大暴落による全財産の喪失から数週間後。絶望の底に沈む陽太を置き去りにするように、世界は急速に新たな秩序を形成し始めた。
ある朝、陽太はスカラーシップの申請書類を抱え、かつての尾道駅の敷地を歩いていた。電車が走らなくなった線路は外され、大規模な増築工事が進んでいる。跡地に建ち上がりつつある巨大な施設こそが、尾道特区ギルドの本拠地だ。
(……随分変わったな)
歩きながら、陽太は一年前とは全く異なる街の姿を見渡した。
規模を縮小させながらも国家機能を取り戻した政府は、“特定迷宮資源開発及び管理に関する特別措置法”──通称:ダンジョン特措法をスピード成立させ、全国のダンジョン周辺を“ダンジョン特区”として指定した。尾道も瀬戸内ダンジョン群の玄関口として選ばれ、国と巨大企業が共同出資した魔石発電プラントを原動力に、異常な速度で開発が進んでいる。
そして、この工事現場の労働力として、大都市のゲート外に形成された巨大なスラム街から、食い詰め者や難民たちが大型船で次々と送り込まれてきた。彼らは安価な労働力として土木工事や、魔石を掘り出す下級探索者に従事させられ、命をすり減らして特区のインフラを再構築していった。
陽太がいた小学校の体育館で備蓄を握り、暴力で支配していたあの自警団の男たちは、そのまま尾道特区ギルドの初期メンバーとして公権力に取り込まれ、正規の支配者として君臨している。
難民を利用しても不足する探索者を補うため、政府とギルドが打ち出したのが“スカラーシップ制度”だ。学生であっても探索者としてギルドに登録し一定の活動を行えば、学費の免除や特別手当、優先的な住宅支援が受けられる──要するに、若者をダンジョンという死地へ送り込むための合法的な餌だった。
全財産を失い、小春の体調悪化に怯えていた陽太に、選択の余地はなかった。
(こんなシステムに乗っかるのは癪だが、今は使えるものは何でも使うしかない)
陽太は迷わずスカラーシップ制度に申し込み、自身の命を担保にして、小春が安心して生活できるように海沿いの古い借家を手に入れた。
◇ ◇ ◇
駅舎を居抜き改装したギルドの自動ドアを抜けると、むせ返るような魔物の血の匂いと、探索者たちが煽る安い酒の匂いが混ざり合って鼻をつく。陽太はホールの隅にあるクエストボードの前に立ち、溜息をつきながら採集依頼の紙を見つめた。
「湊くん。今日も薬草の採集依頼? 妹さんのためとはいえ、無理しないでね」
カウンターの中から、人の良さそうな若い女性の受付係が心配そうに声をかけてきた。彼女は、学生の身で幼い妹を抱える陽太に同情し、比較的安全なエリアの依頼をこっそり回してくれたりする、この殺伐とした特区で数少ない善意の持ち主だった。
「ありがとうございます。でも、これだけじゃ到底足りなくて」
「気持ちは分かるけど、君のアビリティじゃ奥の階層は絶対にダメよ。命あってのものなんだから」
彼女の優しさは痛いほど分かっていたが、安全な採集依頼の報酬では、小春の特殊な薬代には到底届かない。陽太は意を決し、酒場スペースでたむろしている重装備の探索者たちに声をかけた。
「すいません。荷物持ちでも、マッピングでも何でもします。パーティに入れてもらえませんか」
陽太がギルドカードを提示すると、リーダーらしき大柄な男が鼻で笑った。
「ああん? アビリティは? アナライザー? 敵の名前が分かるだけだぁ? 舐めてんのか学生」
男は陽太の肩をドンと突き飛ばした。
「俺たちが欲しいのは前衛で壁になる奴か、攻撃魔法が使える奴だ。そんな戦闘の役に立たないハズレアビリティ持ちなんて、ただの動くお荷物だろうが。お前みたいな貧弱なガキは、外の工事現場で泥でも運んでな」
周囲の探索者たちが下品な笑い声を上げる。陽太は床に倒れ込んだまま、ギリッと唇を噛み締めた。
この場所では力が全てだ。強いスキルを持たない者は、徹底的に搾取されるか、見下されるか、排除される。
