IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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前日譚は全4話です。


前日譚:世界の調律が狂った日
前日譚1話:平穏で退屈な日々と、数字の海


 尾道の海から吹き込む潮風が、ベランダに干された洗濯物を優しく揺らしていた。カレンダーの日付は12月の上旬を示している。まだ大災害の影など微塵も存在しなかった、ありふれた日本の朝の風景だった。

 

 湊家のダイニングテーブルには、ベーコンエッグとトーストの香ばしい匂いが漂っている。キッチンで立ち働く母親の鼻歌と、テレビから流れる呑気な朝のニュース番組のアナウンサーの声。

 

 その温かな食卓の端で、広島大学の経済学部に通う陽太は、冷めたコーヒーを片手にノートパソコンの画面を食い入るように見つめていた。画面に表示されているのは、黒い背景に赤と緑のローソク足が並ぶ証券会社の取引ツールだ。企業の業績データや、モメンタムと呼ばれる相場の勢いを示す複雑なチャートが、秒単位で点滅しながら更新されていく。

 

「お兄ちゃん、また朝からウニョウニョした線ばっかり見てる」

 

 小学二年生の妹、小春が背後から覗き込み、陽太の背中を小さな手でポカポカと小突いた。少しだけ頬を膨らませて、不満げな声を上げる。

 

「ご飯食べる時くらい、パソコン閉じなさいっていつもお母さんに言われてるでしょ」

 

「ウニョウニョした線じゃないぞ。ローソク足は日本人が発明した、人類の叡智の結晶だ」

 

 陽太は視線を画面から外さずに、小春の頭をポンと撫でた。難しい経済用語など欠片も理解していないはずだが、小春はえへへと嬉しそうに笑う。

 

「そうなんだぁ。お兄ちゃんすごーい」

 

「まあ、もうすぐだよ。今日か明日かはわからないけど、テクニカル的にもファンダ的にも、この企業の株価の歪みが限界に達しようとしてるんだ。ダブルバガーは固い」

 

「小春はハンバーガーならおさかなのやつが良いな!」

 

 陽太の口から出た投資用語の響きだけに反応し、小春が目を輝かせた。その無邪気な勘違いに、キッチンからクスリと笑う声が聞こえてくる。

 

「はいはい、相場師ごっこはそこまで。ほら、二人とも早く食べなさい。小春は遅刻するわよ」

 

 母親が呆れたように笑いながら、陽太のパソコンの前にコトンとサラダの皿を置いた。向かいの席では、父親が読んでいた新聞を半分に折りたたみ、苦笑いを浮かべている。

 

「しかし、お前のその数字を見る時の冷めた目は、一体誰に似たんだろうな。俺も母さんも、投資だの株だのとは無縁の人生を送ってきたというのに」

 

「遺伝は関係ないんじゃないかな? 数字は嘘をつかないからさ。俺にとって投資はゲームみたいで面白いんだよね」

 

「陽太を信頼しているが、のめり込み過ぎて、借金だけはしてくれるなよ」

 

「父さんは心配しすぎだよ。小遣いの範囲だし、レバレッジもかけてない。リスク管理はちゃんとしてるよ」

 

 陽太は小さく息を吐いてパソコンを閉じ、ようやくトーストに手を伸ばした。

 

 趣味として始めた少額の株式投資だったが、陽太には市場の金の動きを俯瞰して捉える才能があった。大学の経済学の講義は退屈だったが、現実の市場は違った。膨大なデータと企業のファンダメンタルズを眺めていると、時折、パズルのピースがカチリと嵌まるような直感が脳裏を過ることがある。世間が評価している表向きの価値と、企業が隠し持っている真実の価値。その間に生じる微かなノイズのような乖離が、陽太には感じとることができた。

 

 後に状態把握(アナリティクス)という規格外のアビリティとして開花するその天性の相場感覚は、この平和な日常の中ですでに静かに産声を上げていたのだ。

 

「いってきます!」

 

 元気な声と共に玄関のドアが開き、小春が小走りで学校へと向かっていく。

 

「車に気をつけるのよ」と見送る母親の声と、それに大きく手を振って応える真っ赤なランドセルを背負った小さな背中。

 

 陽太はベランダからその光景を眺めながら、残りのコーヒーを飲み干し、大学へ行くためのカバンを肩にかけた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 午前十時。広島大学の講義室には、冬の柔らかな日差しと、どこか気の抜けたような空気が満ちていた。教壇では教授が経済史の退屈な基礎理論を単調な声で語り続けているが、階段教室に座る学生たちの多くはスマートフォンを眺めるか、机に突っ伏して眠りについている。

 

 最後列の隅。陽太もまた、講義には全く耳を貸さずにスマートフォンの画面を凝視していた。朝、食卓で睨んでいたチャートがいよいよ臨界点に達していた。画面の向こうで、張り詰められた糸が切れたように緑色のローソク足が垂直に跳ね上がる。陽太の読み通り、市場に急激な買い注文が殺到していた。

 

「……ここが天井だ」

 

 陽太は冷徹な手付きで画面をタップし、すべてのポジションを利益確定した。

 

 趣味の範囲の小遣いとはいえ、数週間の分析の対価として、一般的な大学生のアルバイト一ヶ月分を超える利益が口座に反映される。

 

 周囲の学生たちがバイトのシフトやサークルの話題に興じる中、陽太はただ一人、画面の向こうに広がる巨大な数字の海を静かに見渡していた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 三コマ目の講義が終了し、陽太は早々に大学のある東広島から尾道へと引き返した。実家に戻るにはまだ少し早い。陽太が向かったのは、海岸通りから一本入った路地裏にある、古びた純喫茶かもめだった。カランカランとレトロなドアベルが鳴る店内に、香ばしい珈琲の匂いが満ちている。

