それから数日後の朝。
陽太はいつものようにフェリーに乗り、尾道水道を行き交う船の波音を聞きながら、甲板から特区の中心街を見つめていた。
12.11以降、日本の物流インフラは陸路から海路へと完全に逆行した。
モンスターが跋扈し、地殻変動で寸断された陸上輸送に代わり、比較的安全な海上ルートを巨大な武装輸送船が結ぶようになったのだ。かつて江戸時代に日本の海を席巻した物流の覇者になぞらえ、人々はそれを“新・
対海竜用の魔導砲を積んだ数万トンクラスの鋼鉄の巨船が、毎日のように瀬戸内海を横断し、この尾道港に莫大な物資と金、そしてダンジョンから産出する魔石や魔物素材を落としていく。
その恩恵を受け、どこにでもある片田舎でしかなかった尾道の沿岸部は、12.11以前よりも遥かにギラギラとした、欲望渦巻くメガフロート都市へと異常な発展を遂げていた。
これほど発展した街なら、わざわざ命を懸けて泥にまみれる探索者など辞めて、安全な仕事に就けばいい。事情を知らない人間は、皆そう口を揃える。
だが、現実はそう甘くない。
フェリーから見える港の
現代の肉体労働の現場で求められるのは、学歴ではない。身体強化アビリティやタフネスアップアビリティといった、物理的な基礎ステータスを底上げする戦闘系アビリティだ。陽太の持つ
ならば、その新・北前船の船員になればいい。給料は探索者以上に破格だ。
しかし、一度出港すれば、魔物との戦闘や天候不良を挟みながら、数週間から数ヶ月は家に戻れない。定期的に純水を与え、発作のケアをしなければならない小春を一人残して海に出ることは、陽太にとって妹の死を意味していた。
肉体労働も、船乗りもできない。
では、ギルドの事務員や特区の行政職といった安全で高給なホワイトカラーはどうか。
答えは
大都市から派遣されてきた特権階級の人間たちが、自分たちの身内で美味しいポストを完全に独占している。コネも金もないただの学生が入り込める隙間など、針の穴ほども存在しない。
残された道は、ギルドの目を盗んで魔物素材の密輸を行うか、非合法な歓楽街での裏仕事といったダークな世界だけだ。
だが、少しでも法に触れて特区を追放されれば、小春は確実に生きていけない。妹という絶対に守らなければならない人質を抱える陽太に、リスクのある犯罪に手を染める選択肢はなかった。
結果として残された、唯一の合法的な仕事。
それが、時間の融通が利き、身元保証人も不要で、ただ己の命と引き換えに小銭を稼ぐだけの探索者だったのだ。
(コネがなくとも、屈強な肉体がなくとも、俺は諦めない)
陽太はリュックの紐を強く握りしめ、海風の吹く甲板から、自身の戦場である島へと鋭い視線を向けた。
◇ ◇ ◇
フェリーを降りた陽太は、向島ダンジョンの入り口へと足を運んでいた。
だが、その日の入り口の光景は、普段のうらぶれた空気とは明らかに異なっていた。
薄暗い洞窟の入り口付近に、簡易的なテントが張られ、数台の大型発電機が低い唸りを上げている。周囲を警戒しているのは、陽太のような底辺探索者とは装備の質が桁違いの、プロの護衛部隊だ。
そしてその中心には、白衣や作業着に身を包んだ見慣れない集団が、いくつものジュラルミンケースや大型の測定機材を運び込んでいた。
「
機材に印字されたロゴマークを目にした瞬間、陽太の足がピタリと止まった。
東朋マテリアル。毎晩のように読み込んでいる企業のIR情報の中で、現在陽太が最も注視している大手精密機器メーカーだ。
数日前に発表された中期経営計画には、はっきりとこう書かれていた。
──次世代型・高効率純水プラントの完成に向け、特定の魔力特性を持つ未利用の有機素材の安定調達が急務であり、現在、瀬戸内ダンジョン群にて実証実験を計画。純水の生産能力前年比300%増が目標──と。
そもそも、なぜ精密機器メーカーが分野違いの純水プラントを自社開発しようとしているのか? ──それは、魔素を帯びた水は精密機器の洗浄工程で使用できないからだ。
現在、12.11以前の方法で魔素以外の物質を除去した水を洗浄工程に使った場合、魔素の影響で製品に歪みが生じることが分かっている。ミリどころかミクロン単位の正確性が求められる精密機器の洗浄工程には、魔素を含まない純水が絶対に必要なのだ。
魔素を浄化する現在の主流は、ダンジョンの深層で採取できる浄化アイテム――青の魔晶石を使う方法だが、深層で取れるだけあって非常に高い。その分利益を圧迫しており、ここ数年、精密機器メーカー各社は純水の安価で安定的な生産が至上命題であった。
(大企業がわざわざ出張ってくるなら、最難関の宮島ダンジョンか素材が豊富な伯方島ダンジョンだと思っていたが……。まさか、泥スライムしか出ない向島ダンジョンで未利用の有機素材の実証実験をしているのか?)
