十二月十一日。その日、世界は物理的にも、そして概念的にも完全にへし折られた。
始まりは、立っていられないほどの凄まじい地鳴りだった。日本列島を震源とする未曾有の地殻変動は瞬く間に世界中へと連鎖し、大地を引き裂きながら無数の巨大な迷宮を隆起させた。
道路が裂け、送電鉄塔が倒壊し、水道管が破裂する。人類が築き上げてきた交通、電力、通信といったあらゆるインフラは、わずか数十分で完全に沈黙した。
尾道の街も例外ではなかった。海と山に挟まれた斜面の街は地殻変動によって大部分が無惨に崩れ落ち、瓦礫と土煙の地獄と化していた。
「お兄ちゃん、怖い、お兄ちゃんっ!」
「泣くな小春! しっかり捕まってろ!」
狂乱する群衆の中、陽太は泣き叫ぶ小春の小さな身体を背負うと、斜面を駆け下りていた。背後からは両親が必死に続いている。安全な高台の避難所へ向かうはずが、足元のコンクリートが波打つように隆起し、退路を次々と断ち切っていく。
その時だった。
頭上の山肌が不自然に膨張したかと思うと、鼓膜を破るような轟音と共に大規模な土砂崩れが発生した。
家屋を飲み込みながら、何百トンという土砂とコンクリートの塊が四人に迫る。
「陽太! 小春! 危ない」
父親の叫び声。直後、陽太と小春は強い力で前方の窪みへと突き飛ばされた。
振り返った陽太の目に焼き付いたのは、自分たちを突き飛ばした両親が、無慈悲な土砂と瓦礫の波に飲み込まれていく光景だった。
「父さん! 母さんっ!」
土煙が晴れた後、そこには道を完全に塞ぐ巨大な土砂の山があるだけだった。
隙間から僅かに見えた両親の姿。致命傷を負い、血に染まりながらも、父親は最期の力を振り絞って陽太を見つめていた。
「……小春を、頼む……」
それが、両親の遺した最期の言葉だった。
悲鳴すら上げられず、虚脱したように座り込む陽太。だが、世界は彼に嘆く時間すら与えなかった。
地殻変動によって穿たれた巨大な亀裂。のちにダンジョンと呼ばれることになるその暗闇の奥から、低く濁った咆哮が響いてきた。
這い出てきたのは、現実の生物とはかけ離れた異形の獣だった。血走った眼球をギョロつかせ、涎を垂らしながら、無防備な陽太と小春へと狙いを定める。
「……来るな」
小春が恐怖で顔を伏せる中、陽太は這いつくばりながら、足元に転がっていた鉄筋付きのコンクリート片を握りしめた。悲しみよりも、恐怖よりも、父に託された妹を守らなければならないという意思だけが彼を突き動かした。
飛びかかってきた獣の頭骨に向かって、陽太は渾身の力でコンクリートの塊を振り下ろした。鈍い音と共に異形の頭が砕け散る。赤黒い血が陽太の顔と手に飛び散り、獣は痙攣しながら息絶えた。
その瞬間だった。
陽太の網膜の裏側に、強烈な青白い光が走った。
【システム適合条件をクリアしました】
【──個体名:湊 陽太 のユーザー登録を完了──】
【固有アビリティ:
無機質な電子音声が脳内に直接響き渡り、何もない空間に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
(……なんだ、これは)
それが何を意味するのか、理解するよりも早く。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん、お母さんが! お父さんが! うああんっ!」
泣きじゃくる小春の小さな温もりが、陽太の凍りついた思考を無理やり引き戻した。
そうだ、立ち止まっている暇はない。父さんに小春を託されたのだ。陽太は返り血を服の袖で手粗に拭うと、再び小春を強く背負い直し、煙が立ち込める街へと歩き出した。
向かったのは、小春が通う小学校だった。鉄筋コンクリート造りの頑強な校舎は、幸いにも大部分が倒壊を免れており、近隣の住民たちが雪崩れ込む臨時の避難所と化していた。
怒号と悲鳴が飛び交う薄暗い体育館。その片隅で、陽太は見覚えのある黒髪の少女の姿を見つけた。高校の制服を着た瀬戸凪だった。彼女は体育館の騒乱から身を隠すように、一人で膝を抱えて座り込んでいた。
「……先輩?」
陽太の姿に気づいた凪が、目を見開いて立ち上がった。陽太の服にべっとりと付着した赤黒い魔物の血と、その背後にあるはずの両親の姿がないことに、彼女は瞬時に状況を察したようだった。
「君、大丈夫か!その手の血はどうしたんだ!」
体育館の入り口近く、パーテーションで区切られただけの臨時の救護所から、血相を変えて出てきた凪の父親──瀬戸先生が、陽太に気づいて駆け寄ってきた。災害発生直後から、医師である彼はすぐに怪我人の治療のために臨時救護所へと駆り出され、不眠不休で押し寄せる重傷者の処置に当たっていたのだ。
「変な獣に襲われたので、倒しました。これは返り血です」
「そうか。怪我がなくて良かった」
「お父さん。こちらは湊先輩よ」
「君が湊くんか。凪から話は聞いているよ、湊くん。……ご両親は?」
瀬戸先生の穏やかな声に、陽太は一瞬だけ目を伏せた。