焦燥と屈辱に駆られた陽太は、その日の深夜、受付の女性の制止を振り切り、ソロでは絶対に立ち入るべきではない高難易度のダンジョンへと足を踏み入れた。危険度が高い分、浅い階層でも高値で売れる素材が手に入る可能性があったからだ。
洞窟の入り口から漂うのは、圧倒的な殺気と腐敗臭。陽太は鉄パイプを強く握り締め、心臓の鼓動が相手に聞こえないかと思うほどに震えながら、壁沿いを這うように奥へと潜入した。戦闘スキルを持たない彼ができるのは、ただ気配を殺し、モンスターとの接触を極限まで避けて換金アイテムを探すことだけだ。
角を曲がった先、薄暗い空間の奥に、高価な回復薬の原料となる希少な発光苔が生えているのを見つけた。
「……あった」
発光苔をリュックに収め、安堵した瞬間だった。頭上の暗闇から、音もなく糸を引いて黒い影が降ってきた。陽太の網膜に、
【
脳裏に浮かび上がったデータに、陽太の全身の血が凍りついた。洞窟に潜む巨大な蜘蛛のモンスターだ。戦闘能力を持たない陽太がまともに戦えば、一瞬で切り裂かれる。
「なっ──」
咄嗟に体を捻ったが、遅かった。蜘蛛の鋭い前脚が陽太の脇腹を深く抉り、鮮血が冷たい石畳に飛沫を上げる。
「ガァッ……!」
激痛に視界が明滅する。陽太はなりふり構わず、持っていた鉄パイプをデタラメに振り回して牽制すると、傷口を押さえて入り口へと向かって駆け出した。背後から迫るカサカサというおぞましい足音。何度も転び、自身の血と泥に塗れながら、陽太は死に物狂いでダンジョンを脱出した。
◇ ◇ ◇
その数時間後。深夜のギルド窓口で、陽太は絶望の底にいた。
命と引き換えに手に入れた希少な発光苔は、ギルドの査定で数万円の札束に変わった。だが、陽太の脇腹からは絶え間なく血が流れ続けている。放っておけば確実に死ぬ傷だ。陽太は血まみれの手で震えながらその札束をそのまま受付に突き出し、ギルドが法外な値段で販売している“回復ポーション”を購入せざるを得なかった。
利益は、ゼロ。
小春の薬代を稼ぎに行って、自分の命を繋ぐための治療費で完全に消え失せたのだ。
「……今回は死ななかっただけ、逆に運が良かった。ダンジョンで稼ぐのは無理だ」
ギルドの外の防波堤に座り込み、陽太は荒い息を吐き出して夜空を睨みつけた。
致命的なリスクを負って一攫千金を狙うのは、資本を持たない弱者の、最も愚かな戦い方だ。世界を支配する巨大な資本に株で敗れ、ダンジョンの暴力システムにも敗れた。だが、この圧倒的な徒労感と血みどろの教訓が、陽太から一切の甘えと常識を削ぎ落とした。
今の自分に必要なのは、一時の幸運や他人の力ではない。絶対に死なず、底辺からでも確実に利益を積み上げられる、リスクゼロの自分だけのシステムだった。
◇ ◇ ◇
大災害の影響で大学入学共通テストは全国で中止となり、教育現場は混乱していた。陽太が通う広島大学も、壊滅した東広島市のキャンパスの代わりに広島市にプレハブの仮設校舎を急造し、独自の入試を実施することで入学者を確保し、在校生は全員が特別進級するなどの対応が慌ただしく行われた。四月の新年度には若干間に合わなかったものの、ゴールデンウイーク明けの五月から授業を再開することが決定した。スカラーシップの適用を受けた陽太はこうして、大学生と探索者の二足の草鞋を履き始めた。
早朝、無料パスを使って尾道から広島市へと向かうフェリーに乗り、仮設校舎で経済学の講義を受ける。そして午後には再びフェリーで特区へと戻り、ギルドの依頼をこなすためにダンジョンへと向かう過酷な日々だ。
フェリーでの長い通学時間は、陽太にとって数少ない休息であり、大切な人との交流の場でもあった。
「相変わらず、ひどい隈ね。また夜通しダンジョンに潜っていたの?」
船内のラウンジ席。向かいに座った凪が、呆れたような、心配しているようなため息をついた。推薦で広島大学法学部に入学した彼女も、フェリー通学という点では陽太と同じだ。
「生きるのに必死なだけだ。……凪も忙しいんじゃないか?」