瀬戸内海には700を超える島があり、ダンジョンの数も100を超えると言われている。向島ダンジョンはその中で最も尾道特区に近いが、最も利用価値の低いダンジョンという評価である。
陽太は彼らに極力気づかれないように、観察と思考を続ける。
(待て。決めつけるのは早計だ。競合他社に対するブラフかもしれない。だが、あんな大掛かりな機材を持ち込んでまで実証実験の振りをするか?)
強烈な違和感を覚えつつも、陽太は彼らと視線を合わせないようにやり過ごし、ダンジョンの奥へと足を踏み入れた。
じめじめとしたカビと泥の匂い。
陽太は立ち止まり、背負っていたホームセンター製のお手製槍を手にする。
「気になるが、日課をこなさないとな」
【
「先端の包丁を昨日取り替えたばかりだから、当然ゼロだな」
槍の具合を確かめた直後、前方の泥溜まりがボコッと泡立った。ダンジョン浅層の主役、泥スライムだ。
陽太は慣れた手つきで槍を突き出し、スライムの核を露出させた。
ドシャッ、と絶命した魔物の後に残されたのは、ギルド買取価格10円の泥スライムの核。
「さて、今日の稼ぎの第一歩、と」
陽太は泥にまみれたスライムの核を拾い上げ、アビリティのレベル上げを兼ねて、スキルウインドウを向けた。
【
「綺麗に核を取り出した直後だから、劣化ゼロっと。……ん?」
陽太がスライムの核を納品袋に放り込もうとした、その時だった。
ポタッ。
洞窟の天井から滴り落ちたダンジョン特有の淀んだ水滴──魔素をたっぷり含んだ濁り水が、陽太の手にあるスライムの核に落ちた。
直後、奇妙な現象が起きた。
スライムの核がスポンジのように濁り水を吸い込み、内部で微かに脈打ったかと思うと、その底面からツーッと一滴の水滴が零れ落ちたのだ。
陽太は反射的に、空いていた手でその水滴を受け止めた。
「……嘘だろ?」
手の中にあるのは、一切の濁りがない、無色透明な水。
陽太は、手の震えを自覚しながらも、
【
「魔素が抜けてる……? 完全な純水じゃないか……!」
心臓が早鐘のように鳴り始めた。
高濃度の魔素水を、このゴミ素材が一瞬で透過・浄化したというのか。
(……そういうことか!!)
陽太は手の中のスライムの核を、食い入るように見つめた。
東朋マテリアルが血眼になって探している未利用の有機素材。それは高ランクのレアアイテムなどではない。彼らが実証実験を行っているこの向島ダンジョンに無数にいる、泥スライムの核だったのだ。
確証はないが、大企業である彼らは、最大の壁にぶち当たって実用化できずにいるのだろう。
【
視界の端で、透き通ったスライムの核が少しずつ濁り始めているのがわかる。
すなわち、討伐からたった5分でヘドロ化してしまうこの素材を、どうやって研究所まで持ち帰り、フィルターとして加工可能な状態に維持するのかという問題だ。
だからこそ彼らは、生きた泥スライムをその場で確保し、鮮度が落ちる前に分析・加工するための巨大な研究機材を、わざわざダンジョンの入り口まで持ち込まざるを得なかった。
「……企業の大所帯で動けば、どうしても時間と設備投資のコストがかさむ。でも、俺なら」
陽太の口角が、自然と吊り上がった。
陽太には
東朋マテリアルの研究者とは違い、劣化具合を見極めるための大掛かりな測定設備など一切必要ない。傷のない完璧な個体の選別は
あとはその場で劣化を止める保存処理方法さえ確立できれば──。
それは、世界が渇望する純水インフラの要──サプライチェーンを、一個人で完全に独占できることを意味していた。
(さあ俺も実証実験だ……といきたいところだが、ゼロからのスタートでは東朋マテリアルの実験完了までに間に合わない可能性がある。東朋マテリアルがどこで躓いているか、
陽太の瞳に、久しく忘れていた野心と、勝負師としての鋭い光が宿った。
病弱な妹を抱え、泥をすするように生きてきたどん底の日常が、今、劇的に反転しようとしていた。
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本日は2話投稿してます。