 

「随分と嬉しそうな顔ね、湊先輩。何かいいことでもあったのかしら」

 

 奥のボックス席から声をかけてきたのは、まだ高校の制服を着た瀬戸凪だった。大学入学共通テスト直前であるものの、推薦ですでに広島大学法学部への進学を決めていた彼女は、受験勉強の必要もなく、放課後の時間をこの喫茶店で潰すのが日課になっていた。手元には高校生が読むはずもない、難解な六法全書や判例集が堂々と開かれている。

 

「別に。数日前から仕込んでおいた銘柄が、思い通りに跳ねただけだ」

 

 陽太が向かいの席に座り、ブレンドコーヒーを注文する。

 

「ふうん、またあぶく銭を稼いだわけ。相変わらずあくどい目の付け方をするのね」

 

「あくどいんじゃない、慧眼と言ってくれ。市場の歪みを見つけて利益を得ただけだ。俺が歪ませた訳じゃない」

 

「はいはい。慧眼慧眼」

 

 凪は全く信じていない様子でひらひらと手を振り、優雅にカップを口に運んだ。陽太は運ばれてきたコーヒーにミルクを落としながら、彼女のテーブルを占拠している難解な活字の山に視線を向ける。

 

「お前こそ、そんな法律の塊を睨みつけて何が楽しいんだ」

 

 陽太が尋ねると、凪は手元の分厚い判例集をパタンと静かに閉じた。その横顔には、女子高生らしいあどけなさはなく、どこか遠い理不尽を睨みつけるような冷ややかな険しさがあった。

 

「私の両親、医師と看護師なのは知ってるでしょ。父は小児科医なのよ。この国がどれほどバグだらけのルールで動いているか、両親を見れば嫌でも分かるわ」

 

 凪は細い指先で、閉じた判例集の表紙をトントンと叩いた。

 

「例えば医療訴訟。医学の知識もない素人の裁判官が、密室の後知恵で、極限状態の現場で下された医師の判断を結果論だけで断罪する。手術が成功しても人は亡くなるときは亡くなる。そんな当たり前のことも分からない司法のせいで、志のある医師ほど訴訟リスクに晒されてメスを置く羽目になる。その結果が医療崩壊よ。限られたリソースも、現場の努力も、歪んだシステムが全部食い潰しているわ」

 

 凪の口調は淡々としていたが、その瞳の奥には静かな怒りの炎が揺れていた。

 

「だから私は、あんな理不尽なルールに搾取される側には絶対に回らない。無能な大人たちが作った理不尽なルールに縛られないためには、自分がルールを利用し、あるいは書き換える側に回るしかないでしょう。……ねえ、先輩」

 

 凪は妖艶で、しかし冷酷な知性を孕んだ瞳で身を乗り出した。

 

「いつかあなたが巨大な資本を動かすようになったら、その法務は私が引き受けてあげる。可愛い彼女かつ天才の私が、あなたの資産を完璧に防衛してあげるわ。だから、私の野望も手伝ってよね」

 

「大きく出たな。だが、もしそうなったら悪くない選択肢だ」

 

 陽太は冗談めかした彼女の挑発に眉一つ動かさず、淡々とコーヒーを啜った。

 

 限界を迎えている医療現場を知る医師の娘と、市場の歪みを見据える相場師の卵。一杯の珈琲で夕方までくだらない論理の泥仕合を繰り広げる。周囲の同世代には決して理解されない、歪で、しかし心地よい二人の時間がそこにはあった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夕方。薄暗くなり始めた小学校の学童クラブで、陽太は約束通り小春を迎えに来ていた。

 

「お兄ちゃん!」

 

 ランドセルを揺らしながら走ってきた小春の手を引き家に帰る途中、陽太は駅前の小さなケーキ屋へと立ち寄った。今日稼いだ利益の一部で、小春が喜ぶイチゴのショートケーキを買い求める。白い箱を受け取った小春の目は、宝石でも見るかのようにキラキラと輝いていた。

 

「わあ、ケーキだ! 今日は何のお祝い?」

 

「お兄ちゃんがゲームで大勝ちしたんだよ」

 

「すごーい! じゃあ明日はおさかなのハンバーガーね!」

 

 無邪気に笑う小春の手を繋ぎ、二人は夕日に染まる尾道の坂道をゆっくりと登っていった。振り返れば、眼下に広がる尾道水道が、まるで黄金の帯のように美しく輝いている。すれ違う近所の人々との穏やかな挨拶。家に帰れば、温かい夕食と、優しい両親が待っている。

 

 そんな当たり前の日常が、どれほど贅沢で、どれほど脆い奇跡の上に成り立っていたのか。あの頃の陽太は知る由もなかった。

 

 趣味の投資、退屈な講義、凪との他愛のない会話、そして小春の笑顔。

 

 十九歳の秋。大学1年生の陽太にとって、この温かい世界は明日も当然のように続くものだと信じて疑っていなかった。

 

 ──あの日、十二月十一日が訪れるまでは。

 

 世界が反転し、すべての幸福が泥の中に沈むその運命の日まで、あと、わずか数日。




531004 様
お気に入りに登録していただきありがとうございます。
大変嬉しいです。

前日譚1話のリライト完了です。
話の流れは旧バージョンと変えていません。

今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。
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