IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第6話:5000万の口説き文句

 翌日。陽太は凪を伴って、再び魔物素材工学研究棟を訪れた。

 

 凪は古びたプレハブのドアを開けた瞬間、足を止めた。

 

「……これは、ひどいわね」

 

 雨漏りのバケツ。ガムテープで仮止めされた配線。カップ麺の残骸。昨日陽太が見たのと同じ光景が、改めて目の前に広がっている。凪の鋭い視線が、その荒廃した空間を一巡した。

 

 だが、凪の足が二度目に止まったのは、実験台の脇に無造作に積まれた論文の束を見た時だった。

 

「……待って。この論文、査読付きの国際ジャーナルに掲載されてるものが何本もあるわ。被引用数も……嘘でしょ、この環境でこの実績?」

 

 凪が論文の一つを手に取り、目を細める。法律畑の人間だが、論文の権威性と実績の読み方くらいは心得ている。

 

「ああ。この廃墟みたいな研究室から、国内トップクラスの論文が出ている。設備も金もないのに、頭脳と執念だけで」

 

 陽太が静かに言うと、凪は論文を戻し、小さく頷いた。

 

「なるほどね。……あなたが買いたいと思った理由、分かったわ」

 

 その時、研究室の奥から椅子のキャスターが転がる音がした。

 

「……また来たんですか。昨日の経済学部の人」

 

 紬が白衣の裾を摑みながら、実験台の陰から顔を覗かせた。昨日と同じ、癖のある栗色の髪を無造作に束ねた姿。ただし、目の下の隈は昨日より濃くなっている。

 

「おはようございます、五十嵐さん。今日はうちの法務顧問を連れてきました。話を聞いてもらえますか」

 

「法務顧問……?こんなに可愛い子が?」

 

 紬が怪訝な顔をする横で、凪はさっそく研究室の隅にあるパイプ椅子を引き出し、埃を払って腰掛けた。紬のデスクの上に視線を向け、カップ麺の空容器の山を一瞥して、かすかに眉を寄せる。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「五十嵐さん。単刀直入に言います」

 

 陽太は紬の向かいに立ち、一枚の書類をテーブルに置いた。

 

「うちの会社、ウォーター・ベインと広島大学との間で、共同研究契約を結びたい。テーマは、五十嵐さんの専門であるダンジョン由来の海洋生物素材の応用研究。研究費として、5000万円を提供します」

 

 紬の手から、ボールペンが落ちた。カランカランと音を立てて床を転がっていく。

 

「……ご、5000万?」

 

 声が裏返った。目が限界まで見開かれ、顔の血の気が一瞬で引いていく。この研究室の年間予算は、良い時でも300万円だった。その十六倍以上の金額を、昨日初めて会った文系の学生が口にしている。

 

「研究設備も全面的にリプレースします。分析機器、試薬、消耗品、学会への渡航費。必要なものは全て、うちの経費で揃えます」

 

 陽太は淡々と続けた。紬は口をパクパクさせながら、半ば放心状態で陽太の言葉を聞いている。

 

「ただし、条件が一つある」

 

 陽太の声のトーンが、わずかに変わった。

 

「共同研究から生まれた技術の実用化に関する独占的実施権を、ウォーター・ベイン社が保有する。論文の発表や学術的な利用は自由だ。ただし、工業的な応用──つまり金になる部分だけは、うちが独占する」

 

 紬はようやく口を閉じ、しばらく黙って陽太を見つめた。天才的な頭脳が、提案の全体像を猛烈な速度で組み立てている。

 

「……5000万円の研究費と引き換えに、私の研究成果の商業的権利を全部持っていく。そういうことですか」

 

「そうだ」

 

「そんなの……都合が良すぎます。絶対に裏があるはずです」

 

 紬の声に、昨日の震えはなかった。代わりに、三年間一人で戦い続けてきた研究者の警戒心が、鉄の壁のように立ちはだかっている。

 

「5000万なんて、一体どこの会社が出すんですか。ウォーター・ベイン? 聞いたこともない。設立何年目ですか。資本金はいくらですか。こんな怪しい話に乗って、契約書にサインした瞬間に全部持ち逃げされたら——」

 

「五十嵐さん」

 

 凪の声が、静かに紬の言葉を遮った。

 

「契約書はここにあります。全48ページ。あなたの権利を守るための条項を、私が一から組み上げました。研究の自由は完全に保障されています。持ち逃げ防止のエスクロー条項も入っている。疑うのは当然ですが、まずは読んでから判断してください」

 

 凪が分厚い契約書をテーブルに置く。紬はその厚みに目を丸くしたが、手を伸ばそうとはしなかった。

 

 その時、凪がリュックの中からもう一つ、別のものを取り出した。

 

 淡いピンクのリボンが結ばれた、小さな紙箱。

 

