IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第1章に入りきらなかった。もしくは、後から思いついたエピソードになります。


ショートストーリー1-3

泥まみれの証書

 

 ウォーター・ベイン社による泥スライムの核の量産が、軌道に乗り始めた頃。

 

 同社第一工場長の村上一鉄は、広島市内の少しだけ値の張るレストランの個室で、そわそわしながらグラスの水を飲んでいた。

 

 慣れない上等な仕立てのスーツが、どうにも気恥ずかしい。目の前に座っているのは、数年ぶりに会う妻の佐代子と、一人娘の麻衣だった。

 

 あの日──十二月十一日の大災害で右腕を失い、長年勤めていた造船所から容赦なく首を切られた。一縷の望みをかけた義手は詐欺師に掴まされた粗悪品で、一時は日々の食費すら事欠くどん底の生活だった。

 

 状況を変えるべく、麻衣が中学に上がるタイミングで、家族を広島市へ移した。佐代子の父親が広島市に居を構えていたため、大都市への移住の際、強欲な役人に法外な裏金を積む必要がなかったことだけが唯一の救いだった。

 

 しかし、同居した佐代子の父親もすでに高齢で働くことができず、旧時代の年金制度はとうに崩壊している。家計は常に火の車だった。

 

 現在、中学3年生になった麻衣は教師になるという夢を諦め、高校進学はせず、来年から働きに出る予定だった。金がないというただそれだけの理由で、家族はバラバラになってしまったのだ。

 

「……いきなり呼び出してすまなかったな」

 

「お父さんこそ。特区で危険な探索者やっているんでしょ……。無理してこんなお店にしなくてもよかったのに」

 

 娘の刺々しい、けれどどこか心配そうな声に、一鉄は目頭が熱くなるのを必死に堪えた。

 

 彼は無言でスーツの内ポケットから、真新しい銀行の通帳と、一枚の契約書のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。

 

「これ……」

 

「借金は全部返し終わった。あのとんでもない学生社長の坊主がな、俺を工場長として、日給五万円で雇ってくれてるんだ」

 

 不審そうに通帳を開いた麻衣の目が、そこに並ぶ信じられない数字の羅列を見た瞬間、こぼれ落ちそうに大きく見開かれた。佐代子もまた、絶句したまま通帳を凝視している。一鉄は、無骨な義手と長年の溶接仕事で分厚くなった手を、テーブルの上に強く押し当て、深々と頭を下げた。

 

「お前達には、本当に苦労をかけた。情けない父親で、本当にすまなかった。……もう一度、一緒に暮らさないか。今度は、俺が全部、お前たちの面倒を見るから。麻衣。高校も諦めないで良いんだ」

 

 静寂の中、ぽつり、と通帳の上に水滴が落ちた。

 

 一鉄が恐る恐る顔を上げると、娘が両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いていた。その隣で、妻の佐代子も静かに涙を流しながら、一鉄の分厚い左手をそっと包み込んでいた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

誇りの形

 

 尾道特区の端、かつて別の建物があった跡地に急造されたプレハブの仮設小学校。

 

 遠くの海岸線には、灰色の煙を吐き出す巨大な魔石発電プラントの煙突が聳え立っている。大災害から時が経ち、世界は歪な復興へと向かっていた。

 

 昼休みのグラウンドでは、埃っぽい泥にまみれながら子供たちが元気な声を上げて走り回っている。中には、覚醒した微弱なアビリティを自慢し合っているませた生徒もいた。

 

 だが、魔素不適応症の影響でまだ身体が完全ではない小春は、静まり返った教室の窓際から、その様子をただ静かに眺めていた。手元には、お兄ちゃんが毎朝「これだけは絶対に飲むんだぞ」と持たせてくれる、セトウチ・アクア・リリーフのロゴが入った透明な純水のボトルがある。

 

「ねえねえ小春ちゃん。聞いてよ!」

 

 不意に、隣の席の女子生徒が、誇らしげに胸を張って身を乗り出してきた。

 

「うちのお兄ちゃんね、昨日ギルドでDランクに上がったんだよ! 炎の魔法がすっごく強くて、他の大人の探索者からもかっこいいって褒められたんだから!」

 

「すごいね。Dランクなんて、とっても強いんだね」

 

 小春がいつもの優しい笑顔で相槌を打つと、同級生の少女はさらに得意げに目を輝かせた。

 

「でしょ? 小春ちゃんのお兄ちゃんも、確かギルドのカード持ってたよね? どんな凄い魔法が使えるの? 武器は何?」

 

 無邪気で、しかしそれゆえに残酷な質問に、小春は少しだけ首を傾げた。

 

