ゴブリンの不気味な唸り声を背後に聞きながら、陽太は命からがら小学校の校門へと滑り込んだ。
胸元には、実家の残骸から回収したノートパソコンや両親の通帳などの物資が入ったリュックを、ちぎれんばかりの力で抱きしめている。冷たい汗が全身から噴き出し、冬の夜気の中で白く煙っていた。
何とか生きて帰った避難所の体育館は、陽太が旅立つ前とは打って変わって、異様な熱気と怒号に包まれていた。
「モンスターを倒した奴は他にいないか!?」
「自警団を結成するぞ! 体の動く男は全員集まれ!」
「おい、お前のアビリティはなんだ! 攻撃魔法か、それとも身体強化か!?」
体育館の中央では、数人のガタイのいい男たちが声を張り上げ、避難民たちを煽り立てていた。その中心にいるのは、首にタオルを巻いた大柄な土木作業員の男だ。手には血のついたバールを握りしめ、その目は恐怖を通り越して、奇妙な全能感にギラギラと輝いている。
陽太は壁際を静かに移動し、小春を預けていた瀬戸家のスペースへと戻った。凪が小春をその細い腕で抱きかかえ、不安そうな表情で男たちを凝視していた。
「良かった。無事だったのね」
「ああ、何とか物資は回収できた。……体育館のあの騒ぎはなんだ」
陽太が声を潜めて尋ねると、凪は小春の耳を塞ぐようにしながら、苦々しい声を返した。
「湊先輩が実家に行っている間に、この小学校の裏手に緑色の化け物が数匹現れたの。自衛のために、あのステージにいる男たちが総出で殴り殺したわ。そうしたら、頭の中に電子音声が響いて、変な画面が見えるようになったって大騒ぎよ」
「ああ……。アビリティが発現したのか……」
「なんでアビリティを知ってるの? ……ってことは何? 先輩も緑色の化け物と戦ったってわけ?」
「……ああ。土砂崩れの時にちょっとな。もっとも俺が戦ったのはもっと異形の獣だったが」
「それなら仕方がないけど、もう危ないことしないでよ。……話を元に戻すけど、化け物を倒した男たちは、全員が超人的な身体能力や不思議なアビリティを手に入れたと言っているわ。世界が変わってしまったのよ、本当に」
その時、ステージの上のリーダー格の男が、体育館の隅にいる陽太たちに鋭い視線を向けた。
「おい、そこの学生! その返り血はなんだ! お前も化け物を殺したのか! アビリティはなんだ、前衛で戦える能力か!?」
体育館中の視線が陽太へと集まる。
陽太は自身の網膜の裏側に浮かぶ、
(ここで馬鹿正直にハズレ能力だと申告して大丈夫か?)
暴力がルールとなったこの狭い避難所で、戦闘能力のない人間はただのお荷物として見捨てられるか、防波堤として都合よく使い潰される可能性があった。
(だが、戦闘アビリティを持つと嘘をついて戦闘の矢面に立つことも難しい。嘘をつかず、全ては話さず、何とか取り入るしかない)
「……いえ。戦闘に向いたアビリティではありませんでした。ですが、後方支援として自警団のお手伝いをさせてください」
陽太はにこやかな表情をつくり、そう申し出た。男はあからさまに落胆し、ちっと舌打ちをして興味を失ったように視線を外した。
「なんだ、ハズレか。使えねえな。まあいい、雑用係としてこき使ってやるよ」
その夜を境に、避難所の秩序は急速に書き換えられていった。
力を得た男たちは自警団を自称し、体育館のステージ裏に備蓄されていた災害用の備蓄米や水を、一括管理という名目で完全に囲い込んだ。
「これからは俺たちが命懸けで化け物どもから拠点を防衛し、治安を維持する。だから、物資の配給順位は自警団への貢献度で決める」
彼らはそう宣言し、圧倒的な暴力を背景にして、瞬く間に避難所の全権を掌握した。これこそが、のちに特区の最高権力の一角として君臨するギルドの、醜悪な萌芽だった。
陽太のような非戦闘員と見なされた若者や弱者には、過酷な雑務が割り当てられた。凍えるような深夜から早朝にかけてのパトロール、周辺のバリケード設置・保全、凍結した地面の泥落とし。少しでもサボれば、翌日の配給は容赦なく減らされる。陽太は冷たい鉄パイプを握り締め、眠気と戦いながら、小春のために泥臭い雑務を黙々とこなし続けた。
そうして数日が過ぎた頃、追い打ちをかけるように試練が襲う。
早朝パトロールから割り当てられた教室へ戻ると、小春が軽く咳き込みながら、胸を押さえていた。
「お兄ちゃん……からだがしんどいよ……」
小春の額に手を当てると、平熱よりわずかに高いようだった。両親が亡くなり心労が溜まっているところに、まともな食事も取れていないのだ。風邪をひく可能性は十分にあった。
「小春。布団で寝てていいぞ。水飲むか?」
「うん。そうする。お水飲みたい」
小春を布団に入らせて、実家から持ってきたミネラルウォーターを渡す。自警団に青魔法アビリティを発現した少女が加わったことで、避難所における水の心配は無くなっていた。だが、魔法で生成される水には微かな違和感があり、体調不良の小春には家から持ってきたミネラルウォーターの方が良いと陽太は判断した。
