さん。部長から、今すぐ撤収しろって連絡が……」
「……」
部下の声にも答えられない。
東朋の
鮫島は理解した。自分は、ダンジョンの底辺を這いつくばる有象無象を狩ろうとしたのではない。見えない泥の底から、権力を巨大な罠として編み上げていた、恐ろしい化け物の逆鱗に触れてしまったのだということを。
「……撤収だ」
鮫島の虚ろな声と共に、向島ダンジョンの封鎖は、わずか数時間で呆気なく解除された。
物理的な権力という旧時代の刃は、陽太と凪が構築した社会的な盾の前に、傷一つすらつけることができずに自壊したのだった。
だが、陽太のターンはまだ終了していない。単なる防衛だけでは終わらせる訳がない。
彼が真に狙っていたのは、相手の失態によって生じた
◇ ◇ ◇
同日、夕刻。
尾道特区探索者ギルド本部、最上階の理事長室。
分厚いマホガニーのデスクの奥で、特区の最高権力者であるはずの理事長は、ハンカチで滝のような冷や汗を拭い続けていた。
ふかふかの来客用ソファに深々と腰掛け、出された最高級の玉露に口をつけているのは、陽太と凪の二人である。
「……この度は、我が監査部の者が独断で暴走し、多大なるご迷惑をおかけしました。東朋マテリアル様や、総合病院の皆様には、私から直接謝罪と釈明の場を設けさせていただきたく……ッ」
「謝罪は結構です、理事長」
陽太はティーカップをことりと置き、ひどく冷ややかな声で遮った。
「監査部が暴走したとはいえ、ギルドが不当な封鎖を行ったという事実は消えません。東朋マテリアルも、病院も、御組織のガバナンスには強い不信感を抱いています」
「そ、そこを何とか! 協賛金を打ち切られれば、特区の探索者支援システムそのものが崩壊してしまう! どうか、木崎主任や篠田先生にお口添えを……っ」
権力者が哀れにすがる姿を見下ろしながら、凪がスッと一枚の書類をテーブルに滑らせた。
「ええ。ですから、私たちが手打ちの条件をご提案しに来たのです」
「……条件、ですか」
「はい。鮫島監査官は、封鎖の理由を生態系調査局による、異常数値の安全確認だと公言しましたね。ギルドとしても、これを今さら部下の私怨でしたとは世間に発表できないはずです」
「うっ……そ、それは……」
凪の鋭い指摘に、理事長は言葉に詰まる。
「そこで、我々株式会社ウォーター・ベインが、ギルドの特別委託を受け、向島ダンジョンの生態系管理と安全調査を代行します。その調査と環境保全の結果が出るまで当面の間、我々以外の探索者の立ち入りを制限する優先探索権を付与していただきたい」
「なっ……!」
理事長は目を剥いた。
それは事実上、向島ダンジョンの独占権を寄越せという脅迫だった。
「ダンジョンを一つの企業に独占させるなど、前例がない! 他の探索者たちからの不満が爆発する!」
「理事長。これは生態系の安全を守るための、大義ある行政措置ですよ? 特区の医療と、大企業のプロジェクトを守るためのね。……これを拒否して、東朋の協賛金を失い、マスコミにギルドは子供を見殺しにすると叩かれる不満に比べれば、有象無象の探索者の不満など些末な問題でしょう?」
凪の冷酷なロジックに、理事長の顔から完全に血の気が引いた。
逃げ道はない。彼らの要求を呑まなければ、ギルドは社会的に抹殺される。
「……っ、わ、分かりました……。ウォーター・ベイン社に対し、向島ダンジョンの優先探索権を……特例として認可します……」
理事長が震える手で書類にサインと実印を押した瞬間。特区のダンジョンという公共のインフラが、一介の学生起業家の手に合法的に落ちた。
「賢明なご判断です。東朋と病院には、我々から誤解は解けたと伝えておきましょう」
陽太は立ち上がり、書類をスマートに回収した。
「それでは、今後とも良きパートナーで」
「…………」
理事長は放心状態のまま、退出していく二人の背中を見送るしかなかった。
ギルド本部を出て、夕焼けに染まる尾道の港を歩きながら、凪がクスクスと笑い声を漏らす。
「最高だったわ、理事長の顔。これで、向島ダンジョンは実質的に私たちの
「ああ。鮫島の野郎が余計なちょっかいを出してくれたおかげで、一気に事業の地盤が固まった」
ピンチすらも利用し、反撃のついでに特区の利権を根こそぎ奪い取る。
二つの強大な盾を手に入れ、さらにダンジョンの支配権まで獲得した陽太は、尾道の海を見つめながら、静かに、しかし確かな野心を燃やしていた。
宵々宵々 様
高評価ありがとうございます。
嬉しくてちょっぴり泣いてます。
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今後も頑張りますので、よろしくお願いします。