 自分の兄──湊陽太は、炎を出す魔法なんて使えない。氷の刃を放つこともできなければ、大剣を振るって巨大な魔物を一撃で両断することもない。クラスは一番下のFランク。ギルドから帰ってきたお兄ちゃんが、服についた泥を落としながら苦笑いをしていた夜のことを、小春は知っている

 

「うちのお兄ちゃんはね、魔法は使えないの。でもね……」

 

 小春は、机の横にかけられた真新しいランドセルと、兄が毎日欠かさず机の上に置いていってくれる高価な処方薬の包みを、小さな手でそっと愛おしそうに撫でた。

 

 3年半の間、毎日、夜遅くに帰ってくるお兄ちゃんの服は、泥スライムの汚い泥でドロドロに汚れていた。あちこちに擦り傷を作って、倒れるように眠る日だってあった。

 

 けれど、どんなに疲れていても、理不尽に虐げられていても、自分の前では絶対に弱音を吐かず、世界で一番優しい笑顔だけを見せてくれる。そんなお兄ちゃんの誰よりも温かい瞳を思い浮かべる。

 

「うちのお兄ちゃんは、社長さんなんだよ」

 

「しゃちょーさん?」

 

 同級生の少女が、きょとんとして瞬きを繰り返した。化け物を倒す魔法使いよりも凄い職業がこの世にあるのか、小学生の頭では理解できないようだった。小春は誇らしげに胸を張り、純水のボトルをぎゅっと抱きしめた。

 

「うん。炎の魔法より、ずうっと凄い頭を使ってね、悪い人たちから特区のみんなを、瀬戸先生の病院の子供たちを、全員守ってるの。だからね、世界で一番かっこよくて、一番強いのは、私のお兄ちゃんなんだよ」

 

 その言葉の真の意味を、周囲の子供たちが理解することは、きっとこの先もずっとない。

 

 けれど、西日に照らされたプレハブの教室で、小春の澄んだ瞳には、どんな最高ランクの探索者や巨大企業の権力者にも決して揺るがされることのない、絶対的な誇りと信頼の光が宿っていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

弔いと誓い

 

 尾道特区の片隅にある、古い借家。 その一室で、陽太は静かに線香に火を灯した。

 

 小さな棚の上に置かれた二つの遺影。そして、愛用のネックレスと腕時計。 あの日、土砂崩れに飲み込まれるまで笑っていた両親の顔は、色褪せた写真の中でも変わらずに陽太を見守っていた。

 

「……父さん、母さん。ようやく、最初の蓄えができたよ」

 

 陽太の声は、日中の交渉で見せた鋭い響きを脱ぎ捨て、疲れ切った少年のものに戻っていた。 膝の前に置かれたのは、銀行の預金通帳と、ウォーター・ベイン社の設立認可証。そこには、数日前まで想像もできなかったような、かつての生活を立て直すためのタネ銭が記されている。

 

「誰にも見向きもされない、ドロドロのゴミみたいなスライムが、俺たちの命を繋いでくれた。……皮肉なもんだよね」

 

 あの日、すべてを失ってから、陽太は文字通り泥を啜るようにして生きてきた。 ハズレアビリティを抱え、最弱の魔物にすら怯え、周囲の探索者から蔑まれながら、ただ小春に純水と薬を買い与えるためだけに、暗いダンジョンの底を這いずり回った。

 

 だが、絶望の泥の中にこそ、勝機は眠っていた。 誰にも価値を理解されないバグを見つけ、それを資本という力に変える。その最初の手応えが、今、陽太の掌の中に確かに残っている。

 

「まだ、安心はできないけど……。凪に協力してもらってどうにかなってる。そうだ、凪とも仲直りできたんだよ」

 

 自分の心を整理するように陽太は語りかける。

 

「もう少し先にはなると思うけど、ここから離れようと思うんだ。ここはどうしたってセキュリティが甘いからね。小春のためにも引っ越すよ」

 

 陽太が静かに手を合わせていると、背後の古びた畳が微かに軋んだ。 布団から起き出した小春が、眠そうに目を擦りながら陽太の背中に寄りかかってくる。

 

「兄ちゃん……おかえりなさい。またお父さんたちに、内緒のお話?」

 

「ああ。……小春。調子はどうだ。今日はお水もご飯もしっかり食べれたよな」

 

 陽太が振り向いて微笑むと、小春は不思議そうに小首を傾げた後、ぱあっと花が咲いたような笑顔を見せた。 その細い指先を握り締めながら、陽太は遺影に向かって誓う。

 

 もう、奪わせない。 この不条理な世界で、自分たちだけの領域を、一歩ずつ、確実に広げていくのだと。

 

 窓の外、カラカラに乾いた尾道の夜空には、造船所のサーチライトが瞬き、歓楽街のネオンが怪しく辺りを照らしていた。




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