広島市に建てられた仮設キャンパスへ向かう高速フェリーの中。隣の席で凪が、陽太のタブレットを覗き込んで眉を顰めた。
「……何を読んでるの? 講義の予習にしては、随分と変わった資料ね」
画面に映し出されていたのは、大学のシラバスでも教科書でもなかった。広島大学の研究室一覧と、各研究室が発表した論文のリスト、そして文部科学省が公開している科学研究費の配分データだ。
「大学には、まだ値段がついていない資産が眠っている」
陽太は視線を画面から外さずに言った。
「資産? 大学は企業じゃないわよ」
「企業にも未利用特許なんて腐るほどあるが、大学は企業と比べようがないほど、放置されているものが沢山ある。優秀な研究者、最先端の分析設備、そこから生まれる論文や特許の種。企業が数十億払ってでも欲しい技術が、金がないという理由だけで研究室に眠っているんだ」
凪は呆れたように息を吐いた。
「普通、大学をそんな目で見ないわよ」
「俺は普通じゃないからな」
陽太の口元にかすかな笑みが浮かぶ。だが、その目は笑っていなかった。
泥スライムの核に価値を見出したのと同じだ。市場が正しく評価していないものを見つけ、それを資本の力で引き上げる。対象がゴミ素材から人間の才能に変わっただけで、やることは同じだった。
◇ ◇ ◇
仮設キャンパスは、広島市の沿岸部に急造されたプレハブの建築群だった。
12.11で壊滅した東広島市のキャンパスから機能を移転したとはいえ、元の研究設備の大半は破壊され、泣く泣く放棄されていた。経済学部や法学部といった文系学部は講義室さえあれば成り立つが、理工系の研究室は研究設備がなければ話にならない。予算が大量についた魔石工学などのメジャー研究室は、従前を大きく上回るスペックの設備が揃っている。だが、マイナー研究室は惨憺たる状況だった。
午前中の経済学の講義を適当にやり過ごした陽太は、午後の空き時間を使って仮設キャンパスの端にある理工系棟へと足を向けた。
メインストリートから離れた仮設棟の一画。“魔物素材工学研究棟”と手書きで書かれた看板が、風に煽られて傾いている。建物自体は他のプレハブと同じ規格品だが、明らかに他の棟より手入れがされていなかった。外壁には雨染みが広がり、エアコンの室外機は錆びて止まっている。
陽太は古ぼけたドアを開けた。
中は想像以上にひどかった。
天井の一角からは雨水がポタポタと垂れ、バケツが置かれている。実験台の上には、二世代前の型落ちの分析機器が寄せ集めのように並び、配線はガムテープで仮止めされていた。棚には試薬のボトルが乱雑に押し込まれ、その手前にはカップ麺の空容器とペットボトルの山が積み上がっている。
研究室というより、廃墟に近い。
だが、その廃墟の奥で──一人の人影が、分析機器のモニターに食い入るように顔を突っ込んでいた。
「…………」
白衣を着た、小柄な女性だった。癖のある栗色の髪を無造作に束ね、白衣のポケットにはボールペンが三本刺さっている。白衣の裾には、泥なのか試薬なのか判別がつかない染みが点々とついていた。
彼女はモニターに映る分子構造のデータを睨みつけながら、右手でキーボードを叩き、左手でカップ麺の残り汁をすすっている。陽太が入ってきたことに、全く気づいていない。
(……
陽太が事前に調べ上げていた情報と、目の前の光景が一致する。そして、同時に一致しないものがあった。
(これだけの才能が、この環境で研究をしている。……安いな)
その言葉が、口から漏れた。
「安い、な……」
直後。
「──誰ですか」
冷たい声が飛んできた。カップ麺の汁をすすっていた左手が止まり、栗色の髪の間から鋭い目が陽太を射抜く。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です。見学なら事務に許可を取ってから来てください」
「すみません。経済学部の湊です。研究室の見学をさせてもらえないかと思って」
「経済学部? 文系の学部生がうちの研究室に何の用ですか」
紬は椅子ごと振り返り、陽太を正面から見据えた。警戒心と不信感が、小さな瞳の中にはっきりと浮かんでいる。
「五十嵐さんの論文を読みました。ダンジョン由来の海洋生物から抽出した魔素含有化合物の、工業的応用に関する研究。特に、魔素を含む有機ポリマーの耐候性と防汚性能に関する実験データが興味深かった」
紬の眉がぴくりと動いた。文系の学生が、自分の論文を読んだ。それも、概要ではなく実験データの中身に言及している。
「……論文を読んだのは本当のようですね。で、何が聞きたいんですか」
「単刀直入に聞きます。研究費、打ち切られたんですよね」
紬の顔から、かすかに血の気が引いた。
「……なぜ、それを」
「文科省の科研費配分データは公開情報です。この研究室への配分額は、二年前をピークに年々減少し、今年度はゼロになっている。指導教授の名前で検索しても、昨年から新規の共同研究契約が一件もない。つまり──」
陽太は雨漏りのバケツ、型落ちの分析機器、カップ麺の山を静かに見渡した。
「この研究室は、大学からも企業からも見放されている。あなたは今、研究を続けるか、諦めて就職するかの瀬戸際にいる」
沈黙が落ちた。
紬はしばらくの間、身じろぎもせずに陽太を見つめていた。やがて、その小さな手がギュッと白衣の裾を握りしめた。
「……それが、どうかしましたか」
声は平静を装っていたが、微かに震えていた。
「あなたに何が分かるんですか。予算がなくて設備が買えない。試薬が買えない。学会にも行けない。それでも私は──」
言葉が途切れた。
紬は唇を噛み、視線を床に落とした。これ以上話すと、泣いてしまいそうだったからだ。三年間、誰にも理解されず、金もなく、たった一人でこの廃墟のような研究室にしがみついてきた。その全てを、初対面の文系学生に、公開データだけで丸裸にされた。
陽太は、黙って一歩前に出た。
「五十嵐さん。俺はあなたの研究を笑いに来たんじゃない」
ポケットから一枚の名刺を取り出し、紬の前に差し出す。
株式会社ウォーター・ベイン。代表取締役社長。湊陽太。
「あなたの才能を、買いに来た」
紬は名刺を受け取り、しばらくその文字を凝視していた。やがて、顔を上げた時──その瞳には、警戒でも不信でもない、全く別の感情が渦巻いていた。
「……私を、馬鹿にしてるんですか?」
それは怒りではなかった。自分の研究に“価値がある”と言ってくれる人間が本当にいるのか、信じたいのに信じられない、切実な声だった。
陽太は、その声に答えず、崩れかけた実験台の上に視線を落とした。型落ちの分析機器。ガムテープで仮止めされた配線。カップ麺の空容器。
かつて、日給5000円で泥スライムを狩っていた頃の自分と、同じ匂いがした。
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。
泣いて喜びます。