「その前に、これを食べなさい」

 

 凪が箱を開けると、中にはパステルカラーのマカロンが六個、宝石のように並んでいた。闇市場でも滅多に手に入らない、本物のアーモンドと砂糖を使った高級洋菓子だ。

 

「え……?」

 

 紬が困惑した顔で凪を見上げる。

 

「カップ麺の残り汁をすすりながら、人生を左右する契約書を読む人間に、まともな判断ができるとは思えないわ。まず糖分を補給して、頭をクリアにしてから読みなさい」

 

 凪の声は相変わらず冷ややかだったが、その手が紬にマカロンを差し出す仕草には、どこか不器用な優しさが滲んでいた。

 

 紬は戸惑いながらも、差し出されたマカロンを一つ、手に取った。

 

 薄い殻にそっと歯を立てると、サクッという繊細な食感と共に、アーモンドとラズベリーの芳醇な風味が口の中に広がった。

 

「…………」

 

 紬の目から、不意に涙が零れた。

 

 マカロンの味に感動したわけではない。いや、それもあったかもしれない。カップ麺以外のまともな食事を、もう何週間も摂っていなかった。研究費が切れ、指導教授は他大学に移り、同期の大学院生は全員就職し、一人きりになったこの廃墟のような研究室で、来年度の研究継続すら危うい自分に──初めて、手を差し伸べてくれた人間がいる。

 

「……今まで、みんなから言われてたんです」

 

 紬はマカロンを握りしめたまま、掠れた声で呟いた。

 

「私の研究に、価値はないって。予算がつかないのは、あなたの研究に市場価値がないからだって、教授にも、学会でも、企業の人にも……。それでも、いつか必ず役に立つ日が来ると信じて……」

 

 言葉が続かなかった。マカロンの甘さと、三年分の孤独と悔しさが、堰を切ったように溢れ出していた。

 

 凪は黙ってティッシュの箱を紬の前に置いた。陽太もまた、何も言わなかった。

 

 この涙の意味を、陽太は知っている。

 

 アビリティをハズレだと笑われた時の、世界中から否定されたような、あの感覚。たった一人で自分自身の価値を証明しようとしている人間の孤独を。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 数分後。紬は目元を赤く腫らしながらも、すでに契約書の3ページ目を読み進めていた。読むスピードが尋常ではない。

 

「……エスクロー条項は問題ないわね。研究テーマの選定権は研究者に帰属……。論文発表の自由が明記されている……。独占実施権の範囲は工業的応用に限定……」

 

 ぶつぶつと条文を読み上げながら、紬の目が研究者の光を取り戻していく。契約の中身を理解するにつれ、これが詐欺ではなく、研究者の権利を本気で守ろうとした人間が書いた書類だということが分かってきたのだ。

 

「……この契約書、かなり研究者に有利に書かれてますね。普通、企業が出す契約書はもっと企業側の権利を強くするものですが」

 

 紬が顔を上げると、凪が淡々と答えた。

 

「研究者が安心して研究に没頭できなければ、良い成果は出ない。良い成果が出なければ、投資した5000万は無駄になる。あなたを縛ることは、私たちの利益にもならないのよ」

 

 紬はもう一度、契約書の最終ページに目を落とした。署名欄の横に、ウォーター・ベイン社の社印がすでに押されている。あとは自分がサインするだけだった。

 

「……一つだけ、聞かせてください」

 

 紬は陽太に向き直った。涙の跡が残る顔に、研究者としての真剣な眼差しが戻っている。

 

「なぜ、私なんですか。海洋魔素材工学なんて、企業にとって何の価値もないニッチな分野です。5000万も出して、何を期待しているんですか」

 

 陽太は一拍だけ間を置き、静かに答えた。

 

「ニッチだから安い。安いから、俺に手が届く。だが──」

 

 陽太の視線が、実験台の上に置かれたモニターに映る分子構造のデータを捉えた。

 

「この研究が完成した時、瀬戸内海の物流は──いや、日本の物流そのものが根底から変わる。今はまだ可能性の話だ。だが、必ず価値のあるものになると俺は確信している」

 

 紬の瞳が、大きく揺れた。

 

 三年間、誰にも理解されなかった自分の研究が、世界を変えうるものだと──この男は、本気で信じている。

 

 紬は深く息を吸い込み、ゆっくりとペンを手に取った。

 

「……五十嵐紬」

 

 署名欄に、少し震えた文字が刻まれた。

 

 凪がすかさず契約書を回収し、写しを紬に渡す。そして、マカロンの箱を紬のデスクの端にそっと置いた。

 

「残りは持って帰りなさい。今日からカップ麺は禁止よ」

 

 紬が目を丸くして凪を見上げると、冷徹な法務顧問はかすかに──ほんのかすかに、微笑んでいた。

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