「私は大丈夫よ。家は病院の社宅に入れたからね。……父と母が、なかなか帰ってこないのがちょっとね」
凪は苦笑しながら、自前のタンブラーに入れた代用紅茶を口に運んだ。
「特区の総合病院で働いてる父が、毎日帰れないくらい患者で溢れているのよ。魔素の病気に苦しむ子供たちが、次々と運ばれてくるって」
「……そうか。先生には本当に世話になってる」
凪の両親は、避難所の救護室から特区の総合病院へスライドしていた。毎日寝る間も惜しんで、ギルドから持ち込まれる怪我人や、魔素の病気に苦しむ患者たちの治療に当たっている。小春を預かって面倒を見るような大人は陽太の周りにおらず、基本的には陽太が一人で面倒を見るしかないのだ。
「私、今日の講義は午前中だけなの。小春ちゃん一人でお留守番でしょ。午後から見に行ってあげるわ」
「いいのか?もちろん見てくれると助かるが……」
「いいわよ。もう私は大学に期待してないの。ロースクールルートじゃなくて、予備試験ルートで弁護士になるわ」
窓の外の海を眺めながら、凪の瞳の奥に冷たい怒りの炎が揺れた。
「もう本当に嫌になるわ。ギルドの連中は特効薬や安全な純水を出し惜しみして、価格を吊り上げている。命を救う現場が、あの連中の作った歪なルールのせいで踏みにじられているのよ。……以前は、システムそのものがバグだらけだと思っていたわ。でも今は違う。悪意をもってバグを意図的に作り、甘い汁を吸い続けている人間がいるのよ」
「……ああ」
陽太は短く答えた。
言葉が出なかった。
凪の言っていることは正しい。そして自分はそのルールに二度敗れ、ギリギリの生活を余儀なくされている。「大きく出たな」と笑い飛ばせた喫茶店の午後は、もうずっと遠い。
「いつかそのルールを書き換えてやるわ。あなたも手伝ってよね、先輩」
「……その時は頼む」
陽太は静かに目を伏せた。
(凪の言う通りだ。今の現状を変えたいなら祈るだけじゃだめだ。だが、反撃の狼煙を上げるための資本も、武器も、今の俺には何一つない)
◇ ◇ ◇
午後。大学の講義を終えた陽太は、特区へ戻るとそのまま向島ダンジョンへと向かった。冬に死にかけた経験から、陽太はもう二度とリスクを犯さないと誓っていた。パーティを組めないソロの非戦闘員が、絶対に死なず、かつ確実な利益を上げるための唯一の最適解。それが、安全だが誰も見向きもしない不人気エリア、向島ダンジョンだった。
湿った土と腐敗臭が漂う洞窟の中で、陽太は泥まみれになりながら鉄パイプを振り回していた。相手は最弱のモンスター、泥スライム。倒しても手に入るのは、市場価値がゼロと見なされている泥スライムの核だけだ。買取価格は雀の涙で、小春の水と薬代を稼ぐためには、文字通り泥水を啜るようにして何十匹、何百匹と狩り続けるしかなかった。
顔に泥を浴び、擦り傷だらけになりながら、陽太は冷たい洞窟の床に這いつくばって核を拾い集めた。
屈辱だった。かつては日経平均のチャートを読み解き、資金を動かしていた自分が、今は底辺の泥の中で小銭を拾い集めている。世界のルールを作る巨大な資本にすべてを奪われ、このどん底まで叩き落とされたのだ。
「今は、耐える時だ……」
泥まみれの核を強く握りしめ、陽太は暗い洞窟の中で一人ごちた。この泥スライムに何かの価値があるとは思えない。だが、死なずに小銭を稼げるのはこれしかないのだ。感情を殺し、ただ機械のように泥を啜り、生き延びるためのわずかな資本を蓄積する。
いつか必ず巡ってくるはずの、市場の歪みを突いてすべてをひっくり返す、そのたった一度のチャンスを待ちわびて。
暗いダンジョンの底で、相場師としての冷徹な眼光が、泥に塗れた陽太の瞳の奥で静かに燃え続けていた。
(前日譚・了)
前日譚はこれにて完結です。
これから第2章の執筆にかかりつつ、ショートストーリーの投稿をしようと思います。
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。