「土砂崩れに巻き込まれました。俺と小春を助けるために、二人とも、あの下に」
陽太が淡々と事実を告げると、瀬戸先生は痛ましく目を伏せ、陽太の肩を強く抱きしめた。
「そうか……辛かったな。よく小春ちゃんを連れてここまで逃げ延びた。だが、見てくれ、救護所はもう怪我人で溢れかえっていて、薬も包帯も足りない。私は今から奥の教室へ行って、ひどい骨折の患者を診なければならないんだ。満足に君たちの話を聞いてやる時間すらなくて、本当にすまない」
臨時の救護所と化した小学校で、医師としての使命感に突き動かされる瀬戸先生の表情は、疲弊しきっていた。陽太は首を横に振った。
「先生、気にしないでください。ただ、小春を休ませたいのですがどこが良いでしょうか?」
陽太が頭を下げると、瀬戸先生は優しく頷き、凪の肩を叩いた。
「凪、お前が小春ちゃんに付き添ってあげなさい。お父さんもお母さんも、今夜は怪我人にかかりきりになる」
「わかってるわ、お父さん。早く患者さんのところへ戻って」
凪は小さく息を吐き、陽太の背中から小春をそっと受け取ると、その細い腕で強く抱きかかえた。
「ねえ、先輩。あなた、これからどうする気?」
不穏な空気を感じ取った凪が、陽太の腕を掴んで引き留める。陽太の瞳の奥にある異常なまでの静けさが、彼女には恐ろしかった。
「実家に戻る。完全に潰れたが、まだ余震で完全に埋まる前なら、中から使えるものを取り出せるはずだ。これからの生活に必要なものが、あそこにはまだ残ってる」
「何考えてるの! 危険よ! あそこはまだ斜面が崩れるかもしれないのに!」
普段の冷徹な姿からは想像もつかないほど取り乱した凪の叫びを、陽太は静かに、だが強い意志を持った視線で受け止めた。
「危険なのは分かってる。大丈夫。必ず戻る」
腕を優しく振り解くと、陽太は震える凪を落ち着かせるようにしっかりと抱きしめた。陽太は最後に泣き疲れて眠った小春の頭を撫でてから、引き留める凪の声を背に受けて、再び地獄のような瓦礫の山へと引き返した。
◇ ◇ ◇
余震による不気味な地鳴りが響く中、陽太は崩落した実家の残骸へと辿り着いた。
……信じられなかった。
今朝まで、ベーコンエッグの香りが漂っていた場所が、そこにあった。父親が新聞を読んでいた椅子が、瓦礫の隙間から半分だけ顔を出している。母親がトーストを焼いていたキッチンは、天井ごと押し潰されていた。小春の「おさかなのハンバーガー」という声が、まだ耳の中に残っている気がした。
陽太は歯を食いしばり、感情を奥底に押し込めた。今は泣いている暇はない。
陽太は泥まみれになりながら、辛うじて隙間が空いていたリビングの窓から内部へと這い入る。いつ崩落してもおかしくない中、死に物狂いで実用的な物資を拾い集めていく。数日分のレトルト食料とミネラルウォーターのペットボトル、防寒着、両親の通帳、今朝まで睨みつけていた愛用のノートパソコン、そして母愛用のネックレスと父愛用の腕時計。それらをすべてリュックサックに詰め込み、這うようにして屋外へと脱出した。
夕闇が迫る瓦礫の道を、避難所への道を歩いていた時だった。
崩れたブロック塀の陰から、低い唸り声が聞こえた。息を殺して視線を向けると、瓦礫の上を緑色の肌をした小鬼のような異形が徘徊していた。
その瞬間、陽太の網膜の裏側で、先ほど獲得したばかりのアビリティ、そのレベル1
【
(化け物がいて、訳の分からない電子音声とウィンドウが見える……。まるでゲームじゃないか)
小春を守るために獣を殺した時、目の前に現れたウィンドウは幻覚ではなかったのだ。陽太の動揺は関係ないとばかりに、対象の名前と種族だけが無機質にウィンドウに表示されている。
(ゲームのシステムが現実になったとして、俺のアビリティは敵の名前と種族が分かるだけか……。戦闘には何の役にも立ちそうにない)
音を立てないようにリュックを抱え込み、瓦礫の陰に深く身を潜めた。恐怖で震える歯を食いしばりながら、暗闇の中で青白く光るウィンドウを睨みつける。
電気もネットも死に絶えたこの街で、目の前の化け物はゴブリンとしてシステムに明確に定義されている。昨日までの幸福な日常はすべて破壊され、より残酷で、狂ったゲームへと書き換えられたのだと、彼はこの時完全に理解した。
(……こんな化け物があちこち彷徨いているのか。これはただの災害じゃない。尾道、いや、日本の経済そのものが完全に崩壊するぞ)
リュックの中の通帳とノートパソコンを強く抱きしめる。
両親を失った悲しみと絶望の底にありながらも、相場師の卵としての思考は止まらなかった。目の前のモンスターを前にして、陽太の脳裏には底を抜けて暴落していくチャートが明確に描かれ始めていた。
前日譚2話のリライト完了です。
話の流れは旧バージョンと変えていませんが、凪のお父さんが医師として登場します。
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。