「お水、おいしい。少し楽になった気がする」
「そうか。良かった。今日は安静にな」
のちに特区の人間を悩ませることになる魔素による奇病の、これが初期症状だった。薬も十分にない中、陽太はじわりじわり這い寄る焦りに冷や汗を流していた。
◇ ◇ ◇
その後も陽太は雑務をこなし続け、大災害から十日が経過した頃。体育館の壊れかけのスピーカーから、ジジジ……という激しい雑音と共に、乾電池で動くラジオの音声が久しぶりに室内に流れ込んだ。
『……政府非常災害対策本部からの発表です。現在、全世界の主要都市において、仮称・ダンジョンと呼ばれる巨大建造物の隆起を確認。これに伴う地殻変動と未知物質の干渉、未確認生命体により、国内の主要インフラは壊滅的な打撃を受けています……』
避難民たちが息を呑んでラジオに耳を傾ける。
『……繰り返します。全国の国民の皆様は、比較的被害が少なく、最低限の都市機能が維持されている国内主要九大都市、札幌、仙台、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、高松、福岡へ、各自、自力で避難を開始してください。九大都市近辺では国道1号・2号を中心に自衛隊及び警察が未確認生命体の駆除を実施していますが、万全ではありません。超法規的措置により武器の携帯が許可されています。避難の際には必ず武器を携帯してください。また、道路は寸断されているため、徒歩での避難を推奨します。繰り返します、自力で──』
放送はそこで途切れた。体育館に、重苦しい沈黙が広がる。
「広島まで行くって……どうやって行くんだよ! 鉄道も道路も崩壊して、外にはあの緑色の化け物なんかがウロウロしてるんだぞ!?」
「途中で襲われたら確実に死ぬ。行くなんて不可能だ!」
避難者たちが一斉に叫び始めた。その混乱を眺めながら、陽太は脳内で静かに計算を始めた。
(荷物を担いで大人が歩く速度は約2km/h。尾道から広島までは90kmとして、単純計算でも45時間が必要。一日6時間歩くとして7.5日はかかる計算だ。モンスターが蔓延る環境で小春を連れて行くのは土台無理だが、俺一人だったとしても、かなり厳しい)
避難者の一部は、一か八か広島市への移動を決意して荷物をまとめ始めたが、大多数の住民はそれを自殺行為だと判断した。結局、残された者たちは、この小学校の避難所で自警団の支配を受け入れ、籠城することを決意した。
窓の外には、暗闇の奥で不気味に光るダンジョンの入り口が見える。世界から隔離され、近代社会のルールが完全に消失した尾道特区の血塗られた歴史が、この極寒の避難所から本格的に動き出そうとしていた。
◇ ◇ ◇
ラジオ放送からさらに七週間が経過した頃──
小学校の避難所は自警団を中心に要塞化が進み、外を徘徊するモンスターの直接的な脅威は去っていた。また、大都市との流通も細々と復活していた。モンスターの跋扈する陸路を捨て、船を利用した海路で、外部からの支援物資や情報が手に入るようになっていた。
そこでもたらされたのは、あまりにも残酷な現実だった。
ラジオの放送に従い徒歩で九大都市を目指した避難民の多くは、道中でモンスターの餌食となり命を落としたという。皮肉なことに、港町である尾道から船で海を渡るのが最も生存率が高かったのだが、あの時のラジオ放送ではなぜか海路の存在は伏せられていた。
さらに、生き延びて九大都市に辿り着いた難民たちを待っていたのは、無情なバリケードによる閉鎖だった。食糧難を恐れた大都市は早々に外部からの受け入れを打ち切り、今やバリケードの外には溢れ返った難民たちによる巨大なスラム街が形成されているという。
その点、避難所に残った者達は、まだ幸運だった。陽太がいる小学校の避難所の他にも、市役所を利用した避難所やお寺を利用した避難所などが存在しており、それらと連携し、補い合うことで、より広範囲の探索が可能となっていた。近隣の家屋からかき集めた太陽光パネルで最低限の電力が確保され、青魔法アビリティを持つ者が生み出す水と、赤魔法アビリティによる火を使った暖房や煮炊き、狩猟班が持ち帰る可食モンスターの肉によって、凍死者や餓死者は出なくなった。
だが、魔法で生成された水や、ダンジョン産の肉には、微量の魔素が含まれている。健康な大人なら全く問題ないが、すでに魔素による奇病を発症しつつある小春の身体には有害だった。
「ごほっ、げほっ……お兄ちゃん、ごめんね……」
薄暗い教室の隅で、毛布にくるまった小春が激しく咳き込む。小春の体調は一向に上向く気配が無かった。避難所にいた医療従事者の有志が集まって、小春の他にも同じような症状で苦しむ子供たちのために、小学校の教室を即席の病院として運用していた。
この時にはまだ魔素不適応症という病名は無かったが、医療従事者の献身によって、災害前に作られたミネラルウォーターなどの魔素を含まない水と、九大都市から持ち込まれる高価な消炎鎮痛薬を飲むことで症状が緩和されることが判明していた。
しかし、外部との海運ルートを独占している自警団は、それらの安全な物資に信じられないほどの暴利を乗せて避難民に売りつけていた。
(小春を治療し、生き延びさせるためには、避難所を出るしかない)
そう心に決めた陽太だったが、難民の受け入れを拒絶した九大都市のゲートを潜り抜けるには、役人への巨額の裏金が必要だった。
命懸けで実家から回収した両親の通帳。そこには二人分の学費として遺された全財産が入っていたが、日々の法外な水と薬代として、指の間から砂がこぼれ落ちるように目減りしていく。
このままでは、確実に干上がる。追い詰められた陽太は、自警団の幹部に袖の下を渡し、彼らが外部の特区都市と取引するために設置した衛星通信の回線を短時間借り受ける権利を買った。
残された全財産を証券口座に集約し、陽太は一発逆転の勝負に出た。ターゲットは日経平均株価。
東京証券取引所は大災害の発生以降、長らく機能を停止していたが、四日前から唐突に取引を再開していた。日本中のインフラが破壊された状況での市場再開。当然のように、初日から売りが殺到し、ストップ安を連発していた。
日本経済の底が抜けるのは誰の目にも明らかだった。陽太は自身の相場感覚を信じ、資金の限界まで日経平均の空売りを仕掛けた。
最初は読み通りだった。暗い教室の中で、ノートパソコンの冷却ファンの音だけが響く。画面の中で株価は底なし沼のように下落を続け、陽太の口座の含み益は順調に膨らんでいった。20%を超えた含み益が画面に表示された時、陽太は確信した。小春と共に大都市に潜り込むための莫大な資金が、もうすぐ手に入るはずだった。
だが、陽太は知らなかった。市場という魔物が、時に現実の理すらもねじ曲げる狂気を孕んでいることを。
運命の日。陽太がチャートを監視していると、突如として画面に重大なニュース速報が流れた。
国立研究機関による、魔石の画期的な利用方法の発見。
ダンジョン内で採掘される魔石が、既存の化石燃料を遥かに凌駕する次世代のクリーンエネルギーとして機能するという、世界を根底からひっくり返す大発表だった。
その瞬間、市場の評価は一変した。
日本国土を覆い尽くしたダンジョンは、厄災の象徴から、無尽蔵の資源の山へとその意味を変えたのだ。直後、陽太の目の前で、下落を続けていた日経平均のチャートが、狂ったように垂直に跳ね上がった。
「な……んだ、これは」
買いが買いを呼ぶ、歴史的な大暴騰。生き残った国家と巨大資本の資金が市場に雪崩れ込み、空売りを仕掛けていた投資家たちの悲鳴を養分にして、株価は天を突くように上昇していく。ショート・スクイーズと呼ばれる、絶望的な踏み上げだった。
(止まれ。頼む、止まってくれ)
陽太は祈るような気持ちでキーボードを叩き、マウスを握りしめた。だが、新たな時代のルールを作る巨大な資本のうねりの前では、地方の避難所で震える個人の祈りなど、虫ケラの羽音にも等しかった。
ピリリリリリッ!
無慈悲な警告音が静まり返った教室に鳴り響き、画面が真っ赤なアラートで染まる。証券会社による
追証による借金こそ免れたものの、口座の残高表示は完全にゼロ円となっていた。両親が遺してくれた最後の命綱すらも、一瞬で消し飛んだのだ。
「……あ、あ……っ」
暗い部屋の中、陽太は呆然とゼロの羅列を見つめていた。
どれだけ精緻な分析をしようと、世界を支配する側がルールを変えれば、すべては一瞬で紙屑になる。背後で小春の苦しそうな咳き込みが聞こえる中、陽太は画面に映る赤い光を虚ろな瞳で睨みつけた。
その時、陽太の脳裏に走った強烈な違和感。
──なぜ、東京証券取引所はこの大発表の四日前という絶妙なタイミングで取引を再開したのか?
もしも、国家や一部の巨大資本が事前に魔石運用の目処を立てており、パニックで暴落した底値の株を買い集めるために、わざとこのタイミングで市場を再開させたのだとしたら。自分たちのような一般の投資家を、合法的に食い殺すための罠だったとしたら。
理不尽な市場の暴力と、ルールを作る側に対するどす黒い憎悪が、若き相場師の胸の奥底で静かに発火した瞬間だった。
アタリメ 様
お気に入り登録ありがとうございます。
ようやく、第1章及び前日譚2話までのリライトできました。
リライトの内容をまとめたものは活動報告に記載しておりますので、ご確認いただければと存じます。
簡単に変更点を上げると、①凪のお父さんを小春の主治医として登場させ、凪が法律にこだわる理由を補強してます。②第1章の終わりに陽太と凪の関係を恋人関係に戻してます。
これからまた、前日譚の更新を再開します。
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。